コラージュから読み解く君島大空

君島大空。1995年生まれの音楽家。彼の音楽には、ありとあらゆる要素が詰め込まれている。ロックもポップスもフォークもジャズもエレクトロニカも入り込んでいるのだが、そのどれかが中心を成しているわけではない。どちらかというと、あらゆる要素が切り貼りされて一つの世界を成していくコラージュ性が、表現の主導権を握っている。そのような感覚がある。

今回は、君島大空の「コラージュ性」をテーマに話を伺うことになった。結果的に、そのテーマは彼の音楽的ルーツや言葉との関わり方につながっていった。

まず、彼は何枚か紙を差し出してきた。それは、今までの作品のジャケットにもなっている、彼自身の手によるコラージュ作品だ。デジタルでの切り貼りではなく、すべて手作業で行っている。切り取られた紙だけで構成されているのではなく、糸も細かく器用に縫い付けられていた。

「手」で考える、「耳」で見る

──コラージュの制作を始めたのはいつ頃から?

君島大空(以下、君島):3年前です。弾き語りのデモCDを出すことになって、ジャケットをどうしようか迷ったんです。絵を描くのも好きなんですけど、人に見せられる程の自信はなくて。そこで、コラージュをやってみようと思い、実家の窓からの風景に切り取った写真を重ねました。

岡上淑子さんというコラージュ作家が好きなんです。特に彼女の『はるかな旅』という作品。一見感情の通ってない冷たい質感なんだけど、よく見ると人の手で作った跡が感じられる。手で切った跡に体温を感じました。これなら僕もできるんじゃないかと思って、音楽制作に煮詰まった時に、コラージュを作るようになりました。

コラージュの制作中は、手をずっと動かすことになります。「この写真をこの角度で切り取りたい」と集中すると、それ以外のことが頭から消える。その時間がすごく好きで。とてもリフレッシュできます。時と場合によりますけれど、調子が良いと1日で3つ作れたりします。

そして手を動かす時間以上に配置を考える時間のほうが長いかもしれません。それは音楽も同じです。ミックス段階で音をどう配置するかですごく悩む。目で見るのと耳で聞くのを、同じ頭でやっている感じがします。ちょっと共感覚っぽいところがある。聴いていて風景の見える音楽が一番好きなんです。海のことを歌ってないのに海が見える。そういう力が音楽にはある。自分の音楽からも景色が見えないと納得できないんですよね。今くらいの秋の晴れた日だと、カーテンのレースに光が当たって、柔らかく「ふわぁ」となっている状態を、言葉で描写せずに表現したい。新しい作品ではそのことをすごく考えました。

──手作業が楽しいという話に関連して、君島さんはギター弾くの好きですよね?

君島:めちゃくちゃ好きですね。

──ライヴでは合奏形態でも弾き語りでも、ギターを弾きながら笑っている姿が印象に残っています。コラージュもギターも手を使うという共通点があって、君島さんは“手の人”なんだなと。

君島:「手」で考えているところはありますね。過去のライヴ後に「エグベルト・ジスモンチみたいだ」(エグベルト・ジスモンチ=1947年生まれ、ブラジル出身のマルチ器楽奏者、作曲家)ってツイッターで書いていましたよね?僕はジスモンチがすごい好きなので嬉しかったです。「届いたな」って思った(笑)。

──ジスモンチもギターが好きで好きで仕方ない感じしますよね。

君島:彼はそもそもピアニストで、ギターは楽しいから弾いているというスタンスな気がします。独学で習得した演奏法に誰とも比較できない静けさと無邪気さを覚えました。自分で10弦ギターを作ったりもしている。ギターを弾いている時は遊んでいる子どもみたいな感じがすごくいい。ここ2、3年強く意識している1人です。

情報量と「演技」しない音

──ブラジル音楽はもともとお好きなんですか?

君島:大好きです。特にアントニオ・ロウレイロ(=1986年生まれ、サンパウロ出身のシンガーソングライター、マルチ器楽奏者、作曲家)。彼のファーストアルバム(『Antonio Loureiro』2010年)は特別な作品です。すべて1人の内から湧き出てきてしまった感じとか、和声の連結の仕方やそこに乗せるメロディも込みで1つのかたまりになっている。こういう感じを自分の作品でも出せないかな、と思っていました。

ロウレイロのファーストには音楽の「湿度」みたいなものがある。じめっとした暗さ、作らずにはいられなかった衝動が出ている状態。それが僕にとってかけがえのないものなんですよね。

──ちなみに長谷川白紙さんもロウレイロが好きと言ってました。

君島:去年ロウレイロがトリオ編成のライヴを日本でやったんですけど、観にいったら白紙くんに会いました。

──君島さんと白紙さんから同じミュージシャンの名前が出てくるのはおもしろいですよね。お二人の音楽は出てくる音が似ているわけではないけれど、共通性はある。それは「情報量の多さ」だと思うんですよね。あらゆる要素を、取捨選択をせずにすべてまぜこぜにしたまま放出している感じがある。それが、ある種のコラージュ感覚にも通じていると思う。自らの作品の情報量は意識しますか?

