東京オリンピックで初めて競技種目に採用されたBMXフリースタイル。世界中からの熱視線を集めて大盛況を見せたが、そこに携わっていた1人に、上原洋がいる。ストリートブランドの「430」のオーナーであり、いちBMXライダーである彼が、なぜ東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会に参加したのだろう。そしてどんな業務をこなしていたのか。
上原がBMXに乗り始めた1990年代のシーン黎明期から、大会当日までを振り返る。
1990年代から現代のBMXシーンについて
——今年の夏、東京オリンピックでBMXフリースタイルが大いに盛り上がりましたが、上原さんがBMXに乗り始めた当時のシーンについてからお聞かせください。
上原洋(以下、上原):僕がBMXに乗り始めたのは1990年代半ば。BMXを取り扱っているショップは多くなかったけど、乗っている人はいましたし、大会も開催されていました。本多啓介さんがBMXフラットランドのトリックを披露する、C.C.レモンのCMも流れていたくらいですからね。でも、今ほどの認知度はなかったし、雑誌「Fine」の後ろのほうに、少しだけ取り上げられるくらいでした。
——では、BMXに乗り始めたきっかけは?
上原:高校1年生の夏休みに、オーストラリアに留学したんです。僕はスケートボード(以下、スケボー)に興味があったから、ホストファミリーがパークに連れて行ってくれることになりました。ホストファミリーの子がBMXで移動して、パークに着いたら、スケボーじゃなくてBMXでハーフパイプに入っていって。それまでBMXはレース用の自転車だと思っていたのに、スケボーと同じ遊び方をすることを初めて知ったんです。借りてみたらちょっとだけ乗れて、おもしろい印象でした。帰国してから仲間にこのことを話したら、近くのスーパーマーケットの駐車場でBMXに乗っている人がいると言われて、観に行きました。
——駐車場ってことは、BMXフラットランドのライダーがいたと。
上原:そうですね。でも、その当時は1つのバイクでフラットランドもストリートの両方を遊んでいる人が多かったんですよ。アメリカのビデオでも、ランプとストリートとフラットランドが混ざっていました。
——初めて生でBMXフラットランドを観て、いかがでしたか?
上原:なにより、その乗っていた人が、すごくオシャレでかっこよかった。ブランドの服を着ているからとかじゃなくて、着こなしがオシャレでした。例えば寅壱の作業パンツを太ももで切ってショーツにしていたり、オーバーサイズの無地Tシャツを着て。BMXフラットランドの技も大きくて、余計にかっこよかったです。
——当時憧れていたライダーは?
上原:チャド・ディグルートのスタイルが好きでした。ライディングもファッションもビデオの選曲もかっこよくて、遊びも効いていた。今では、彼のブランドのライダーになったりして仲良くしてもらっています。来月には、フロリダで行われる彼の結婚式にも行きます(笑)。
——「430」は今年設立25周年とのことなので、立ち上げたのはその頃ですね。
上原:僕がBMXに乗り始めて、2年くらいたってからです。最初はブランドじゃなかったんです。実は広島で初めてBMXの大会に出場した際、エントリーシートの最後にスポンサーを記載する項目があって。スポンサーがついていると見栄えするから、小谷明生と一緒におもしろがって勝手に書いちゃおうと。その日が4月30日だったから、スポンサーのところに『チーム430(ヨン・サン・ゼロ)』と書いたんですよ。そして僕の出番となり、MCが「上原洋、スポンサーは『チーム430(フォーサーティ)』って紹介してくれたんですよ。その響きがカッコよくて、“フォーサーティ”と呼ぶようになりました。それを田中光太郎に話したら、入りたいということで、3人で始動したんですよね。
——どんな活動をしていたんですか?
上原:僕はその時、岡山のストリートブランドを取り扱うセレクトショップで働いていて、洋服を作るノウハウを教えてもらっていたので、Tシャツを作りました。
——そこからブランドとして動き始めて、アパレルの展開が始まったんですね。
上原:そうですね。ブランドを運営するには、ストリートで遊んでいるだけじゃ学べない部分も多いです。今も生業の中心にアパレルがあるのは、当時オーナーに販売方法やマネタイズなどを教えてもらったおかげだと思っています。
——地元から東京に拠点を移したのはいつですか?
上原:2000年、22歳の時でした。東京では、「ホームレス/フレッシュジャイブ」というブランドのショップで働いていました。BMXに乗っていたのは、池袋西口公園。スケーターやダンサーが集まっているスポットがあって、そこには「メトロピア」や「マジカルモッシュミスフィッツ」のメンバーもいました。その他にも、東京にはスポットがいくつもありました。
——BMXの広がりを感じたできごとはありますか?
