世界三大映画祭においてもその存在感を確固たるものとし、国際的な評価を高め続ける映画監督・濱口竜介。カンヌ映画祭にて日本映画史上初の脚本賞受賞作に輝いた『ドライブ・マイ・カー』に続き、第71回ベルリン国際映画祭・銀熊賞受賞作『偶然と想像』がこの12月から日本全国で順次公開となる。濱口初の短編集作品となる今作は、親友である2人の女性の軽快な恋愛トークから幕を開ける「魔法(よりもっと不確か)」(出演:古川琴音 他)、作家・大学教授と教え子の研究室での会話を基軸とする「扉は開けたままで」(出演 : 渋川清彦 他)、高校の同窓会のために帰郷した女性に訪れる20年ぶりの再会を描いた「もう一度」(出演:占部房子 他)の3編の物語からなる。シチュエーションはさまざまながら、そこに通底し観る者を惹き込むのはタイトルに冠された「偶然」であり、それは「想像」と表裏一体のものであるのだと、濱口は述べる。今作はどのように紡ぎあげられたのか、その背景にある制作哲学を探る。
短編を撮ることで生まれる映画制作の好循環
──『ハッピーアワー』(317分/2015年)や『ドライブ・マイ・カー』(179分/2021年)など、長尺の長編作品で知られる濱口監督ですが、濱口さんにとって短編というのはどういった存在ですか?
濱口:製作者としては、長編と同じくらい重要なものと考えています。というのも、長編は単純に物量として非常にコストがかかりますから、時間も気力も使います。一方で、短編は始めるのがより簡単な分、負えるリスクも大きくなるというか、チャレンジしたいことに挑戦しやすくなります。それは次の長編の準備にもなりますし、逆に前に撮ったものの復習みたいな役割を果たす場合もあります。実際に、『ハッピーアワー』と次の長編『寝ても覚めても』(2018年)を作る間に、『天国はまだ遠い』(2016年)という短編を撮ったのですが、このことがすごく良かったんです。今回始動した短編のプロジェクトは、その好循環のサイクルを自分の映画作りの中でちゃんと確立できないかという試みでもあります。
──今回は、久しぶりの完全オリジナル脚本という点もファンとしては期待が膨らみます。短編を7本作るという企画段階で共通のテーマを「偶然」に決めたそうですが、実際の脚本はどのように書かれたのでしょうか?
濱口:基本的にはごく普通で、まずあらすじみたいなものがあって、次はそのあらすじを「箱書き」といって、「こんなことがあって、こんなことがある」というふうに場所ごとに分割していくんですけど、今回はその場所ごとのシーンがとても長いので、その中でもいろいろなうねりがありました。その箱の中(場所)のシーンをダイアローグで書いていく過程はけっこう行き当たりばったりというか、探り探り書いていく感じですね。そして、その「箱」で起こるべきことが「起きた」と思ったら、次の場所に行きます。
──濱口さんの脚本では、現実では思っていても言わないようなことを、あるキャラクターに敢えて言わせて、関係性に変化が起きるという展開が必ずあると思います。今回も、第1話でいうと、古川琴音さん演じる芽衣子がある男性のところに行った時のやり取りがまさにそうです。
濱口:箱書きの時点で想定しているところとしては、アンリアルなところに行きたいというか、「いやいや、そんなことないだろ?」というようなことを、「でも、あるかもな」と思わせるところまで最終的には持っていきたい。そのためにはある程度リアリティも大事になってきますから、例えば、芽衣子というキャラクターがめちゃくちゃで、一見、常識外れな人物に思われるかもしれないけど、芽衣子は単にめちゃくちゃやればいいというわけではなくて、彼女には彼女なりの行動原理があるんだろうなという想定のもとに書いていきます。
──それが実際に「あり」になるかどうかは、役者さんとの本読みで探っていくのですか?
