ポートランドの日系四世ジャナ・イワサキが語るかつて存在した日本町とジャパニーズ・アメリカンの歴史

ポートランドには日本と繋がりの深い場所が2ヵ所ある。1つは、「オレゴン日系アメリカ人博物館(JAMO)」。JAMOは以前「オレゴン日系レガシーセンター」と呼ばれ、オレゴンの多文化コミュニティーにおける日系人の歴史を探求、啓蒙する場としての役割を担ってきた。ここでは、日本町の歴史資料に加えて、第二次世界大戦中に日系人が収容された強制収容所に関連する展示もされている。もう1つが「ポートランド日本庭園」だ。全米に300以上あると言われる日本庭園の中でも格段に評価が高いことで知られる。枯山水等、8つの庭園様式で構成される公園内には茶室が設置され、開園50周年を迎えた2017年のリニューアルオープン時には建築家・隈研吾が手掛けたギャラリーやビジターセンター等、3棟の建築物が新設された。現在は、日本人旅行者や在住者も多いポートランドだが、意外にも日系人の歴史はあまり知られていない。

「JAMO」によると、1890年のポートランド在住日本人は25人ほどだったのが、20年後には1200人になった。そして日系一世により作られた日本町は“ジャパンタウン”と呼ばれ、次世代へ受け継がれていくことで、日系アメリカ人のコミュニティーの輪郭が形成されていったという。1940年には、4000人を超えたものの、第二次世界大戦中の1942年2月19日、ルーズベルト大統領(当時)が、軍事活動の妨げとなる人物の排除を可能とする「大統領行政命令9066号」を発令したことで、約12万人の日系アメリカ人が、全米に10ヵ所ある強制収容所に隔離された。戦後、ポートランドの日本町は完全には回復せず、戦争中に抑留された日系人の多くは他の都市に移住し、日本町に戻った人はわずかだったという。その後、ポートランドで日系人はどのようにコミュニティを築いていったのか。知られざる日系人の歴史を「JAMO」の理事であり、日系アメリカ人四世のジャナ・イワサキに聞いた。

ジャナ・イワサキ
日系四世、オレゴン日系人博物館(JAMO)理事。以前は「オレゴン日系レガシーセンター」として知られていた JAMO 。その役割は、太平洋岸北西部の日系アメリカ人の歴史と文化を保存し、尊厳を尊重することに加えて、第二次世界大戦中の日系アメリカ人の経験の認識と理解を推進し、全アメリカ人の公民権の保護を提唱している。
Japanese American Museum of Oregon
Photography Rich Iwasaki

ポートランドにおける日系アメリカ人のストーリー

−−イワサキさんの祖父は生前、ご自身の体験や日系人の歴史を伝えるために、ポートランド州立大学やオレゴン歴史協会、地元の図書館などで講演会を精力的に行っていたそうですね。

ジャナ・イワサキ(以下、イワサキ):祖父は当時30歳で、8人兄弟の長男として困難な状況下で家族を守るために必死に行動しました。家族はオレゴン州東部の日系アメリカ人の収容所に送られました。男性が徴兵されて農民不足だったため、サトウダイコン(てん菜)等を栽培し、砂糖の製造過程で出る副産物は、軍需品や合成ゴムの生産に使用されていました。収容所へ行ったことで、それまで農業で多忙だった生活は一変し、(収容所で農作業はしていた)実質的に農作業をする時間は減ったと聞いています。祖父は、収容所では家族形成を維持できるので、より良い状況になると考えたそうです。その一方で、他の収容所では、同年代同士で集まることが多く、家族形成が崩れたと言います。

年齢によっても収容所での経験、状況は大きく異なります。学齢期だった祖父の弟や妹達の中にはアイダホの大学に転校を余儀なくされた人もいますが、「収容所で新しい友達ができて楽しかった」と話した妹がいたといいます。権利や自由が奪われ、希望を見出すことが困難な状況下であるにも関わらず、前向きな思い出があったことを聞いたのは驚きでした。

すでに多くの日系退役軍人は他界していますが、私の伯祖父2人を含む退役軍人達は、2011年にワシントンD.C.で、オバマ大統領から議会名誉黄金勲章を授与されました。この時、合計33,000人の日系二世の第442連隊戦闘団、第100歩兵大隊に所属していた人々が出席しました。

−−人種差別等の過ちを繰り返さないために、日系アメリカ人は毎年2月19日を『追憶の日(The Day of Remembrance)』と定めて、全米各地でイベントが行われていますが、イワサキさんはどのような活動をされましたか?

