ジャンル問わず人が集う札幌の文化基地「ie」の遊び心

札幌にある築50年以上の一軒家を改装し、2021年の1月にオープンした多目的な空間「ie(イエ)」。実はこの場所、以前は歓楽街であるススキノで働くホスト達の宿泊所として機能していたという。この場の企画運営をしているのが、編集者の和田典子だ。筆者が2周年を記念したアニバーサリーイベントに出展者として参加させてもらったタイミングで、市内のアートギャラリーとしても独自の立ち位置を築いた「ie」が生まれた背景と3年目の展望について聞いてみた。

和田典子
大学卒業後に渡英。帰国後はファッション媒体の編集部を経て、札幌に拠点を移しフリーランスに。2021年に多目的空間「ie」をオープンする。築50年以上の一軒家の1Fにはギャラリー、カフェ&バー、2Fには図書室、ファッションルーム、多目的室を併設。不定期で発刊される『ie zine』や、「ie」につながりのあるアーティスト等のzineや写真集、アイテム等も取り扱う。

多面的な余白を残し、肩書やラベリングにとらわれない場所

ロンドンで3年間生活した後に、東京でファッション媒体である「i-D Japan」のインハウスエディターをしていた和田。東京でファッション誌の最前線で働いた後に、2019年に地元である北海道に帰郷した。その中で自分のこれまでの経験を生かして何か新しいことをしようと模索している時期に出合ったのがこの家だった。「一言で語れるような明確な理由があったわけではないのですが」という前置きとともに、わかりやすい明言を避けるように言葉を慎重に選びながら、“ie”になるまでのヒストリーを語ってくれた。

「そもそもここを立ち上げる前は札幌で写真集などの“アート作品を買ったり鑑賞できる場所”が欲しいと考えていたんです。去年、ZINEや写真集を買えるショップがいくつかできるまでは、当時の札幌には大型の書店さんしかなくて。自分が何かを始めるなら、“アートやファッション、音楽などが同居しながらもリラックスしてそれらと対峙できる場所”を作りたいと思いました。だから運営する時は、まず靴を脱ぐことが絶対条件としてありました。そうなると家のような作りの場所がいい。例えば一軒家だとクローゼットもあるからファッションも見せられる。キッチンもあるから飲み物が出せる。本棚を作れば小さな図書室にもなる、みたいな。どんどんそういう感じで同時多発的にいろんなアイデアを構想して。そして立ち上げと同時に『ie ZINE』の制作も並行でして、徐々に『ie』というものが組み立てられていった感じですね」。

そうして自らの理想の場を札幌に作り、試行錯誤した2年間を端的にこう振り返る。

「1、2年目は、距離感の意味でもある程度の線を見極めないといけなかった瞬間も同時にありました。極端な話、最初は『交差点ですれ違うけど交わらないような人が同時に存在する場所』みたいな理想を掲げていたんです。ギャラリー特有の緊張感をできるだけなくしたいし、来てもらうお客さんに対して敷居を下げて、誰のことも拒みたくない。でもだからといって展示しているもののクオリティーや強度を下げることも絶対したくない。そのバランスを常に模索しているような時間でした」。

とはいえ、この2年間はすべての展示が貸し空間としてではなく、和田が依頼したい作家やミュージシャン、それから「VOU」等、京都のギャラリストとの信頼関係を構築し、企画展示のみで続けてきた。かくいう筆者も『VACANCE / VACANCY』というプロジェクトで1カ月以上の滞在制作を「ie」で行った。いわゆるホワイトキューブのギャラリーとは異なり、密接に関わり合いながら、一緒に展示を作り上げていくことができたと実感している。こういうプロセスを実現できるのはなぜなのだろうか。

「その人や作品を私なりに理解しないと、お客さんに伝えられないということが一番の理由です。自分が説明できないものを人に紹介できないですし。私個人のスタンスとして単に貸して、『どうぞ、あとはお任せします』というのは、さみしいなと。一緒に相談しながら場を作っていきたいし、夜遅くまで時間がかかるなら、炊き出しもします(笑)。作家さんだって人間ですし、展示準備で搬入したり、在廊している中で、その人の社会的に表に出てる部分だけではない側面が見えるじゃないですか。例えば、意外とお笑いが好きだとかアイドルが好きだとか、あるいは一緒にゲームで遊んでいて、『負けず嫌いだ』とか。そういう多面的な側面があるから人間って魅力がある。そういう部分全部をひっくるめて、その人を知りたいと思ってます。わざわざ札幌まで来てもらうなら、来てよかったなと思ってほしいので」。

