映画『ドライブ・マイ・カー』、その滑らかさが隠すもの

3月28日(日本時間)に発表される第94回アカデミー賞。濱口竜介監督による映画『ドライブ・マイ・カー』は作品賞や監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門でノミネートされていて、受賞できるかで注目を集めている。発表を前に本作について、批評家の伏見瞬にコラムを依頼した。

※文中には映画のストーリーに関する記述が含まれます。

濱口竜介が監督した映画『ドライブ・マイ・カー』が、2021年カンヌ映画祭の脚本賞を獲得し、2022年のアカデミー賞4部門にノミネートされた。アカデミー作品賞へのノミネートは、日本人監督作で初のことである。濱口は優れて野心的な映画を作り続けている作家であり、本作が広く世界に受け入れられたことは、まずもって歓迎すべきことだ。しかし私はむしろ、『ドライブ・マイ・カー』に覚えた違和感を、ここでは強調したいと思う。大きな評価を得ているからこそ、1つの声として、違和感を書き留めておきたい。

本作は、男性が自分の弱さを認め、受け入れることを主題にした映画だと考えられている。 映画の中で発される言葉を借りれば、「正しく傷つく」ための映画。 物語としては、西島秀俊演じる演出家・家福(かふく)が、『ワーニャ伯父さん』上演への向き合いと三浦透子演じるドライバー・みさきとの接触を通して、亡き妻への複雑な感情と自分の弱さを認めるという筋書きを持つ。車の座席位置の変化やタバコを吸うシーンの反復によって、2人の精神的距離の変化が演出されてもいる。しかし本当に、『ドライブ・マイ・カー』は主人公が弱さを曝け出し、他人との距離を変えていく映画なのだろうか。むしろ、人間同士が抱える軋轢を、隠蔽している映画なのではないか。

『ドライブ・マイ・カー』が持つ滑らかさ

隠蔽の内実を言葉に換える前に、本作が何かを隠せるほどの豊かさを獲得していることをまず述べるべきだろう。『ドライブ・マイ・カー』という映画全体から伝わってくる質感を一言で表すなら、それはスムースさ、滑らかさだ。主に撮影と音響によって、滑らかさは形成される。四宮秀俊によって撮影される、上方から車を映したロングショットの繰り返し。中央高速道路や広島の国道を進んでいく真っ赤なサーブ900を、四宮は実に滑らかにフレームに収めていく。あるいは石橋英子が作曲し、ジム・オルークや山本達久といったバンドメンバーと共に演奏したサウンドトラック。石橋達は、バート・バカラックとシカゴ音響派の中間のような(あるいはプエンテ・セレステやアンドレス・ベエウサエルトなどのアルゼンチンのコンテンポラリー・フォルクローレを想起させる)愁いと体温を帯びた音楽を、ブラシで叩くドラムやウッドベース、ピアノやアコースティックギターを駆使して滑らかに伝える。映画開始から40分ほど経過したタイミングで挟まるオープニング・クレジットでは、車の撮影と音楽の響きが重なる。そこに浮かび上がるのは、暑くもなく寒くもなく風も強くない秋晴れの日のように、ありふれているようで実はとても貴重な心地よさだ。さらに、整音を担当した野村みきは、伊豆田廉明が録音した俳優の声や周囲の具体音と、石橋英子による音楽を自然に溶け合わせている。作品内の重要なモチーフである、カセットテープに録音された『ワーニャ伯父さん』の朗読も、しなやかに響く。映画全体が、肌をそっと撫でる細い指のごとき、途方もない滑らかさを有している。

