映画監督・三宅唱の1ディケイド 星野源のMV考察から始まる、“映画”を作り続けられる理由について

今時、フィルムでなければならないとか、鑑賞は映画館でなければならないといった、映画に対して断固とした決めつけをする人は珍しいと思う。が、しかし、この9月に映画館の入場制限が緩和されたとはいえ、半強制的な自粛のせいで娯楽は自宅のPCやテレビの中に収まり、ネットの動画配信サービスでは映画作品とお笑いの賞レースが同時表示され、結果、後者に誘われてしまうという状況になり、人との話でたびたび「映画ってなんだ?」という定義の探り合いをする羽目に陥っている。これは三宅監督と余談で話していたことだが、動画配信サービスで映画作品を観たとしても、かいつまんで見る、男子なら分かってくれるであろう(前置きをすっ飛ばす、あの)アダルトビデオ形式の見方をしてしまう。少なからず映画を特別視し、休みがあれば映画館に赴き、繰り返し観たいものはDVDがリリースされたらワクワクしながら必ず購入していた身としては、何ともだらしない有様である。せめてもの救いは三宅監督がやんわりと同意してくれたことくらいだ。

映画の起源における通説は、35mmフィルムの規格(デファクトスタンダード)を作ったアメリカ式のエジソンと、グラン・カフェの地下で上映、興行をしたフランス式のリュミエール兄弟に2分する。しかし、多くがデジタルに置き換えられ、視聴環境を問わなくなったため、いずれももはや、忘れられた過去になり、定義からは外れているだろう。車だってエンジンはモーターに代わりつつあるし、ハンドルは使わなくて済むようにもなってきているし、紙の地図は不要だし、歴史が100年もあれば、ツールやメディウムはどんなものであれテクノロジーによって変わっていく。では、映画を“作品”たらしめている本質は何か。

基本のキにあえて立ち戻って言うと、やはり構造、モンタージュ(≒編集)の妙になると強く思う。モンタージュという技法の裏打ちとなっているのは、フェルディナン・ド・ソシュールが19世紀の後半に確立した言語活動に関する理論である。詳細に説明することは避けるが大雑把に記せば、ソシュールはもともとは関連していない言葉をある文法規則に基づいて結びつけることが言語活動だと言った。現代の映画に置き換えると、ストーリーの全体像や圧倒的なスペクタクル、感動や驚きだけでなく、ショット、その構図、その台詞、あるいはその他の音(=以上が言葉)同士の組み立て(=結びつけ)の意図を探り、考えてみることこそが、映画の楽しみであり、鑑賞後に誰かと議論するべきテーマなのではないだろうか。故に、巻き戻したり、かいつまんだりすることができない映画館での鑑賞は、フルコースのようにぜいたくで尊い。

三宅監督の近作と言えば、Netflixオリジナルの連続ドラマ『呪怨:呪いの家(以下、呪怨)』(2020)が挙げられる。しかし、未見であれば、もしくは注視していなければ、自粛期間中に初めてDTMにトライして作り上げたという星野源の楽曲「折り合い」の三宅監督によるMVもよく観て欲しい。

会いたくても会えない、それでも日付は更新されていくといった甘酸っぱくも切なくもある歌。その内容と心情に一見、男女は呼応しているようで、実は全く関係がないようにも見え、さらには2人の時間が平行しているようで、していないようにも思える。つまり、分裂された時間、空間、2人の物語、それぞれをこまめに作り上げ、メタ・アイソレーションを組み上げているとも考えられるのだ。星野源のこれまでのMVと比較すると全く派手ではない同作に対して、三宅監督は「今までは、映画とMVを少し分けて考えているところがあったんです。主役は音楽だから、そこに映画をブツける必要を感じないというか、MVはMVとしてトライするのが好きで。でも今回は、楽曲や制作背景などを聞いた上で半ば直感的に、新作映画のようなつもりで撮らせてもらいました」と言っていた。それ以外、詳しくは尋ねていないが、映画監督として、“映画作品たらしめている本質”に忠誠をもち、それを非常にさりげなく主張しているように感じた。そういった態度を、三宅監督は活動当初から取ってきたような気もする。あからさまにすることなく。「折り合い」のMVは最新の端的なリファレンスだ。