君島:わざと情報量を増やしている部分もあります。録音していて好きなのは、衣擦れの音とか咳払いとか、偶然入った「録れちゃった」音。それは録ろうと思って録った音とはやっぱり違って、「録られる」こと意識していない、緊張を強いられていない音なんです。

──音も「演技」しますよね。

君島:そう、「演技」していない音が好きなんです。ボイスメモで偶然録れちゃった音を、自分にしかわからないように作品に取り込んだりしています。日々聞こえている音を、日記みたいな感覚で録音しています。その中で良いなと思った音を、曲のテクスチャーに加えてみる。「テクスチャー」というと曲の上澄みみたいに捉えられることが多いかもしれないけれど、僕はそれが一番最初にあってほしいと思います。すごく大事で、大気や酸素のようなものに似ている気がします。自分にしか聞こえない音を入れていくことで、やっと自分の色が出てくるんです。

コロナ、フェネス、そしてメタル

──ここ数年の世界には1990年代っぽい雰囲気があると僕は感じています。ざっくりまとめると、1990年代は情報が未整理のまま詰まった状態が生々しくリアルだった。それと同時に、1990年代には世界が良くならないままだらだらと日々が続くような、ローファイやグランジのアーティストが表現していたような気怠いフィーリングもあったと思う。最近の世界の気配、特に新型コロナ以降の空気は1990年代のそれに近い。情報過多の中で、だらだらと日々が続いている。そして、情報量の多さや気怠いフィーリングは、君島さんの音楽にも通じるものがあると思うんです。
君島さん自身は、ご自身と、外側の時代の空気をどういう距離感で考えていますか?

君島:なるべく関係ないものにしたいとは思っていました。世界と関係なくなれる場所に、自分の音楽がなればいいなと。けれどコロナ禍になって、結局世界から影響は受けちゃうし、それはそれで別に構わないなと思うようになった。コロナの状況になって初めて外からの影響を意識するようになりました。自分と向き合う時間が長くなったからでしょうね。

1990年代っぽいというのは最初のEP(『午後の反射光』)を出した時にもよく言われたんですけど、実はその時代に人気だった音楽からは全然影響受けてないんですよ。レディオヘッドを初めて聴いたのは1年半前だし、スマッシング・パンプキンズも1曲くらいしか知らない。かっこいいとは思うけど、僕はみんなが聴いていた音楽を避けていたところがあったんです。

自分で音楽を作ろうと思ったきっかけは、フェネス(=オーストリア出身の電子音楽家、ギタリスト。坂本龍一とのコラボ作品でも知られる)の『Endless Summer』(2001年)なんです。ここまで1人の人間が広げられる音楽があるんだ」と衝撃的で。彼の脳みそをそのまま覗いている感じがしたんです。時系列はばらばらのまま、彼の大切なものが全部詰まっている。フェネスがこのアルバムで使っている機材を調べたら、ラップトップとジャズマスターのギターとファズエフェクターだけ。必要最小限の機材で作った音楽が、日本の片隅の若者にも届いていることに感動した。「これを自分でもやりたい」と思ったんですよね。いろいろな時期の録音を1つの音源に入れるのも、フェネスからの影響かもしれません。

──なるほど。僕が1990年代の匂いを感じたのも、脳みそをそのまま見せるような生々しさ故かもしれません。

君島:ちなみに、フェネスに出会う前はメタルばっかり聴いていました。

──メタルはどのようなものを聴いてましたか?

