「CURA MAGAZINE」「Flaneur Magazine」等のベルリン発インディペンデント誌のデザインを手掛けるデザイナー集団「Studio Yukiko」の実態

ベルリンには日本でも扱われるような「SLEEK MAGAZINE」「Flaneur Magazine」といったユニークな雑誌作りをできる風土があるようだ。そうした魅力的な雑誌作りのデザインや広告を一挙に受けているのが、「Studio Yukiko」だ。「ユキコ?」どこかに日本との関わりあいがあるのだろうか。と思っても、あまりわからない。

でも、圧倒的にユニークなヴィジュアル表現をする背景には10人のプロフェッショナル達がいた。どうしてベルリンを拠点に世界で戦える雑誌作りができるのか。彼等の存在が気になり、クールな仕事を続けられる背景に迫るべくスタジオを訪ねた。今回は創業者のヨハネスと、3年前にモスクワからベルリンに移り住んで、ヴィジュアル作りを続けるイラの2人に話を聞いた。

話題は主に創刊から関わりの深い「Flaneur Magazine」を軸に話を伺うことで、モノづくりをする上での姿勢について知ることができた。終始にこやかでありながら、プロフェッショナルな姿勢を崩さない彼等のバランスが最高にかっこよかった。日本の媒体では初となるスタジオ紹介&ロングインタビューである。

雑誌作りの常識を知らずに生み出した創刊号。それが結果功を奏した「Flaneur Magazine」

――おそらく過去に何度も聞かれていると思いますが、「Studio Yukiko」の名前の由来を教えて下さい。

ヨハネス:“Yukiko”はミシェルのミドルネームです。彼女はドイツのハンブルグで生まれ、イギリスに住んだ後ベルリンへと移住してきました。ヨーロッパではまだ珍しい名前なので、目立つし覚えやすいと思います。

――そうだったのですね。ずっと気になっていたことなので、謎が解けた気がします。「Studio Yukiko」はどのように始まりましたか?

ヨハネス:共同創設者のミシェルとともに2012年に「Studio Yukiko」を始めました。最初はミュージックビデオを制作していましたが、やがてグラフィックデザインやアルバムアートワークのディレクションを手掛けるようになりました。

――最初は雑誌のデザインチームではなかったんですね。今ではベルリン発の世界的に有名な雑誌のクリエイションを一手に引き受ける「Studio Yukiko」。どういう流れから雑誌の世界とも関わり合いを持つようになったのでしょうか?

ヨハネス:ある日、「Flaneur」編集部から声がかかりましたが、それまで雑誌を作ったことがなかったので、自分達が何をしているのかわかりませんでした。今、創刊号を振り返ってみると、もっとこうすればよかったと思うことがたくさんありますが、そのおかげでより実験的なことができました。

――そもそも「Flaneur Magazine」とはどんな雑誌ですか?

ヨハネス:「Flaneur」は特別な雑誌で、それぞれの街の歴史を明らかにして、その場所の重なり合う生活や歴史を描き出すインディペンデントマガジンです。毎号「One issue, One city, One street」というモットーがあります。ベルリン、サンパウロ、モスクワ、アテネ、ローマ、台湾などこれまで8つのマガジンを発行してきました。エディターが実際にその街に数ヵ月滞在し、僕等も現地で見たものを視覚的にドキュメントします。単に現地ライターやアーティストに会うだけでなく、さまざまな分野のクリエイターにも一緒に参加してもらいます。デザインの直接のインスピレーションは、通りや目に見える文化など、その場所で実際に起こっているリアルなものから得ることが多いです。

私達は編集チームとともに、その街特有の幾重にも重なる複雑さや矛盾を受け入れ、時間をかけてそれぞれの場所を深く知り、アートディレクションを行っています。ローカルに根付いた人達とのコラボレーションにより、アーティスト、作家、食料品店、労働者、活動家、長年の住人などの目を通して、その場所にさまざまな視点を生み出しています。

――イラが「Studio Yukiko」を知ったきっかけは何ですか?

イラ:私達が出会ったのは、2016年ですね。「Flaneur」の第6号の制作のために、「Studio Yukiko」のメンバーがモスクワに来たときでした。編集者やデザイナーは、次号が発行される都市に来て、現地の文脈を探ります。私もモスクワでデザインを担当している一員だったので、何度か会って話をしました。最終的には、雑誌の一部であるポスターを制作しました。

それまではモスクワでさまざまな文化プロジェクトのアートディレクターをしていましたが、3年前にベルリンに引っ越してきたとき、「Studio Yukiko」とはすぐにでもコラボレーションしなければならないことは明らかでした。

――私自身「Flanauer Magazine」のモスクワ号を読んで、デザインのインパクトに驚きました。そこではじめて「Studio Yukiko」の存在に気がつきました。イラにとっても「Flaneur Magazine」が最初のプロジェクトだったのですか?

イラ:「Studio Yukiko」のメンバーとしてはそうですね。モスクワ号では、私は小さな役割しか果たせませんでしたが、私にとっては大きなインパクトがありました。その後、主にブランディングのプロジェクトで協力するようになり、そのひとつとして、「HKW Gallery」で開催された「Flaneur Festival」で8号目を紹介しました。

現在「Stuido Yukiko」では、「Dazed Magazine」の30周年を記念した「Dazed Live Festival」などのプロジェクトを担当しています。他にも“Driving the Human(科学と芸術のコラボレーションで、現代のシナリオに対応した7つの具体的なプロトタイプを開発中)”と題して、グラフィックデザインが果たしている文化的な役割や広い意味で私達を取り巻く環境をどのように形成しているかを言語化し明らかにしたいと考えています。

――クライアントワークでクリエイティヴィティを保つ上でどのようにバランスを保っていますか?

