カメラは、言語に頼らないコミュニケーションツール。パパラッチや盗撮は願い下げだけれども、そうでなければ撮影行為というのは有意義なものだと思う。そして、スケートボードは世界のストリートの共通言語で第2のパスポートだ。スケートボードでプッシュさえすれば、世界は動き始める。今回は、コロナ禍で旅を禁じられた私達が改めて見直したい、スケートボードと旅について。
ビジュアルトラベリング
旅から得るものは広がっていくということ
旅するフィルムメーカーとして、日本のストリートシーンでもよく知られている写真家、パトリック・ウォールナー。10年以上もの時間を、ヨーロッパとアジアとアフリカ各地のストリートをジグザグしながら、冒険とスケートボードのスポットを探索することに費やしてきたからだ。当然、これまでの彼の最大公約数は、旅とスケートボードとフィルム(写真と映像)だった。それは数多くの映像作品と1冊の価値ある写真集がそれを物語っている。
彼の長い旅路のスタート。それは、2003年だった。その後、2007年には、10代のある時期を過ごしたアメリカから、イベリア半島の美しい街、バルセロナへ引っ越した。その頃のバルセロナは、アート愛好家やロマンティックな恋人達にとって、最高の休暇の目的地だった。それと同時に、カリフォルニアの校庭で滑るのに飽きたハングリーなスケーター達にとっての首都でもあった。特にMACBA(バルセロナ現代美術館)のシーンを見ると、いまだに嫉妬と郷愁の涙を流すという。それほど、この街を愛していたし、街中のスケーターに声をかけて撮影しまくった。作品作りの原点があった。1992年に開催されたバルセロナオリンピックを契機に、街には変則的な形をした公園、歩道、そして建物が増えていった。ただのギャップやステア以上のものを求めるクリエイティブなスケーター達にとって、その場所が魔法の世界になった。まさにアントニ・ガウディは、スケートボードにも造詣が深かったのだ。この引っ越しによって、パトリック・ウォールナーはすでに旅の最大の魅力に気付く。旅とは見聞や知識を広げる格好のツールだということに。スケートにしろ撮影にしろ、パトリック・ウォールナーは、旅から旅へプッシュした。そして、その可能性と場所をどんどん広げていった。
©Patrik Wallner
デ・ファクト・カントリーズ(未承認国家)を記録した
フォト・ジャーナリズムの側面
パトリック・ウォールナーの写真。それは写真集『The Eurasia Project』を見てもらったら、すぐにとりこになるはずだ。中国、香港、北朝鮮、タイ、ベトナム、マレーシア、インドネシア、インド、ラオス、ミャンマー、カンボジア、アブハジア、バングラデシュ、パキスタン、イラン、イラク、レバノン、ヨルダン……。それは実に101ヵ国以上のスポットにおよぶ。スタンダードな東アジアの旅先から、やがてはヨーロッパとアジアの間にあるすべての国々へ。彼の中では、ついにはあまり知られていない国々へ旅することが、マニフェストとなった。知らない国、聞いたこともない街。この先だって行くことがないままの場所。1本のスケビ(スケートビデオ)『Meet the Stans』なんていうのを作ってしまえるほど、国名の末尾がなんとかスタンとなっている国々がユーラシア大陸にはあるらしい。私は、そんなことも知らなかった。日本的に言うと、沢木耕太郎著『深夜特急』とかテレビ番組『進め電波少年』の人気コーナーだった猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」のスケートボード的アップグレード版だろうか。いや、それは違う。旅先で必ずスケートなんか想定もしていない素晴らしいスケートスポットを発見して、そこならではのスケートトリックをメイクしないといけない。そんな楽しいクリエイティブなことは、スケーターにしかできない。当然、その陰には、かなりやばいピンチやトラブルやスケッチーなこともある。それをひっくるめて作品として残せるのは、パトリック・ウォールナーしかいない。
世界遺産をバックにスケートしてるやつなんて、それまで見たことがなかった。ヒジャブをかぶった群衆の前で、汗だくのTシャツでバックサイド180を飛んでるやつなんてどうかしてる。クローズドなイメージの北朝鮮の街をスケートでクルーズしてるやつなんて、かつていなかった。スケートボードがビザ代わり。それはよく聞くキャッチコピーだけれど、パトリック・ウォールナーは、その効力を最大限に使いきって、実際に世界を広げてしまったのだった。