ジャン=リュック・ゴダールのことを引用し、三宅監督の態度が歴史的に見ても正しいという気取った断定は、いささか躊躇するので控えたいのだが、残念ながら他の例がパッと思いつかない。

「ゴダールの映画とはじっさいどのような映画なのか。それは映画のハリウッド的約束事を一から問い直し、『経済的にも美学的にも』、またイデオロギー的にも物語的にも非ハリウッド的な映画をつくることである。たとえば『彼女について私が知っている二、三の事柄』の冒頭で、ナレーターは売春する主婦を観客に紹介するが、同時に、彼女がだれによって演じられているかも説明する。それによって映画は物語の水準(売春をする主婦の物語)とそれを可能にする「現実」の水準(仕事をする女優の「物語」)という相反するふたつの水準を同時に語りはじめるのである。~中略~(ゴダールの映画は)ハリウッド映画帝国が提供するいかなる視覚的幻惑も物語的快楽も否定する。~中略~『(ゴダール作品はハリウッド映画の)兄弟であり同志であり友であるような映画』である」(加藤幹郎著『映画の論理―新しい映画史のために』 2005年、みすず書房刊より)

ゴダールは、映画は音と映像の組み合わせでしかないと言い切り、それを強調するために従来の構造を解体する作品を数々作り、唯一無二の革命的な存在となった。それと三宅監督作品は同じなんていう無謀なことを言ってしまったら、シネフィルの方々に怒られてしまいそうだが、モンタージュの妙を重んじているからこそ、ヒューマンドラマを作ろうが、ホラーを作ろうが、ラッパーのドキュメンタリーを作ろうが、すべて三宅映画になる。さらにいうと、三宅映画の外面は綿密に構成された純粋なストーリーテリングで、“実験的”とレッテルを貼られがちなゴダールのものやその他とは異なり、スッと鑑賞者を引き込ませる魅力をもつ点、丁寧に作られた1カットの連携にすごみがあり、最大の特徴だと感じている。故に、秘めたるものは覆い隠されておりわかりにくい。また三宅監督は、印象に残っている作品として『アポロ13』や『ジュラシック・パーク』などを挙げ、あっけらかんと「あーいうの、やっぱヤバいよね」とか「いつかやってみたい」とか言うのだが、たぶん本意じゃない、否、リスペクトは込めているだろうが、おそらく作らないと思う。

以上の考えはインタビュー後に悶々と考えていたことで、実は長編デビュー作の『やくたたず』(2010)からちょうど10年が経ち、Netflixという巨大なプラットフォームの仕事をし、メジャーアーティストのMVまで手掛け、状況が大きく変わったんじゃないですか? という筆者の浅はかな勘違いからくる投げかけからスタートした。しかし、取材を快諾してもらった後、三宅さん(親しみを込め、以後、こう表記する)も「それをまず正そうと思っていた」とインタビュー冒頭に笑いながら話してくれた。三宅さん本人が秘めている考えは何なのか。

映画は瓦礫のような現在から思い切り脱却できる

――怒られるかもしれないですが、まず、ぶっちゃけてしまってもいいですか?

三宅唱(以下、三宅):もちろんです。

――『呪怨』は僕にとって全然怖くなかったんですよ、何度観ても。そもそもホラー慣れしていないので、あくまでイメージでしかないんですが、おそらく多くのホラー作品は観る人を驚かせたり、怖がらせる明確な装置があるように思っていて。三宅さんは当初より、リアリズムから見出すことができる美しさを捉えて、丁寧に組み上げ、それをいろんな題材でアプローチしているという印象があるんですが、『呪怨』にもそれがボトムにあった。だから、どんなにスプラッターがあったとしても、美しいとか思っちゃったんです。それはそれで寂しいことではあったんですが。なので、状況が変わったんじゃないですか? とメールで言っておきながら、ちゃんと考えると三宅さんの本質的な部分は何も変わっていなかった、と。

