「過去」の人であり「未来」の人だった三宅一生
三宅一生が亡くなった。訃報が届いたその日、世界各国のファッション関係者からお悔やみの言葉がソーシャルメディアに上げられた。偉大なデザイナーであったこと、革新的であったこと、三宅一生本人との個人的な出会い。ありとあらゆる称賛がそれぞれの思い出と共に語られた。しかし、三宅一生と直接仕事で関わりの無い、一介のファッション業界の人間としては、いくつかの表層的な弔辞に違和感を感じたのも事実である。結果的にどれも三宅一生の仕事を捉えきれているような気がしなかったからだ。このテキストはその違和感を言語化するために書いている。これが三宅一生の輪郭を1つ描き出し、日本のクリエーションにとってプラスになることを願っている。
ファッションデザイナーから発明家へ
三宅一生は日本の業界人にとって思い入れの深いデザイナーだ。一方、若い世代にとっては名前を知った時点ですでに「過去のデザイナー」だった。それは決してネガティブな意味ではない。むしろその特異な革新性によって三宅一生は早い段階で自ら過去の人となり、イッセイ・ミヤケはシンボルとなったからである。彼の革新性は主に3つある。
まず1つめの革新性は、言わずもがな彼がファッションプロダクトの発明家だったことである。ファッションデザイナーとしての三宅一生のキャリアは、1994年のプリーツ以前とプリーツ以後に別れる。高田賢三がオリエンタリズムの眼差しで受け入れられながらパリの地に拠点を置き「パリのデザイナーとして」活躍する中、三宅一生は日本を拠点に活動した。そして結果として、日本を拠点とする日本のブランドがパリで認められるきっかけを作ったのが彼だった。プリーツ以前のクリエーションは自身の日本のアイデンティティに、現代アートのアイデアを取り入れ、新しい身体性を追求するものだった。高田賢三と異なり、現代アートのアイデアとコラボレーションすることで「東洋人が作るもの」というオリエンタリズムへの眼差しを中和し、現代ファッションを創造することに心血を注いでいたと筆者は考えている。これは現代の東洋人のデザイナーが今も抱える脱構築のテーマである。この脱構築の取り組みは三宅本人が耕し、受け入れられる土壌が現地に醸成された後、川久保玲と山本耀司らによって回収されることとなる。「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」という、江戸の落首があるが、日本人デザイナーによるファッションの脱構築の文脈で言えば、高田賢三が織田にあたり、羽柴であったのが三宅一生だった。
実際、三宅一生自身のこのクリエーションの方向性はプリーツの発明以後に変わる。そしてこれ以降の三宅一生が実に面白いのである。三宅の服作りに貫かれる思想で有名なものが「一枚の布」である。これは東西を問わず、身体とそれを覆う布、そのあいだに生まれる空間の関係を、根源から追求するといったコンセプトであり、このテーマを糸からの素材開発から掘り下げて服を作ることが探求されていた。具体的なワンコンセプトでプロダクトを作り続けるというのは、ファッションブランドでは三宅一生が初めてだっただろう。この流れで1988年頃から始まった研究が結実し、1994年に「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ(PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE)」のブランドが生まれた。プリーツを使ったドレスは、ヴェネチアを拠点として活躍した画家であり衣装デザイナーのスペイン人のマリアノ・フォルチュニ(1871~1949年)によって過去に生み出されていたものだ。三宅一生はフォルチュニのドレスのアイデアを、素材開発と生産体制を整えること(宮城県にある白石ポリテックス工業が協力)で量産可能な1つの現代のプロダクトとして再解釈したのだ。
プリーツ以後、通常のデザイナーが行う、パリのファッション史の文脈をシーズンごとにアップデートする螺旋から逸脱し「長く親しまれるファッションプロダクトの発明」という新たなファッションデザインの文脈を生み出したのが彼の大きな革新性である。この発明家としての三宅一生の立場を不動のものとしたのは「A-POC(エイポック、 A Piece Of Cloth)」だ。コンピューターで制御して布の段階で衣服を仕上げる「A-POC」は、1998年に入社4年目のスタッフだった藤原大(後に「イッセイ ミヤケ」ブランドのディレクションを担うこととなる)と三宅一生本人が主導で立ち上げたプロジェクトだった。
