「増える」と「崩れる」——映画『君たちはどう生きるか』を形成する2つの運動について

宮﨑駿監督による10年ぶりの長編映画『君たちはどう生きるか』(製作:スタジオジブリ)が7月14日に公開された。事前の宣伝活動を一切行わないことも話題となり、公開から10日間で観客動員232万人、興行収入36億円を突破し、好調なスタートを切った。一方でネットではさまざまな考察記事がアップされるなど、多様な解釈ができる作品となっている。本作を気鋭の批評家の伏見瞬はどう観たのか。コラムを依頼した。

※記事内には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

論評が増える

『君たちはどう生きるか』とは、「増える」と「崩れる」によって形成されたアニメーションである。

宮﨑駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』が公開されると、多くの人があまたの論評を行った(引用を除いて、本論では本作クレジットと同じ「宮﨑駿」名義で記述する)。話題作が発表されると多くの言葉がネット上に飛び交うのはいつものことだが、今作に関しては本当に大量のテクストが溢れ、増幅している。論調の多くは、物語内における「母」をめぐるものか、スタジオジブリ周辺の人間関係や日本アニメの歴史を作中のキャラクターや物語に当てはめて「継承」を語るものに集中した。前者であれば、例えば宇野常寛は本作を「極めて戦後日本的なありふれたマザーコンプレックスの発露という自身の中核にあるものを、まるで批評家の書いた文章のように自己解説するような展開」と評しており(※1)、三宅香帆は「父が不在で、母子密着で、卵たちは生まれてくることができず、そしてつるりとしたインコたちが叫ぶ声がバーチャルに響く、世界」が現代の「吐きそうなくらい的確なメタファー」だと書いている(※2)。後者の立場であれば、ブログ「青春ゾンビ」の著者hiko1985が、”キリコ”というキャラクターに高畑勲と東映アニメーション時代からの盟友・保田道世が重ねられていることを指摘しており(※3)、叶精二は、高畑勲や大塚康生などの「共に歩き続けた先達の遺志」が継承された「漫画映画への回帰」を本作から読み取っている(※4)。複数の物語を作品からくみ出せること自体は、おそらく幸福なことだろう。宮﨑をはじめとするスタジオジブリのスタッフ達が数十年にわたって作品制作を継続し、多くの観客がその作品群を長くに渡って受け取ってきたことの証左なのだから。しかしながら、物語の展開は長編アニメーションにおいて副次的な役割しか持たない。観客の感性を第一に刺激するもの、そして作家達が何より追求しているものは、絵の連なりの運動に他ならないからだ。それがなければ、母の物語も実在人物との照応も安易な記号操作に過ぎず、何の面白さも喚起しない。

(※1)宇野常寛.”『君たちはどう生きるか』と「王様」の問題」”.2023-07-20https://note.com/wakusei2nduno/n/nc1c94c0793fe,(参照2023-07-27)
(※2)三宅香帆.”#君たちはどう生きるか で、宮崎駿は結局、何を描こうとしたのか?【ネタバレあり最速レビュー】”2023-07-15.https://note.com/nyake/n/nc74f29fccca2,(参照2023-07-27)
(※3)hiko1985.”宮崎駿『君たちはどう生きるか』”.青春ゾンビ ポップカルチャーととんかつ.2023-07-17.https://hiko1985.hatenablog.com/entry/2023/07/17/135024.(参照2023-07-27)
(※4)叶精二”『君たちはどう生きるか』作品評 理屈を調節した「漫画映画」への回帰”.シネマカフェ.2023-07-21.https://www.cinemacafe.net/article/2023/07/21/86462.html,(参照2023-07-27)