濱口:そうですね。正直自分では、「これで大丈夫かな?」って思いながら書いているところもあります(笑)。やっぱり生身の役者さんがいることは大きくて、フィクションを現実に落とし込んでいくプロセスとして、最近自分は「本読み」(※)をしているんだな、ということに自覚的になってきました。この短編3作は、『ドライブ・マイ・カー』を撮影する前だったということもあって、『ハッピーアワー』から取り組んできた本読みというものがどの程度機能するのか、その精度を上げていこうという意図もあってやっていました。
──個人的には、芽衣子の言動は全然ありというか、理解できるものでした。でもそれは、その前の10分近いタクシーのシーンでのつぐみとの自然な会話があるからこそ、信じられたのかもしれません。
濱口:そうなんです。ああいう親友同士のガールズトークのようなすごく自然なものがまずあって、その現実を1つ捲るとフィクション的な状況が待ってるという構造にしています。でもその表面と心の奥底の矛盾というのは、意外と誰しもが現実で抱えているものなのではないかという気がしなくはない。そして、フィクションというのは、何がしかそこに訴えかけていくものなのではないかという気がしています。
──脚本段階では、第1話は「噂の男」というタイトルだったそうですが、最終的なタイトル「魔法(よりもっと不確か)」は、抽象度が増して数段魅力的に響きますね。
濱口:これは結果的に芽衣子が言う台詞から採用しました。撮りながら、やっぱりこれがこの話のパンチラインだなと(笑)。
──最初はつぐみから発せられた「魔法」の意味を、芽衣子がだんだん反転させていくところが素晴らしいです。
濱口:ありがとうございます。芽衣子というキャラクターは本当に難しい役だったと思いますが、普通の女子みたいなところから、恐ろしいなこの人というところまで、古川さんが見事に演じてくれました。
──第1話の最後には、観客をあっと驚かせる、撮り方の「魔法」とも言うべき仕掛けもあります。
濱口:あそこはカットを割ってしまったらよくあるシーンになってしまうので、見ている観客の感覚としてより曖昧さが強くなるような方法として採用しました。考えればすぐ分かるちょっとしたことなんですが、楽しんでもらえると嬉しいです。
実在する世界とフィクションの境界面にあるもの
──第2話「扉は開けたままで」では渋川清彦さんが大学教授・作家を演じられています。これまでの渋川さんであまり拝見したことのないような役柄でした。
濱口:渋川さんとご一緒するのはこれで4回目だと思いますが、基本的にはちょっと乱暴者な役が映える方なんですよね。でも4回目となるとちょっと違う役も振りたいという気持ちもあったのと、自分も渋川さんもいろいろ時間を重ねてきて、今だったらこういう役も説得力をもってやれるんじゃないだろうかと思ってお願いしました。でもこの役も、やっぱり渋川さんの人間的な魅力というか、核の部分みたいなものがあるからこそ成立する役だったと思います。
──第3話「もう一度」の占部房子さんと河井青葉さんも、これまでに度々お仕事をされていますが、渋川さん含めて、3人とも今回のような本読みをされたのは初めてだったのではないでしょうか?
濱口:そうですね。「濱ちゃん、今はこんなことやってるんだ」と言いながらも(笑)、楽しんでくれたと思います。通常の現場では、呼ばれて、「こういう役で、この衣装で」となって、本番になったら「ここでこういう台詞を言ってください」というふうに始まることが往々にしてあるので、役者さんにとっても、リハーサルに時間をかけられるということ自体が貴重といいますか、これは今回どの役者さんも言ってくださったことですけど、1つの役にこれだけ時間をかけて接するというのは、あまりない機会ということでした。
──短編集のテーマを「偶然」に決めたのと同じように、製作の面では「時間をかけて撮る」ことを大きなテーマとして掲げられたそうですね。
濱口:はい。(初の商業映画であった)『寝ても覚めても』を監督してみて、みんなこんな短い時間で撮ってるのかと驚いたんです。プロデューサーには「これでもかなり確保したんですよ」と言われましたが(苦笑)、こんなにも早く物事が進んでいくのかと。もちろん、たくさんスタッフがいるのでシステマティックに進んでも撮ることができるという面はあるんですが、その前の『ハッピーアワー』は2年ぐらいかけて作っていたりするので、時間感覚が全然違ってきて、自分がこの環境でずっと良いものを作り続けるのはなかなか大変じゃないかと思ったんです。『ハッピーアワー』はかなりインディペンデントな制作体制でしたが、そういう現場を手放すのは自分にとって良くないなという危惧があったので、この短編の企画も、『ハッピーアワー』のプロデューサーである高田(聡)さんに脚本を送ったことから始まりました。
──今回3話をまとめた短編集のタイトルは『偶然と想像』となっています。当初からあった「偶然」という共通のテーマに加えて、「想像」という言葉はいつ出てきたものでしょうか?