脚本にも、滑らかさがある。前述の通り『ドライブ・マイ・カー』は、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』の舞台の稽古とともに進行していく。舞台が上演されるまでの過程と、家福が喪失感に向き合う過程が同時進行するのも、観客に物語を滑らかに伝える工夫だ。『ワーニャ伯父さん』をはじめとするチェーホフの戯曲は欧米で古典として知られており、日本の演劇界でも上映機会は多い。『ワーニャ伯父さん』の、後悔を抱えて自暴自棄になる中年男性ワーニャを、不器量であるがゆえに世俗的な幸せに恵まれない姪のソーニャが支えるという関係性は、映画内の家福とみさきの関係に反映している。文脈が与えられていることで、『ドライブ・マイ・カー』の物語はグッと飲み込みやすくなる。特に、日本の風土を知らない(例えば、本作の舞台である東京・広島・北海道の地理的・文化的距離感を掴めない)海外の観客にとっては、大きな助けとなるだろう。本作が179分という比較的長尺のランニングタイムを持ち、豪華な映像や重厚な音楽や派手なアクションを使ったスペクタクルを欠いているにも関わらず観ている間に退屈を感じないのも、撮影・音響・脚本に通底する滑らかさが一因にある。

思えば、2020年アカデミー作品賞の『パラサイト』も、2021年作品賞の『ノマドランド』も、映像と音とストーリーが滑らかに連携する映画だった。作風は異なるが(例えば撮影の点では、『パラサイト』は奥行きを強調した撮り方、『ノマドランド』は横長の景色と人物のアップを特徴としている)、時間を忘れるほどの滑らかさは共有している。アジア系の監督という点も、両作と『ドライブ・マイ・カー』の共通点である。滑らかな時間感覚とアジア系監督を昨今のアカデミー賞の傾向だと考えるのなら、『ドライブ・マイ・カー』がアカデミー作品賞にノミネートされたのも道理に思える。

滑らかさに隠されたもの

本作の滑らかさは、映画の伝統を考えても、観客との関係を考えても、賞レースに紐づいた興行の成功を考えても、美点だと言えるだろう。しかし、上質な絹のごとき滑らかさは、映画内に含まれるヒリヒリした人間関係やゴツゴツした自我意識を覆い隠している。『PASSION』にせよ『親密さ』にせよ『ハッピーアワー』にせよ『寝ても覚めても』にせよ、濱口竜介の監督作品には、人間同士のバランスが崩れて、押しとどめていた感情が溢れ出すような瞬間があった。『寝ても覚めても』では、登場人物の1人が出たチェーホフ劇の映像を観ることをきっかけに、仲睦まじく会話していた4人の男女が突如喧嘩腰でぶつかり合うシーンがある。そこには、人間関係の重心が突如変化するような、目に見えない動きが感じられた[1]。アントン・チェーホフ自身も、人間関係が強い軋みを伴いながら変化する様を言葉にする小説家・劇作家だった。それに比べると『ドライブ・マイ・カー』は、人間同士が相互変容を遂げるようなダイナミズムを欠いている。

[1] 三浦哲哉は著書『『ハッピーアワー』論』(羽鳥書店、2018年)の中で「重心」というキーワードを用いているが、濱口竜介の映画全体において、「重心」の変化は大きな効果を持っている。

とはいえ『ドライブ・マイ・カー』でも、岡田将生演じる若き俳優・高槻が車の中で家福と会話する正面からの切り返しのシーンなどには、人間関係が突如変貌するような不気味さが漂っており、実に濱口映画的な気まずい気配を漂わせている。ただ、ここで無視できないのは、ドライバーのみさきが蚊帳の外に置かれていることだ。高槻と家福は亡き家福の妻・音をめぐる緊迫した会話を繰り広げているのだが、みさきは気まずい会話を無言で受け入れている。家福にしても、「彼女なら大丈夫だ」と、みさきを会話内に入ってこないものとして扱っている。今までの濱口映画では、3人以上の複数の人間が1つの場に居合わせれば、そこに全体のバランスが崩れる変化があった。しかし、三浦透子演じるみさきは、人間関係に立ち入らない人物であり続ける。家福との最初の会話でも、韓国人夫婦との食卓でも、みさきは空気のひりつきを柔らかく吸収する。そして、家福が弱さを見せ始めると、みさきは釣り合いを保つように自分の過去を語り出す。みさきは、家福をどんな形であれ受け止めてくれる、クッションの役割を果たしている。彼女のクッション的柔軟性に、家福は慰めを見出す。つまり、本作において家福は弱さを受け入れるなどといった変化を遂げているのではなく、みさきという便利な優しさに甘えているだけではないのか。映画の最初から終わりまで家福という人物は、女性を都合の良いファンタジーとしてしか見ていないのではないか。みさきの故郷である雪山で家福がみさきと抱き合うシーンには、家福にとっての都合の良さが感じ取れる。そこでの抱擁は、互いの精神が呼応したものには見えない。雪山の景色を斜めに横切る鳥の偶然的な姿が美しいだけに余計に、都合良さが際立ってしまう。

