コント作家オークラが語る、カルチャーとコントの融合を目指したあの頃と、お笑いシーンの現在地——後編

バナナマン、東京03、おぎやはぎ、ラーメンズ、バカリズム——日本を代表する東京のコント師達と共に過ごした青春の日々を綴った自伝『自意識とコメディの日々』(太田出版)を上梓した、コント作家オークラ。笑いの才能に溢れる同世代の芸人達と、作家という立場で関わりながら、目指したのは「カルチャーとコントの融合」だった。そんな彼の眼に映る、現在のお笑いシーンはいかに。

インタビュー前編では、現在のお笑いシーンからコント師と漫才師の違い、そして第6世代が持つ悩みについて語ってもらったが、後編では、「お笑い傭兵」論からカルチャーが融合されたコントへの思い、「そういう笑いは古い」という言葉への違和感、などを語ってもらう。

「お笑い傭兵」として呼ばれる芸人達

——芸人という存在が、テレビの世界に限らず、世の中でこれだけ影響力を発揮している状況については、どう感じていますか?

オークラ:いまやお笑いの能力が基本スペックになってますよね。ただそれも、結局はダウンタウンの影響下だとは思うんです。僕らは直撃世代ですけど、今の若い人達であれ、もとをたどればダウンタウンに行き着く。お笑い番組に限らず、全局の全時間帯の番組に芸人が出ているのが現状です。基本的に笑いを目的にしている番組は、視聴者を選びます。反対に、情報番組やクイズ番組、グルメ番組や街ブラ番組は全方位の視聴者に向けて作られている。今はその全方位的な番組にも必ず芸人が呼ばれるようになりました。

——なぜ芸人がこれほど全方位から呼ばれるようになったのでしょう?

オークラ:制作者だけでは作れない笑いの要素を埋めるためです。笑いの部分を担う専門家、いわば「お笑い傭兵」としてあらゆる番組に呼ばれる。でも、そういった番組の目的は笑いではなく、情報だったりクイズだったりするわけです。一方「M-1グランプリ」や「キングオブコント」といった賞レースでは、芸人の本道である“芸”を見せ、笑いのプロフェッショナルとしての存在感を発揮する。その賞レースで結果を残すと、次は笑いが目的ではない番組に「お笑い傭兵」として呼ばれ……という循環ができているんですよね。

——確かに循環はしていますが、それは芸人にとって理想の形なんでしょうか。

オークラ:悪いことではありませんが、「芸人として本来の目的は何だったんだろう?」と思い悩む人も多くいると思います。コントでも漫才でも、お笑い作品を作って見せることが目的だったはずじゃないの? っていう。バラエティ番組で笑いの要素を埋めることも高度な技術が必要な仕事ですが、でもそれは、お笑いの技術を別の目的に転用しているだけで、本来の使い方ではない。だって芸人を志す時に、例えば歴史を学ぶ番組とか食べ歩きの番組に「お笑い傭兵」として呼ばれることが目標ですっていう芸人はまずいないでしょう。

——ただ一方で、ネタ番組の数も増えてきてはいますよね。

オークラ:ある時期から、ショートネタを中心に、芸人がネタをやる番組は増えました。なぜネタ番組が増えたのか、それは番組の予算が減ったからです。

——大掛かりなロケや完成度の高い企画ものに比べると、ネタ番組は低コストで作れますからね。本業である“芸”を披露できるという意味では、芸人にとっても歓迎すべきことと言えるのでしょうか。

オークラ:芸を披露するとはいえ、特定のファンが観るライブとは違って、テレビは不特定多数に訴えるメディアです。なので、作り込まれたコントよりも、瞬間的に笑えるものが必要とされます。結果、芸人カタログ番組になっていく。バラエティ番組を作るスタッフにとっても、今どんな芸人がいて、どんなキャラクターなのかを一覧で見ることできるような。

——ネタ番組は「お笑い傭兵」のカタログということですか……。

オークラ:そうです。なので、ここ何年か、何度目かのお笑いブームと言われていますが、厳密には若手芸人ブームだと思います。それこそTikTokで何かのフレーズが流行ったり、新しいおもしろい人を見つけるような動きと一緒で。