「増える」が溢れる

『君たちはどう生きるか』の中盤、ジャムは増幅する。本作のヒロインの1人であり、異世界における主人公・眞人の母親の化身であるヒミが、洋風のキッチンルームで眞人にジャムトーストを振る舞うシーン。ヒミはトーストに分厚くバターを塗り、その上に赤いジャムを乗せて眞人に差し出す。眞人はトーストを頬張る。ジャムが溢れ、思い切り口の周りに付着する。おいしい、昔母さんに作ってもらったやつだと独り言をもらす眞人。もう一度、眞人はトーストにかじりつく。するとどうだろう。赤いジャムはトーストからあふれ出し、正面からバストショットで描かれた眞人の顔の目の前に広がる。その物量は、ヒミが最初に塗ったジャムの量を明らかに超えている。ジャムは増える。溢れる。増幅する。

ジャムの増え方と赤の色彩は、本作前半に配置された別のシーンを想起させる。眞人が血を流す場面。転校したての学校の帰り道。同級生に喧嘩をしかけられた眞人は、喧嘩の後で突如自らの右こめかみを拾った石で打つ。空の青と森の緑を背景に、彼のこめかみから濃い赤が流れる。血はすぐに止まず、次のカットでぶわっと溢れ出る。生身の人間であるなら、場合によっては死に至るのではないかと心配になる血の量だ。まるで血液そのものが成長しているようにすら見える。血は増える。溢れる。増幅する。

ジャムと血の赤は、「増える」という運動によって結ばれている。最初に画面に映る時にはさほど多くない物量が、次のカットでは拡がりを伴って溢れ出す。このような増幅の感触、増える運動が、本作には溢れかえっている。

例えば、お屋敷の裏の池で眞人とアオサギがはじめて対峙し、言葉を交わす場面。アオサギが「お待ちしておりますぞ」と好戦的に声を発すると、池の中からナマズのような魚が現れ、次のカットではカエルが大量に出現し、眞人の足下から這い上がって彼の全身を取り囲む。ナマズとカエルは、突然増えるのだ。

あるいは、眞人がアオサギに案内され、異世界に降り立つ場面。風の吹く野原に、金色の門が立っている。門を見上げている眞人に、突如ペリカンの大群が押し寄せる。ペリカンの重みに押され、門が開く。門が開いたことをきっかけに船乗りのキリコ(現実世界ではおばあちゃんの一人)と眞人が出会うわけだが、ここでも、画面上にはペリカンが溢れるという増幅の感触が映し出されている。

今、例に挙げた2つのシーンでは動物の大群が登場するわけだが、増幅の感は動物だけによってもたらされるわけではない。池の場面も門前の場面も、群れが現れる前には風が吹いている。風の強さによって、眞人の灰色めいたシャツがはためき揺れる。この時、シャツの輪郭は不自然なほどに丸いフォルムで膨らむのだ。キリコと眞人が出会った後では、海が膨らみ出す。木船に乗って進む2人の前に、水平線を覆い尽くす巨大な波が現れる。波は高く上がり、船に覆い被さる様が左横から映し出される。風も水も、本作の中では、増えて溢れる現象の一部として描かれている。

そう考えると、現実世界のお屋敷で働いている老女達の集団も、「増える」運動に関与していると思えてくる。眞人の父がお屋敷に持って帰った荷物に蟻のように集まる登場時の老女達の姿は、最初から異様な増幅感を伴っている。5~6人の群れの蠢きが『崖の上のポニョ』における老人ホームのおばあちゃん達を思わせる彼女達(鼻の横にイボを持つ女性が一人いる点も、一人だけ集団から離れて動く人物がいる点も共通している)はしかし、『君たちはどう生きるか』ではもっと異様な印象を与える。その理由は、横から老女達を描くところで明らかになる。彼女達の目が、やたらと飛び出しているのだ。今にもこぼれそうなほどに眼球は肥大している。目の大きな丸みと、集団で蠢きしゃべり散らす運動の掛け合いで、不気味な増幅感の印象がかたちづくられている。