三宅:今、言ってくれた通り、何も変わってない、って言いたい気持ちがあるけど、どうなんだろう。まず、メールで聞かれた状況の話についていうと、10年前の自分が『呪怨』を撮っているとは想像してなかったから、変わったといえば変わったのか。でも、あんまり考えてないし、考えてもなぁってのが正直なところで。今後は目先のプランとか人生設計を考えた方がいいのかなと最近ちょっと思った瞬間があった気がするけど……いや、うーん。 本質的な部分については、1本1本は毎回違うことをやろうと思っていたから、変わりまくっているとも言いたいけど、結局似ていたりもするし、自分では分からないことかもしれない。これまで、作品1本1本をどうするかということでやってきたし、それで精一杯。それが一番楽しいことだし。

――「変わりまくっているとも言いたいけど」とはおっしゃいましたが、1本1本、作家としての本質を変えずに、真剣に向き合うっていう基本的なことが難しい世の中なのかな、とも思っていて。おそらく言い尽くされていることですけど、メディアが多岐にわたり、価値観や流行りの移り変わりが激しい中、それに適応していかざるを得ない気がしています。どんな分野においても。

三宅:昨日話題になったことを今日誰も覚えていないっていうことの虚しさはありますよね。しょうがないっちゃしょうがないけど。でも、多くの人が本気で悲しんだり怒ったりしたものとか、時間かけて考えないと意味ないようなことが、あまりにも一瞬で、跡形もなく流されて消えるっていうことがいくらなんでも毎日毎日繰り返されていくかのように感じる時は、本当に嫌な感じだなぁと思う。

ただ、映画をやっていることで自分は救われているかもしれないのは、そういったSNSのタイムラインのような消費速度に乗ろうとしたってそもそも無理って思っている、ってことかもしれないですね。映画は準備だとか時間がかかってしまうものだし、何かとすごいトロくて、流行りなんて間に合うわけがない。ただ、ポジティブに言えば、違う時間軸でものを作ることができるとも言える。現在とは違う場所への抜け道をコツコツ掘るというか。仮に今日撮ったとしても、発表できるのは来年とかだし、来年発表したとしても、皆がそのタイミングに観るわけでは決してなくて、50年後、100年後かもしれない。そもそも映画とか写真とか複製芸術というものは、現在という瞬間瞬間が日々瓦礫化していくことに対するちょっとした反抗でもあると思うんです。と、矛盾した言い方になるけど、ザ・ご立派な物語を「瓦礫だから」とか「瓦礫を無視するな」って指摘することも担えるし、瓦礫をちゃんと見つめることでもある。

なんにせよ、今日「だけ」に関心を寄せてもしょうがない気がしますよね。映画にとっても、映画に関係なくても。もちろん、いち人間として生きていくためには時流を無視することはできないし、世間知らずなおっさんにもなりたくないけど、時流に適応するかどうかは映画の本質とはそこまで関係ないんじゃないかなぁ。80年前の映画を観たり、100年前の詩集を読むと、全然違う時間軸に1日1回飛べる。そうすると現在の小さい波に溺れずに済む。今はこれが最新だ! とか言われても、いやいや50年前の映画でもうやっているし、そういう歴史の流れを受けて「最新」を捉え直したいとは思います。

まあ、映画は商売でもあるから、完全に時流や流行を無視できるわけでもないんですけどね。個人的には最先端で華やかなものを追うのも好きだし、思い切り時代に背を向けたようなものにも憧れるし、世間の期待として映画はそういうイメージを背負えるものであってほしい気持ちもあるけど、映画を作るっていう作業は、そのどっちでもない。中途半端なところで、地道にやる仕事。で、それで良いと思うし。それを受け入れないと映画なんてやれない。どんだけ急いでもあまりにも撮り逃すから。あ、思い出した、10年前はそれがすごいキツかったんだ! コマーシャルのメイキングカメラをやった時に、何もかも間に合わなくて、ろくに撮れなくて、家に帰って悔しくて泣いたことがあって。今はだいぶ鈍感になったというか、そもそもの態度が変わったかもですね。

――なるほど。

勝手にあふれ出たもののように見えて、そうではないショット

三宅:とか言いつつ、でも同時に、映画を作るおもしろさには、まだ誰も見たことがないフレッシュな人間とか瞬間を撮れるっていうのもあるけれど。役者というナマモノを扱う醍醐味はあります。

――そのフレッシュさはどう見極めるんですか?