——そういう需要のされ方だからこそ、テレビはもちろん、学校の教室だったり、広く社会の中で芸人の存在感が増しているんですね。

オークラ:でも僕がやりたいのは、芸人さん達も同じだと思いますが、お笑いをエンターテインメントとして成熟させていくことなんです。そのためには、ずっとお笑い傭兵として呼ばれているだけではダメだし、TikTokでフレーズをバズらせるだけでもダメなんですよ。

せっかくものすごい技術を身につけて、賞レースでも結果を残したはずなのに、現実にはそれがお笑い傭兵としての合格証にすぎないとしたら、あまりにもったいないですよね。テレビというメディアの性質上、仕方のない部分もありますし、不特定多数の人に向けた笑いも必要です。そこは芸人の意志だけではどうにもならないことでもあり。でもだからこそ、エンターテインメントとして成立しているお笑いも同時に必要で、僕らがそういう場を作っていかないといけないな、と思っています。

1970年代のはっぴいえんど、1990年代のバナナマン

——2001年に始まった「M-1グランプリ」は、2000年代以降のお笑い史における革命的な出来事だったの思うのですが。

オークラ:去年の「M-1グランプリ2021」で、芸人がステージに行くまでの通路が映されてましたよね。あそこで、神妙な顔つきで歩くコンビと、ちょっとふざけて歩くコンビの2パターンあったんですけど、大きくは吉本かそれ以外の事務所かの違いでした。このことが何を象徴しているのか。いまや「M-1グランプリ」という大会は、勝ち負けを競うお笑い賞レースとしての側面だけではなく、いかに感動的な物語が生まれるかが重要になっています。感動物語を生むコンテンツとして認知されたことで、人気もどんどん上がっていきました。ただ、何かが膨れ上がると、必ず対抗勢力、カウンターが生まれるのが世の常です。何年後になるのか、今の感動路線を否定するコンビが勝った時に、「M-1」は次のフェーズに入るでしょうね。

——今の「M-1」や「キングオブコント」の需要のされ方って、もちろんネタありきとはいえ、誰が勝ち上がるのか、という物語性のほうに傾いていますよね。

オークラ:おもしろいネタが見たいというよりも、新しいスターが誕生する瞬間を見たくてみんな追いかけているわけですよね。でも僕らにとって重要なのは、そこからいかに芸人達のネタを見るために、時間も作ってチケットも買ってくれる人達を増やすかっていうことなんです。なので、賞レースに向けて審査基準を研究したり、勝てそうなネタを作るという行為は、純粋にコントや漫才の成熟という観点から見ると、やっぱりズレてるんですよ。

——『自意識とコメディの日々』は、1990年代から2010年代までのお笑いクロニクルでありながら、その中心にあったダウンタウンや吉本芸人についてはあまり触れられていません。つまり、この本に書かれているのはメインのお笑いシーンではなく、あくまでカウンター文化の歴史である、ということですよね。

オークラ:僕もまわりの芸人も吉本ではなかったので、そもそも書けないというのもありますが、伝えたかったことは、ダウンタウンや吉本とは違うところで、もう1つのお笑いサブカルチャーがあって、それを作ってきたのは誰なのかってことなんです。これはもう僕が自分で書かないと誰も書き残してくれないので、歴史そのものがなかったことになってしまうという危機感もあって。

——マスなお笑いとしては、コントライブよりもテレビで、ひいては『めちゃイケ』があの時代のど真ん中でした。

オークラ:なので、『めちゃイケ』の関係者はもちろん、あの時代のお笑いシーンの中心にいた人達がこの本を読んだとしたら、端っこにあったインディーズの世界の話だと思うでしょうね。

