福岡で特集上映される、タイの奇才アノーチャ監督 その過激で優美な迷宮映画の世界 連載「ソーシャル時代のアジア映画漫遊」Vol.2

Vol.1で紹介した、ナワポン・タムロンラタナリット監督『ハッピー・オールド・イヤー』は12月11日から日本全国で順次、劇場公開が決定した。めでたい。さらに現在、YouTube上でナワポン監督がBNK48と組んだ、GrabFood(東南アジアで展開されているフードデリバリーサービス)のCM動画も英語字幕付きで公開されている。そして、今回も前回に引き続きタイ映画から、奇才アノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督の「謎と逸脱」にあふれた迷宮映画について紹介したい。

過激で優美な迷宮映画を手掛ける奇才、アノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督

タイの反政府活動がますます熱を帯び、日本のメディアでもタイの高校生達が3本指のサインを掲げる映像を頻繁に見掛けるようになった。この人差し指・中指・薬指の3本指を合わせ、天に向けて手を突き出す“3本指サイン”は映画『ハンガー・ゲーム』(2012年)にならったもので、徐々に若年層まで、この抵抗の印が広がりつつある。一方、反政府活動の高まりに対して、政府側は8月24日に、Facebookに圧力を掛け、タイの君主制に批判的な非公開グループ「ロイヤリスト・マーケットプレイス」を閉鎖することに成功した。このグループを立ち上げたのは、現在日本に在住する、京都大学のパビン・チャチャバルポンプン准教授である。王室を支持する団体は8月25日、バンコクの日本大使館を訪れ、日本政府にこのパビン氏をタイへ強制送還するように申し入れた。
タイで反政府運動が高まる中、「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」(9月20日~24日)で、タイのアノーチャ監督の作品が特集上映される。
Vol.1のナワポン監督同様、アノーチャ監督も新作が完成するたびに、日本の映画祭で上映されているにもかかわらず、日本で劇場公開されるには至っていない。今回、福岡での特集を応援する意味を込めて、アノーチャ監督の過激で優美な迷宮映画の世界について、今回の特集につながった福岡市総合図書館フィルムアーカイヴの活動と合わせて書いてみたい。
まずは長編映画(合作を含む)を制作年順に書き出す。

劇映画『ありふれた話』(2009年/アジア・フォーカス福岡国際映画祭2010)
劇映画『暗くなるまでには』(2016年/大阪アジアン映画祭2017)
劇映画『クラビ、2562』(2019年/恵比寿映像祭2020

※『クラビ、2562』は、ベン・リヴァースとの共同監督

長編監督作が共同監督を含め、わずか3本。ナワポン監督と比較すると、寡作である。もっとも、理由の1つは傑作『暗くなるまでには』の完成に時間がかかったことが大きい。この『暗くなるまでには』については後ほどゆっくり触れる。 
今回の特集では、「アノーチャ・ショート・フィルム傑作選」と題して、短編映画7本も上映される。そのうちの1本『グレイスランド』(2006年)は、コロンビア大学映画学美術学修士課程の修了制作で、タイの短編映画として初めてカンヌ国際映画祭に公式選出された。

バンコク、夜の駐車場、BMWの運転席に煙草を吸っている赤いシャツの女性、助手席に白いつなぎを着た若い男性が座っている。2人は南へドライブに繰り出す。森の中の道で、突然、停車し、女性が直ぐに戻ると言い残していなくなる。男性は彼女の後を追うのだが……。登場人物やシーンの背景はほぼ提示されず、謎を残したまま、どんどんストーリーは予想外に逸脱していく。この謎と逸脱こそ、彼女の作品の特徴であり、最初期の作品から表れている。観客は映画が進むにつれ、着地点が見えず不安を覚え、戸惑うことになるだろう。ちなみに、グレイスランドとはエルヴィス・プレスリーの邸宅のことである。

