「ノーマ」から派生して発展し続けるコペンハーゲンの食文化と日本食の関係

コペンハーゲンが食の発信地として知られるようになったのは、ニュー・ノルディック・キュイジーヌ(新北欧料理)を生み出したレストラン「ノーマ」の誕生がきっかけである。2003年にオープンし、10年以降4度にわたってレストラン誌「世界のベストレストラン50」で1位に選ばれた実績を持つ同レストランは、デンマークの食文化の歴史を塗り替え、食を通じて世界にポジティブな変革をもたらした。今なお大きな影響力を持っているが、特筆すべきはそこから派生して発展し続ける食文化である。ミシュランの星を獲得するデンマークのレストランは毎年増え続けており、ワインやビール、その他ある食材に特化したバー、多種多様で多国籍なテイクアウトなど、ガストロノミー以外にも外食の選択肢は広がり、街を活気づけている。


中でもデンマーク人にとって新たな食との出会いをもたらしたのがメキシカンレストラン「サンチェス」だ。シェフのロジオ・サンチェスは「メキシコ料理とデンマーク料理は、対照的である。しかし経験を重ねるにつれ、大量のハーブや豚肉などの肉製品の使用など、いくつかの共通点があることがわかった」と「カルチャー・トリップ」のインタビューで語っている。アメリカ人の父とメキシコ人の母を持つ彼女はシカゴで生まれ育ち、ニューヨークの星付きレストランで経験を積んだ後、「ノーマ」のぺストリー・シェフとしてデンマークへと渡った。メキシコ料理になじみのないデンマークで本格的なメキシコ料理を広めるため、2015年「ヒジャ・デ・サンチェス」をオープン。かつて食肉市場だった空き倉庫が並ぶエリアの一角に、3種類のタコスのみを提供するスタンドとして誕生し、すぐさま「ヨーロッパのベスト・ストリートフード50」に選ばれると、2年後には2店舗目となるレストラン「サンチェス」を構えた。

同レストランでは、洗練された創作メキシコ料理を基盤とする5種類のコースメニューを提供する。季節ごとにメニューは変わるが、筆者が訪れた8月上旬は、まず野菜と鶏肉の出汁を利かせたライムのスープを意味するソパ・デ・リマでコースは始まった。トルティーヤのフライ、チェリートマト、コーン、シシトウの上に、ウェイターがスープを流し込む。少しの酸味とさっぱりとしたライムやハーブの香りが立つ、食欲をそそるスターターだ。鱈の身をトルティーヤで包み揚げし、キャベツ、カッテージチーズ、ソースをのせたプレートも酸味と甘味のバランスに加えてそれぞれの食材の新鮮な味が感じられるバランスが秀逸だった。

この時点で、メキシコ料理のB級グルメ的な大雑把な濃い味付けの魅力とは異なる、繊細さと奥深い一面に強烈に引きつけられた。次に運ばれてきた、ムール貝の出汁を使ったセビチェは、五臓六腑に染み渡る滋味深い味わい。海藻と豚肉のタコスでコースは締めくくられた。デンマークのレストランでは、複雑な味付けとなじみのない食材を使って、少し身構えて“なんとなく”おいしいと感じる経験も少なくないが、「サンチェス」では奥深さとともに食材本来の旨味も味わえることから、気取らない優しい料理に素直に美味しいと感じることができた。観葉植物にあふれた居心地の良い店内の空間と、気さくなウェイターのサービスも料理と相まって、最高のサービスである。

日本では、中国料理やイタリア料理に比べるとデンマーク料理はほとんど聞き慣れないかもしれないが、最も知られているのはデニッシュパンだろう。クロワッサンにも似たサクサクとした食感のパンは、その名の通りデンマーク発祥のパンである。街中にはたくさんのベーカリーが並んでいるが、「ノーマ」出身者によってそんなパン文化も大きく発展することとなる。「ノーマ」にパンを卸している「ハート・ベアリィ」や「ノーマ」系列レストラン「108」で出会ったシェフたちがオープンさせた「リル・ベーカリー」など話題店がこの2年で続々と登場する中、注目なのは「ジュノ・ザ・ベーカリー」である。