ただ、規模や影響力はメジャーに比べると小さかったとしても、確実にあの時代、インディーズの中で生まれたコント文化があり、それを伝えていくことは自分の仕事として重要だと思ったんです。比べるのもおこがましいですが、いまや日本ポップスの大名盤と言われている、はっぴいえんどの『風街ろまん』も、発売された1970年代には決して音楽業界のメインではなかったと言われています。でも時代を経て、その価値が爆上がりしました。1970年代には生まれてもいなかった若い世代の音楽好きからすれば、もはや1970年代ははっぴいえんどの時代だったと思われるぐらいのものになっている。

自分達がそこまでになるかはわかりませんが、それでもちゃんと書き残しておくことは絶対に必要だと思ったんです。1990年代のお笑いシーンにおけるバナナマンやおぎやはぎやラーメンズを、1970年代の音楽シーンにおけるはっぴいえんどやティン・パン・アレー、シュガー・ベイブみたいに思ってくれる人達がのちのち現れたとしたら、こんなにうれしいことはないですね。

カルチャーが融合したシティボーイズのライブ

——オークラさんが影響を受けたカルチャーとして、本の中でシティボーイズのライブを挙げていますが、その系譜を受け継いでいる作家は育っているのでしょうか?

オークラ:僕がシティボーイズから影響を受けたというのは、シティボーイズのコントライブはポップカルチャーが融合した総合芸術だと思ったからです。詳しくは本に書きましたが、例えば1996年の『丈夫な足場』というシティボーイズの公演は、作・演出が三木聡さん、客演が中村有志さんといとうせいこうさん、そして音楽はピチカート・ファイヴの小西康陽さんの書き下ろし。もうこの座組みの時点で、ポップカルチャーが融合してますよね。

僕はのちに三木聡さんとは『トリビアの泉』というフジテレビの番組で少しだけ仕事を一緒にしたことがあるんですけど、三木さんはお笑いは当然として、音楽とか映画とかにやたら詳しいんですよ。やっぱりカルチャーが融合するコントライブを作っている人はそうだよなって。その視点で今の作家を見てみると、みんなお笑いのことばっかり話してますね。とにかくお笑いが大好きな印象。なので、僕がこの本に書いた「コントライブはポップカルチャーの融合だ」っていう話は、正直そこまで響いてないような気もします。もしかしたら、どこかにはめっちゃ響いてる作家もいるのかもしれないですけど。

——本のタイトルにある「自意識」については、若い芸人達はそこまでこじらせていないような印象を受けるのですが。

オークラ:芸人という道を選んだ人達ですから、今でも自意識はかなり強いと思いますよ。自分達が一番おもしろいんだ、っていう。ただ、お互いの悪口を言ったりはしなくなりましたよね。僕らの世代はとにかく同世代のライバル達の悪口を言いまくっていたんですよ。ライブのトークでも「一番つまらないと思うやつを発表しようぜ」みたいなノリが毎回ありました。

——今はコンビ間でも仲が良く、芸人同士が仲良くしている関係性も喜ばれていますよね。

オークラ:実際は仲が悪いコンビもたくさんいますけど、今のムードとしては、仲が悪いとあんまり人気は出ないですよね。ただこれも現状のメインというだけで、そのうちめっちゃ仲が悪いコンビが最高のネタを作って賞レースで優勝したりしたら、一気にそっちが主流になったりするとは思います。

——昨今、芸人が舞台裏や悩み相談をするような番組があまりにも増えていると思うのですが、この流れはどう見ていますか?

オークラ:ひとつには、単純にそのフォーマットが当たったから真似する番組が増えていった、というのがありますよね。これについては、もう供給過多になっていることに制作者達も気づいているので、オリジナルの番組だけが生き残って、フォロワーは淘汰されていくはずです。

ただ、もうひとつの要因としてあるのは、そういう番組って基本はラジオと同じ作り方なので、制作費がかからないんですよ。話す芸人だけいれば成立する。普通のバラエティ番組だったら、たとえトーク番組だったとしても、事前にアンケートを取って、なにかしら企画を考えて、どこかに取材へ行ったり、VTRを作ったりするんですけど、そこに割く制作費をテレビ局が出せないっていう体制としての問題がある。制作費があまりに低い番組は、企画を考える作家も雇えないし、外部のディレクターも雇えない、セットも作れないし、ロケにも行けない。そうなると、若いテレビ局員が自分で全部をやるしかなくなって、そういう番組が増えている、という。

