若手建築家の藤村龍至が見るオリンピック・パラリンピック以後の日本とは? −後編− 世界に類を見ないチャレンジと50年後の未来 

今もなお大規模に進められている渋谷駅周辺の再開発。まだ、そこまで知られていない日本型都市開発の意義について、東京藝術大学で教鞭をとる若手建築家随一の論客でもある藤村龍至が語る。

渋谷ヒカリエ、ストリーム、スクランブルスクエアなど、駅直結型の商業施設に始まり、2020年、85年の歴史に幕を閉じた東急東横店の例も記憶に新しい。現在も大なり小なり開発は進み、都市景の上書きが続く渋谷。複雑な都市構造を持つ都市の再開発は2027年まで続く。

前編では都市計画と建築の関係や変遷を説明した。後編では渋谷再開発の意義を改めて紐解くことで見えてくる、日本型都市開発の成果と今後のあり方を探る。

駅直結でオフィス・商業・文化施設を狭い場所に建築してしまう日本型都市開発のスタイル

人口1000万人規模の大都市を作って、郊外と都心を鉄道で結び、駅を中心に交通と都市機能を高度にネットワークした大都市を作り上げたのは、世界中探しても日本だけです。具体的にいうとターミナル駅に超高層ビルをいくつも建て、駅に直結させて都市の機能を集約させるという都市開発です。

インテグラル(すり合わせ)型都市開発により、複雑な都市改造を実現させる。モジュラー(組み合わせ)型では実現できないこれらの技術は日本にとってお家芸として、海外輸出も可能な技術になるはずです。

実際に日本最大の建築設計事務所のひとつである日建設計は、「トランジット・オリエンテッド・ディベロップメント(TOD)」という名で海外に売り出そうとしています。駅直結でオフィスあり、商業・文化施設もあるという超高層のコンプレックスを鉄道を止めずに狭い場所に建てる技術は、日本の独壇場なんです。

大都市における都市開発は、1964年の東京オリンピックの成功後、日本で最初の超高層ビルとして建設された1968年の「霞が関ビル」からその歴史が始まります。続いて新宿西口の超高層ビル群ができて、その後1978年に池袋の東京拘置所の跡地に「サンシャインシティ」が誕生します。「幕の内弁当型」と私は言っていますが、オフィス、商業、文化施設、ホテルをワンセットにすることで、サンシャイン「シティ」という街ができたんです。その後、既存の商店や家屋の建ち並ぶ地域の地主を説得し、ときに住民から不動産を買い上げ、新しい街をつくる都市再開発法が1969年に制定されて「アークヒルズ」のような「幕の内弁当型」都市を既存の街に上書きしていく開発を森ビルが始めることになります。バブル期には、「天王州アイル」や「恵比寿ガーデンプレイス」といったヨーロッパの町並み風の、デザインにコストをかけた都市開発が生まれ、バブルが弾けて土地が焦げ付いた後に、先般の法規制の緩和から超過密型の施設へと移り変わっていくという流れです。

今回の東京オリンピック関連のプロジェクトよりも渋谷再開発のほうが複雑でチャレンジングなことをしていると話しましたが、渋谷の再開発は1964年の東京オリンピックを起源にした日本型都市開発の集大成であるともいえると思います。ただし、渋谷の再開発は規模を大きくすることで開発費を調達する前提のため、次に建て替えが必要になったときは更に規模を大きくしなければならない。無限の成長を前提としているという意味で、既に限界を示しているとも言えます。

過密型複合施設の限界と50 年後の都市の形

次の50年の都市の形がどうあるべきか。その問いに対する構想が今、求められているのではないでしょうか。磯崎新はそれを「大都市」型から「超都市」型へと名付けていますが、私は前回のオリンピックの後に始まった、超高層と大空間を組み合わせた動員型の都市開発は典型的な大都市型で、次世代の超都市型では、リアル空間とバーチャル空間が併置されたハイブリット型になっていくと考えています。オリンピックは巨大スタジアムと複雑な交通計画に裏打ちされた「大都市」型に切り替わる過程でその規模を拡大し、1964年の東京大会はその切り替わりのタイミングで成功例を示しましたが、いまは都市のかたちが大都市型からハイブリッド型の「超都市」型にスイッチするタイミングで、今回予定されている東京大会が新しいオリンピックのかたちを示せれば、超都市型のオリンピック・パラリンピックの初めての大会となり、歴史に新たな楔がうたれることになります。

