作家・日比野コレコが語る「リズム」と「言葉」へのこだわり 「イロモノではなく『小説』としてもっと評価してほしい」

日比野コレコ 
2003年生まれ、大阪府在住。2022年『ビューティフルからビューティフルへ』で第59回文藝賞を受賞し、デビュー。

「生き方を学ぶのにはもう遅いかな」
「だってもう十九なんだよ。死は目の前だって感じがするよ」

自らの生をドライブさせたいとあなたが望むなら、日比野コレコを読めばいい。『ビューティフルからビューティフルへ』で2020年代の現代文学に新風を吹き込んだ彼女の才能は、先日刊行した第59回文藝賞受賞第1作となる『モモ100%』でさらなるスピードの加速とギアの変化を見せた。退屈な日々を過ごすモモの前に現れた、運命のトリックスター・星野。メタフォリカルな言葉によって次々と畳みかけられる、生きることへの祝福。

お笑いも漫画もラップも広告も批評も――今この時代に私達の身体へと迫るおびただしい言葉の数々、それらリズムの波を乗りこなし操る気鋭の作家に、話をうかがった。

——日比野コレコさんの作品は「若者の文体」「SNS的」と評されがちですが、それについては半分同意しかねるところがあるんです。というのも、場面設定や物語、使われている言葉自体についてはそうかもしれませんが、シュルレアリスム的な言葉の組み合わせや比喩への執着など、アプローチについては古典文学を経由した印象を受けるからです。むしろ、そういった現代的と古典的という相反する部分が共存している違和感が日比野作品の醍醐味だと思うんですよ。

日比野コレコ(以下、日比野):それは嬉しい意見ですね。

——そういった異質の言葉の組み合わせが見られる一方で、文章の連なりとしてはリズミカルに読めます。両者は相反するようにも思うのですが。

日比野:リズムって、自分の中にもともと組み込まれているものだと思うんです。そのリズムの上で、単語をごちゃごちゃ並べたりつなげたりする。自画自賛ではないですけど、言葉や比喩が雑多に並んでいてもリズムよく感じられるのは、その内面化できているリズム感というものが確実にあるからだと思います。文章のリズムというものを自分の中に持っていてそれが揺るがない作家とそうでない作家がいる、とよく言われますが、自分は前者なのかも。

——自作を自分で読み返してみても、このリズム良いなと思ったりしますか?

日比野:いや、でも自分ではリズムについてはあまり思わないんですよ。この比喩すごいな、とかは思ったりしますけど。

——自分の文体のリズムがどの時点で作られたかについても、ご自身ではあまり思い当たる節がない?

日比野:ないですね。私は、小説を書く時も音楽をガンガンに聴くんです。ヒップホップでもジャズでもロックでも歌詞のある音楽でもいろいろ聴くので、そこからリズムをもらっているというところは多分にあるだろうと思います。リズムを自分から取りにいくからこそ、例えばガリガリ書いてる時にバラードの曲は選ばないです。

『モモ100%』での挑戦

——『ビューティフルからビューティフルへ』から『モモ100%』への一番大きな変化として、会話のリズムがかなり引き締まったなと感じました。より筋肉質になった印象で、その点で小説としての完成度が高まりましたよね。

日比野:1作目の時に、グルーヴ感が良いと言われることが多かったんですよ。でも、自分ではその部分をそこまで自覚していなかったんです。そうかそれが強みなのかと思って、今作ではもっとそこに注力しながら書いたので、筋肉質だと感じてもらえたのなら成功しているということですね。

——推敲はかなり重ねるほうですか?

日比野:『ビューティフルからビューティフルへ』は推敲を含めて30日間くらいで書き上げたけど、『モモ100%』は半年近くかかっているので、その分推敲はかなり重ねています。後で読み返すと、ここは読点が必要ではないなとか思うこともあるし、そのあたりはけっこう手を加えて修正していきました。

——次から次に駆使される比喩の量がすさまじいですが、日頃からストックされているのでしょうか。

日比野:普段から比喩のアイデアを思いついてメモすることもありますけど、実際に書きながら浮かぶことのほうが多いです。大江健三郎が『小説の方法』で、誰のものでもない第三者としての言葉を自分の言葉へと引っ張ってくることを「異化」と呼んでいますけど、異化ってどういう方法でやってもよくて、私の場合は、それが比喩なんだろうと思います。ただ、比喩に頼りきってしまいがちなところもあるので、もっと違う方法での異化のやり方も今後は探していきたいです。

——あと日比野さんの作品で興味深いのが、言葉の「意味」以外の部分への拘泥(こうでい)です。今作では「レンアイ」や「フクザツ」など、文字表記を意識的に片仮名にされている部分も散見されます。以前から、言葉の意味以外の要素をさまざまな方法で引き出す工夫をされていますね。

日比野:あぁ、その話ができて嬉しいです。言葉って、漢字を片仮名に変えるだけでしっくりきたりしますよね。シュールレアリスムなんかの作品を読んでいると、文字面そのものに対してのおもしろさがあるじゃないですか。現代の小説においては意味と関係ない要素は無駄だとか読者からしてわかりにくいとか言われがちですけど、だからこそ私は「文字面の楽しさ」と「意味の整合性」をできるだけ両立させられるように努力しているんですよ。

——日比野さんの場合、本来的には文字面の楽しさのほうに傾きがちということですよね?