三宅:体で反応するものだからなかなか言語化はしづらいけど……まず、オーディションがあるとして、役のイメージはそんな固まった状態で持ち込まない。自分が考えた円にハマる人を探す、ってモードではない。はじめ自分の頭の中には半円しかなくて、その人と会うことでどんな円になるかって感じで、それがおもしろいかどうかフレッシュかどうか見極める、と言えばいいのかな。OKとかNGを判断するのもそんな感じで、最初から頭の中にOKの形が用意されていてそれにハマるかどうかって感覚ではない。半円を準備して待ってはいるけど、撮影するまで全然分からない。事前に分かっていたらフレッシュじゃないし。

――再びの勝手な印象かもしれませんが、三宅さんは当初から、役者さんたちを完全にコントロール下に置くのではなく、対峙し、いかにして解き放つかっていうスタンスだと思っているんです。お言葉を借りれば、真円に三宅さんがしてしまうのではなく、半円のまま真円になる、あるいは歪むのを待つというか。解き放たれた人が偶然生み出した所作や表情、そういった点に特にフォーカスしているような気がします。

三宅:そういう印象は嬉しいけれど、でも監督って実はみんなそうじゃないのかな、とも思います。スタジオシステムが機能していた時代やアニメーションのことは知らないけど、今はほとんどの映画が、街中の隅っこでこそっと、折り合いをつけながら撮っているわけで、完全にコントロールなんて無理じゃないかなぁって僕は諦めているところがある。下手に真円なんて用意したらすぐ現実にぶつかってプランが破綻するから。それでへこんでいるうちに現場が終わっちゃう、っていうのを学生のときに経験して。その代わり、ナマモノを扱うことがおもしろいと思えたのは大きい気がする。ナマモノだから毎回違うし。

――現場を見ているわけではないので、正しいかは分からないんですが、三宅さんの作品ってあふれ出ているものが多い気がするんですよ。中でも色濃く出ているのが、『THE COCKPIT』(2014)。

三宅:出演している皆がもともと、あふれ出ちゃっているから。

――でも例えば、OMSBさんとBIMさんがシューズのボックスに落書きしながらしゃべっているシーンがあるじゃないですか。曲作りのバックを描くという主の目的にはなくても成立すると思うんですけど、あれがないと『THE COCKPIT』は映画にならない。あふれ出たからって拭い去るんじゃなくて、拾い上げ、組み合わせるのが三宅節なのかな、と。

三宅:そういうあふれ出ちゃうのを見るのは好きです。何もしてないに近いけど、あふれ出たものを受け止める良い感じのサイズの皿を用意する係ではあるかもしれない。ただ、劇映画の場合だけど、一見すると溢れ出っぱなしに見えるシーンでも事前に相談済みのケースもあって。例えば、『きみの鳥はうたえる』(2018)のクラブでのシーン。もしかしたら3人が自由に音楽を楽しんでいるように見えるかもしれないし、まあそういう印象を狙っているから、ここから先はわざわざ言う必要がないんだけど、どこに立っているところからシーンが始まるのか、どこからどこに動くのか、いつ動くのか、誰と誰がどの距離にいるのかっていうのはその都度ある程度決まっていて。あの日は良い空気だったから、言葉数こそ少なかったけれど。その上で、仕草だとかは役者たちの個の力ですよね。左足でボールをトラップするか、右足でトラップするか、そういう仕草みたいな領域はもちろんこっちが決められることじゃない。こっちにできるのは、ある仕草をしやすい環境を準備すること。そして、そういう個の力が目立つように撮ったり、つないだりして、ルールの方は隠そうとしている。仕草が語る映画にしたかったから。