具体的には観客の有無が鍵になると思います。既にサッカーや野球などで無観客試合も定着しハイブリット型のスポーツビジネスもかなり実験されてきましたが、もしオリンピック・パラリンピックが無観客で実行されれば、8万人を集めるメインスタジアムに象徴されるような集約・同期を基本とする大都市型の大会ではなく、リアル空間とバーチャル空間をハイブリッドした離散・非同期を基本とするの超都市型のオリンピックの初めてのケースとなり、それが新しい時代のグローバルイベントのスタンダードになる。それがコロナ禍の渦中に開催都市になってしまった東京の歴史的役割なのではないかと思います。

しかし、東京大会には前世代型の象徴であるようなメインスタジアムでの開閉会式、聖火ランナー、パブリックビューイングのような、空間に人を集めて広告を出稿するようなロサンゼルス大会以来の大都市型のシステムが残っています。それがリスキーであるということが抗えない事実としてあるのですから、大学の授業や企業の会議がオンラインに強制的に切り替わったように、オリンピック・パラリンピックでも大胆な前例が突然実現してしまうことを期待します。その経験はオリンピックのあり方や日常化した時の都市の作り方、経済活動の作り方にも影響してくるはずです。

第3となる都市型が再び東京から生まれる可能性

コロナ禍を経て、従来のやり方を変えていくことは必須だと思いますが、日本人らしい適応能力の高さ、すり合わせや順応性が、超都市型に馴染んでいけば良いのだと思っています。

グローバルな人やマネーの移動を前提とする新自由主義が無限の成長によってしか維持できないとすると、もっと小さな人や経済の循環を考えていく必要があるでしょうね。人によっては江戸システムと言って、江戸時代のスタイルからヒントを得ようとしたりしていますね。例えば参勤交代のように人を特定の空間に結びつけて流動させて経済をまわしていくようなシステムです。

例えば、林業と建設業と福祉業が3大産業であるとある山あいの村で公共事業が発注されても、村の外から木材を購入し、村の外の工務店に発注し、高齢者は麓の村でサービスを受けてしまう。もし村の林業で生産された木材を作って、村の工務店が受注し、村の中で過ごせる高齢者施設を作ったら、村の経済は刺激されます。でも実際は近くの人が直接的に利益を得てしまうのでコンセンサスを得られにくい。

イタリアは1980年代に「テリトーリオ」というコンセプトで、こうした小さな経済循環をもう少し広域的に生んでいこうとしました。河川の流域単位でワインをブランディングしたり、イタリアンブームなどを作るような動きなどがそれです。このように広域的に経済循環を生み出していく、働きかけていくということは今、日本でも応用可能ではないでしょうか。例えば瀬戸内エリアは、レモンを「瀬戸内」という単位でプランディングしていますが、「広島」とか「愛媛」という単位ではなく「瀬戸内」という単位で特色を打ち出したり人や物が移動することが新しい経済の単位になるとおもしろい。

でもそれは、戦後の日本がやろうとしてきたコンセプトなんです。大都市に人や機能が集中してきてしまう。それをどうやって分散させていくかということを、田中角栄の『列島改造論』(1972)をはじめ、ずっとやってきました。工場の立地を分散するのにある程度成功したので、次は頭脳の分散をしようと通産省の主導で「テクノポリス法」(1983)や「頭脳立地法」(1989)などが作られました。