日比野:そう。傾きがちだからこそ、それだけにならないよう頑張っていますね。強くておもしろい、惹きのある単語ってあるじゃないですか。でも、その単語にも意味は宿ってしまっている。1作目では言葉の異質さを表面から捉えることが多かったので、2作目からは意味のほうからも考えられるようにしています。

——それは、実は大きい変化ですよね。なぜ考えが変わったんですか? 1作目でやりきったから?

日比野:それもありますし、やっぱり1作目の時に一番多かったのが「意味がわからない」という感想だったんですね。それで意味を通そうと努力しましたが、『モモ100%』でもまだ足りないんだとは思います。3作目ではもっと近づけられるかもしれない。

——なるほど。中には「意味なんて必要あるか」と突き進む作家もいるわけですけど、日比野さんがそうならなかったのはなぜでしょう。

日比野:小説が大好きだし、自分が表現手段として小説を選んだ責任を感じるからですね。詩や短歌だったらそこまで意味にとらわれる必要はないと思うんですが、小説はそうじゃない。それに、1作目で小説以外の部分についてだけを評価され過ぎたんですよ。私の作品は要素がいっぱい詰め込まれているからこそ、そうなるのは仕方がないんですけど、でも、この小説は文学史のどこに位置すると思うかなんてことを聞かれることがほとんどなくて悔しかった。イロモノ扱いされがちというか、もっと小説として評価してほしかった。だから、私は小説を書いているんだぞという思いが強くなってきたんです。ちゃんと「文学」を踏んできて書いた小説だと思うんですけど、そういう文脈から逸れたものとして扱われることが多くて。

——冒頭で私が「アプローチについてはむしろ古典文学を経由した印象を受ける」と言ったのはまさにそういうことで。ただ、それ以外の部分が鮮烈過ぎて、なかなか伝わりづらいということですよね。

日比野:だからこそ、次の3作目はさらに意味として成立した、いわゆる「小説」というものを書いていきたいです。でもそれは、私の今までの小説にあった強みも失われないものになるはずです。

言葉について

——日比野さんの言葉に対する意識を「音」と「形」と「意味」という3つの側面で考えると、リズムという「音」の面ではまだ意識は顕在化しておらず、「形」という見た目の面にはもともと関心があり、「意味」については今後より意識していこうという、大体そういった整理になりそうですね。

日比野:そうかもしれない。音やリズムについては確実に自分の中に「これが気持ちいい」というのがあるんですが、それが何かはわからないんですよ。編集者さんから添削の提案をされた際に「その案は違う」というのは言えるんです。だから、何かしらは絶対にある。

——ご自身にも見えていない、理想のリズムというものが日比野さんの中にあるわけですよね。ちなみに、文体のリズムという点で理想だと思う小説はなんですか?

日比野:句読点って、リズムを無理やりにでも作れるじゃないですか。でも、恐らく言葉それ自体にもリズムってあると思うんです。大江健三郎や中上健次は、句読点をあまり使わずに言葉それだけでリズムを作っていてすごい。私の作品は、句読点を使わなかったらリズムがあるとは言ってもらえなかっただろうから。

——なるほど。そもそも小説を書く時、すでに「これを書きたい」という完成したものが頭の中にあってそれにぴったりの言葉を探していく感覚なのか、それとも言葉をつなぐことによって自分も知らないような全く新しいものを作っていく感覚なのか、日比野さんはどちらが近いですか?

日比野:言葉をつないでいくうちに自分も予想だにしなかった表現に辿り着いて、それが私の本当に書きたかったことかもしれないと思うこともあるけれど、でも、前者の傾向もあるから、両方かもしれないです。ぴったりの言葉もずっと探してる。必要な時のために温存している二字熟語とかいっぱいあります。あと、完璧な二字熟語というのもある。例えば、「鯨飲(げいいん)」という言葉。完璧じゃないですか? でも「酒を大量に飲む」という意味を持ってしまっているから、なかなか使えない。「膝栗毛(ひざくりげ)」とかもめちゃくちゃ良くないですか? 膝の栗毛。でもこれも「徒歩で帰る」という意味を持っていて、本当に、意味というのは時にすごく邪魔ですね。

——なるほど、それらが日比野さんの中での完璧な二字熟語なんですね。なんとなく、わかるようなわからないような……(笑)。

日比野:男性器を何と呼ぶかという問題もずっと考えていたんですけど、最近見つかったんですよ。「陽根(ようこん)」です。それだ!って思って。もっと早く見つけたかった。『モモ100%』では「チ」と表現していたから。

——ぴったりの言葉を探しあてようとする時、自分の中の引き出しに入っている語彙量ってまだ足りないと思いますか?それとも満足している?

