戦前戦後の日本の暮らし、風景を写真に収めた濱谷浩による海辺の写真を使用したアートワークが印象的だったフリート・フォクシーズの『Shore』。フロントマンである、ロビン・ペックノールドがこの作品にまつわる長文をステイトメントし、その中でロビンは「死を直視しながらも生命を祝福する、そんな作品を作りたかった」とつづっている。今もなお、世界中の人々と未知なるウイルスとの戦いが続く中で私たちはどんな風に人とつながっていけばいいのだろうか? ニューヨーク在住の作家・新元良一がフリート・フォクシーズの「Can I Believe You」を読み解いていく。
「信じる」という言葉に、重いものがつきまとうようになった。重苦しいもの、と言い換えてもいいかもしれない。
対人関係、あるいは社会、マスメディアについて、われわれはこれまでも疑念を抱くことがあった。自分はだまされているのではないか、誰かに利用されて、そのうち出し抜かれるのではないか、といった不安や心配を抱えるのは、今に始まったことではないし、そうした揺らぐ精神状態は人間の本質とも捉えられる。
一方でこの不安定な気持ちは、現代社会だからこそ生じる面も持ち合わせる。いうまでもなく、そこにはデジタル文化が大きく関わっている。
SNSはいまや情報源として、われわれが日常的に利用するツールであり、交流する場として世界中から大多数の人々が参加するサービスとなった。意見交換や情報提供の役割を果たすのと同時に、ものの見方や思考が似通う参加者が集う機会を提供する。
これを反対方向から考えてみると、意見や考え方がまったく合わない人間とはつきあわなくて済むという、奇妙な心地よさを生み出したとも言える。互いに反目し合ったり、毛嫌いしてトラブルに至るより、たとえオンライン上であっても、気の合う者同士で時間を過ごしたいと思う傾向は日ごとに高まっている。
ところがこの状況は、ある部分で意見が違っても、別の部分では同調できる機会を失ってしまうとも言える。当然ながら、社会へ出るとソリの合わない人とも出くわすが、共通できるものを見出す経験を重ねて、人は理性や良心を磨き、他者をリスペクトすることを学び、これまで成長してきたはずである。
現実であろうと、オンラインであろうと閉鎖した環境での集いは、部外者を選り分けることにつながる。あるいは内部にいても、少しでも意外な言葉を発したり、行動をとれば、もはやそのグループの一員とは認められない烙印を押される可能性も出てくる。
そう考えると、この時代に暮らすわれわれは、以前にもまして疑り深くなっているのかもしれない。対人関係であいまいな答えは許さず、妥協点を見出そうともしない傾向が、分断という、一歩間違えば大きな問題に及ぶ火薬庫をもつ社会を作った、そんな風にも感じる。
アメリカのロック・バンド、フリート・フォクシーズは『Fleet Foxes』(2008)でデビューを果たし、第二弾のアルバム『Helplessness Blues』(2011)をリリースして、6年の充電期間を挟み、『Crack-Up』(2017)で音楽活動を再開した。日本人写真家の濱谷浩による幻想的な海辺の写真が、アルバム・デザインに使われた最新作『Shore(2020)に、そんな“疑り深い”この時代を見事に描いた「Can I Believe You」が収録されている。
1960年代末に音楽シーンを席巻したCSNYやサイモン&ガーファンクルに代表されるフォーク・ロックを継承する、このバンドのアコースティックな楽曲はいつもながら耳に入ってきやすい。一方で、CSNYが1970年のケント州立大銃撃事件を題材に作ったプロテスト・ソング、「オハイオ」ほど直接的でないにしても、陰鬱として分断された現代の世相がこの「Can I Believe You」で色濃く反映される。
きみを信じていいの?
信じていいの?
ぼくは
きみの心をちゃんとわかっているの?
ぼくは心をきみに差し出しているの?
ふたりは互いに心を開いているの?
ぼくがちりばめたどの言葉も食い荒らされる
見るべきものを見てよ、本当に自分のものと疑わないか (拙訳)
「ぼく」と「きみ」が主語になっていることから、一見すると、恋愛が一定期間をおいてぎくしゃくとした関係になった印象を受ける。しかしこの「きみ」を、社会で遭遇する人全般に話しかけていると想定したら、かなり違うものが視界に入る。
キーワードとなるのが、「食い荒らされる」言葉と「見るべきものを見てよ」の部分だ。
語り手の人物は他者との対話で何かを言葉にするが、思いがきちんと届かないばかりか、まったく意図しなかったほうに曲解され、それが「食い荒らされる」という一文に集約される。コミュニケーション手段がデジタル化によって変わり、自分の発言が文脈から切り取られ、そこだけが強調されて、受け手の感情を逆なでする、といった時代の現象を映し出しているかのようである。
誤解や曲解なら、正しく理解してもらうためにこちらから歩み寄る方法もあるが、この語り手は譲歩のアプローチはとらない。それどころか自身の非は一切認めず、自分がどんな行為に及んでいるのかよく考えるべきだ、と聞く側に警告する独善さが、「見るべきものを見てよ」から読み取れる。
ぼくは今ロープを身につけようとしている
そんなに近づけないで
前にもぼくは傷ついたよね
放っておいてくれなかった
みんなに素顔を見せるのに違和感がないわけがなかった (同)
ここで出てくるロープが何を示すのか考えをめぐらすと、先の歩み寄りや融合といった言葉が浮かんでくる。太いか細いかはわからないが、誰かとつながるロープは、たとえ本人が望んでも断ち切ることはできず、どこまでも自分につきまとう。
そこに、人間が生まれながらに持つ、他の人たちとの縁(えにし)を感じずにはいられない。イデオロギーなどの違いはあっても、自分達の中のどこかにわれわれは共通するものをもっている。その重なり合う部分へ踏み出すことのないもどかしさをはらみつつも、いつかは打ち解ける可能性を秘める、そんなほのかな明るさが曲の奥底に潜んでいる。