「M-1グランプリ2021」鑑賞記——「Life is beautiful」は漫才という営みへの賛辞

12月19日に開催された「M-1グランプリ2021」は、錦鯉の優勝で幕を閉じた。筆者は3回戦と準々決勝を各会場、準決勝をオンラインで観戦していたが、予選から波乱に次ぐ波乱だった。優勝候補が多数敗退し、初出場5組がファイナリストとして選出された。昨年勃発した「漫才論争」へのM-1としてのアンサーは、今回のファイナリストの選出をもってして行われたように見える。キーワードはおそらく「多様性」だ。この大漫才時代において、漫才にも多様性があり、そしてそれを大衆より先に、権威としてのM-1が認めるということに大きな意味があったことだろう。

加えてもう1つ、今大会のテーマとして期待されていたのは、キャッチコピーである「人生、変えてくれ。」 に象徴されるような、シンデレラストーリーとしての役割だ。M-1チャンピオン、あるいは爪痕を残したファイナリストの人生は、確かに決勝戦以前と以後でガラリと変わる。その役割は今に始まったことではなく、2010年までの「旧M-1」においても同様だ。M-1が権威である以上は、大会内で存在感を残すことや優勝することで漫才師として箔付けをされる。もちろんそれだけではなくテレビスターとしての人生を歩むきっかけにもなるのだ。そして今大会は、どちらかというと後者を期待され、「一発逆転劇」「地下からの逆襲」が強調された建付けであっただろう。そのようなテーマ設定で展開された2021年大会であったが、突然人生が変わるというよりは、長年の努力が結実した結果となった。M-1の予選までの思惑と微妙に乖離(かいり)している結論に着地した今大会について、決勝を振り返りながら詳しく見ていこう。

決勝戦で特徴的だったのは、何よりも前半と後半で空気が一変したことだった。特に6番目のオズワルド以前と以後でまったく会場のボルテージが異なっている。2019年、2020年の決勝戦において、自身の出番のあとの空気を落ち着かせるという意味で「おくりびと漫才」などと一部で揶揄されていたオズワルドが、今回は起爆剤となった。過去には「静かな東京漫才」と呼ばれたかと思えば、逆に「声を張り過ぎている」とも言われ、静か動かのはざまで悩んでいる時期もあったように思われたが、彼らが出した結論は、静から動への意識的な接続と、その絶妙なダイナミズムだった。それが大きな爆発を生み、評価され、ファーストラウンドにおいての最高得点である665点を叩き出した。落ち着いたムードの大会が一組のコンビの躍進で大会自体のうねりを生む。この現象は2019年大会決勝のかまいたちによるものが記憶に新しいだろう。このうねりが発生することで以後の出番のコンビが跳ねやすく、そしてパフォーマンスがしやすい空気となる。これが出順が重要だと言われている大きな理由である。実際に、オズワルドが生み出した熱は、ロングコートダディ、錦鯉、インディアンスへと引き継がれていった。かつては静的漫才の象徴だったオズワルドが今大会の一番熱を帯びた瞬間を作ることとなることなど誰が予想しただろうか。劇場での彼らは、ただ舞台数をこなすだけではなく、あらゆる手法、そしてパフォーマンスの試行錯誤を繰り返していた。その努力が1つの到達点を迎えた瞬間だっただろう。もちろん作品としてネタが評価されるのも重要なことではあるが、結局のところパフォーマンスにも大きく依拠するのだと思い知らされた。

逆に大会自体の方向性、厳密には決勝の方向性が定まる前の前半組においては、パフォーマンスが上手くハマらないというもどかしい現象も起きる。今回のみならず、特に決勝戦における前半のハマらなさは、決勝自体の方向性が未設定ゆえの手探り感によるものであり、後半のハマらなさはその方向性とのズレによるものと解釈できる。その意味において、ゆにばーすはネタ、パフォーマンスともにスキルの高さを見せつけることに成功していたが、なぜか後一歩という評価で着地してしまった。これは決勝戦自体の方向性が未設定の前半の出番であったがゆえに発生する事象である。