イワサキ:家族や友人とともに「マンザナー巡礼」に参加して、アイダホ州中南部のミニドカ、カリフォルニア州北部のトゥールレイク、カリフォルニア州のマンザナー、ワイオミング州のハート・マウンテンの収容所を訪れましたが、とても衝撃的な体験でした。「マンザナー巡礼」は今でも続いていますが、どの収容所も夏は猛烈に暑く、強風の土地もあり、気象条件が厳しいです。私が訪れたのは冬ではありませんでしたが冬も「寒さに慣れていない多くの南カリフォルニア出身の日系人にとって冬の厳しい寒さがどれほど辛かったか」という話が強く印象に残っています。「マンザナー」に収容されていた女性から、家族をキャンプに残して日本に渡った父親の話を聞きましたが、その経験が彼等にとってどれほど辛い体験だったか、計り知れません。

当時、アメリカ政府は、収容所の全員に忠誠心を測るアンケートの回答を求めました。その多くの質問に「ノー」と答えた人達の多くは「ノー・ノー・ボーイ(No-Noboy)」と呼ばれる若い男性達でした。当時、「ノー・ノー・ボーイ」達は権威に逆らうことで恥さらしと考えられていました。第二次世界大戦で徴兵を忌避した息子を恥と考え自殺した日系一世の母親の話を聞いたことがあります。

「ノー・ノー・ボーイ」の多くは、政府がキャンプから家族を解放した場合にのみ奉仕することを条件にしましたが、最終的に、数名が第二次世界大戦後、朝鮮戦争で軍務に就いたといいます。日系アメリカ人市民連盟(JACL)が、選抜徴兵者に公式に謝罪したのは2002年だったことにも大変な衝撃を受けました。巡礼に参加することで、これまで考えたこともなかったさまざまな事実を知りました。

最も印象的だった収容所は、トゥールレイクとハート・マウンテンです。トゥールレイクは、多くの活動家やコミュニティーリーダーが入っていたことで知られる監獄があります。その場所は、収容所の人達の間では冗談で「刑務所内の刑務所」と呼ばれていました。でも実際は、施錠するドアすらない収容所内の刑務所に留置されていました。その刑務所には最も反体制派の人々が送られたといいます。

ハート・マウンテンでは、元下院議員のノーマン・ミネタとアラン・シンプソンという2人の著名な政府指導者が登壇し、過去の経験について語りました。それぞれカリフォルニア州とワイオミング州の政治家として活躍をしましたが、実は戦中に知り合ったんです。ミネタがハートマウンテンで収監されていた際、彼のボーイスカウトのリーダーが隣接するグループにジャンボリー(ボーイスカウトで行われるキャンプ大会)に参加するよう呼びかけました。最終的に1つのグループが参加することに同意し、ミネタとシンプソンはペアを組んで様々な競技に参加しました。それから20数年を経て、ミネタがカリフォルニア州・サンノゼ市長に選出された時に、シンプソンがミネタ宛に祝辞の手紙を書いたことがきっかけで交流が再開。その後もミネタは民主党員として、シンプソンは共和党員で政治理念が異なるにも関わらず、さまざまなプロジェクトで協力しました。

ハート・マウンテンには、他にも多くの日系人の功績が伝えられています。ロサンゼルスのリトル・トーキョーに今もある創業120年の洋菓子店「風月堂」の親族が収容されていた時、配給された砂糖でおやつを作っていたことや収容所の兵舎の下に暗室を作り、当時の記録写真を多く残し、保存したヒラハラ家の人々も精励な活動家として知られています。巡礼に参加する最も重要なことは、その時代を生きた日系二世の親戚や家族の友人と経験を分かち合うことです。先人達の忍耐力に深い敬意と賞賛の念を抱きますし、後の世代が暮らしやすいよう道を切り開いてくれたことに感謝しています。

さらに、日系アメリカ人にとって最も重要だった賠償請求に対し政府は1988 年、正式に謝罪し、生存者全員に20,000ドルが支払われています。

−−日系アメリカ人が体験してきた歴史には、人種や世代を超えて悲しみや怒りを覚えます。より希望に満ちた未来のために、この歴史から学べることは何でしょうか?

イワサキ:私の曽祖父は、1916年にオレゴン州・ヒルズボロで農業を始めました。1942年に新しい家を建設中でしたが、「大統領行政命令9066号」の発令によって、立ち退きを余儀なくされたため、地元の医者に貸したものの家賃が支払われませんでした。そこで、近所のドイツ系アメリカ人の酪農家、フロイデンタールさんが家賃を徴収し、管理してくれました。フロイデンタールさんの厚意により、私の家族の農場は現在も同じ場所に残っています。アメリカはドイツとも戦争状態にあったため、フロイデンタールさんは曽祖父達の状況を理解し、支援を申し出てくれたんです。