ヨハネス:直接的な答えになっているかはわかりませんが、すべてのプロジェクトに常に100%の力を注いでいます。僕等は美術館や施設と協力して行う文化的なブランディングプロジェクトから、「ナイキ」などのビッグブランドとの仕事、そして多くの書籍や雑誌のプロジェクトまで、さまざまなプロジェクトが同時に進行できているのがうれしいです。どの領域も異なるクリエイティヴィティを発信するために挑戦し続けています。創造性を最大限に発揮することで、クライアントが私達を信頼してほしいと思っています。

イラ:クライアントとの関係性において、コラボレーションワークになるよう心掛けています。あくまで「コンテンツありきの考え方」でプロジェクト自体を尊重するので、「見た目だけがクールで、中身が伴わないようなものは作らない」という仕事を心掛けています。

――仮に広告仕事であったとしてもそうですか?

ヨハネス:「Studio Yukiko」の仕事は常にコンセプトありきです。ストーリーやキャンペーンを通して起こりうるアクションの理由を考えます。アイデアが最初にあって、「言葉」やヴィジュアルイメージがそれに続きます。なので、作ったものに意味を与える(先に手を動かして作って、それから意味を考える)というような逆の順番になることはありません。

そして、「クライアント」ではなく、可能な限り「コラボレーター」と呼びます。そもそも僕等のチームに上下関係はなくて、誰もが等しくつながっている状態。クライアントと仕事をする時も、このスタイルを維持するようにしています。そうすることによって、単純なサービスの提供というレイヤーから、「Studio Yukiko」とのコラボレーションという経験に変えていきたいのです。そうしなければ、おもしろくないものができ上がったり、計画が予定通りにならない悪循環に陥ってしまいます。幸いなことに、僕等は素敵なコラボレーターに恵まれています。

常識にとらわれず「この状況の中でできる一番ラディカルなことは何か」を自問自答してデザインする

――いろいろな仕事を同時に行う中で、特に雑誌制作の魅力にとりつかれているのはなぜでしょうか?

ヨハネス:僕にとって雑誌とは、ピュアドメインです。仕事を楽しむために必要なことは、できるだけエクスペリメンタルでいること。雑誌はそれを可能にしてくれます。スタイルやフォントとレイアウトでチャレンジすること、決められたフォーマットの中では自由で、ルールを破ることもできます。

——イスタンブール発の雑誌「Year Zero magazine」もかなりハイブロウなデザインで感動しました。

ヨハネス:ありがとう。「Year Zero」もワクワクするようなプロジェクトですね。世界はより加速度的に回転し、より小さくなっています。私達はかつてないほど多くの情報にアクセスし、時間は瞬くほどに早くなっているように感じます。これらの感覚に敏感な新しい世代は、何らかの方法で自分を表現しする方法を見つけています。

イスタンブールのアンダーグラウンド・ラジオ局であり、あらゆるカルチャーを紹介する雑誌である「Year Zero」は、トルコとその周辺でエキサイティングな新進の才能を持つ人々に自分の意見を表明する場所を提供しながら、流動的で絶えず変化する時代の流れを記録しています。

マガジンのデザインとしては、コンテンツが表面の端からこぼれ落ちるようなスプライス・グラフィック・デバイスで絶え間なく変化し、束縛されない文化を表現しています。ラフな写真や低解像度のぼかし、引き裂かれた活字は、文化的な主人公が互いに衝突しては結合し、刺激しあう様子を表現しています。

イラ:なぜなら、それが最もラディカルなことだったと思いますし、私達が意識していることでもあります。何かをするときは必ず、「この状況でできる一番ラディカルなことは何か?」と自問するようにしています。

――「Studio Yukiko」としての今後の展望は?

イラ:自分が作りたいアイデアやビジュアル全般に対する探究心がある限り、「やりたいこと」と「できること」のバランスを保ちたいと考えています。ルールや常識の限界に挑戦し、境界を広げ、自分を取り巻く状況を考えること。自分の野心を追求すること。そして、それを仕事に反映させること。同じビジョンを持つクライアントと仕事をすること。これが私が考える「Studio Yukiko」です。

ヨハネス:特に付け足すことはないなあ。「Flaneur Magazine」としての次のステップは、現在9号目となるパリ特集を作成中です。今までと異なるのは、現地のエディターとのデジタルなコラボレーションの方法を模索しているということです。コロナ禍でフィジカルな移動ができないので、今の状況下で、これまでと同じようにさまざまな国のクリエイターとともに仕事ができる方法を探さなくてはなりません。「Flaneur Magazine」においても同じで、最終的には1冊の紙の雑誌ができ上がることになりますが、プロセスは数ヵ月も旅に出るような以前の方法とは大きくことなるということです。

――楽しみにしていますね。

Studio Yukiko
HP:http://y-u-k-i-k-o.com/
Instagram:@studio_yukiko

Photography Chihiro Lia Ottsu

author:

冨手公嘉

1988年生まれ。編集者、ライター。2015年からフリーランスで、企画・編集ディレクションや文筆業に従事。2020年2月よりドイツ・ベルリン在住。東京とベルリンの2拠点で活動する。WIRED JAPANでベルリンの連載「ベルリンへの誘惑」を担当。その他「Them」「i-D Japan」「Rolling Stone Japan」「Forbes Japan」などで執筆するほか、2020年末より文芸誌を標榜する『New Mondo』を創刊から携わる。 Instagram:@hiroyoshitomite HP:http://hiroyoshitomite.net/

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