加えて、キリコと共に暮らし、人間の誕生前の姿であると語られる白い生物群「わらわら」も「増える」運動の一部であり、物語後半に登場し、眞人・アオサギ・ヒミと敵対関係に入るインコの大群も同様に「増える」存在だ。本作においては、増えて溢れる運動が前半から終盤に至るまでに溢れかえっているのだ。

こうした「増える」運動は、以前の宮﨑駿監督映画にも度々登場した。『となりのトトロ』の、サツキとメイが植えた木の実がトトロの力で急速に大木に変わっていく場面。『風の谷のナウシカ』の、押し寄せる王蟲の大群。『崖の上のポニョ』における、魚の大群と擬人化された海の増幅。本作序盤で、眞人の父親・ショウイチと彼の会社の社員達は会社で造っている戦闘機コクピットの風防を屋敷に次々と並べていくが、この「増える」運動は、『風立ちぬ』の最後で空飛ぶ零戦の群れの風防が強調されて描かれていたことと地続きにある(時代設定自体、『風立ちぬ』と『君たちはどう生きるか』は連続している)。本作は、宮﨑駿監督作における、「増える」映画の系譜にある。

「崩れる」が伴う

「増える」描写に伴って現れるのが、「崩れる」動きだ。本作中盤の眞人は、キリコが釣ったらしき巨大魚(アンコウのように見える)を、キリコから方法を教わりながら捌いていく。キリコの指示に従って巨大魚の腹に刃物を突き刺すと、まず血が噴き出す。もう一度、眞人は刃を突き立てる。直後、桃色を帯びた内臓が溢れだし、魚の腹からこぼれ落ちる。画面上、内臓は腹の外側に向かって体積を増やしているが、魚本体は崩れている。増幅は、時に崩壊を伴う。

このシーンの後に、もう1つの「崩壊」が待っている。魚のはらわたはわらわらが浮かぶための飼料となるという。夜になるとわらわらの群れは宙に浮かび上がり、丸い物体群は次第に2つの螺旋型を作って上昇していく。DNAのらせん図を思わせるわらわらの群れは、やがて眞人がいた「上の世界」にたどり着いて人間として生まれるとキリコは説明する。そこに、上昇するわらわらをエサとするペリカン達が現れ、わらわらを食べ尽くそうとするが、火の少女・ヒミが現れて花火型の炎を放ち、ペリカンからわらわらを救う。その夜、眞人は野外のトイレの横で死にかけたペリカンに出会う。わらわらしか食べられるものがないペリカン族の悲惨な状況を訴えながら、そのペリカンは落命し崩れる。ここでも、わらわらの群れの浮上に対してペリカンは孤独に崩れるという、動きの対照性が見て取れる。

「崩れる」も、「増える」同様に宮﨑駿監督作を支えてきた運動だ。『天空の城ラピュタ』も『もののけ姫』も『千と千尋の神隠し』も、1つの世界の崩壊が終盤に用意されている。巨神兵もシシガミも、溶けるように崩れていく。『君たちはどう生きるか』でも、「大叔父」が「石」と契約して作り上げた世界が、最終的に地響きと共に崩れる。本作は、「崩れる」映画の系譜にもある。

「崩れる」ことが宮﨑駿監督作の世界に共通する1つの引力だとするなら、『君たちはどう生きるか』におけるいくつかの不可解な場面も素直に受け入れられる。アオサギが石の塔に眞人を誘う場面。塔の中では死んだはずの眞人の母が眠っているが、眞人が触れると母の像は水になって溶け出してしまう。このシーンは脚本上、後の劇中で活かされることなく、観客に不可解な印象を残す。だが母の像の崩壊は、「崩れる」引力に則って描かれる動きであり、そこに疑念の余地はない。

あるいは、インコの大王が塔の上の大叔父に会う直前。木組の階段を上っていった大王は、最上段まで上がり切ると、階段を念入りに叩き割る。追っ手を防ぐための処置なのだろうが、それにしても、4回に分けて叩き割っていくのは余りに念入りだ。そして、追跡していた眞人とアオサギは結局別のルートで大叔父に会えるのだから、叩き割る行為に効果はない。つまりここでも、絵の動きは劇の整合性に従っているのではなく、「崩れる」運動の引力に拠っている。

