写真家・髙橋恭司が可視化するプシュケーの軌跡

髙橋恭司
栃木県益子町出身。写真家。作品集に『「The Mad broom of Life』(1994・⽤美社)『ROAD MOVIE』(1995・リトルモア)、『Takahashi Kyoji』(1996・光琳社出版)、『Life goes on』(1997・光琳社出版)、『煙影』『流麗』(とともに2009・リトルモア)、『SHIBUYA』(20166・BANG! BOOKS)『WOrld’s end 写真はいつも世界の終わりを続ける』(2019・Blue sheep)、『Midnight Call』(2021・TISSUE PAPERS)、『Lost Time』(2021・POST-FAKE)など多数。

南青山のギャラリーVOID+で個展「Void」を開催中の写真家、髙橋恭司。彼の作品に対峙することは、写真の技巧や立ち位置という概念以前に、彼の意識の根底に蓄積されている哲学や心理学・美術史・文学の門を潜ることを意味する。曇りのない純粋な感性と好奇心、実験的な姿勢がこれらの知識と融合し、写真という形で表出しているものであり、彼が描く絵画や詩的文章も同様である。エゴを凝視し、人間を取り巻くあらゆる現実をつぶさに洞察する髙橋の眼は、大衆社会の排気によって霞んだ個のイデアを可視化する。本展を訪ねた印象と、髙橋に伺った創造のエッセンスについてレポートする。

写真という媒体を介したサイコロジカルな表現

髙橋の写真作品は「表象」そのものであり、彼が自身の眼とカメラで捉えるものもまた具体的対象(オブジェクト)ではなく、表象としての世界である。カメラで撮るという行為により、眼前に横たわる現実の物質的外殻が融解し、光の粒子となった潜像が姿を表す。写真という極めて視覚的な媒体を用いて、シンボリズムの詩人のように、自己あるいは鑑賞者の内省的ヴィジョンを描き出しているのだ。

「自分の写真の表現は当初からサイコロジカルなものだと思っています。写真を情報としてではなく不可思議なものとして見ている。鑑賞者の中にストーリーが生まれたり、何らかの心理的な作用を引き起こすものです」。

現在、南青山のギャラリー・void +で開催中の個展「Void」は2つの空間から構成されている。入り口で迎えるのは、概念的存在の象徴のような、自宅に飾られている横濱媽祖廟の紙のお札の写真。向かって右側の無垢な脳室を想起させる白い密室には、現実のファントムの如きイメージ群が展示されている。花が落ち、敷かれた紙の上で朽ちてゆくアネモネの写真。生命が終わる刹那の、現世と魂の世界を横断する透明な美しさをたたえている。幽霊船のような、繁栄の気配だけが映し出されたマンションロビーに輝くシャンデリア。赤外線撮影されたモノクロの花と実は、有限の運命から解放され静寂のうちに佇んでいる。

「写真は白昼夢のようなもの。昼でも夜でもない景色のニュアンスに似ていると考えています。ネガだけが存在し、露出の調整によって夜のように暗くすることも、明るくすることもできる」。

無意識のもと象られるエッセンティア

もう一方のサロンスペースには、万物を介した世界への愛着ともいうべき鮮烈な作品群が並ぶ。現実においてミリ秒でも完全に同一性を保っているものは存在せず、すべての瞬間が過去と直結し、喪失する。髙橋は写真という媒体を用いて「ある事象が、ある瞬間、存在していた」痕跡を浮き彫りにする。

優美なまま老いたびろうどの花弁のエッジから、アポトーシスの予感を漂わせる薔薇。黄金の日に溶けて消失してゆく、見慣れたはずの都市。光線と影のコントラストの強さに造形のみが浮かび上がり、行き先が断たれたビルの階段。シャッターを切る瞬間に実存的存在となった、アスファルト上の砕け散ったガラス瓶とジャム。

そして空間内で壁一面を占める最も大きな写真作品《はと》。

ブルーグレーの建物の間を音符のように飛んでゆく4羽の鳩。このスケールで見ることで初めて、写真に鳩のつややかな目が映っているのに気付き、吸い込まれるように見入る。この目は生命そのものだ。喪失を超越する生命の表象。髙橋が無意識のうちにカメラでこの瞬間を捉えたことは、必然と思えてならない。

「写真や文章は網膜の記憶を盗むこと、あるいは夢に似ている。目の前の現実に対し、『視たことがある』という記憶や、夢のイメージが喚起された瞬間に撮る。目の前の現実自体を撮っているのではないことが多いです。スピードが重要で、脳が言語化する前に撮る。写真に限らず絵画も同じですね。

夢には無意識が表れる。占いも一種のアーキタイプだと考えています。無意識は操作できない。言い間違いや癖には少し無意識が存在する。ここにヒントがある。

現実の社会の規制をぬった闘いの中で表現が生まれる。シュルレアリスムで実験されていたように、無意識の領域を表現に持ち込むことで、マンネリ化した表現に可能性が広がるかもしれない。音楽家ジョン・ケージの『チャンス・オペレーション』もおそらく同じような目的ではないでしょうか」。

同展ならびにInstagramで発表された作品を収めた写真集には、1つ1つの作品に対し髙橋の文章が添えられており、彼の内に浮遊する思念と血脈のように流れる文学や哲学・美術史などの膨大な知識が、心地よいリズムと違和感を伴って表れ、写真の深淵にある潜在意識をストロボのように照らしている。

「僕の文章も写真同様、サイコロジカルなものかもしれません。盲目の詩人ボルヘスの描く幻想世界や、アラン・ポーやボードレールが描いた現実よりも暗鬱な世界のような」。

髙橋は同時に絵画作品の創作にも取り組んでおり、本展では彼のドローイングが直接施された1点もののトートバックも販売している。写真と絵画作品の創造性について違いはあるのだろうか。

「写真と絵画は近くて遠い。リヒターやボルタンスキー、ホックニーは写真も絵もうまいし、ウォーホルの核も写真。僕が影響を受けた人はみんな写真を使っていました。絵と写真を往来する人の表現に惹かれます。メイプルソープも彫刻家だった。はっきりした静的な空間を作り、被写体を据える。あれは彫刻家の写真です。

この辺りが僕の原点で、そのあと写真家について知っていった。カルティエ・ブレッソンはまず映画を撮り、そのあと写真を撮り、晩年は絵を描いていた。ロバート・フランクも写真だけでなく映像を撮っている。

絵は難しいですね。ずっと壁に向かって描いているから暗くなるし、精神的にきつい時もある。内面的な問題に向き合うことがほとんどです。

写真も文章も絵画も自分にとっては純粋な行為で、外部要因は何も気にしていません。今発表している作品は氷山の一角で、仕事や依頼がなくても、時間があると何か創っていますね。絶えず生産し、忘れていく」。

■「Void」
会期:8月27日まで
会場:VOID+
住所:東京都港区南青山3-16-14 1F 3-16-14 1F
時間:12:00〜18:00
公式サイト:www.voidplus.jp 

Photography Kyoji Takahashi
Interview Akio Kunisawa

author:

Nami Kunisawa

フリーランスで編集・執筆を行う。主に「Whitelies Magazine」(ベルリン)や「Replica Man Magazine」「Port Magazine」(ロンドン)等で、アート、ファッション、音楽、写真、建築等に関する記事に携わる。Instagram:@nami_kunisawa

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