これらの政策はしばしば失敗したとされています。確かに郊外に研究所ができましたが、研究者が積極的にそこに行きたがらなかった。地方に行ったから成果が上がらないなどとも揶揄されました。大学もそうですよね、郊外に移ったある大学は司法試験合格率が下がり、成果が上がらない実例のようにいわれました。しかし、なかには成功例もあります。函館市にある「はこだて未来大学」は今や複雑系科学や人工知能研究の拠点になっていますが、もともとは「テクノポリス」構想の成果の一部です。

いま、日本のグランドデザインのビジョンは出ていませんが、来年は田中角栄の『列島改造論』から50周年となります。列島改造論は50年で大都市型で東京に集中させて東京から移動しやすいインフラを作ったわけですが、ネクスト50年としては、超都市型に国土をもう1回再デザインできるかがポイントです。それも日本の国土にちょうどいい日本らしい開発のスタイルができるんじゃないかと思っています。

列島改造論と瀬戸内の関係性から考える、大都市から超都市への大転換

『列島改造論』は1972年に田中角栄によって発案されますが、その発端ともいえる事象は瀬戸内にありました。1961年に呉から対岸の倉橋島へ音戸大橋という橋がかかります。これが瀬戸内最初の離島への架橋事例です。列島改造とは、離れた島に橋をかけ、トンネルで結び、日本列島を1日行動圏にするという考えが基本のコンセプトです。そうやって海運で結ばれ独自のネットワークを持っていた離島が本土の郊外になっていくという事象が、瀬戸内で次々に起こってくるんです。

その日本列島改造論のもととなる「新全国総合開発計画(新全総)」(1968)の音頭をとっていた経済企画庁の当時の長官をやっていたのは宮沢喜一です。宮沢の地盤は瀬戸内にあり、地元の造船企業である常石造船は、宮沢の票田のひとつでした。瀬戸内の近代化の過程でまず漁業技術の進展があり、漁場の奪い合いが起こり、衰退したところの労働力が造船所に吸収されていく。その後オイルショックで造船業が息詰まると、建設業に進出して橋梁の製造を行う、というように産業を置き換わっていった。「新全総」はそうした産業転換の流れを加速させました。いま常石造船は瀬戸内エリアでリゾート開発に取り組んでいますが、瀬戸内はそういうように、次々と産業を置き換えながら時代に適応していく先駆的な場所なんです。

そのように見てくると、私はこの「超都市」の時代の黎明期に、瀬戸内で次に何が仕掛けられるかというのがポイントになってくると思います。1960年代、日本列島改造の前に瀬戸内列島の改造が起きました。「日本列島改造論」のプロトタイプが「瀬戸内列島改造」だったというわけです。また日本列島改造の主要技術のひとつである高速鉄道は輸出され、橋をかけ、高速道路や高速鉄道で1日で列島を行動範囲内にするという日本の成功体験を台湾やインドネシア、シンガポールにどう伝えていくかがいま問われています。次は「アジア列島改造」へとつながっていくと考えられます。

前回の東京大会のあとで田中角栄の『日本列島改造論』が生まれて50年、今回の東京大会を終えたら、その後の日本を考える「日本列島再改造論」を打ち出すタイミングかも知れません。その萌芽は再び瀬戸内の島々に見いだされるかもしれない。例えば情報通信網で結ばれた島々にテクノポリスのような知的生産の拠点が点在し、それを支える飲食業が新たな生活を演出し、それが魅力となって観光客が訪れる。その交通をスマート技術が支える、そしてそれは日本列島の将来像の縮図である、というような。そういう構想がこれから繰り広げられるべきなんだと思います。

author:

田中 敏惠

編集者、文筆家。ジャーナリストの進化系を標榜する「キミテラス」主宰。著書に『ブータン王室は、なぜこんなに愛されるのか』、編著書に『Kajitsu』、共著書に『未踏 あら輝』。編書に『旅する舌ごころ』(白洲信哉)、企画&編集協力に『アンジュと頭獅王』(吉田修一)などがある。ブータンと日本の橋渡しがライフワーク。 キミテラス(KIMITERASU)

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