長編デビュー作である『ありふれた話』はさらに謎と逸脱の迷宮度合いが増している。「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」のHPに掲載されているあらすじは、以下の通りである。

「エークは事故で下半身不随となった。介護士のパンが雇われ、屋敷の2階で暮らすエークの世話をする。自らの負の感情から脱することができず、エークは常に不機嫌で、父親とも口をきかない」。

ロカルノ国際映画祭での『ありふれた話』に関するインタビューにおいて、アノーチャ監督は、主人公エークの個人的な物語が、政治的・社会的な不安と不安定さを特徴とするタイの現状の暗喩であると明言している。父と息子の葛藤は、権力者と国民の葛藤を反映していて、エークが徐々に変化を遂げ、自分のハンディキャップとの折り合いをつけてゆく姿は、タイ国民の理想像を投影している。もっとも『ありふれた話』がありふれた映画でないのは、このタイの現状の暗喩である物語に、さらに生々流転、ひいては輪廻など、仏教の宇宙観を導入した点にある。監督は生々流転を強調するために、後半、時系列のシーンを極力削除して、より連想的かつ反復的な編集をした。
つまり、起承転結の結の代わりに転が配置され、起承転転と逸脱していく。逸脱につぐ逸脱により、観客の世界の足元は揺さぶられ、めまいと戸惑いが混ざり合う迷宮の悦楽こそ、アノーチャ監督作品の醍醐味だろう。

逸脱につぐ逸脱が前代未聞の作品『暗くなるまでには』

続く長編2作目『暗くなるまでには』は、タイ現代史のタブー(禁忌)、タマサート大学虐殺事件に挑戦した“問題作”である。1976年10月6日、タマサート大学において、抗議活動を行う左派学生や市民活動家達の集会を右派市民と治安部隊が強襲した、虐殺事件である。この事件は、写真家ニール・ウールヴィッチが撮影した写真で知られている。それは、多くの人々が見物する中で、ある男がパイプ椅子を木から吊るされた学生の死体に叩きつけようとする瞬間を捉えた写真である。
『暗くなるまでには』は、線香をあげて手を合わせる“追悼”シーンから幕を開ける。そして半裸の学生達が、銃を持った軍人達により床に伏せさせられている様子をスタッフが撮影している、メタなシーンが続く。タイトルバックを経て、虐殺事件を生き延び、後に作家となった女性を若い女性監督が訪問し、インタビューを行う。これまでの作品同様、観客にシーンや登場人物の背景をほぼ提示せず、謎を残したままこの作家と監督のエピソードから徐々に逸脱による浸食が始まる。『ありふれた話』と比較すると、逸脱の開始が早く、中盤を過ぎたあたりから、登場人物さえも切り替わり、ところどころの反復も含め、作品内の虚と実が激しく錯綜する。ただし、『ありふれた話』が男達に重点を置いていたのに比べて、『暗くなるまでには』では女達に重点を置いて、しかも温かい眼差しを注ぐことに関しては一貫している。『暗くなるまでには』は逸脱につぐ逸脱が前代未聞のレベルで、観客によっては評価がはっきり分かれるだろう。デヴィッド・リンチ、ジャック・リヴェット、そしてアラン・ロブ=グリエ監督作の逸脱、漸進的横滑りを超えたと高評価する観客がいる一方、観終わった後、困惑を通り越して、訳がわからないと怒る観客が出てもおかしくない。まさに上映事故クラスである。この『暗くなるまでには』という迷宮入り事件のような映画を体験した後では、共同監督作である『クラビ、2562』は軽妙になった反面、謎と逸脱のエッセンスが弱まり、アノーチャ監督作の過激さと優美さが薄まっている印象を受ける。

『暗くなるまでには』(2016)

『暗くなるまでには』は、タイの「第26回スパンナホン賞」では最優秀作品賞、監督賞、編集賞を受賞、「大阪アジアン映画祭2017」ではスペシャル・メンションを受賞した。しかし、1976年のタマサート大学虐殺から41周年を迎えた2017年10月6日、当局の命令により、バンコクのドククラブシアターでの記念上映会は禁止された。