そもそも、家福の妻・音が性行為の後に物語を語り出すという設定にも、女性へのファンタジーが滲み出ている。このような指摘をすると、村上春樹の原作に原因があると考える人もいるかもしれない。確かに村上の小説は、兼ねてから女性への幻想が強いと批判されてきたが、本作の脚本のうすら寒さは原作者のせいではない。音という人物の性格造形は、「ドライブ・マイ・カー」という短編小説に出てくる、不貞を繰り返し、やがて病気で亡くなってしまう妻と、「シェエラザード」という短編小説に出てくる、何らかの理由で外に出られない男の世話をして、性行為の後に物語を語り出す見ず知らずの女とを、脚本家達が合成させてできたものだ。不貞をして裏切る美しい妻にも、セックスと物語がセットになった素性を知らない女にも、違和感は感じない。しかし、妻がセックスの後に物語を語り出すという設定には、違和感が付随する。20年以上の歳月を共にした身近な女性に遠い神秘性を見ている、映画内の錯誤的なファンタジーに、うすら寒さを覚える。

映画が撮影と編集を観る芸術形式だとするならば、脚本や人物造形の違和感なんか無視してしまってもいいじゃないかという意見もあるだろう。本稿に対して、物語にばかり気を取られていて映画の本質を無視していると、考える人もいるかもしれない。だが、この映画の場合、映画自体の演出が物語の流れと密接に絡まっており、物語を簡単に無視することはできない。

家福による『ワーニャ伯父さん』の稽古は独特だが、濱口の映画についていくらかの知識を有する者にとっては、馴染みのあるものだ。家福は、戯曲のテクストを、感情を排してただただ正確に読むことを俳優達に要求する。何度も何度も、繰り返し読む。「本読み」と呼ばれる一連の作業は、濱口が『ハッピーアワー』以降実際に導入したと語っている方法と同じだ。つまり、フィクション内の家福の演出は、実際の濱口の演出と重なっている。

映画の中で、「本読み」は演技の相手の言葉をより深く聞き、より深く反応するための手段として語られている。だとすれば、「本読み」による演出は、共に演じる相手との関わりが重要になってくる。稽古の終盤で、ワーニャ役の高槻がある事件を起こすことで劇に参加できなくなる。俳優同士の関係性に多くを負っている家福の演出において、1人の俳優がいなくなることは、全体の関係性が大幅に崩れることを意味する。別の俳優が入って立て直すのは容易ではない。映画を観ている誰もが予想するように、代わりにワーニャを演じるのは自身が俳優でもある家福だ。演出家として稽古にかかわったとはいえ、その後の稽古は大きな困難を迎えるはずだ。だが、『ドライブ・マイ・カー』において、高槻が退場したあとの稽古は一切描かれない。かわりに描かれるのは、家福とみさきがみさきの故郷まで車で行く、広島〜北海道間の移動行程だ。ワーニャ=家福の再生を映し出すことが、劇の困難な立て直しの代わりになる。しかし、先程も述べた通りこのシーンは、家福がみさきという精神的クッションにもたれるところで終わりを迎える。家福が涙を流してみさきと抱き合うシーンには、人間の相互的な影響を感じ取れず、家福の一方的な解決に思える。個人的な精神の危機を救うために他人にもたれかかること自体が、責められるべきだと言っているわけではない。本作における、人間の相互的な作用に賭ける演劇の制作過程と、家福の個人的なドラマは重なり合っていないではないかと言いたいのだ。家福の物語は『ワーニャ伯父さん』から乖離しており、劇の上演が蔑ろになっている感覚すら残る。