「そういう笑いは古い」という言葉に対する違和感

——本の中で、当時はコントの教材がなかったという話が出てきますが、いまや「M-1」の予選から動画が配信され、YouTubeでいくらでもコントが見られるようになり、そういう意味で教材は圧倒的に増えました。

オークラ:そのことの影響はめちゃくちゃ大きいですね。比較する対象が膨大にあることで、笑いのパターンが一気に増えましたし、ネタに多様性が生まれて、何より若い芸人が完成されたネタを作るようになりました。そういう姿を見ていると、今の僕らが先輩としてやらなければいけないのは、やっぱりコントライブが商業的に成立して、ちゃんとお金を稼げるような土壌を作ることだなと、改めて思います。この前やった東京03の配信限定ライブ『拗らせてるね。』は、稽古場からライブを配信したんですけど、そういうチャレンジは続けていかないとなって。

——お笑いが民主化し、芸人の存在感が増すことで、好感度タレントとしての側面も強くなり、その流れの中で「傷つけない笑い」という言葉も生まれたと思うのですが、そのあたりについてはどう見ていますか?

オークラ:僕が気になるのは、容姿をいじったりすることに対して「そういう笑いは古い」っていう言葉が使われるじゃないですか。それって「古い」とか「新しい」の話でしたっけ? と思うんですよね。せっかく世の中をより良いものにするための動きなのに、なぜか自分が最先端でいることのアピールに使う人が多い。なので個人的には、最先端アピールのために「傷つけない笑い」とか「そういう笑いは古い」とか言い出す人の意見には耳を傾けたくないです。もちろん、世の中を良くするための意見ならちゃんと聞きますけど。

——フィクションとしての描写と、フリートークでの表現という根本的な違いが曖昧なまま批判されるムードもありますよね。

オークラ:それを如実に感じることが3年前にあったんですよ。まず前提として、僕は容姿いじりや差別的なネタはなくなったほうがいいと思っています。その上で、2018年に『東京03 FROLIC A HOLIC』という公演を作・演出した時に、物語の必然上、おぎやはぎに露骨に嫌な役を演じてもらったんですけど、そうしたら「こんなに嫌な奴が出てくるお笑いは見たくない」とか「全然楽しめない」っていう意見がけっこうあったんですよね。たとえコントの中でも、嫌な奴が出てくると不快に感じたり、楽しめない人が増えている。そこに対する危機意識は感じます。映画やドラマ、小説やコントの登場人物として、間違ったことをする人間や露骨に嫌な奴が出てくるのは当然あり得ることですし、コメディこそ、そういう人間を描くべきだと思っています。

オークラ
1973年生まれ。群馬県出身。脚本家、放送作家。バナナマンや東京03の単独公演の初期から現在まで関わり続ける。主な担当番組は『ゴッドタン』『バナナサンド』『バナナマンのバナナムーンGOLD』など多数。近年は日曜劇場『ドラゴン桜2』の脚本のほか、乃木坂46のカップスターウェブCMの脚本監督など仕事が多岐に広がっている。

『自意識とコメディの日々』

■『自意識とコメディの日々』
著者:オークラ
価格:¥1,760
発行:太田出版
https://www.ohtabooks.com/publish/2021/12/02143328.html

Photography Masashi Ura
Edit Atsushi Takayama(TOKION)

author:

おぐらりゅうじ

1980年生まれ。編集など。雑誌「TV Bros.」編集部を経て、フリーランスの編集者・ライター・構成作家。映画『みうらじゅん&いとうせいこう ザ・スライドショーがやって来る!』構成・監督、テレビ東京『「ゴッドタン」完全読本』企画監修ほか。速水健朗との時事対談ポッドキャスト番組『すべてのニュースは賞味期限切れである』配信中。 https://linktr.ee/kigengire Twitter: @oguraryuji

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