写真家・髙橋恭司のタイムラインを振り返る -後編- カテゴライズを拒否する表現の力

髙橋恭司
1960年生まれ。栃木県益子町出身。1990年代に『Purple』等のファッション・カルチャー誌や広告で作品を発表する。主な写真集は『The Mad Broom of Life』(1994)、『Road Movie』(1995)、『Takahashi Kyoji』(1996)、『WOrld’s End』(2019)、『Ghost』(2022)、『Void』(2023)等。5月14日まで京都で展覧会「Void」を開催している。

時代がタイトになり続ける現在、意識的に何かを更新しようとする試みではなく、自身の直感に従いながら作品を撮り続ける写真家・髙橋恭司。髙橋の写真のカテゴリーにとらわれない表現の背景にあるものとは何か。後編では、写真家を志した、ある意味でルーツともいえるニューヨーク時代の話から、商業と直結する広告と求道的な写真やアートの境界まで、広く話を訊いた。

「ジャンルではなく、素材という意味で写真も美術」

−−「Void」の展示期間中、京都で滞在制作もされていたようですね。

髙橋恭司(以下、髙橋):そうですね。基本的にロケハンもリサーチもしない性格で、偶然というオプションが入っていないと未知な感じがしないんです。その意味で場所は重要なのかもしれないですね。久しぶりに京都に行ったのですが、意外だったというか、おしゃれな店やスポットも増えて、すべての水準が高いように感じました。なので、数日滞在していたんですけど、昔、ニューヨークにいた時、自分の作品を見てもらいたいという思いで制作していた頃を思い出しました。その考え方はジャーナルであって「写真」ではないですけどね。

−−髙橋さんにとって写真を撮る行為はどんな感覚に近いのでしょうか?

髙橋:何なのか考えたことがなかったです。癖とか時間のような……収集癖もないですから。強いて言えばおもしろい瞬間があったとして、あとになってから写真で見たいと思うことはあります。実家を掃除していて、いろいろな写真が見つかるとおもしろいですよね。自分の写真でなくても良い。そんな感覚に近いのかもしれません。

−−例えば、住んでいる街並みが変わっていくことに対して、センチメンタルになったりするような感覚はありますか?

髙橋:ないです。写真も古くなりますし。久しぶりにニューヨークに行ったらきっと驚くんでしょうけど、それ以上の感情はないと思います。

−−絵を始めるきっかけにニューヨークがあったとお聞きしました。美術家が自画像を描くのに対して、写真家のセルフポートレイトは少ないように、写真家の眼は外に向いていて、美術家は内向きになると感じるのですが、髙橋さんはどう思われますか?

髙橋:僕は美術が出発点なので、一番身近に感じていた写真家は(クリスチャン・)ボルタンスキーや、その前だと(ロバート・)ラウシェンバーグです。ラウシェンバーグの写真は布などのマテリアルに刷っていくプロセスと、風に舞うような柔らかさに惹かれていました。でも、当時は、自分の中では絵を描く、描かないということはほとんど問題としていなかったように見えていました。ウォーホルもイラスト以外はほとんど描いていないですが、作品の類似性のマジックに強烈に惹きつけられる。写真と美術の分野を横断するようにね。

20歳の頃にニューヨークのホイットニー美術館でエド・ルシェの回顧展が開催されていて、かなり影響を受けました。作品はモノクロ写真なので自分にとってはリアルではないですが、アートピースのように見せない構成も見事でした。ジャンルではなく、素材という意味では写真も美術だと思っています。

−−髙橋さんの写真がポピュラリティとパワーを持ち続けている理由もわかるような気がします。

髙橋:2000年にエレン・フライスとオリヴィエ・ザームがポンピドゥー・センターでキュレーションした展覧会に参加したことがありました。その「ELYSIAN FIELDS」というカバーが13枚ある、CD付きの図録の表紙に僕の写真が使われて、パリの街中にポスターが張られた時は驚きましたし嬉しかったですね。その後に、宮城県立美術館で開催した「コモン・スケープ」というウィリアム・エグルストンや古屋誠一さん等が参加したグループ展がありました。過去の展覧会では、この2つが特に記憶に残っていますね。

カテゴライズを拒否する表現の力

−−ある期間、広告写真から離れられたのですよね。

髙橋:作品を撮り続けるために多少の経済力は必要ですし、広告や雑誌はいろいろな人に会える楽しさはあります。一方で、尽きていくような感覚もあった。ある時、写真を始めた原初に立ち戻ろうと思ったんです。

−−SNSに限りませんが、メディアが激増してあらゆるイメージが大量に押し寄せてくる現状についてはどうお考えですか?

髙橋:鑑賞する、受ける側としては大問題ですよね。最近「認知アポカリプス」という、テクノロジー社会の課題について認知学と社会学から考える本を読んでいるのですが、SNSである話題が急速に拡散されて巨大化して、商業にも結びつく状態は本当に怖いですよね。

−−芸術と商業の境界とか、それぞれに関する姿勢等は昨今も議論されています。

髙橋:芸術と商業の境界というのも矛盾していることが多いでしょうし、その矛盾自体に問題があるわけではない。言葉と絵や写真にも言えることです。何を撮っていようと構わないですよね。僕は仏像もナン・ゴールディンのポートレイトもビョークも満島ひかりさんも撮影したことがあります。それぞれに依頼されたり、自発的に撮ったり、撮影するきっかけはさまざまでも写真にそれほどの差はない。

今後、浮き彫りになる課題があるとすれば、作品をカテゴライズしようとする力が強くなっていくこと。メディアが中心だった頃から、今は膨大な情報がすべてカテゴリー化されていく時代に変化しました。そうすると、鑑賞者は作品の違和感をつかみづらくなります。新しい魅力や気付きがなくなってしまうんです。個人的に音楽もボサノヴァとかジャズ、クラシックといった、ジャンルがはっきりしてない音が楽しいように、気分によっては何だかわからないものを求めています。雑誌の時代ではないからかもしれませんが、インタヴューも専門家ではなく、音楽やアート好きの読者に接続することに意味があるように思います。

■Void
会期:5月14日まで
会場:アルトロ
住所:京都市中京区貝屋町556
時間:11:00〜18:00
休日:月曜、火曜、水曜
公式サイト:https://artro.jp/

Photography RiE Amano
Interview Yoshihiro Sakurai, Jun Ashizawa(TOKION)

author:

芦澤純

1981年生まれ。大学卒業後、編集プロダクションで出版社のカルチャーコンテンツやファッションカタログの制作に従事。数年の海外放浪の後、2011年にINFASパブリケーションズに入社。2015年に復刊したカルチャー誌「スタジオ・ボイス」ではマネジングエディターとしてVol.406「YOUTH OF TODAY」~Vol.410「VS」までを担当。その後、「WWDジャパン」「WWD JAPAN.com」のシニアエディターとして主にメンズコレクションを担当し、ロンドンをはじめ、ピッティやミラノ、パリなどの海外コレクションを取材した。2020年7月から「TOKION」エディトリアルディレクター。

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