上原:「Samurai Magazine」や「Ollie」とか、ファッション誌に、モデルとしてプロスケーターやプロライダーを起用してくれて、僕らの知名度が高まったんですよ。だから、スケーターやライダーからすると、頑張れば雑誌に出られるという、1つの目標にもなっていたように感じています。その頃はスケートボードやBMXがよく売れていたみたいですし、大会を開催すれば200人も出場したこともありました。
東京オリンピックの裏側と、これからのBMX
——それからBMXのシーンが成長して、オリンピックの競技種目にまでなりました。どういった経緯で東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のメンバーに就任したのでしょう?
上原:3年前、さっき話したチャドから、「バン・ホーマン(東京オリンピックBMX種目マネージャー)が日本にしばらく住むから、東京を教えてあげて」と連絡をもらって。バンとは、お互いBMXが好きだし、共通の知り合いが多いから、すぐに仲良くなりました。そして、G-SHOCKが主催するミックスカルチャーイベントの「REAL TOUGHNESS」などの大会を僕がプロデュースしていたこともあって、バンが一緒にオリンピックを作らないかと誘ってくれました。
——そう言われて、どのように思いました?
上原:BMXが初めてオリンピックの競技種目に採用された歴史的な瞬間に関われるなんて、BMX好きとして断る理由がありません。バンはとてもいい人で、人柄も大好き。プライベートでも一緒にいたこともあって、即決でしたね。3回の面接を通過して、2018年から組織委員会として活動を始めました。
——どんな仕事内容だったんですか?
上原:事務作業が多かったです。例えば、大会当日のタイムスケジュールは、テレビ中継があるから、秒単位で決めていかなきゃいけませんし、もしけが人が出た場合の動線も決めておきます。会場を設営するために海外から呼んだスタッフに関する手続きをしたり、COVID-19対策などの書類をたくさん制作したり。そういった業務がたくさんありました。とても勉強になる仕事でした。
——働いてみて、いかがでしたか?
上原:基本は9時から17時の業務だったので、生活が大きく変わりました。今までアパレルに関する仕事しかしてこなかったので、初めてサラリーマンと同じ生活のリズム。そもそも、上司がいる経験が少なかったので、とても新鮮でした。職場に同僚として多くの女性がいる経験もよかったです。
——何が一番のモチベーションでしたか?
上原:BMXライダーは、特にフラットランドのライダーはみんな、オリジナルのトリックを編み出したいんです。あの技とあの技をつないだ、あそこであんな跳び方をした、って誰もやっていないことをやりたい。それを踏まえると、世界中のBMXライダーでまだ誰も経験していないのが、オリンピックを成功させるということです。だから、組織委員会の1人としてオリンピックを作り上げていくことは、ニュートリックをメイクするような感覚。誰もやったことのないことをやりたいというのが一番のモチベーションでした。
——組織委員会のBMX種目には、上原さんとバン以外にライダーはいたんですか?
上原:「430」メンバーでもある田中光太郎、伊東高志そしてストリートライダーのPEGY(増田信宏)、BMXディストリビューターのKENさんなどが、僕やバンが声をかけて加入しました。BMXの組織委員会は、BMXの経験者が多かったんです。もちろん未経験者もチームにいますが、僕らの意見を聞いてくれるし、彼らから学ぶこともたくさんありました。
——そうなると、当日は感慨深いものがあったのでは?
上原:本当に一瞬でしたね。オリンピックが終わったあと、多くの人がお疲れさまと連絡をくれたり、Instagramにコメントを寄せてくれたりして、とても嬉しかったです。そして自分は本当にBMXが好きなんだな、と改めて実感しました。世の中にBMXを知ってもらえて、シーンに少しでも貢献できたのかな、と思いました。
——今後の活動に生かせるような、学んだことはありましたか?
上原:やっぱり、何かに挑戦することは大事だと再認識しました。新しいことを学ぶことは楽しいです。これほどのたくさんの経験ができたのは、25年間「430」を続けてきたから。いいこともあれば、悪いこともあったけど、続けることで大きなイベントが発生して、自分自身の成長にもつながりました。
——これからのBMXシーンに望むことは?
上原:今以上に、たくさんのスターとなるライダーが登場するといいですね。そして、僕みたいな40歳オーバーでも大会に出場する人が増えれば嬉しいです。そういった人達が育つように、練習できるパークを作ったり、コンテストを開催したり、僕達が畑を耕していきたいと思っています。オリンピックでは競技としてのBMXが注目されましたが、BMXには、カルチャーとしての側面もあります。みんながアウトプットできる場所を提供していくことも大事だと思っています。だけどすべての人が納得して、楽しいと思えることをやるのは難しいと思うんです。だから、そこは割り切って、自分が楽しいと思うことをやっていきたいと思ってます。そうすれば、自分と同じ考え方の人が楽しんでくれますから。これからも失敗をおそれず、おもしろいことにどんどん挑戦していきたいと思っています。