遠回りしても信じたいもの 「クードス 」「スドーク」のデザイナー工藤司が語る「人を想い、一緒に記憶をつくること」

メディアには姿を現さない「クードス(kudos)」「スドーク(soduk)」のデザイナー・工藤司は、実際に会ってしゃべると実にチャーミングで、おしゃべり上手だ。沖縄・那覇で仕立て屋に通う祖母のもと生まれ育ち、高校で留学したアメリカでともに過ごしたホストファミリーに背中を押され、ファッションデザイナーへの道を決意するものの紆余曲折を繰り返し、やっと今メンズブランド「クードス」、ウィメンズブランド「スドーク」のデザイナーとして東京を拠点に活動する。

いつも曲折の曲がり角には、彼の人柄に惹き寄せられた誰かしらがこれ以上迷子にならないように工藤の手を強く導き、彼の可能性をさらに引き出してきた。二足でも三足でもわらじを履くことがあたりまえとなったこの現代に、彼はファッションデザイナーとして服を通して人を想像し、そして写真家として瞬間を通して記憶を保存する。

——沖縄・那覇で生まれ育った後、アメリカ、アントワープ、パリとさまざまな地を巡り、3年前に帰国して自身のブランドを立ち上げました。ファッションとの最初の接点は、幼少期に祖母と通った仕立て屋だと伺いました。

工藤司(以下、工藤):そうですね。祖母がとにかく服が好きで、一緒に那覇の古びた商店街にある仕立て屋によく通っていました。当時は「ファッションデザイナー」という存在すら知らなかったんですが、幼いながらも、ただの布だったものが1~2ヵ月後に行くと服として形になっていたのが、まるで魔法みたいに衝撃的でした。

——その体験を機に、ファッションへ興味を持ち始め、その後さまざまな国でのキャリアを積んでいます。紆余曲折がある中で、それでも「ファッションデザイナー」への道を諦めなかった理由はなんだったんですか?

工藤:高校で2年間アメリカ留学した時に出会ったホストファミリーとの体験ですね。沖縄にいる時は勤勉でちゃんと就職することを考えていました。でもそのホストファミリーと生活している中で、正直に自分がファッションを好きなことを伝えたら、すごく肯定してくれて。そこで、本当にやりたいことがあるって悪いことじゃないんだって自分の心を解放できた大きなターニングポイントでした。

——16〜18歳といえば、人生観や趣味嗜好のコアな部分が決まる年頃ですね。

工藤:よく春夏シーズンで出すパーカーやロンTなどのグラフィックの載せ方も、そのホストファミリーからの影響があって。日本にいた頃はJ-POPのアイドルが好きだったんですが、ホストファミリーは24時間各々の部屋でMTVを流すほどヒップホップが大好きで、僕もその影響でヒップホップやR&Bにハマっていきました。今でもそのカルチャーが僕の核にあって、「クードス」でもそのヒップホップのカルチャーからインスパイアされたアイテムを出しています。そうすると「ブランドの世界観としてストリートなのかモードなのか」と問われてしまうんですけど、僕はどっちも好きだし、根底にはやはりヒップホップのカルチャーがあるんですよね。

——10代で出会ったホストファミリーからの後押しがあり、高校を卒業して服飾の学校に入ると思いきやここでも曲折がありますね。

工藤:当時アメリカのドラマ「Project Runway」に感化されて、パーソンズに入学するつもりだったんですが、親の説得により帰国して。最初は文化服装学院に入学しようと思ったのですが、学校見学に行ったらそのレベルの高さに圧倒されて。結局早稲田大学に入ったんですが、なかなか東京の大学の雰囲気に慣れず、「早稲田大学繊維研究会」にも入れず。それでも「ファッションデザイナー」の夢も捨てきれず、「大学卒業したらもう一度留学して服飾の勉強をしたいな」とも考えていました。そうして卒業後、無事ベルギーのアントワープ王立芸術学院に入学しました。それで入学して周りを見渡してみると、1年生で全く服が作れなかったのは僕だけでした。

——競争が激しいヨーロッパ圏の大学では、なおさら挫折してしまう体験……。

工藤:と思ったら、クラスの友達が支えてくれて。例えば課題提出の時、現在「ボッター(BOTTER)」のデザイナーとして活動するルシェミー・ボッター君によく手伝ってもらって(笑)。もちろん先生には見抜かれてしまうんですけど……。学年の集大成としての課題発表の時も、クラスの友達10人くらいが家に来て応援してくれて。結局僕は作れないから、とにかくお茶やお菓子を出したり励ましたりする感じで。今振り返るとその頃から、他力本願なところがありますね(笑)。

「ジャックムス」での経験が、デザイナー像に影響

——工藤さんの人徳が感じられますね(笑)。その後、パリで「ジャックムス」や「Y/プロジェクト」、ロンドンで「JW アンダーソン」で働くに至るにはどのようなきっかけがあったのでしょうか?