また同じく前半組であり、ニューフェイス、多様性という側面で期待されていた存在のモグライダー、ランジャタイ、真空ジェシカは、予選までのテーマ設定とは解釈が一致している出場者であった。しかし決勝においては、予選やファイナリスト選出までのテーマ設定は一度リセットされる、ということを体現した形となった。予選と決勝では、審査員も観客も視聴者の層の厚さも異なるので当たり前なのだが、決勝は決勝の自然発生的なテーマで進行することとなる。これを勝ち抜くには予選までの空気を信じながらもリセットされることを理解し、さらにテーマを自分から再設定できるような存在になる必要がある。

逆に後半組であるロングコートダディ、ももは、ネタの構成も内容もおもしろく、完成度も高く、場の空気自体もコントロールできるネタ運びであり、実際に評価もされていたが、今回の決勝で作られてきた解釈とは不一致となってしまったと考えられる。特にロングコートダディはこの1年でのネタ調整の努力がすさまじく、準決勝敗退となった昨年の反省をもとに、より良いネタ、パフォーマンスを目指していた印象である。具体的には観客の感情移入をしやすいように、ヘイトバランスを細かく調整し続けていた。その結果が正当に評価されファイナリストに選出されたが、決勝の方向性においては逆に外連味がもう少しほしいという印象につながってしまったのかもしれない。ももも同様に、結成して以来毎日ネタ合わせを行っているからこそ、流暢さからもう一歩、緊張以外のフックを求められたのだろう。

すなわち、理論上のM-1攻略法としては自らがテーマを設定できるくらいの強度があるか、あるいは設定されたテーマに当てはまるパフォーマンスができるかを検討することだと考えられる。しかしそれだけでは優勝はできない。ここで最後の最後に自分自身の思想を示せるかが重要な決め手となる。

今回の決勝でのテーマとしては、静から動へのダイナミズム(奇しくも決勝自体の構成そのものと同じである)、あるいはひたすらにアッパーなところでテンションが維持される表現、というもののように見えた。しかしそこに1つ欠けていた――しかし絶対に必要だった――ピースを最後にはめたコンビがトロフィーを手にすることになった。

錦鯉が最後に見せたもの、それは神々しさである。

地下からの這い上がり、人生を変える努力……それらの泥臭い心意気は予選から決勝に至るまでに十分に示されてきたM-1側からのテーマだった。しかしM-1の歴史の中で、もっとも重視されてきたのは、漫才に尊さを与えることだったはずだった。それは権威と言い換えることもできるかもしれない。かつてはクラスの人気者がお笑い芸人を夢見たが、現代では大学お笑いの隆盛にも見られるように、意識や感度の高い若者が目指すところとなり、お笑い芸人はもっともリスペクトされる職業の1つとして世間に認識されている。そんなお笑い芸人の中でも、丸腰で舞台に向かう漫才師は特別な存在である。憧れているだけでは漫才師にはなれないし、漫才師であることを維持できないのだ。漫才をしていないと漫才師ではいられない。だからみんなM-1に出場するし、戦う季節を過ぎてもどうにかして人生の終わりまでマイクの前に立ち続けたいと願うのである。

お笑い芸人、ひいては漫才師を特別な存在としてきたのは、新旧合わせたM-1グランプリの歴史の積み重ねによるものだ。過去の出場者達の鬼気迫った勝利への執着、すなわち「ガチ」さがぶつかることで、想像以上の力学が働いて誰も予測できない展開を見せ、その様子に人々は夢中になっていった。もはや誰の手にも負えないもの、予想できないもの、それは神の領域であり、尊さそのものだった。尊さゆえにM-1は多くの漫才師やそのファンに甘い夢を見させ、あるいは残酷な地獄に落とすのだった。

錦鯉のネタは簡単に言うとおバカ系とカテゴライズすることができるだろう。これは一見、尊さとはかけ離れているように思える。しかしファニーさを突き詰めた先にあるのは狂気、そしてさらにその先に見えるのが神々しさである。ファイナルステージの錦鯉の漫才のオチ、まるで成仏させるように寝かしつけてからの「Life is beautiful」に象徴される、生と死のはざまで行われる漫才という営みへの賛辞は、漫才自体、そしてM-1に再び権威を吹き込んだ。「多様性」「地下からの逆襲」「ニューフェイス」というポップでキャッチーではあるがいささかあざとく見えがちなテーマにより奥行きを失っていたM-1は、彼らの優勝の瞬間に神性を帯びたのだった。

