「レクサプロの時代の資本主義」に抵抗すること――木澤佐登志が読み解く、デヴィッド・グレーバー 『ブルシット・ジョブ』

この9月に惜しくも急逝した、1961年ニューヨーク生まれの文化人類学者・アクティヴィスト、デヴィッド・グレーバー。今夏に邦訳が刊行された彼の著書『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』が、「必読の一冊」として各所で話題となっていたのを記憶している方も多いことだろう。

なぜ、私たちは今この書物を読むべきなのか。はたして、そこには何が綴られているのか。本稿では、『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』などの著書を持つ 気鋭の論者・木澤佐登志が、Oneohtrix Point Neverの音楽とマーク・フィッシャーの思想を糸口としながら、困難な時代の「次」を考えるための慧眼に満ちた同書を読み解いていく。

Photography Kazuo Yoshida

Oneohtrix Point Neverが奏でた「レクサプロの時代の愛」を聴きながら

「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」と誰かが言った。それを受けて、ある評論家は「資本主義の終わりより世界の終わりを想像するほうがたやすい、なぜなら資本主義とは世界の終わりだからである」と付け加えた。

世界の終わり――後期資本主義というこの世界の終わりではどのような音楽が鳴っているのだろうか。この現実という終末にもっとも相応しい音楽とはどのようなものだろうか。

Oneohtrix Point Never「Love In The Time Of Lexapro」

いま、私はOneohtrix Point Neverの「Love In The Time Of Lexapro」というトラックをiTunesでリピート再生しながらMacBookのバタフライキーボードをタイプしている。「レクサプロの時代の愛」。レクサプロ、別名エスシタロプラムシュウ酸塩。デンマークのルンドベック社が開発した、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)と呼ばれる抗うつ薬の一種。SSRIは神経伝達物質セロトニンの細胞内への再取り込みを阻害することで脳内のセロトニン濃度を上昇させる。セロトニンはしばしば愛情に関わる脳内物質であると言われる。私たちは心療内科で処方されたレクサプロを服用することで愛が何であるかを知る。それがレクサプロの時代の愛、現代という世界の終わりにおける愛の形である。そして、愛とは結局、朝ベッドから起き上がることのできるエネルギーであり、部屋に散らかったゴミを所定のゴミ箱にひとつひとつ投擲することのできる体力であり、三日に一回程度は風呂に入ろうとする気構えのことである、ということを私は知った。レクサプロのインド製ジェネリック剤を舌の上に載せたときの軽い苦味、それこそが愛の本源であることも、また知った。しかし、愛や幸福といった主観的な感情が、そうした脳内の神経伝達物質による化学作用の効果でしかない、という唯物論的な現実がもたらす空虚な感覚だけは、レクサプロで取り除くことはどうしてもできなかった。

マーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』で綴った、うつ病の増加要因とは

2017年にみずから命を絶った批評家マーク・フィッシャーは、著書『資本主義リアリズム』のなかで、うつ病の社会因が顧みられず、脳内の物質論へと素朴に還元される現代の支配的な情況に警鐘を鳴らしている。そこではうつ病などの「脳の病」は、すべて自己責任のスティグマを押され、その結果、個人はさらに疎外され、孤独化していくという悪循環に巻き込まれていく。うつ病がセロトニン濃度の低下によって引き起こされるという主張を受け入れることは可能だ。だが、なぜ特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されなければならない。そこに、労働環境や貧困などの社会的な要因が横たわっていると想定することは何ら不自然ではない。

マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』

フィッシャーによれば、うつ病の増加には、労働の現代的なあり方とも明らかに関わっているという。彼はそれを「新しい官僚制」と名付けた上で、こう指摘する。新自由主義を掲げる現代資本主義において、お役所的な形式主義にまつわる些事がむしろ増加している、と(これは後述するデヴィッド・グレーバーがまさしく「ブルシット・ジョブ」と呼んだものだ)。「目的と目標」「結果主義」「ミッション・ステートメント」をめぐる新しいタイプのマネージメント型官僚主義の浸透。