工藤:結局、課題提出したものの、先生に自分で作っていないのを見抜かれてしまって。辞めるか、もう1年やり直すか決断するタイミングで、なりたいデザイナー像として思い出したのが祖母と通った仕立て屋の光景でした。そこでパリのパターン学校に行くことを決めて、「ジャックムス」でインターンシップも始めました。その後、「Y/プロジェクト」ではパターンアシスタントとして、「J.W.アンダーソン」ではデザインアシスタントとして働きました。

——さまざまなブランドを経験した中で、デザイナー像として一番影響を受けたブランドはどこですか?

工藤:「ジャックムス」ですね。「一番最初に経験を積んだブランドで、自分のデザイナーとしてのパーソナリティが決まる」ってよく言われる話なんですが、当時、2016年春夏シーズン後に注目され始めていた一方で、ブランドチームとしては5人しかいない時期。デザイナーのサイモン(・ポート・ジャックムス)はアイデアをどんどん出しては、たまにコーヒーを出してくれたりして、ファミリー感が強かったですね。5人しかいないから僕も必然的に手を動かさなきゃいけなくて、学校よりも実践の場として勉強になったし、デザイナー像としても、サイモンの人柄に影響を受けたような気がします。

——ちょうどその頃のパリは「ヴェトモン」の台頭、Instagramを通したストリートキャスティングによるモデルの登場などさまざまな変化がパリに訪れた時期でもありますよね。

工藤:そうですね。スモールブランドが切磋琢磨する時代でした。「VETEMENTS」って書かれたレインコートが後ろ指さされていた頃から、半年後にはそれがプレシャスに変わった光景を見たり。僕の周りにも、同じくファッションデザイナーとして活動する「サーロイン」の(宇佐美)麻緒ちゃんが「ルイ・ヴィトン」で、「ユウキハシモト」の橋本くんが「メゾン・マルジェラ」で、「コウタ・グシケン」の具志堅くんが「ディオール」で、「ワタル トミナガ」の航くんは美術館のレジデンシーで、各々がブランドや活動のもとで暮らしていて。今思うとかなりホットプレイスでした。みんなが今、東京などで活躍していて、それも嬉しいですね。

——そうした刺激を受ける中で、パリにいる頃から自身のブランドを立ち上げようと構想していたんですか?

工藤:逆で、むしろファッションデザイナーとしては自分より才能がある人がいっぱいいるなと疲れてしまったんです。自分でデザイナーとしてブランドを立ち上げるよりも、アシスタント的な立ち位置で関われればと思い始めていました。一方で、写真は大学生の頃からずっと撮ってきたので、それであれば好きなファッション誌で仕事ができるかなと思ったんです。それで帰国後、最初に「FREE MAGAZINE」の山﨑潤祐さんのところに写真のポートフォリオを見せに行きました。そこで服も作っているという話になり、写真よりも服をすごく気に入ってくれて、その場でPR会社に連絡してくれたんです。それでブランド名もない段階で展示会に出すことが決まってしまって(笑)。無名のままスタートして、スタイリストさんが雑誌の撮影で使ってくれたりはしたんですが、量産の仕方も服の売り方もわからない最初の半年間でした。

———でも、これもまたみんなの後押しがあって夢が叶った瞬間ですね。

工藤:確かに。今まで人の描いたデザインをみんなで作ることが基本で、全く自分でデザイナーをやると思ってもいなかったから、恥ずかしかった反面、自信にもなりました。

写真と服作りにおける「完成」の違い

——これまでの話を聞くと、ファッションデザイナーとしての工藤さんは、人とのコミュニケーションが最後の決断にも影響しているような気がしています。一方、写真はシャッターを切ること自体、かなり自発的なことですよね。服づくりと写真を撮っているときの気持ちに違いはありますか?