記録に残るネタは記憶にも残る。歴史に刻まれているチャンピオン達のネタは、必ず爆発ポイントがあり、そこを切り出した編集をするだけで当時の空気を思い出させるほど印象深い。錦鯉もこの流れの中で語り継がれる存在となるはずだ。そして何より重要なのは、これは50代であったとしても漫才を続けていたからこそもたらされた明るい未来だと、多くの漫才師が目の当たりにしたことだった。彼らは希望を見ただろう。

さて、ここでファイナリスト最後の1枠を決める戦い、すなわち敗者復活戦について言及する。当日の14:55より六本木ヒルズアリーナの野外ステージで行われていた敗者復活戦で、最後のファイナリスト1組が選出された。今大会ではラストイヤーのハライチが国民投票により選出された。先述のとおり決勝戦の出順は大会の結果に大きく影響するものであるが、敗者復活戦の勝者が呼び出される瞬間は決勝戦の緊張は緩和し、お祭りムードとなる。極寒の野外からの熱気を纏い会場に向かってくる生還者により、決勝のステージはさらに独特の雰囲気となる。

筆者は前日の18日、大阪なんばの「よしもと漫才劇場」の寄席を見に行っていた。ファイナリストのロングコートダディ、もものほかに、敗者復活戦出場の見取り図、ヘンダーソン、マユリカ、からし蓮根、カベポスターが出演しており、翌日に向けての最終調整を行っていた。その寄席では全員ウケていたのに敗者復活戦ではあと一歩のコンビもいれば、勢いそのままのコンビもいた。しかし結果としては、このメンバーからは誰も敗者復活戦を制することができなかった。決勝には決勝の勝ち筋があるのと同様に、敗者復活には敗者復活の対策法があるはずなので、それを探る難しさという壁にぶち当たった印象である。敗者復活戦出場が初めて、あるいは久々の出場者にはナレッジが蓄積されていないので、極めて難しい戦いとなる。仮に過去に決勝戦で善戦したことがあったとしても、敗者復活戦は決勝、あるいはここまでの予選ともまったくの別理論で進行するためである。

そして今回のハライチのように敗者復活戦で勝ち上がったとしても、敗者復活戦の空気や評価軸を抱えて決勝の場に行くことになるため、決勝の空気感と微妙に噛み合わない印象となる。民衆の総意である敗者復活者であるならば勢いそのままに決勝の場をハックできるかもしれないが、特に票が割れているように見える今回のような場合は(2位の金属バットと僅差だった)、敗者復活からの優勝、あるいは善戦は難しいのかもしれない。その意味で、2015年の敗者復活戦を制したトレンディエンジェルが優勝したのは、復活後初めてのM-1および敗者復活戦だったため、蓄積されたナレッジがなかったことが功を奏したからと思われる。

ここまで駆け足でM-1グランプリ2021決勝の総括を行ってきた。決勝のみならず予選、そして予選のみならず劇場では、たくさんの漫才師が各々の気持ちと意志を込めた漫才を行い、客席を笑わせている。重要なのは、チャンピオンだけが漫才をし続けることを許されるのではないということだ。逆にこれまでのチャンピオン17組しか漫才師を続けられないなどという馬鹿げた話があってたまるものか。どんな結末だったとしても、人生は続いていくのだ。それぞれの漫才師にはそれぞれのM-1があり、そしてそれぞれの漫才師人生がある。M-1にエントリーしようがしまいが、そして結果を残そうが残せまいが、これからもずっと漫才をしてほしい。どうか胸を張ってほしい。前を向いてほしい。そして遠い未来までずっと劇場に立ち続けてほしい。深く皺が刻まれた顔で、M-1戦士だった頃のことを懐かしみながら、屈辱も栄光も笑いに変えてほしい。大漫才時代を漫才師達とともに生きたことが、多くのお笑いファンにとっての誇りなのだから。

author:

手条萌

会社員兼評論作家。広島県尾道市生まれ。『カレーの愛し方、殺し方』(彩流社、2016年)で商業デビュー。お笑い系の『ゼロ年代お笑いクロニクル おもしろさの価値、その後。』や『2020年代お笑いプロローグ 優しい笑いと傷つけるものの正体』『漫才論争 不寛容な社会と思想なき言及』のほか、『ポストおひとりさま時代の遊戯論 非生産的遊びのススメ』や『推しが結婚するということ』『ガチ恋リアコの構造 好きにならずにはいられない』など多くの同人誌を発行している。 Twitter:@tejoumoe

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