「そこでは、労働者間のパフォーマンスやその成果が直接的に比較されるのではなく、むしろ、監査されたパフォーマンスやその成果の表象が比較されるのだ。このやり方では必然的に回路にショートが発生し、実際の仕事内容は、仕事の公式な目標の達成ではなく、それらしき表象を生み出しそして操作していくことへ変容する」。

形式的な監査システムや自己評価システムは労働者に自傷的な自己批判を強いる。絶えざる監視と、監査を見越して余分にこなさなければならない煩雑かつ空虚な書類仕事のなかで、人はどうしもような無能感の連鎖にやがて落ち込んでゆく。

デヴィッド・グレーバーは「生産性」という至上命題を疑う

2020年9月2日に逝去した人類学者デヴィッド・グレーバーは、著書『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』のなかで、イギリスの世論調査が実施した「あなたの仕事は世の中に意味のある貢献をしていますか?」という質問に対して、驚くべきことに三分の一以上――37%――が「していない」と回答したという結果を報告している。実に多くの労働者たちが、自分の仕事には何の意味もないと自覚した上で、それでもなお働かざるをえないという状況があるのだ。

デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』

グレーバーは、彼自身が造語した「ブルシット・ジョブ」というタームについて、次のような定義を与えている。「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」。

「ブルシット」(Bullshit)という語には、嫌なもの、不必要なもの、という意味の他に、うそ、ほら、でたらめ、たわ言、といった意味も含まれる。すなわち、ブルシット・ジョブとは、文字通り、不必要な仕事であり、その上、欺瞞とたわ言で塗りたくられた仕事、というわけだ。

上司と部下の間でなされるサディズムと服従。取り繕うだけの目的のために生産される膨大かつ虚無のペーパーワーク。ブルシット・ジョブの巣食う官僚主義的な管理部門の肥大化。そこでは、本当に必要とされている仕事はなおざりにされ、誰もが「意味がない」と自覚しているブルシット・ジョブだけが不条理にも増殖していく。現代の――レクサプロの時代における――資本主義はこのように作動している。

なぜこうなったのか。なぜブルシット・ジョブは一向に減らないのか。その理由はいろいろ考えられるだろう。その一つとしてグレーバーが挙げているのは、たとえば「労働は道徳的行為である」といった、人間本性にまつわる(おそらく誤った)諸観念である。もちろん、このテーゼは正しくない。古代ギリシアにおいては、労働は忌むべきものであり、なるべく避けるべきものとされた。労働が原罪によって呪われた人間の義務となり、神聖な価値観すら帯びはじめるのは、西洋においてキリスト教が誕生してからのことにすぎない。そこでは(聖書の記述に従って)「生産性」が至上命題とされた。神は男性には土を耕すよう命じ、女性には子どもを産むよう命じたのだ。ここから、痛みを伴う「労働」、神に対する負債を返済するための「労働」、すなわち義務としての崇高な「労働」という観念が生まれる。そして反対に、働かない人間はどこまでも怠惰でかつ倫理に反する人間として断罪されることになる。仕事、それはみずから進んで行う苦行であり、罰であると同時に贖罪である。

労働をなくすことは不可能である、労働は必然である、とする臆見(ドクサ)に、宗教的な根拠以外はない、と言うべきである。少なくとも、苦痛を伴う労働――ブルシット・ジョブ――をなくすことは、今すぐにでも充分実現可能である、とも(たとえばグレーバーは普遍的ベーシックインカムを提唱している)。

資本主義のもとでの、ありとあらゆる脅迫的な「生産性」への志向に対して、白痴化寸前にまで高められた「無為」を対置すること。無為、それは労働に抗う唯一の労働。純粋な無為は、それ自体で革命的でありうる。

author:

木澤佐登志

1988年生まれ。文筆家。インターネット文化、思想など、複数の領域に跨る執筆活動を行う。著書に『ニック・ランドと新反動主義:現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』(星海社新書、2019年)、『ダークウェブ・アンダーグラウンド:社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』(イースト・プレス、2019年)がある。 Twitter: @euthanasia_02

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