工藤:写真を通していつも思うのが、あとから振り返った時に、この人とこの風景となんて美しい瞬間を一緒に過ごしたんだろう、って泣きそうになる時があるんです。そういう意味でとても刹那に、時に悲しくなりながらシャッターを押すんですよね。もうこれは過去のものだって(笑)。それは、服を作っている時に感じるプロセスメイキングな時間軸とは全く違うような感じがあります。どちらも相手のことを想ったり、対象があったりしてこそ成立するという点では共通しているんですけど、写真を写す時にはその時点で完成も決めてしまうような潔さもあります。

——服作りにおける「完成」のタイミングはいつでしょうか?

工藤:服は終わりが見えないから、相手が着るという風景まで見られることがなかなかない。その想像力の豊かさみたいなもののラグジュアリー感ももちろんあるし、逆にドキドキすることでもあるんですけど。それこそ時間差で、街の中でたまに僕が作った服を着ている人を見ると、その瞬間にやっと僕の中で一枚の撮影が終わる感覚がありますね。

——「クードス」のシーズンビジュアルも工藤さんご自身が撮影されていますね。モデルもプロではない人を起用したりしてこだわりを感じます。

工藤:モデルに関しては、知っている人というか、関係値がある人でないとうまく撮れないんです。自分で撮影する時は、コミュニケーションを重視していて、モデルのキャスティングは非常に重視していますね。それが「クードス」らしさにつながっているのかも知れません。

—メンズ、ウィメンズウェアを手がけている中で、共通して今後どのような美意識を持った服を作っていきたいですか?

工藤:「人の垢」が残っている服です。僕自身、そもそもハイブランドよりも「たんぽぽハウス」やパリの古着屋「ゲリソル」に行って、雑多な中から自分が好きなものを選ぶタイプだから。例えばお客さんが新作ではなく、ファーストシーズンの服を本人のスタイルに馴染むように着てくれてたりしていて。その延長線上で、数年後に自分でもつい「その服どこの?」って聞くくらいに服がその人のものになっていたら嬉しいかな。

——コロナの影響もあり、今年を境に、今までよりも人の手に服が行き渡るスパンが変わってきそうな気がしますが、今後はどのようにコレクションを展開していこうと考えていますか?

工藤:ファッションは脆いシステムにあることを理解しながら、今後どのようにやっていくべきか模索中ですね。実は、今回のコレクション(2021年春夏)から海外でも展示会をやろうと思っていたから尚更。春夏、秋冬とは今後言わなくなるだろうなと思いつつ、理想は毎月季節に合わせて数型ずつ出していきたいなと思っています。

——パリでハイブランドとともにストリートでの様子も変わってきたこの数年間を見て、帰国後の今、東京のファッションシーンをどう感じていますか?

工藤:しばらくノームコアやカジュアルなスタイルが続いていたけど、最近20代前半の子たち中心にもう一度服が好きな子達が集まってきている気がしていています。Instagramを通してストリートキャスティングされた日本人モデルの子達がパリのブランドで歩いて、帰国後に同年代の仲間達と一緒にシーンをつくって朝まで遊んじゃうみたいな。コロナでこの先はまだまだ不透明ですが、そんな「いい東京」が戻ってきている感じがします。

工藤司
沖縄県出身。早稲田大学卒業後、ベルギーのアントワープ王立芸術アカデミーに進学。中退後に渡仏し、パリの「ジャックムス」でデザインアシスタント、「Y/プロジェクト」ではパターンアシスタントとして経験を積み、その後渡英し「JW アンダーソン」のデザインアシスタントを経て2017年に自身のブランドである「クードス」を立ち上げる。2018年にはウィメンズ「スドーク」をスタート。写真家としても活躍。今秋に出版事業「TSUKASA KUDO PUBLISHING」を始動し「TANG TAO by Fish Zhang」を出版。
https://kudoskudos.co
Instagram:@tsukasamkudo

Photography Kisshomaru Shimamura

author:

倉田佳子

1991年生まれ。国内外のファッションデザイナー、フォトグラファー、アーティストなどを幅広い分野で特集・取材。これまでの寄稿媒体に、「Fashionsnap.com」「HOMME girls」「i-D JAPAN」「Quotation」「STUDIO VOICE」「SSENSE」「VOGUE JAPAN」などがある。2019年3月にはアダチプレス出版による書籍『“複雑なタイトルをここに” 』の共同翻訳・編集を行う。CALM&PUNK GALLERYのキュレーションにも関わっている。 Twitter:@_yoshiko36 Instagram:@yoshiko_kurata https://yoshiko03.tumblr.com

この記事を共有