そうした人に対するケアフルな視線は、来場者にも当然向けられる。

「初めて来たお客さんに『私みたいな普通のOLが来ていい場所なんですか?』と言われたことがあって。未だアートを観るとか作品を買うという文化に敷居がある人達や距離を感じている人がいるみたいで、それを『ie』ではどんどん払拭していきたいんです。

だからこそこの2年の間でお客さんと知り合って、それから北海道から出て、また札幌に帰省したタイミングで来て『おかえりなさい』と言わせてもらうような機会も増えてきた。だんだんとお客さんとの関係性が構築されてきたことが嬉しくて。

『ie』で展示やイベントをやってもらう方は、1年目は私がもともとつながりがある方が多かったのですが、最近はieをつくってから出会った方も増えてきたのがその証拠だと思います。開催する背景があることを大切にしていきたいですね」。

年齢にも世代にも肩書にきもとらわれない謙虚な姿勢。そしてアートに対する献身的な気持ち。そこまでの視線で関わり合うのにはどういう背景があるのだろうか。

「実家が書店で、すごく田舎なんですけど、雑誌を読んだりして情報は入ってきて、でも同年代と共有できないもどかしさがありました。新しい何かを教えてくれる人や出会える場所がなかった、その当時の自分を救ってあげたい気持ちが深層心理にあるのかもしれないです(笑)。だから図書室でファッション誌の横に写真集があったり、洋服があったり、レコードがあって。みたいな。“絶対読んだほうがいいよ”みたいに押し付けがましいことは言いたくないけど、お客さん同士で『これ良いよ』と教え合ってる光景を見ると嬉しいですね。私もお客さんに教えてもらうことの方が多いです(笑)」。

3月には札幌パルコで「ie」がディレクションを手掛けるプロジェクト「made and seek」で北海道にゆかりのあるアーティストのキュレーションを務めた。今後はどのような展望を描いているのだろうか。

「ありがたいことに、丸2年運営したことで、少しずつ認知されるようになって、道外からたくさんのお客さんが来てくれたり、展示をしてみたいという相談をしてくださる方達が出てくるようになってきて。ふと私自身が力まなくても『ie』が自走できている感覚を覚えたんです。だから3年目は、程よく力を抜いて流れるようにその瞬間瞬間を楽しみながら、それでも運営ができることを実証したいです。そしてなんとなくお客さん達の間でイメージができているこそ、“『ie』ってこういうこともやれるの?”みたいな、いい意味で予想を裏切れるようなこともしていきたいと考えています」。

北海道以外から展示に来た全国区で活躍する高名なアーティスト。北海道の地で粛々と活動を続ける作家。服飾の専門学校生、大学生の顧客に加えて、近所で店を営む店主まで、多種多様な人達がこの場所に集まり、化学反応が生まれる。来る人が変われば、生まれる会話も変わる。作家が在廊しているかどうかでも話の角度が変わる。時には自然発生的に次の企画が生まれることもある。「ie」が磁場となって人の流動が起きて、新しい何かが生まれる。つまり長きにわたってさまざまなプロフェッショナルとコラボレーションを果たしたエディターという経験に裏打ちされた「即興的」なアプローチこそが「ie」の1つの特徴といえるのかもしれない。

ただこの場所の特徴を、展示にも長い関わり合いの中で参加させてもらった自分でさえ、一言で明言できそうもない。取材後改めて考えたのだが、それは作家にしろ来場者にしろ、ふとそれぞれの距離感の中に、その人が見つけた「ie」の姿があるからではないだろうか。札幌を訪れた際には足を運んでその日、その時にしかない空気や起こり得ない現象を楽しんでほしい。

Photography Yuki Aizawa

author:

冨手公嘉

1988年生まれ。編集者、ライター。2015年からフリーランスで、企画・編集ディレクションや文筆業に従事。2020年2月よりドイツ・ベルリン在住。東京とベルリンの2拠点で活動する。WIRED JAPANでベルリンの連載「ベルリンへの誘惑」を担当。その他「Them」「i-D Japan」「Rolling Stone Japan」「Forbes Japan」などで執筆するほか、2020年末より文芸誌を標榜する『New Mondo』を創刊から携わる。 Instagram:@hiroyoshitomite HP:http://hiroyoshitomite.net/

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