連載「自由人のたしなみ」Vol.1 羽黒の山伏、岡山の過疎地でナチュラルワインをつくる ―植え付け編―

日本の“たしなみ”を理解することをテーマに、ジャンルレスで人やコミュニティ、事象を通じて改めて日本文化の本質を考える本連載。山伏で岡山・美咲町大垪和(おおはが)地区のワイナリー「山びこワイナリー」を運営している三浦雄大に話を訊いた。

4年前に土づくりからスタートしたぶどう畑

山伏と聞いて思い浮かべるのは、どんなことだろう。「勧進帳」での武蔵坊弁慶や天狗のような装束、ほら貝を吹く姿……。いずれも日常とは遠い、もしかしたら伝説や昔話の中の存在という人も少なくないのではないだろうか。

山伏とは山と人間社会をつなぐ存在で、現代にも息づく文化である。その祖は飛鳥時代までさかのぼり、まず近畿を中心に西日本で広まりその後東日本にも伝わった。東日本の一大拠点が出羽三山で、今でも毎年夏になると山を駆け、滝に打たれるといった修行が行われている。

三浦は、そんな出羽三山・羽黒の山伏である。出羽三山を抱く山形県鶴岡市出身の彼は、現在岡山県・美咲町大垪和(おおはが)地区で「山びこワイナリー」という名でナチュールワインづくりに挑戦している。

「美咲町大垪和地区は、かつてたたら製鉄がさかんな地域でした。後に製鉄から稲作へと代わるのですが、山間の谷にある集落なので田んぼは自ずと棚田となります。その棚田の見事な風景は日本の棚田百選にも選ばれています。しかし現在は高齢化によって耕作放棄地が増えてしまいました。僕はこの見事な棚田の景色が広がる大垪和に、ひと目で魅せられました。そして美しい景色を次世代につなげるにはどうすればよいのだろうと考えた時、ナチュラルワインのぶどう畑を作ったらどうだろうかとひらめいたんです」。

大垪和には彼の友人家族が移住しており、それが訪れるきっかけになったという。この訪問が三浦にとって大きな転機となった。まず大垪和への移住を決め、同じ山形のナチュラルワインのワイナリーである「グレープリパブリック」にて修業の後、荒れた棚田に分け入り、まず土づくりから始めた。草刈りをしてから土を耕し、苗を植える。今から4年前のことである。

「この地にワイン用のぶどうが栽培されたことはありません。ですからどんな品種が適しているのかもわかりません。まずはどのぶどうが合うのかを探るために、いろいろな品種の苗を植えています」。

土づくりから始めた畑は現在1.3ヘクタールになり、白ワインの代表的品種シャルドネ、赤のピノ・ノワールやメルロー、日本のワインでよく使われるマスカットベリーAなどさまざまな苗を栽培。試行錯誤の最中であり、最終的には2ヘクタールを目標にしている。

段々畑に植えられたぶどうは、3年前、2年前、昨年、今年と成長の度合いが異なるが、彼は地区3ヵ所に植えられたそのぶどうを見て回りながら、1つひとつ状態をチェックしていく。「今年はかなり(状態が)良いですね」と話しながらも、葉の1枚1枚を見ていく手は休むことがない。延びた蔓は支柱に渡したワイヤーに1つひとつ巻きつけていく。

山ぶどうのワインをつくっていた山伏の源流

三浦が選んだナチュラルワインとは、ぶどう本来のポテンシャルを引き出しながら原料のぶどうを栽培し、醸造する自然に寄り添う製法であり、農薬や化学肥料といった薬品や添加物を極力使わない。なので、畑では自らの目と手で状態を見極め、手当てをする。葉の裏まで見て益虫と害虫を選別し、害虫だけを駆除していくという気の遠くなる作業を行っているのだ。取材中もその手が休まることはなく、話をしながらも目は葉を眺め、虫をつまみ、苗周辺の雑草を抜く。それは人が話をしながらも呼吸を止めないように自然であり、仕事であるというより生きていることに付随する行為に近いように見える。実に生き生きと行っている。

「幼い頃から自分の本当の居場所はどこなのか、ということを考えていたところがあります。実際この地にたどり着くまで、いろいろな場所で暮らしました。高校卒業後パリに渡り絵とデザインの勉強をし、帰国後東京でデザイナーとして働いていました。その後沖縄、北海道で暮らし鶴岡へ戻ったんですが、美咲町大垪和は、やっと見つけた終の棲家だと思います」。

この大垪和の地への縁をもたらしてくれた友人とは、パリ時代に知り合ったという。お互い海を越えいくつかの移動の末にたどり着いた場所だ。大垪和地区の現在の住人は約400名。平均年齢は70歳を越えようかという少子高齢化問題を抱える過疎地である一方、日本の多くの過疎地の縮図のような地でもある。

「全くの素人だった僕がナチュラルワインづくりを成功させたら、やってみたいと思う人が他にも出てくるように思います。今は1.3ヘクタールのぶどう畑ですが、将来的には2ヘクタールとする予定です。仲間が増え1人ひとりが2ヘクタールの休耕地の棚田をぶどう畑へと移行できるようになったら、景色も含めこの村は生まれ変われるし、次世代へとつながると思っています」。

三浦いわく、かつて山伏は山ぶどうを採取し、それで酒をつくっていたのだそうだ。山ぶどうのワインをつくっていた過去が山伏の源流にあるというのも、彼の今の活動の糧になっているのである。やりがいと役割。似ているようだが、この2つはウチへ向いたベクトルと俯瞰で大きく物事を捉えた時と、概念としてもスケールにも違いがある。たった1人、過疎地で荒れ地を耕し、育つかわからない苗を植え、収穫が難しくとも自然のことわりを大切にぶどうを育てる。気が遠くなる困難を、彼は喜んで引き受けているようにも見える。その姿からは、仕事(ビジネス)選びが語られる際によく使われる“やりがい”よりも、はるかに大いなるものが感じられる。

「いくつかのユニークな縁から、こうやってワインづくりに挑戦することになりました。誰かのためにとか、誰かに見てほしいとかではなく、山間の農地をよみがえらせることができる喜びが一番強い」と三浦は語る。日本の高温多湿な夏はぶどう栽培にとって敵となる害虫やカビの繁殖が盛んにある時期で、作業として過酷な季節である。彼は、農作業を毎朝の勤行(真言などを唱えるお勤めのこと)からスタートさせるのだが、山伏としての日常は、彼のぶどうづくりの礎となっている。峠までの道のりは厳しいが、それを越えたら絶景が待っている山の修行のように、夏を越えることができれば実りの秋が待っている。

Photography Takehiro Miura

author:

田中 敏惠

編集者、文筆家。ジャーナリストの進化系を標榜する「キミテラス」主宰。著書に『ブータン王室は、なぜこんなに愛されるのか』、編著書に『Kajitsu』、共著書に『未踏 あら輝』。編書に『旅する舌ごころ』(白洲信哉)、企画&編集協力に『アンジュと頭獅王』(吉田修一)などがある。ブータンと日本の橋渡しがライフワーク。 キミテラス(KIMITERASU)

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