東京スケートコミュニティが生んだ新時代の象徴、山下京之助インタビュー後編 生い立ちから転機となったコロナ禍

誰にでも分け隔てなく接する、ものすごく素直で感じの良い若者。山下京之助というスケーターを表現するにはもっともな言葉だろう。数多くのブランドからサポートを受け、SNSでは多くのフォロワーを抱えるのも、その人柄があってこそ。前編に続くインタビュー後編では、彼の生い立ちからスケーター人生の転機となったコロナ禍の出来事に迫る。

スケートボードとの出会いと幼少期

ーー後編は生い立ちから聞かせてください。スケートボードを始めたきっかけはなんですか?

山下京之助(以下、山下):きっかけは、3歳の頃にクレーンゲームで、手でやる小さいハンドスケボーが取れたことです。それがすごく楽しくて、お母さんにちゃんとしたスケートデッキが欲しいとお願いして買ってもらいました。
最初はただ乗るだけで、トリックは全然やっていませんでした。なので、僕はお父さんがスケーターだから始めました! といったエピソードではないんですよね。でもお父さんはずっとバンドマンでドラムをやっていたのもあってか、サブカルチャーがずっと好きでした。映画の『LOADS OF DOGTOWN』のDVDも家に置いてあったので、スケートボードカルチャーに触れる機会はちょくちょくあったんです。この前の「TAMPA AM」を勝った(青木)勇貴斗君のお父さんはダンサーで、僕と近い環境にいますし、今僕達の世代で活躍している人達は、たとえ両親がスケートボードをやっていなくても、身近にある環境だったという人は多いですよ。

ーー始めた頃、スケートボードのスクールには通っていましたか? また周りにはどんなスケーターがいましたか?

山下:最初は6歳くらいの時に「フレイク」(※)が主宰するミニランプのスクールに通っていました。上田豪さんが先生で、その時は(戸倉)大鳳などがいましたね。それからは城南島のスクールに、飯田葉澄とかと一緒に通っていました。他には、池田大暉渡辺星那もいましたし、お兄ちゃんの(池田)大亮君や(渡辺)雄斗君とかもいたかな。そんな人達と小さな頃はよく一緒に滑っていましたね。

あとは駒沢公園にもよく行っていました。まだ路面が荒いアスファルトだった頃で、当時はスクールもやっていたのでちょくちょく行っていたし「ムラパー(=ムラサキパーク東京)」のスクールも何回か行きました。
あの頃は幼かったので、基本的に遠い所はお父さんに連れて行ってもらって、家から近い所は自転車で行ってました。中でも駒沢(公園)が近かったので、一番行ったかな。浦さん(浦本譲)とか赤地(正光)さん、(米坂)淳之介さんにはよく教わっていて、淳之介さんとは今は「プリミティブ」のチームメートとして一緒に動くことも多いので、不思議な縁を感じています。

※1980〜1990年代のアメリカ西海岸のスケート、サーフ、ロック、アートなどをリスペクトしたリアルなストリートカルチャーをキッズ達に提案するユースアパレルブランド。小学校卒業と同時にチームも卒業となる。佐川海斗佐川涼、渡辺雄斗、佐々木真那など、現在活躍する多くのプロスケーター、飯野紗耶香伊佐風椰等の歴代女子チャンピオンを数多く輩出している。

コンテスト初出場から東京五輪強化指定選手選出の道のり

ーーコンテストには何歳頃に、スケートボードを始めてどれくらいで出るようになりましたか?

山下:初めて出たのは「FLAKE CUP」のミニランプコンテストで、小学校1~2年生の頃ですかね。でもめちゃくちゃボロ負けしちゃって……。それがすごく悔しくて、駒沢でミニランプをすごく練習しました。今思うと、当時から負けず嫌いなところはあったのかもしれないです。
初めての入賞は、ムラパーで開催された「DC」主催のミニランプコンテストだったかな? その時に5位に入賞できました。ストリートでは、2013年の「AJSA(ALL JAPAN SKATEBOARD ASSOCIATIONの略で、日本スケートボード協会のこと)」アマチュアサーキットの3戦目に初めて出場しました。この大会に出るまではストリートが嫌いでランプばかりやっていたんですけど、周りから出てみなよって勧められて、練習を積んでから挑戦したら、いきなり14位で決勝に上がることができたんです。結局決勝はビリだったんですけど、それがめっちゃ嬉しくてストリートがどんどん好きになっていきました。でもストリートは、ある程度体が大きくなって脚力がついてからじゃないとセクションに対応できないので、小さい頃はストリートのコンテストなのにアールばかり攻めていましたね。

ーーではコンテストで勝てるようになってきたのはいくつくらいからですか? 初めて上位入賞したコンテストの話も聞かせてください。

山下:初めて優勝したのは、うみかぜ公園で行われた2016年の「AJSA」関東アマチュアサーキット第1戦です。初出場から2年半くらいかかりました。しかもその2ヵ月後には、韓国のカルトパークで行われた「AJSA」のプロ戦、アジアンオープンでも3位になることができたんです。この時は場所が韓国で、プロアマオープンだったから出ることができたんですけど、途中で雨が降ってきて2回中断してしまって、決勝は行われず、予選の結果でそのまま順位が決まってしまうというラッキーもあったんです。でもこれが初めて表彰台に上がったメジャー大会です。このアジアンオープンは、日本から何十人ものスケーターが、一緒に韓国に行ったので、修学旅行みたいな感じですごく楽しかったです。ここ数年は開催されていないですけど、またやってほしいですね。

ーーその後はコンテストでも頻繁に上位入賞するようになりましたが、その要因はなんだと思いますか?