濱口:おっしゃるように、まず「偶然」というテーマがありました。この3話の脚本を書き上げて、おそらく第2話を撮り終えた頃に、これは、想像力というのも共通のテーマになっているなと気づいたんです。偶然と同じように想像力にもいくつか種類があって、例えば第1話のように、ある偶然があって、「ああだったら、こうだったら」と考える想像力がありますよね。それとは別に、もっと精度の高いフィクションを構築するタイプの想像力というのがあって、そのことが3話に共通するなと思ったので「想像」という言葉を入れました。「偶然」と「想像」は、考えれば考える程つながっている気がするというか……。
──それはどのようなつながりですか?
濱口:まだしっかりと言語化できているわけではないですが、1つ言えるのは、実在する世界とフィクションの境界面みたいなところに、「偶然」も「想像」もあるのではないかということです。想像というのは、ないから想像するという側面がありますが、偶然の方は、稀な、ほとんどあり得ないことなんだけど確かにあることなんですよね。つまり、偶然はその境界面の「ある」側の方に、想像は「ない」側の方にあって、その現実とフィクションを取り違えさせる、あるいは超えていくために、この2つは表裏一体の役目を果たしているんじゃないかと考えているところです。
聞くことと開くことがもたらす奇跡の交感
──『ハッピーアワー』以降、ここ何作かの濱口さんは、自分を開いていくということ、もしくは傷なり痛みを分かち合うことで他者とつながるということを、一貫して描かれていると思います。
濱口:そうですね。
──実際、自分を他者へ開くということは、ある種の賭けといってもいい行為だと思いますが、今回は、第2話で提示されたその真のテーマが、第3話でより具体的な形となって結実します。興味深いのは、第3話で起こる奇跡のような交感が、作中のキャラクターである夏子とあやが、自分とは別の人物を「演じる」ことを通して生じることです。
濱口:やっぱりある種の欲望や欲求というか、「こうでありたい」と思うことが、すべての核にはなっていると思うんですね。欲しいものがあるからないものを想像する、あるいはそれを手に入れたいからウソをつくとか。そういうことを含めて想像の役割だと思いますが、本当に欲しいものを現実のものにする時に、やっぱり自ら飛び込んでいく必要がある。そして、その飛び込んでいく対象というのは、ある種の偶然によって現れるんだと思います。ルーティンで構成されている自分の人生に訪れる、本当はこちら側の人生に開かれていきたいと思っているその偶然にうまく飛び乗れるか、自分を投げ出せるかということ。
──そうなった時に、今度は「聞く」ということが出てきますよね。
濱口:「聞く」ということは、演じる上でものすごくキーになることです。彼女たちは相手のことを聞くから演じることができるとも言えるわけですよね。例えばあやが夏子に「あなたは幸せなの?」と尋ねる時、あやは聞き役として他人を演じています。でも、あやはその聞くことを通じて、夏子が想像している、自分とは別の存在と混じり合っていくようなところがある。聞くことによって相手を引き出すことができるし、その引き出したものに応じて、その人自身も変わっていけるというんでしょうか。聞くことは対応するということなので、自分自身が開かれていくことにもつながるんだと思います。
──自分だけワーって開いたと思っても、それは一方通行でまったく違うものですからね。
濱口:実際、現実の中で見知らぬ他者が互い開き合うということはなかなか起こらないじゃないですか。でも、聞く側にまわることで、その可能性がものすごく上げられるということなのではないでしょうか。そして、聞きながらその相手が開く瞬間を待つことができたら、いつでもつながれる、とまでは言えないけれど、つながり得る。「聞く」ことはよりよくつながるための数少ない方法の1つだと思います。
──観客は、その聞くことと開くことの往復運動を、たぶんスクリーンを通して追体験するんですね。だからこそ、いくつもの企みとユーモアにも満ちたこの『偶然と想像』という作品が、最後にいたって大きな感動をもたらすのだと思います。
濱口:ありがとうございます。そのような映画になっているとしたら嬉しいです。