連載「自由人のたしなみ」 Vol.5 能楽師・安田登による省かれた先にあるものに目を凝らす能的価値観“脳内AR”とは?

見えないものを見る……ただそう書いてしまうと、サイキックな話と思うかもしれない。しかし人間は元来、目という身体器官を介さなくても何かを見てきたものだ。夢や妄想、頭の中にそろばんを持ち出す暗算だってそうである。『見えないものを探す旅』は、能楽師である安田登による著書。能とはご存知、室町時代に観阿弥世阿弥によって確立された、世界的に見ても最も歴史の古い芸能である。

「私は、能のワキという役を演じるワキ方ですが、このワキというのはシテと呼ばれるこの世のものではない存在と、人間の世をつなげる役割を担っており、その多くが旅人です。そして旅のさなかに目に見えないものと出会います。また実際に目で見えることではなく、思い描いたりする事柄を、私は“脳内AR”と呼んでいますが、能を生んだ日本人はこれがうまい。かくいう私自身も、かねて脳内ARを使う旅をよくしていました」。

安田いわく、見えないものに出会う旅とは、出発点と到達点という点と点がつながる線、つまりあわいの中で起こるという。本来の目的ではないところで遭遇する事柄。著者は、その気配のようなものを敏感に察知して、まるで夢のような実体験をしている。それがいくつも本書では綴られている。

「私の言う旅とは、目的地での行動が主となる旅行ではなく、その途中の行程にも重きをおいています。また電車や飛行機といった乗り物を使う旅行ではなく、『奥の細道』の芭蕉のように徒歩が多い。徒歩でふと赴いた場所……そんな旅の中でのエピソードもいくつか本書では書いています」

例えば冒頭、ふと思いつき立ち寄った、『平家物語』の合戦で有名な兵庫県の一ノ谷。源義経がまさかここからと誰もが思った崖地から馬で駆けおりるという奇襲を成功させ、源平合戦の転機となった戦いである。ここは能の舞台にもなっている。そこでは平家や源氏のメタファーともいえる事柄が、著者の目の前に次々と現れるのだ。そのたびに安田は、脳内ARで1000年以上前の戦いをよみがえらせる。何気ない出来事の中に潜む「意味ある偶然」を見出しているのである。

「出かけるまでは、疲れるな、とか面倒だなとか思ったりするんです。でもそんな思いをいだきながら、歩いていくとその先に一ノ谷でのような出来事がある。1000年以上前にここで行われた平家や源氏の戦いの気配をリアルに感じるような……。今はわかりやすさやエビデンスを求められることが多いですが、私の言う見えないものに出会うということは、その対極にあること。複雑なものを複雑なままとらえる。わからないことをわからないままにすることと言い換えることができるでしょう。そうすることで、予定調和にはないものが見えてくる。つかみどころのないことを認識し、わかりやすさということからも自由でいるということ。それが得意であったのが、他でもない日本人だったとも思います」。安田はそれを「能的なこと」と表現する。「能の世界とは、幻を見せることでもあるんです」。

見えないことを芸能や文学で表現し高度な芸術へと昇華させてきた日本の歴史

見栄えや可視化という言葉が巷にあふれ、見えること=わかることが求められることが、昨今の主流となって久しい。しかし、古来日本人は、見えないことを感じ、時に芸能で、文学で表現をすることで高度な芸術へと昇華させてきた歴史がある。先述の能や琵琶法師が語る『平家物語』はもちろん、『源氏物語』もそうである。見えないことを無理やり見えるものにしてしまおうとしたら、必ず何かがこぼれ落ちる。出発地から目的地へひとっ飛びしてしまったら、あいだに潜むものが抜け落ちるのと、それは似ているのかもしれない。安田は言う「せっかく立体に時間軸まで加わった4Dのものを2Dに戻すようなことをしない、4Dのままでいるには、目で見るのではなく脳内ARがポイントとなるのです。それはわかりやすさやエビデンスとは別の次元の話となり、同時にこの2つから自由になるということでもあるのではないでしょうか。またそこに私は、人から与えられるプレッシャーや不安から解放されるヒントが隠されているとも思っています」。

曖昧であること、あわいを省かないこと。『見えないものを探す旅』は、そうすることで見えてくることに溢れている。さらには、省かれた先に本来あったものに目を凝らしている。そこが浮き上がってくるのだ。読書というのは、本来“ここではないどこか”に連れて行ってくれるという意味で、旅と似ているところが多い。しかしながら、実用書のたぐいではわかりやすさやノウハウに終始することになり、現実から離れることができない。現実に囚われているといって良いかもしれない。安田の言う能的価値観に目を向けることが、いろいろな意味で自由になれるヒントになるのではないだろうか。自由とは、なにも国境を縦横無尽に超えることだけではないのだから。

安田登
下掛宝生流能楽師。高校時代、麻雀とポーカーをきっかけに甲骨文字と中国古代哲学に目覚める。現在は能楽師のワキ方として活躍するかたわら、論語などを学ぶ「遊学塾」を、東京を中心に全国各地で開催している他、能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演も行っている。著書に『異界を旅する能 ワキという存在』(筑摩書房)、『能 650年続いた仕掛けとは』(新潮社)など多数。6月に『見えないものを探すたび 旅と能と古典』(亜紀書房)を、7月に『三流のすすめ』(ミシマ社)を発売した。

Photography Kunihisa Kobayashi

author:

田中 敏惠

編集者、文筆家。ジャーナリストの進化系を標榜する「キミテラス」主宰。著書に『ブータン王室は、なぜこんなに愛されるのか』、編著書に『Kajitsu』、共著書に『未踏 あら輝』。編書に『旅する舌ごころ』(白洲信哉)、企画&編集協力に『アンジュと頭獅王』(吉田修一)などがある。ブータンと日本の橋渡しがライフワーク。 キミテラス(KIMITERASU)

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