1999年にパリのランウェイで発表された「A-POC」の前進となるコレクションによって、「イッセイ ミヤケ」はランウェイを毎シーズン単に発表するファッションメゾンではなく、プロダクトを開発し発表するブランドであるということを世界的にイメージ付けた。一方、その代償に「ファッション」の文脈では最高点に達し、自らを「既存のファッションの文脈」では前に進めることを困難にしたとも筆者は考えている。「プリーツ」や「A-POC」レベルの発明を半年ごと、あるいは毎年ランウェイで展開するのは不可能である。長くいつまでも着られるデザインは流行り廃りを超えたプロダクトでありながら、毎シーズン変化を求める「ファッション業界」とは相容れなかった。革新的な発明も見慣れてしまえば「新しさ」だけに着目するメディアや人々にとって過去のものでしかないからである。その一方で、その発明が故に三宅一生は1人のデザイナーの名前を超えて、「イッセイ ミヤケ」の記号として世界に認知され続けるのだった。
行動家であり、啓蒙家であった三宅一生
三宅一生の2つ目の革新性はファッションの価値を日本国内、海外の文化人、そして大衆に周知させたことだ。今でこそファッションが現代美術やプロダクトデザインの文脈で語られることも多くなったが、三宅一生がファッションを志した当時、これは「洋裁」として認識されていてデザインと見なされていなかった。彼は服飾デザインの社会的立場の向上にエネルギーを注いだ。一枚の布のワンコンセプトでプロダクトを生み続ける現代美術家のような考えを打ち出し、ルゥーシー・リー(Lucie Rie)や田中一光、そしてアーヴィング・ペン(Irving Penn)といったアーティストやデザイナーと行った協業は、今でいう「コラボレーション」というより他領域との「接続」によってファッションを底上げしようとした行為、むしろ「世間のファッションに対する認識をデザイン」しようとしていた、と見たほうがクリアな見通しな気がする。「イッセイ ミヤケ」の服は彼が全盛期の当時から女優や俳優といったセレブリティのみならず、建築家の磯崎新やスティーブ・ジョブズをはじめ国内外の数々のクリエイターや文化人によって好まれる服となったが、これは彼の接続したコミュニティと、文化性の結果に他ならない。先駆者の高田賢三はファッションデザイナーだったが、いつからか三宅一生は「イッセイ ミヤケ」の世界観に共感する人々へのユニフォームを提供していた。そしてこれはファッションの文化的認知向上なしにはなし得ず、その後も「ユニフォームを作る」というデザイナーの無意識は後世のデザイナーに継承されている。
こうして異分野のコミュニティへ接続する彼の革新性を支えていたのは並外れた行動力だった。その片鱗はまだ22歳の多摩美術大学の学生時代に1960年に開かれた「世界デザイン会議」に対して「ファッションをなぜデザインの領域に含めないのか?」と質問状を出したことにも表れている。大学を卒業し、その後に日本を飛び出して、1960年代にパリのサンディカで学び「ジバンシィ」のアシススタントを務めたと聞いてもそのすごさはあまりピンと来ない人もいるかもしれない。今では日本人が、ファッションの名門大学などを経て、LVMHやケリングといった会社で働いているといったケースも珍しいものではないし、ファッション業界の外でもアメリカのシリコンバレーのテック企業であるGAFAMやTESLAをはじめ数々の最先端の企業に就職している話を耳にするようになっているからだ。1960年代当時の「ジバンシィ」はオードリー・ヘップバーンに衣装を提供し、オートクチュールのトップメゾンを作り上げていた。日本人がまだ珍しかった時代のパリを訪れ、そのトップメゾンの門戸を叩いてアシスタントを務めた後、既製服に可能性を見出してアメリカへ渡りジェフリー・ビーンと仕事をし、事務所を立ち上げておよそ4年弱でパリに進出して国際展開を行うなど行動力が並外れている。ファッションを志したカニエ・ウェストとヴァージル・アブローがアントワープまで行ってラフ・シモンズの門を叩いたことが業界ではニュースとなったが、三宅一生も同様に独自の嗅覚で自分にとって必要な場所に自らを運び、ドアを叩き、周りを巻き込むのに長けた人だった。
人を集めて、育てた経営者としての三宅一生
最後の3つ目の革新性は彼の経営者としての姿である。会社を経営的に潤したマネードライバーとなる、香水ブランド「ロードゥ イッセイ(L’EAU DE ISSEY)」、そして「プリーツ プリーズ」といったものを生み出しながら、彼は自分自身がまだ現役を続けられる段階で、社内のデザイナーに自身の「イッセイ ミヤケ」ブランドを任せた。現在30、40代でファッション業界で活躍する多くの人々にとって、記憶にある「イッセイ ミヤケ」のプロダクトは滝沢直己の下で生まれた「イッセイ ミヤケ」であり、2007年以降に作られた藤原大による「イッセイ ミヤケ」だろう。