日比野:増えたほうが楽しいけど、足りないと思ったことはないかもしれない。

——それは、日比野さんが比喩を多用されるからなのかもしれないですね。

日比野:あぁ、そうかも。限られた語彙量で構造を組み替えることによって書いているからかもしれないですね。今後はもっと観察眼を磨いていきたいです。トーマス・マンの『魔の山』はそれが一番顕著なんですよ。仔細な描写がすごくて、例えば「そう言って彼女はもう一度、突き刺すように鋭く彼の眼に見入ろうとしたが、この風変りな試みはこんども成功しなかった」「と言って彼女は大きなものもらいのある眼で彼をじっと見つめたが、それはただ見つめたというつもりだけのものらしかった」という2つの文章が半ページの中に書かれていたりする。普通の小説家ってここまで描写しない。「見つめた」とは書くけど、「それはただ見つめたというつもりだけのものらしかった」まで書くのはすごい。自分ももっとそういうところに入り込んで、遊園地的にいろいろな要素を盛り込んでいきたいです。

前からよく例に出している乗代雄介さんの好きな文章があるんですが、それは、指を舐めた時にできる唾の小さな泡が割れる様子を描写するものでした。比喩の中での小説の視点のズーム感の自由自在さが好きなんです。

——乗代さんの唾の描写じゃないですけど、日比野さんの小説は、髪の毛や鼻血など身体から切り離されたものがよく描かれますよね。

日比野:自然と出てしまうものですね。自分は精神状態に応じて身体的な反応が出がちだから、そういう影響もあるのかな。そういう「自然と出てしまう」ものをそのまま書いてもいいんだということを、コルタサルや私の好きな小説家達が教えてくれました。

次作への想い

——日比野さんの作品って、登場人物が孤独に見えつつも信じあっている印象を受けます。

日比野:『モモ100%』の星野みたいに、どんな人ともセックスをするとかクラスメイト全員にちゃんと告白するとか、そういうタイプの誠実さって好きで。嘘をつかないとか、普通はそういうことを誠実さと言うのかもしれないけど、自分は星野みたいな平等な誠実さがすごく好きなんです。お笑いが好きなのも同じ理由で、『ドキュメンタル』なんかではそれが特に顕著で、すべては笑いのもとに平等で、おもしろければ何でもいいという考え方じゃないですか。だから、逆にシニカルなものは絶対に嫌。

——以前インタビューで、書く時のゴールを「美」に設定したいと言っていました。そこでの「美」とはどのような定義なのでしょうか。

日比野:私の小説って、最後がメタ的になるじゃないですか。3人称だったのが1人称に変わって走り抜けていくんですけど、それを賞の選考とかでも批判されたこともあって……。

——確かに、『モモ100%』も最後はメタ的ですね。あと、それが美なのかはわからないですが、祝祭的な印象です。

日比野:そう。「Biome journey」という言葉が最後に出てくるんですけど、それは、読者とすれ違った時に言葉を合図に使うことで合言葉みたいな役割を果たせればいいなと思ったんです。「私はあなたに同意します、共闘します」、みたいな、お互いが味方であることを意味する合言葉。私は、最後は読者に語りかけたいんですよ。でも、それを美と呼ぶのはもしかしたら違うのかもしれない。『ビューティフルからビューティフル』へというタイトルもあってその時は美と言っていたけれど、ちょっと美とは異なるのかもしれないですね。選考では「オチをつけたかったのでは」と解釈されたと思うんですけど、そういうことではなくて、私は自分の書く作品は私小説的な意味合いも強いから、最後は読者への直接的な語りかけになっていてほしいんです。

——読者のイメージって、けっこう具体的に描かれていますか?

日比野:具体的にはないですけど、気は合うと思っています(笑)。私があまりしゃべるのが得意ではないから、作家になってからは自分の本が名刺代わりになってすごく楽で。私と一緒に遊びたい人集まれ!という感じで、旗を立てるくらいのつもりで書いてるかもしれない。

——3作目を楽しみにしています。

日比野:1作目は17歳の時に書いた作品なので、今読むとアラが見えて、2作目は1作目と同じ書き方でそのアラを取り切ろうと思って書いた作品なんですが、3作目はまた違うことをしようかなと。言葉をおもしろくしなくちゃという呪いにかかっていたんですけど、2作目を書いたらちょっと肩の荷がおりたので、3作目はもっと自由に書いていきたいですね。

Photography Mayumi Hosokura

日比野コレコ『モモ100%』

■『モモ100%』
「安全な頭のネジの外し方もかわいい股の緩め方も人の愛し方も、いまだ全然わからない」モモの退屈な日常に彗星のごとく現れた、運命のトリックスター・星野。愛すべき文体で綴られた文藝賞受賞後の第一作。

著者:日比野コレコ
価格:¥1,595
発売日:2023年10月27日
ページ数:152ページ
出版社:河出書房新社
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309031460/

author:

つやちゃん

文筆家。音楽誌や文芸誌、ファッション誌などに寄稿多数。著書に『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)など。 X:@shadow0918 note:shadow0918

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