山下:純粋に体が大きくなっていろいろできるようになってきたからだと思います。でも「AJSA」でプロに上がれたのは、2018年のAXISで行われたプロアマオープンのコンテストでも5位に入賞できたからで、本来のプロ昇格を決める全日本アマチュア選手権は予選も通ったことがないんですよ(笑)。
でもその年に何回か入賞できて年間ランキングで3位になることができましたし、2019年は2位になることができました。当時はとにかくコンテストで勝つしかない! という感じで、コンテストに勝つための滑りばかりしていました。この結果は、そういった取り組みもあってのことだったと思います。

ーその後2019年には全日本選手権で上位入賞を果たして東京五輪の強化指定選手入りしましたが、当時はオリンピックを意識していましたか?

山下:そうですね。はっきりいってコロナ前まではオリンピックに出るために大会に出ていました。まあ全然ダメだったんですけど(笑)。雰囲気とかが違うからなのか、全然いつも通り滑れなくて、日本では結果が出せても世界ではなかなか思うようにいかなかったですね。
AJSAとか国内のコンテストは事前に現地のパークに行って練習を積んでから本番に臨めたんですけど、海外は練習が2日間とかしかなくて、時間も決まっている場合が多いので、満足に練習できないままやらないといけない。そうなるとレベルを落とさないといけないし、メイク率も下がってしまうという感じで、その雰囲気にのまれてしまってたんだと思います。
それでも勝てる、勝負できるトリックの引き出しが自分にあればよかったんですけど、当時はそこまでの武器もなかったから戦略も立てられず、どうにもなりませんでした。

コロナ禍で起きた変化

ーーそんな矢先に起こったのが新型コロナウイルスによるパンデミックでした。長らくコンテストが開催されませんでしたが、自身の環境に変化はありましたか?

山下:ありましたね。コロナを機に、自分自身のビデオパートを撮ろうという方向に活動がシフトしていきました。以前は、日本に住んでいたYouTuberでフィルマーのルイスとちょくちょく撮影していたので、コンテストがなくなっても、どうしよう!? っていうこともなく、ルイスからの声がけでスムーズにシフトできたんです。それでルイスと大阪や名古屋など、いろいろな所に撮影に行ってパートを完成させたんですが、ちょうどその頃に今度はイベントを通じて「タイトブース」諸橋直哉君に出会ったんです。そこで「今度撮影行こうよ!」って話からトントン拍子にフルパートの話まで進んで、スケートビデオ『LENZ 3』でも動くようになりました。
「プリミティブ」との契約もちょうどそのタイミングで、しかも専属フィルマーが以前に日本に住んでいたエリック・イワクラでした。彼はちょうどこの秋に日本に来ていたので、よく一緒に動きました。今回のインタビューで使っている写真は、その時に撮影したものです。その「プリミティブ」でも来年には映像作品をリリースする予定なので楽しみにしていてください。
ただこうやって振り返ってみると、「イレイズド」のパートがなければ「プリミティブ」のアマになれたのかわからないし、それもさらにさかのぼれば、コロナ禍がなければ「イレイズド」のパートもあそこまでのクオリティに仕上がっていたのかもわからないので、偶然もありますけど、いろいろなタイミングがすごくうまくシンクロしたのかなと思います。

ーーでは環境の変化で他にも変わったことはありますか? 例えばスケートビデオをよく観るようになったなど。

山下:確かにスケートビデオをよく観るようになったのはわりと最近で、中2~中3くらいからですかね。それまでもちょくちょく観てはいましたけど、そこまでは観ていませんでした。でも一番最初に観た作品ははっきりと覚えています。お父さんが誕生日プレゼントで買ってくれた「プランB」の『TRUE』です。自分はその中でもトレバー・マクラングのパートがすごく印象的で、レッジもハンドレールもマニュアルもステアもスイッチもすべてスムーズにこなすので、本当にオールラウンダーだなとかなり憧れましたね。

ーーではコンテストに対するスタンスは、今と昔を比べてどうですか?

山下:昔はコンテストしか頭になかったのもあって、もしかしたら本気度という意味では以前より下がってしまったように見えるかもしれません。でもスケートボードに対する情熱は一切変わってないです。ただビデオパート制作という別のやりたいことが出てきて、やるべきことが増えました。もちろん、これからもコンテストは出れるものは出るつもりですし、出るからには勝ちたいと思っています。ただ基本的にコンテストで勝つ滑りと良い映像を残す滑りは違うので、両立させるのは本当に難しいと感じています。だからこそ両方で結果を出している堀米(雄斗)君は本当にすごいなと思いますし、僕ももっと頑張らないとなと思っています。

ーー堀米選手とは昔からコンテストの場で顔を合わせていたのですか?