三宅一生本人が一線から表向き退いたのは1999-2000年だった。三宅一生はまだ60歳だったことを思えばこれは勇気のある行動だったと思う。三宅は1993年に「イッセイ ミヤケ」のメンズラインを、1999年にはウィメンズのクリエイティブディレクションを自社のスタッフであった滝沢直己に任せた。そして、翌年の2000年には、ニューヨークに知見のある元ジャーナリストであり、松屋銀座のディレクションを行っていた太田伸之に経営を任せている。余談だが、その太田伸之がイッセイ ミヤケの社長でありながら「コム デ ギャルソン オム」のスーツを愛用していたという逸話がある。ある意味でこれも三宅の懐の深さを表すエピソードだと思う。
また本体の事業だけでなく、社内のデザイナーをスピンオフさせてグループ化したエイネットの組織を1996年に立ち上げた。この「イッセイ ミヤケ」一門からは小野塚秋良(「ズッカ(ZUCCA)」)、津森千里(「ツモリチサト(TSUMORI CHISATO)」)、津村耕佑(「ファイナルホーム(FINAL HOME)」)、高島一精(「ネ・ネット(Ne-net)」)、宇津木えり(「メルシーボーク(mercibeaucoup)」)といったタレントを輩出した。中でも「イッセイ ミヤケ」出身の小野塚秋良の「ズッカ」は日本のブランドとして一時代を築き、事業として大きなマネードライバーとなったブランドである。そして「イッセイ ミヤケ」からは前述したデザイナー以外にも、黒河内真衣子(「マメ クロゴウチ(Mame Kurogouchi)」)、高橋悠介(「CFCL」)、池内啓太と森美穂子(「アンドワンダー(and wander)」)と多くの出身者が活躍している。
創業者が存命かつ会社に在籍し、かつ後進にディレクションを任せながらも、ブランドが独立性と創業者の空気を維持したまま成立したのは筆者の知る限り、「イッセイ ミヤケ」を除いて今のところに日本はおろか海外にもまず存在しない。自らの不在を作ってなお存在感を維持したこと。これが三宅一生の革新性の一つである。
近いデザインから遠いデザインへ
ファッションデザイナーとしての三宅一生は2000年の到来直前にピークを迎え、そして表舞台から退いた。そして革新的な発明を中心にブランドのプロダクトを展開することで「従来のファッションデザイナー」としての役割を放棄し、ファッションの表側では自ら進んで「過去の人」となっていった。三宅一生をこうして眺めてみると、デザイナーとして彼がずっと行っていたことを一言でまとめると「遠い射程でのファッションデザイン」だったのではないかと思う。対象は衣服だけでなかった。三宅一生が道なき道を歩くことで、日本の「洋裁」は気がつけば「服飾デザイン」になり、「モード」、そして「ファッション」と呼ばれるようになった。大衆のファッションに対する認識を変え、ファッションへ参入する若者への間口を広げた。いま、日本だけでなく、アジア全体で「ファッションを、ファッションデザイナーを志したい」と誰かが親に話しているだろう。その親の脳裏にはきっとロールモデルとして「三宅一生」の姿が浮かんでいる。ファッションデザインは気がつけば三宅一生に追いつき、今ではデザイン領域の最先端となっている。彼のデザインの射程は、今のファッションのデザインから次第に未来のファッションになっていた。彼は人の装いを、デザインしながら、社会の様相を動かそうとしていた「様装家」だったのだ。
「一枚の布」のコンセプトを打ち立てた「一人の人」三宅一生。広島に生まれた被爆者であり、東洋人であるという逆境を超えて世界に向けて彼がデザインしていたものは、本人の自覚的なものか無自覚なものか定かではないが、いつの日からか衣服を超えてはるかに遠い射程のものとなっていった。彼は「『イッセイ ミヤケ』というエコシステム」をデザインし、そこから「ファッションという認識を人間社会でどこまで拡張できるのか」という問いに迫っていった。きっとわれわれは、そして未来の人々も、三宅一生が「デザインした場所」を通ることになる。
われわれは現在についてほとんど考えない。たまに考えることがあっても、それはただ未来を処理するために、そこから光をえようとするにすぎない。現在はけっしてわれわれの目的ではない。過去と現在はわれわれの手段であり、未来のみが目的である。
ブレーズ・パスカル 「パンセ」(1623-1662)