運動はメタファーに先立つ

ところで、本作の「動き」について批判があったことも、この辺りで付言するべきだろう。冒頭のシーンが眞人の「主観的映像」になっていることと作品の描写全体が「露悪的」に描かれていることを指摘した点で注視に値する下西風澄の論においては、「「動き」の表現は全盛期と比べればはるかに見劣りして」おり、「おそらくは身体の衰えもあり、宮崎駿はもう描けないのだ」と、本作の技術的限界が指摘されている(※5)。たしかに本作に、例えば『紅の豚』のような躍動感は覚えない。異世界の大群の船もヒミが住む家の庭の植物も、『紅の豚』でポルコが幻視した飛行機の群れとジーナの住む家の庭に比べると精彩を欠いているように思える。雲間から光が差す光景も、『紅の豚』の光に比べると濃淡のバリエーションに欠けており、画一的な退屈さは拭えない。『となりのトトロ』における森林や『風立ちぬ』における群衆の描写の細密さも本作からは感じ取れないし、『崖の上のポニョ』におけるぐにゃぐにゃした鉛筆線の魅力もここにはない。この差の理由を「老い」「衰え」の一言で済ます短絡は慎みたいが、差異自体を認めないのも無理がある。(※6)

(※5)下西風澄”宮崎駿の悲しみと問いかけ–『君たちはどう生きるか』”.2023-07-21.https://note.com/kazeto/n/nca1be7cd479c,(2023-07-27参照)
(※6)『続・風の帰る場所』の渋谷陽一によるインタビューにおいて、宮﨑はたびたび若手アニメーターの技量不足を嘆いている。その言葉を信用するなら、『君たちはどう生きるか』における躍動感の減縮の理由は監督の年齢よりも、PCでの作業が常態化した時代の描き手の技量不足に求めるべきだろう。無論、アニメーションの作業に一度も従事したことのない文筆家に、原因や責任と呼ばれるものの所在を追及する能力などはない。宮崎駿(2013)『続・風の帰る場所 映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』(ロッキングオン)、を参照。

しかしながら本作は、同じ運動を繰り返し描く執拗さにおいて、過去の宮﨑駿監督作品すべてを凌駕している。『となりのトトロ』の木の増幅はワンシーンに限られるし、『風の谷のナウシカ』でも王蟲と腐海の増殖は物語的必然を免れていない。『もののけ姫』も『天空の城ラピュタ』も、「崩壊」は物語に組み込まれている。『崖の上のポニョ』は例外的に海水も魚もポニョの手足も無秩序に「増える」が、逆に津波に襲われた街は「崩れない」。『君たちはどう生きるか』ほど、話の筋に関わらないところも含めて何度も何度も増えて崩れる作品は他にないのだ。その反復の中から、本作だけが生きることを許された律動感覚が生じる。

 「増える」と「崩れる」。本作において私たちが物語より遙かに直接的に受け取っているのは、2つに分類される運動の連続である。そして、アニメーター達が身体を使用して作り出しているのも、物語の構築ではなくて運動の生成なのだ。私達は、ものや生き物が増えたり崩れたりするのを感じ取って、「気持ち悪い」や「怖い」や「ソワソワする」や「ゾクゾクする」を思ったりする。そうした感性の反応は、物語を日本社会の構図にトレースし、作中の人間関係を実在の人物に当てはめようとする思考に先立っている。

だから、作中の終盤、「石」の異世界から抜け出すシーンの描写には必然がある。眞人と継母ナツコと老婆キリコが元の世界に戻ると、ペリカンとセキセイインコが溢れ出す。その後方で、石の塔が完膚なきまでに崩れる。「増える」と「崩れる」が同時に一挙に起こることで、本作は終わることができる。インコの糞にまみれて笑う眞人とナツコの姿は、「増える」と「崩れる」を浴びた私達観客の似姿だ。