山下:それが堀米君とは国内では一度も顔を合わせたことがないんですよ。堀米君が「TAMPA」とか「SLS」とかに出始めた頃に、僕が国内のプロ戦に出るようになったので、ちょうど入れ違いでした。
だから顔を合わせたのはコロナ禍前に東京オリンピックの強化指定選手として「DEW TOUR」とか「SLS」を転戦していた時くらいしかないんです。でもその時も堀米君は準決勝からの登場で自分はその前に負けてしまっていたので、現場で会っても、選手として同じ舞台で滑ったことはないんです。
ただロサンゼルスでは何回か会って一緒に滑ったりできたので、すごく楽しかったですね。ただあれだけの結果を残している人ですし、コンテストで一緒に戦ったことがないのもあって、会うとなんか緊張しちゃいます(笑)。

同世代の活躍と日本のスケートシーン

ーー最近は山下さんと同世代の日本人スケーターの活躍がコンテストでもストリートでも目覚ましいですが、意識している人や仲の良いライダー、注目している人はいますか?

山下:真ちゃん(本郷真太郎)はすごいなと思いますね。雑誌『スラッシャー』のヘッダー(巻頭)に載ったり、インタビューの特集が組まれたりとか、パートもすごいの出していました。そういう意味ではすごく注目はしています。
あと仲が良いのは、(池田)大暉ですかね。昔から知ってるし、よく新横浜とかでも一緒に滑ってるし、最近ではアメリカで「トイマシン」のライダー達と動くようになったのもすごいなと思います。
やっぱりそういった同世代や近い世代の活躍は刺激になりますし、悔しいなとも思うので、もっと頑張ろうって思います。相乗効果でみんなでもっと上にいけたらいいですね。
あとヤバいっていえば、守重琳央の動きが日本人離れしてるなと思っています。おもしろいし、アメリカ行ったらすぐに気に入られそうだなって。最近、「タイトブースプロダクション」と動くようになって一緒に滑る機会が増えたんですけど、「このアプローチでココ入っちゃうの!?」とか、「このレールはこれがついてるけどお構いなしなんだ!」みたいな、そういうのがすごく多くて。みんながやらないようなところもガンガン攻めるから、スケールが違うんですよね。

ーーでは日本で今、五輪効果もあってスケートボードがブームになっている反面、ストリートに厳しい目が向けられていますけど、その点についてはどう思いますか?

山下:僕自身でいえば周りはあまり関係なく、これからも滑り続けるだけって感じですけど、なんかプッシュしてるだけで「おっ、スケボーやってる!」みたいな目で見られるのがちょっと小っ恥ずかしいのはありますね(笑)。でもたまにキッズに「写真撮ってください」とか「京之助さんですよね!? 」と声をかけられたりすることも増えてきたので、それは純粋に嬉しいです。

ーー最後に今や憧れの立場になったことで、これからのキッズに対するアドバイスと、今後の日本のシーンに対する思いを聞かせてください。

山下:楽しんで滑ることが一番だと思います。スケートボードに限らずなにごとも楽しくないと続けられないので。日本に関していえば、もっとスケートボードに対して寛容になってくれたら嬉しいですね。偏見とかがなくなってくれたら、スケートボードに限らずもっと良い社会になっていくんじゃないかと思います。今回はインタビューどうもありがとうございました!

山下京之助
2004年5月23日生まれ、東京都品川区出身。スケートボーダー。Instagramのフォロワーは、36.9万人(2022年1月現在)を抱え、世界的ネームバリューを持つ次世代スター筆頭株かつ、新時代を象徴するスケーターの1人。小柄で俊敏な動きでスムースなテクニカルトリックを次々と繰り出していたことから、海外では“Japanese Ninja”とも呼ばれており、愛くるしいキャラクターとともに抜群の人気を誇っている。スポンサーブランドは、「プリミティブ」「ラカイ」「イレイズド」「G-SHOCK」「ナッシング スペシャル」「スピットファイヤー」「モブグリップ」「ケント ハードウェア」「フィフティーフィフティー」
Instagram:@_kyonosuke_

Photography Yoshio Yoshida

author:

吉田佳央

フリーランスフォトグラファー/スケートボードジャーナリスト。1982年生まれ。静岡県出身。2010年にスケートボード専門誌『TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN』編集部に入社。約7年間にわたり専属カメラマン、編集、ライターをこなし、最前線のスケートシーンの目撃する。2017年の独立後は、日本スケートボード協会(AJSA)のオフィシャルカメラマンを務めている他、ファッションやライフスタイル、広告に至るまで幅広いフィールドで撮影をこなしながら、スケートボードの魅力を多方面に広めている。 https://yoshioyoshida.net/

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