『The Eurasia Project』(2018) / ©Patrik Wallner
ビジュアルトラベリングの次なる写真
日本にはスケートボードで旅する魅力をまったく想像できない人が、まだまだいると思う。そんな人でも、スケートボードが正式種目になった東京オリンピックのことは知っているだろう。コロナ禍の今、開催されるかどうか。それは難しいところだ。ただ、あの歴史あるバルセロナの街が変貌してスケーターにとってもメッカ(聖地)になったように、東京もオリンピックを契機に変貌していっている。スケーターのスポットシーク(スポット探し)は絶賛拡散中だ。コロナ禍でなかったら、パトリック・ウォールナーはじめ世界中から、スケーターが旅してくるはずだったに違いない。新しいスポットとムーブメントが広がっていたに違いない。
現在、旅するフィルム・メーカーのパトリック・ウォールナーは香港にいる。それまで拠点にしていたのは、タイのバンコクだった。むせ返る交通渋滞の街、バンコクから、今度は爆発的に人口増加している街、香港へ。カオスな空気感は同じだった。しかし香港の空気は、民主化デモを機に激しく揺れている。次に何が起こるか誰も予測できない。そんな状況下で、彼はシャッターを切り続けている。旅人でスケーターでフィルマー。そして……。
「僕はフォトグラファーだから、どんな時も自分が住む場所の模様を記録する義務がある」。
香港で撮影するには、慎重に行動しないといけない。それでも私は、スケーターとして世界中をプッシュしてきた、撮影してきたパトリック・ウォールナーだからこそ撮ることができる写真があると思っている。政治的や思想的ではなく、スケート的な写真。スケートボードという自由な乗り物から見て感じた街の写真。こればっかりは、止められない。少なくとも、私達の思考回路と本質的な発想方法は、スケート的であって、思想的ではない。それは世界中どこを旅していても同じだ。
©Patrik Wallner
スケートボードは、舗装された路面があればどこへでも行く理由になる
©Patrik Wallner
パトリック・ウォールナーの写真を初めてページにしたのは2010年だった。現在、私が「TOKION」に寄稿している記事のテーマの1つ、“Skateboard diaspora”をそのまま『Sb Skateboard Journal』の雑誌タイトルにした特集だった。その時の写真の1枚は、再び今回掲載している。それは、ロシアのエカテリンブルク郊外にあるアジアとヨーロッパの境界線でスケートする写真だ。モスクワから香港まで、2ヵ月間におよぶスケートボードとシベリア鉄道の旅。映像作品『10,000Kilometers』にもなった旅。1人で写真と映像の両方で記録するのは大変だ。重要な撮影機材、着替えや必需品が詰め込まれたバックパック。折りたたみなんて不可能なスケートデッキ。ただ、スケートデッキと仲良くなったらとても便利な乗り物になる。だから、それは問題ないけれど、置き引きには注意が必要だ。とにかく、パトリック・ウォールナーの荷物を想像しただけで、私はぐったりしてしまう。忘れてならないのは、彼の写真のためと映像のために何度も滑って何度かメイクしないといけないスケーターだって大変だということ。だから、パトリック・ウォールナーが見せてくれる旅の写真や映像は美しいだけでなく、スケートが突き進んでいった先の発見がある。そしてとても楽しそうなのだけれど、実はかなりハードボイルドなドキュメントなのだ。初めてページにした時、まず聞いた。なぜそこまで苦労してスケートボードと機材を背負い込んで旅をするのか。
「スケートボードは舗装された路面があればどこへでも行く理由になる。ただのバケーションや観光では絶対にたどり着けない、隠れた場所を見つけることができるんだよ」。
この探究心を実践してしまう創作意欲と旅するパワーが素晴らしい。だからパトリック・ウォールナーの写真は、世界中のどんなフォトグラファーともかぶらないし、強くて印象的だ。なぜかって。それは、えっ!? そんなところにまで!? っていう場所(景色)でも、スケートボードがしっかりと写り込んでいるのだ(旅しているのだ)。