「増える」と「崩れる」を、それぞれ「生」と「死」の隠喩だと考えるのは容易い。それも間違ってはいないだろう。しかし、順序を間違えてはならない。本作の魅力は「増える」と「崩れる」によって「生」と「死」を象徴的に描いている点にあるのではない。「生」と「死」の象徴が、運動の蠢きとして目の前で感じ取れることに、本作の魅力は宿っているのだ。「増える」と「崩れる」がなければ、「生」と「死」のメタファーなど俗っぽい人生論でしかない。

増える、崩れる、閉じられる

ここまで捉えたところでようやく、「母」や「継承」について考えることが意味をもつだろう。大叔父が守り、眞人に託そうとした世界は継承されることなく、あっけなく崩れる。その代わりに、眞人と関係を持つ者は次々と増えていく。眞人は生まれの母を「母さん」と呼ぶだけでなく、継母のナツコと途中から「お母さん」と呼ぶ。これは母をどちらかに選んだのではなく、母が増えたのだ。母子の相剋は、「増える」ことによって受容される。そして、最後の一つ手前のカットで、父・ショウイチとナツコは子供と共に玄関で眞人を待つ。当該のカットは、かつて眞人がショウイチとナツコの抱擁を覗き見た時と同じ視点で描かれており、反復によって子が「増える」印象はより強調される。この映画において、「母」と「子」は共に増えている。

増えるのは「母子」だけではない。大叔父との会話で、眞人は自らがつけたこめかみの傷跡を「僕の悪意の証です」と語った。船乗りのキリコには、同じ箇所に傷跡があった。「悪意」も増幅するのだ。同時に、眞人は大叔父との会話で、ヒミもキリコもアオサギも「友達」だと言った。そしてアオサギは、別れの際に眞人に向けてぶっきらぼうに言う。「あばよ、ともだち」。そもそもアオサギは、鳥の顔の下から中年男性の顔が途中から出てくるキャラクターで、顔が「増える」存在だった。2つの顔を持つ彼が「嘘つき」であることは作中のセリフで何度か述べられているが、「嘘つき」のアオサギと眞人は最後に「友達」になるのだ。さらに、ヒミは死んだ母の化身なのだから、眞人は「死」とも友達になっている。眞人は、つまり「悪意」も「嘘」も「死」も友達だと言っている。「友達」は、ひたすら増えるものとして描かれている。

長年守ってきた王国が、受け継がれずに崩れること。「母」と「子」と「悪意」と「嘘」と「死」が、「友達」が増えること。本作の作り手達が本当は何を考えているか、私達は知らない。仮に知っていたとしても、それが作品に反映されているとは限らない。ただ、『君たちはどう生きるか』と題された映画における絵と音の連続は、私達の耳元でこのように囁く。私もお前も、「守る」や「受け継ぐ」より「増える」や「崩れる」に、否応がなく惹かれる生き物なのだと。「増える」ものに善悪の差はなく、すべて「友達」になるのだと。それが正しいことなのか間違ったことなのかは、もちろんこの映画のどこにも語られてはいない。扉は「おわり」も「おしまい」もなく、何も告げずに閉じられる。

author:

伏見瞬

東京生まれ。批評家/ライター。音楽をはじめ、表現文化全般に関する執筆を行いながら、旅行誌を擬態する批評誌『LOCUST』の編集長を務める。11月に『LOCUST』最新号vol.4が発売予定。主な執筆記事に「スピッツはなぜ「誰からも愛される」のか 〜「分裂」と「絶望」の表現者」(現代ビジネス)、「The 1975『Notes On A Conditional Form』に潜む〈エモ=アンビエント〉というコンセプト」(Mikiki)など。 https://twitter.com/shunnnn002

この記事を共有