そして、フロイデンタールさんは、ヒルズボロのルーテル教会に通っていたため、祖父の弟が恩返しに、教会の建設に使用する大きな岩を粉砕し農場用トラックでヒルズボロまで運びました。この教会は現在もメインストリートにあります。教会は改修によって大きくなり、現在はヒルズボロ・パークス & レクリエーションの一部として、コンサート、レセプション、イベントが開催されています。後にフロイデンタールさんは財産を教会に売却しましたが、私達の家族や教会員との友情は継続しています。これは、個人が友情とアライシップで深く繋がり、お互いの境遇に配慮をした例です。

「your story is our story」日系アメリカ人の歴史を明らかにし、伝える多様なアーティスト達の活動

−−過去を振り返ると、多くの日系人アーティストがいます。すべてをあげることはできませんが、写真家のフランク・マツラ(1873~1913年)、画家でイラストレーターのミネ・オオクボ(1912〜2001年)、 そしてポートランドのオレゴン日系レガシー・センターの創設者で、アーティストのヴァレリー・オオタニが知られています。マツラは明治時代にアメリカに渡り、先住民や白人、黒人等あらゆる人種のアメリカ人を撮りました。オオクボは、自身の日系人強制収容所での体験をイラストとともに綴った書籍『市民13660号』で知られ、今も当時の体験を鮮明に伝える貴重な資料として読み継がれています。そして、オオタニはポートランドの日系人社会で大きく貢献した人物の1人として知られていますね。

イワサキ:組太鼓のグループ「ポートランド太鼓」と、2019 年と「JAMO」に改名された「オレゴン日系レガシーセンター」の創設者として、オオタニには大きな影響を受けました。オオタニのアート作品は家族の経験の影響が強く、人とアイデアを結びつけることに長けている人物でした。

ポートランドの日系アメリカ人の歴史を称えるオオタニのパブリックアート作品〈Voices of Remembrance〉は、投獄された家族を表す金属製のタグが付いた鳥居のオブジェで、風が吹くとタグがチャイムのように優しい音を奏でます。この作品は、1942年に最初の日系アメリカ人が収容された「ポートランド・アセンブリ・センター」に所蔵されました。現在はエキスポセンターと名称が変わりましたが、今も多くの人が訪れています。(〈Voices of Remembrance〉は現在修復中で、2025 年に再び設置される予定)

−−映画監督のベス・ハリントンやアーティストのジュリアン・サポリティ等、日系アメリカ人の意思を受け継ぐ非日系アメリカ人アーティストの存在もあります。ハリントンは現在、前述した写真家のマツラの生涯を追ったドキュメンタリー「Our Mr. Matsura」を制作中です。また、ポートランド在住のベトナム系アメリカ人のソングライターのサポリティは、音楽プロジェクト「No-No Boy」を立ち上げ、ベトナム戦争を生き抜いた自身の家族の歴史や日系人を含めたアジア系アメリカ人の体験からインスピレーションを得た楽曲を多く発表していますね。

イワサキ:学ぶべきことは非常に多いです。ハリントンのおかげでマツラの存在を知りました。マツラは、日系移民がアメリカ社会の一員となった軌跡を残した人で、写真を通して周辺地域の生活や複数の先住民部族の人々等の日常生活を記録しました。この写真がなければ、当時の生活を知ることはほとんどできなかったでしょう。新しいコミュニティーに意欲的に入っていき、さまざまな交流をすることに成功した多くの日系一世がいました。コミュニティーにおける文化の多様性を尊重していた当時の日系アメリカ人の活動には、知れば知るほど刺激を受けています。

サポリティの「No-No Boy」 は重いテーマを掘り下げていて、パフォーマンスでは古い写真も使われています。ある曲のMVで見た、戦時中、線路に寝そべる日系アメリカ人男性の姿がとても印象に残っています。繰り返しになりますが、戦争と人種差別が、収容所に投獄されたすべての人達にとってどれほど辛い体験であったかを理解しました。

このような魅力的な作品が存在するにもかかわらず、人種差別は続いています。私達は過去を学び、同じように人種差別と戦う志を持つ人達や組織とともに声を上げて、関係性とパートナーシップを構築し未来に向けて行動を起こす必要があります。

Cooperation: Jana Iwasaki&James Rodgers, JAMO
References: Densho. Preserving Japanese American stories; Japanese American Museum of Oregon. Oregon’s Japanese Americans: Full documentary; Portland State University and the Oregon Historical Society. Japanese American incarceration in Oregon digital exhibit; U.S. National Park Service. Manzanar National Historic Site.

author:

NAO

スタイリスト、ライター、コーディネーター。スタイリスト・アシスタントを経て、独立。雑誌、広告、ミュージックビデオなどのスタイリング、コスチュームデザインを手掛ける。2006年にニューヨークに拠点を移し、翌年より米カルチャー誌FutureClawのコントリビューティング・エディター。2015年より企業のコーディネーター、リサーチャーとして東京とニューヨークを行き来しながら活動中。東京のクリエイティブ・エージェンシーS14所属。ライフワークは、縄文、江戸時代の研究。公式サイト

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