同店はノーマで6年シェフを務めていたスウェーデン出身のエミール・グラセアが、住宅地ウスタブロに2018年にオープンした。いつ訪れても行列を作っている人気はカルダモンロール。スウェーデンの伝統的なペストリーで外はカリカリ、中はしっとりの食感とやみつきになるカルダモンの香りに魅了され、デンマークではなじみのなかったカルダモンロールがブームとなっている。

エミールは料理を専門的に学んだことはなく、スウェーデンからデンマークに渡って「ノーマ」に加わり、シェフとして調理の経験を培った。その後4年ほどパリで暮らし、スウェーデン大使館のシェフとして務めた後、デンマークに戻り同ベーカリーをオープンさせた。その頃、ストックホルムで1ヶ月間、ベイカーの友人の手伝いをする機会に恵まれた。昨年、同ベーカリーから徒歩1分程度の場所にカフェ「アット・ザ・コーナー」を構え、サンドイッチやグラノーラなどの軽食メニューを提供している。ベーカリーもカフェも、店内に派手な装飾のないシンプルにデザインがデンマークらしい“ヒュッゲ(デンマーク人が考える、時間の過ごし方や心の持ち方を表す言葉)”を体感できる空間で、日本の侘び寂びにも通ずる美意識を感じる。「日本には何度も行ったことがあって、日本料理からもインスピレーションを得ている。ペストリーではそれを感じてもらえることはないかもしれないが、僕のマインドには確実に影響を与えているし、店内の引き戸や無駄を削ぎ落とした空間作りというのは日本からのインスピレーションが現れているかもしれない」とエミールは語る。

 コペンハーゲンの各レストランやベーカリーは各々に個性が際立ち、唯一無二の存在感がある。それでいて互いに共鳴し合うコミュニティの強さも感じられる。「『ノーマ』で学んだのは、競争ではなく“協奏”することの大切さ」とエミールは言い切り「互いがインスピレーション源となり、知識や経験を共有することで、各々が成長していける。そこに嫉妬などは存在しない、なぜなら比較すべきは他者ではなく常に過去の自分自身だから。『ノーマ』もさまざまあふれる。1人では成し得ないことでも、“協奏”すれば大きな成果となる。僕達がすべきことは、自分のベストを尽くすことなのだと『ノーマ』で教わった」と締めくくった。

“協奏”という思想には、北欧らしいアイデンティティがにじみ出ている。高い税金をわせて社会福祉、教育、労働を充実させて不平等を軽減させようとする国家の方針は、福祉国家型の資本主義に根ざしている。かつては輸出志向の経済だった小規模な北欧諸国は、1929年に起こった世界大恐慌と1930年代の厳しい景気後退に、他の欧州各国は安価な労働力として移民に頼ることができたが、移民の少ない北欧諸国は労働者競合組合を維持し、産業界の基盤を築いて自国の経済を回し続ける政策を実施せざるを得なかった。結果的に功を奏し、競争ではなく助け合い支え合う思想を構築させたのではないだろうか。競争の中で見いだせる幸せもあれば、共有することで分かち合える幸せもある。はっきりとした正解があるとは思わないが、おいしい食事を堪能できる時間は幸福である。カルダモンロールの甘美な香りを思い出しながら、これからも独自に発展していくコペンハーゲンの食文化に期待したい。

author:

井上エリ

1989年大阪府出身、パリ在住ジャーナリスト。12歳の時に母親と行ったヨーロッパ旅行で海外生活に憧れを抱き、武庫川女子大学卒業後に渡米。ニューヨークでファッションジャーナリスト、コーディネーターとして経験を積む。ファッションに携わるほどにヨーロッパの服飾文化や歴史に強く惹かれ、2016年から拠点をパリに移す。現在は各都市のコレクション取材やデザイナーのインタビューの他、ライフスタイルやカルチャー、政治に関する執筆を手掛ける。

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