ポスト・コロナ時代のプレ・ハッピーアワー

2020年の9月初旬、半年間の日本一時滞在を終えてニューヨークの自宅へ戻った。羽田からJFK空港へ向かう飛行機の搭乗率は3割程度だったろうか。税関では足止めを食らったが入国審査はガラガラで、空港検疫もない。日本から渡航後の在宅14日間隔離もすでに「義務」ではなくなっている。

新型コロナウイルス感染拡大を受けての州非常事態宣言から約半年、ニューヨークの感染者数ピークは封じ込められ、検査陽性率も1%未満まで下がった。秋冬の再拡大を警戒しつつも、最悪の事態は脱したと言えるだろう。長く不在にしていたので経過を語ることはできないが、半年前、この世の終わりのようなパニックを起こしていた街の様子を思い返すに、だいぶ穏やかになったと感じられる。ひたすらに街が静かだ。

朝は表通りを行き交うトラックの大渋滞、昼は近所の大学に通う学生達の賑わいにガイドブック片手の旅行者が混じり、夜は明け方まで飲んで騒ぐパブの客達の大合唱、タクシー運転手の怒鳴り合いにパトカーのサイレン、うるさくて当たり前の住環境だったのに、どれもぱたりとやんでしまった。人出が減って、毎日がサンクスギビング休暇(日本でいうなら正月三が日)のような静寂に包まれている。

ある学生寮の前には、感染者が出て当面全館封鎖との通告が貼られていた。受付スタッフが常駐していたような駅前の立派なオフィスビルも、電気を切ってガラス張りのエントランスにベニヤ板で目張りをしている。今春、BLMの抗議運動が激化した時に塞ぎ、そのままにしてあるのだろうか。この建物に勤めていた人がみな在宅でリモートワークしていると考えると、それだけですごい人数がこの街から消えた計算になる。

ゴーストタウンになったわけではないけれど、元の活気を知る者には、街全体が半分眠っているような印象を受ける。飲食店は店内でのサービス提供が禁じられ、どの店も公道にサンシェード付きのテラス席を張り出して臨時営業中だ。コーヒーやサンドイッチの店ならテイクアウト客でしのげるだろうが、バーやレストランにとってはまだまだ厳しい経営状況が続くだろう。

ところで今この記事を書いているのは、イーストヴィレッジにある「Kindred」という店のテラス席である。近所にある超人気ワインバー「Ruffian」の系列店で、昨年末にオープンしたばかり。もともとは平日夜と週末のブランチしか営業していなかったが、最近始めた新業態が「Work From Kindred」、ワークフロムホームに飽きたら当店をどうぞ、という時間貸しのオフィス利用プランだ。

月曜から金曜までの平日、朝8時から午後4時まで。ウェブで予約すると店外テラスのテーブル席が確保でき、電源とwi-fiが無料で使えて、水とコーヒーがお代わり自由。別途、簡単な朝食と昼食のメニューがあって、グラスワインも頼めるし、夕方からはそのままハッピーアワーに突入できる。料金は半日で25ドル(約2620円)。日本のコワーキングスペースに比べれば割高だが、自粛期間中あちこちの店に投げ銭などしたことを考えれば、そう悪くない「食べて応援」プロジェクトだ。

9月半ばの某日、朝9時すぎに店の前へ行ってみると、10席ほどのテラスに先客が2組いた。店員に利用したい旨を告げると「事前予約してあるか? この後の時間、ほぼ満席まで埋まるんだよ」と言われて驚く。まだサービスが開始して数日のはずだ。もうそんなに混んでいるとは思わなかった! 常連客のよしみで、なんとか隅にある席を工面してもらう。

車道へ張り出したテーブル席、いくら仕切りがあるとはいえ目の前を自動車や自転車がびゅんびゅん通るのは、ちょっと気になるところ。でも、こちらもマスクを着けているので、排気ガスが不快というほどでもない。午前中の外気温は17度、日中は25度まで上がった。日差しが出ていて風もあり、上着は要るが汗はかかない、1年で最も過ごしやすい季節である。

あと1カ月もしたら、コートやマフラーなしには外出できなくなってしまう。うちのアパートメントには庭はもちろんベランダもバルコニーもないから、今のこの時期の自然光を全身で楽しめるだけでもありがたい。毎日25ドルは払えないけれど、たまに気分を変えて優雅に仕事ができるなら、よしとしよう。

きちんと距離を保った隣の席には、女性2人組の客がいる。ノートパソコンと紙の書類をテーブルいっぱいに広げているが、職場の同僚ではなく、友達同士でそれぞれ違う仕事をしているようだ。新しい生活様式における、新しい“シェアオフィス”である。「本日のランチ」、フォカッチャのオープンサンドとヒヨコ豆のサラダを注文して、グラスのロゼワインまでつけている。イエーイ、と歓声を上げてSNS投稿用の写真撮影大会が始まった。はい、私も今まったく同じことやりました、飲み物は水ですけどね。

ところで私は、飲食店で盗み聞きした会話を集めた『天国飯と地獄耳』(キノブックス)という著作のある、いわば「盗み聞きのプロ」だ。大変無礼な行為なのは承知の上で、これもまた仕事、と思って耳を傾けていると、彼女達の口からしきりに飛び出すのは「Such a memorable moment!」という言葉。なんと思い出深いひととき。今年のこの季節に、道端のテラス席で、こうして一緒にワインを飲みながら働いたこと、絶対に忘れられない思い出になるよね、ほんとほんと、と楽しそうに言い合っている。

この街を離れていた半年間の、大きな変化がこれだろう。今年3月、いつまで続くかわからない前代未聞の健康危機に、誰もがひどくおびえていた。人々は顔を見合わせて、二度と元通りの日常を取り戻すことはできないんだ、と深く深く嘆いていた。まだ謎の多い感染症による深刻な健康危機、予断を許さない状況に変わりはないが、この街に少しだけ楽観主義が還ってきたようで嬉しく思う。

ニューヨーカーは新しいものが好き、新しくできた店には誰より早く行きたいし、まだ見たことのない出来事を目撃してみたい、まだ知らない異文化を体験してみたい。来年の夏にはきっとまた別のことが起こる。でも今は、この二度とない2020年の一番すてきな季節を、私達にできる範囲で、今までにないスタイルで、存分に楽しみましょう。そんな笑い声が聞こえるようになったこの街でなら、なんだって乗り越えていける気がする。

Picture Provided Iku Okada

author:

岡田育

文筆家。1980年東京都生まれ。出版社で雑誌や書籍の編集に携わり、2012年よりエッセイの執筆を始める。著書に『ハジの多い人生』(文春文庫)、『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)、『天国飯と地獄耳』(キノブックス)、『40歳までにコレをやめる』(サンマーク出版)。二村ヒトシ・金田淳子との共著に『オトコのカラダはキモチいい』(角川文庫)。2015年より米国ニューヨーク在住。 https://twitter.com/okadaic

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