公式の歴史から排除されたタブーを映画化してきたアジア映画

アジア映画史を顧みると、その国の公式の歴史から排除され、闇に葬られたタブーを映画化する試みの中で、それまでの映画史を刷新する表現が生まれてきた。台湾の白色テロはエドワード・ヤン監督の『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(1991年)で、韓国の光州事件はイ・チャンドン監督の『ペパーミント・キャンディー』(1999年)で、カンボジアはリティ・パン監督の『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』(2003年)、インドネシア大虐殺はジョシュア・オッペンハイマー監督の『アクト・オブ・キリング』(2012年)、そして中国の反右派闘争はワン・ビン監督の『死霊魂』(2018年)などである。もちろん、これら“問題作”以外にも、歴史のタブーに挑戦した映画は存在する。近年の例であれば、韓国の『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年)や、台湾の白色テロを題材にしたインディーホラーゲームの映画化『返校』(2019年)だろう。個人的には、タブーの映画化に挑戦した“問題作”が少ない国よりは多い国のほうが、映画そのもののバラエティが富んでいるように思える。
しかし、アジア諸国においてはタブーの映画化に挑戦した“問題作”に対して、国の公式の歴史観にそぐわないために、風当たりも強く上映が困難な国のほうが多数派である。福岡市総合図書館フィルムアーカイヴでは、アジア映画や日本映画、福岡と関係が深い映画資料を中心に計画的に収集しており、その中には制作国では上映困難なアジア映画の“問題作”も含まれている。当然、アノーチャ監督『ありふれた話』、『暗くなるまでには』(収蔵作品一覧では『いつか暗くなるときに』)も収蔵されている。
もし“問題作”が制作国での上映を禁じられ、フィルムやデータがいたずらに破壊されたとしても、福岡のフィルムアーカイヴでは大切に保管され、上映する機会を待っている。このアーカイヴの存在が、検閲下で悪戦苦闘するアジアの尖った映画人達に、ささやかな安心と勇気を提供しているのかもしれない。また今回の「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」では、刺激的な内容のためバングラデシュ国内では上映禁止となった『土曜の午後に』(2019年)や、ベトナムで未だ劇場公開されていない『樹上の家』(2019年)も上映予定である。いずれ、これらの“問題作”も福岡のフィルムアーカイヴに収蔵されるのだろう。残念ながら、昨今のコロナ禍でアノーチャ監督は来日しないが、このタイミングで多くの“問題作”を収蔵する福岡で、彼女の優美で過激な迷宮映画の特集が組まれたことは実に喜ばしい。可能であれば、日本での劇場公開につながり、彼女の稀有な“問題作”が全国の映画館に拡散することを期待している。

アノーチャ・スウィチャーゴーンポン | อโนชา สุวิชากรพงศ์
1976年、タイ生まれ。映画監督、脚本家、プロデューサー。コロンビア大学大学院美術学修士取得。2006年に修了制作した短編映画『グレイスランド』がタイの短編映画として初めてカンヌ国際映画祭に正式出品。2006年にスタートしたバンコクにあるインディペンデントの映画会社「Electric Eel Films」の設立者。ウィットチャーノン・ソムウムチャーン監督『4月の終わりに霧雨が降る』(2012年)、プアンソイ・アクソーンサワーン監督『Nakorn-Sawan』(2018年 日本未公開)のプロデューサーも務めている。

Pictures provided Focus on Asia Fukuoka International Film Festival

author:

坂川直也

東南アジア地域研究者。京都大学東南アジア地域研究研究所連携研究員。ベトナムを中心に、東南アジア圏の映画史を研究・調査している。近年のベトナム娯楽映画の復活をはじめ、ヒーローアクション映画からプロパガンダアニメーションまで多岐にわたるジャンルを研究領域とする一方、映画における“人民”の表象についても関心を寄せる。

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