君島:メシュガー(=スウェーデン出身、1980年代から現在まで活躍するメタルバンド。複雑なリズムやノイズの多用など、実験的な作風で人気)ですね。福生のライヴハウスのセッションに通っていた時期があって、そこでドラムを叩いていた人がメシュガーのCDを貸してくれました。なんというか、「融けた鉄」のような感触があって、すごいかっこよかった。

それから、ドリーム・シアター(=アメリカ出身、1980年代中期から高い人気を誇ってきたバンド。プログレッシブ・メタルというジャンルの草分け的存在)もよく聴きました。特に『Train of Thought』(2003年)というアルバムが本当に大好きで。この作品には絵に描いたような絶望の音が鳴っています(笑)。ドロドロした重たさ、暗さがずっと続いていく。心がおかしくなった時に聴くと優しさを感じられる気がします。

あとはジャズ/フュージョンの馬鹿テクな人達を聴いてました。グレッグ・ハウとかリッチー・コッチツェンとか、ただただギターが素晴らしく達者な人達(笑)。メタルとかフュージョンはスポーツのような、どれだけ速く正確に弾けるか、競技のような美しさがあります。聴いていると元気が出てきます。「手」を動かす人がやっぱり好きなのかも知れません。

「自分」を表現しつつ「自分」を出さない。

──11月に発売される新しいEP『縫層』は、音の細かいところまで聞こえてくるのが気持ちよくて、音の解像度が上がったという印象を持ちました。歌もキャッチーで耳に残りやすい。メロディがきれいに反復してたり歌詞が韻を踏んでたりとか、記憶に残る工夫が随所に見られるなと。

君島:まず、単純に使用した機材が良くなりました。所謂ローファイな音も、良くないとされる音質も大好きなんですけど、今回は良い音で気持ちいいぞ、と(笑)。歌も、過去の作品よりも少し前に出すようにしました。ただ、自分の声が前に出てくるのは怖いですね。声って記名性というか、その人の情報が勝手に出てくるじゃないですか。作っている人の顔や声を知ってしまうと、音楽の聞こえ方にも影響が出てくる。それが怖い。だから、前作は声を思い切り小さくして、リヴァーヴも深くかけてました。「自分」を表現したいんだけど、「自分」が出すぎないようにしたいんですよね。

歌詞の書き方も同じなんです。僕は他人を主役にした物語は違和感があって書けない。自分の記憶と結びついた妄想しか詞にできないんです。だけど、そこから「君島大空」という人間の固有性が出てきてほしくない。今の時代は人々が言葉をすぐに伝えられる。でも、それは本当に「言葉」なんだろうかと思います。茨木のり子さんの詩に「言葉らしきものが多すぎる」という一節があって。おこがましくも、今の世界に僕が覚える違和感を言い当てていると思いました。言葉がすごく雑に扱われていて、言葉がとても軽い。僕は「言葉らしきもの」じゃない言葉が欲しい。本来、言葉の連結ってもっと乱暴で、麗しくて、そこから「間」や「距離感」が感じられるはずなんです。

──一般的には、言葉は相互理解のための道具ですよね。人は他人との距離を近づけるために言葉を使っている。君島さんは、むしろ自らの表現と受け手の間に「距離」をとるために言葉を使っているんですね。歌詞にもどこかコラージュめいたものを感じるのも、そのためかもしれない。

そうですね。僕自身は伝えたいメッセージがたくさんある人間だと思っているんですが、それをそのまま伝えたければ文章を書いたほうがいいなと思います。歌詞は、メッセージを伝えるために書いてないですね。人間の体温や湿度が、言葉の連なりの全体像からなんとなく見えてくればいい。そう思って、言葉を選んでいます。

君島大空
1995年生まれ。2014年から活動を始め、SoundCloudにて自身で作詞、作曲、編曲、演奏、歌唱をして多重録音で制作した音源の公開を始める。2019年3月にファーストEP『午後の反射光』を、7月にファースト・シングル「散瞳/花曇」をリリース。同年の 「フジロックフェスティバル ’19」の「ROOKIE A GO-GO」に合奏形態で出演した。今年11月11日にセカンドEP『縫層』をリリースする。自身の活動と並行して、ギタリストとして 高井息吹、坂口喜咲、婦人倶楽部、吉澤嘉代子などのアーティストのライヴや録音に参加する他、劇伴や楽曲提供なども行っている。
https://linktr.ee/hainosokomade

Photography Ko-ta Shouji

author:

伏見瞬

東京生まれ。批評家/ライター。音楽をはじめ、表現文化全般に関する執筆を行いながら、旅行誌を擬態する批評誌『LOCUST』の編集長を務める。11月に『LOCUST』最新号vol.4が発売予定。主な執筆記事に「スピッツはなぜ「誰からも愛される」のか 〜「分裂」と「絶望」の表現者」(現代ビジネス)、「The 1975『Notes On A Conditional Form』に潜む〈エモ=アンビエント〉というコンセプト」(Mikiki)など。 https://twitter.com/shunnnn002

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