故に、映画の山場となる上演シーンには空疎さが持続し、家福の演技もどこか芝居じみている。声を張り上げる西島秀俊の姿から、変化は掬い取れない。舞台裏で机に腕をついて息を乱すショットも、妻の死の直後に家福が演じたワーニャの姿と重なって見えてしまう。濱口自身の言葉を借りれば、そこに「はらわた」から響く声が感じ取れないのだ[2]。演劇自体が古風で味気ない新劇のように見えるし、今までの「本読み」は何だったのかという気分に苛まれる。確かに、最後のソーニャの長台詞を韓国手話で語るパク・ユリムは素晴らしい(特に息をパッと吹く動作は本当に素晴らしい)が、彼女はオーディションでも公園での立ち稽古でも力強い姿を見せていた。つまるところ、最後の劇の本番のシーンに、役者達の相互変容は掴めない。パク・ユリムの手話を前にして涙を浮かべる、西島秀俊の姿を映すのみだ。だから『ワーニャ伯父さん』の上演も、みさき同様に、家福の慰めとして使われている感が否めない。それは結局のところ、家福が他者を他者として受け入れて「正しく傷つく」ことが、最後まで為されていない事実を意味するのではないか。本作が映し出すのは、家福の「変わらなさ」だ。そして、本稿の前半で指摘した『ドライブ・マイ・カー』の滑らかさは、「変わらなさ」を隠蔽するための機能を見事に果たしている。

[2] 濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、2015年、p53

他の監督の映画であれば、「変わらなさ」の隠蔽も、それほど気にならなかったかもしれない。「ちょっと都合のいいストーリーだけど、映画として良いところはたくさんあるな」で済んだかもしれない。先述した「滑らかな」場面以外にも、本作には素晴らしいシーンがいくつも存在する。フレームギリギリに収まったサーブ900に少しずつカメラが接近していくショットや、広島国際会議場前の噴水(祈りの泉)が吹き上がる3回のショットなど、感嘆を覚えた場面を挙げればキリがない。それで十分じゃないかと思うかもしれない。だが、濱口竜介の映画は、隠蔽されているものを晒し出すことで生まれる変化、あるいは変化の兆しを捉えることに重心を置いていたはずだ。変えられない痛みや醜さは、痛みや醜さのまま映そうとしていたはずだ。それが濱口の信念、いや、信仰だと私は感じていた。だからこそ、本作における都合の良い独りよがりを、やり過ごすことができない。断片を取り出せば本当に優れた作品だと思うからこそ、全体の流れから感じ取った違和感を無視できない。

もしかしたら、私は濱口の過去から見出した幻想を、濱口の現在に押し付けているだけなのだろうか。そうかもしれない。だとしても、今までの濱口作品と『ドライブ・マイ・カー』が根本の部分で異なること、そしてそれによって強く違和感を抱いたことは、指摘しておきたかった。大勢に受け入れられる作品であればこそ、作品から受けた傷をやり過ごすべきではない。なにか大切なものが、『ドライブ・マイ・カー』の中では隠され、排除されている。私はどうしてもそう感じてしまう。そのことに、「正しく傷つく」必要がある。

author:

伏見瞬

東京生まれ。批評家/ライター。音楽をはじめ、表現文化全般に関する執筆を行いながら、旅行誌を擬態する批評誌『LOCUST』の編集長を務める。11月に『LOCUST』最新号vol.4が発売予定。主な執筆記事に「スピッツはなぜ「誰からも愛される」のか 〜「分裂」と「絶望」の表現者」(現代ビジネス)、「The 1975『Notes On A Conditional Form』に潜む〈エモ=アンビエント〉というコンセプト」(Mikiki)など。 https://twitter.com/shunnnn002

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