サッカーの話だけども、サッカーってカオスにも見えるしスター選手の個がフォーカスされもするけど、基本的には、選手の動き方は事前に、オートマティックに動けるようなルールが決められていて。監督やコーチたちによって演出されている。もちろん、局面局面で個の力が爆発する瞬間がサッカーの醍醐味にはなっているけど、それだけで勝てるスポーツじゃない。でも、小学生とかアマチュアのサッカーの場合はそういう演出は効かない訳で、各選手の欲望がむき出しになって文字通りカオスになる。映画に当てはめ直せば、別に勝ち負けとかないからどっちでもいいと言えばいいというか正解はないんだけども、サッカーにグラウンドの中と外の関係があるように、映画にもカメラの前と後ろの関係があるわけで、サッカーみたいに、ルールや作戦として事前に演出できる部分と、役者という個に委ねる部分があると仮定して、その境界線が具体的にどこにあるか、っていうのは毎回考えますよね。それは選手とか題材によってその都度違う。映画でも何でも、何か共同でやろうとしたら、そういう境界線の引き方はありますよね。

――『ワイルドツアー』(2018)に関しては、少年少女に自由にやらせているわけではなく、演出をかなりしっかりされたという話を聞きました。

三宅:『ワイルドツアー』はガチガチにやってみました。リハーサルを数やったし、撮った素材をその場で一緒に見たりもしていたから。お任せとか即興の盗み撮りのようなことはない。いや、お任せな部分もあるにはあるんだけど、それを事前に伝えて、なぜお任せなのかを説明したりしている。彼、彼女らは職業俳優ではないから、カメラの前で不安な状況に置きたくなかったし、自分が何をやらされているかをなるべく分かっている状態を作ろうと思った。その方が、彼らの個の力というか、ワイルドな魅力は絶対に映ると思ったし。役者たちも僕と同じく創作者の一人だから、放っておくと、真面目に一緒にサッカーをしてくれる人もいれば、そんなサッカー嫌だって言って、勝手に野球を始める人もいるわけで。

――そうなった時はどうするんですか? 野球を始めちゃったら、野球やって良いよーって言うんですか?

三宅:今日は野球の方が楽しいかもねって、ノる時もあるし。さっきも言った通り、スポーツと違って勝ち負けはない世界というか、そもそも何が勝ちで何が負けか自体を自分たちで探して定義しても良い世界だから、見たことないスポーツできちゃったって全然アリ。それがおもしろければいい。

ずっと大学5年生のままっていうか

――話が戻ってしまうんですが、『THE COCKPIT』ってどういったきっかけで撮られたんでしたっけ?

三宅:愛知芸術文化センターがプロデュースをし、毎年1作品、映画を発表する取り組みを1993年から行っていて(勅使川原三郎の『T-CITY』が最初の作品。以降、ダニエル・シュミット、園子温らが参加している)、それに声をかけて頂いたのがきっかけです。そのテーマが一貫して「身体」で、ただ当時、よく分かってなかったんだよね。「何を撮っても身体じゃないの?」って思っていたくらいで(苦笑)。それで、ビートメイキングの過程を捉えた映像ってインターネット上にたくさんアップされていますよね。そういうのを観るのは前から好きで、これを大きいスクリーンで観られたら最高に気持ち良いだろうなあ、みたいなことを漠然と思っていました。それと、せっかくなら好きな人と仕事をしたいなと考えて企画を立てたんだけど、幸運なことにOMSBをはじめ、出てくれた皆が類まれなる身体の持ち主だった上に、ビートメイキングの方法もPCではなくMPCを使って身体で作ることが分かって、それで結果的にというか、半ば偶然に、テーマに正面から応えられたかな、とは思いますし、「身体」って有意義なテーマだなぁと今に至ってもじわじわ考える切り口になった。

――身体で作るっていうのはおっしゃる通りで、ヒップホップのビートって極論を言ってしまうとノリでしかないと思うんですよ。

三宅:良いこと言いますね。同意。

――良いノリでラップをするためのリズムを作るだけのためのものと言ってしまったら、ビートメイカーの人たちに失礼だとは思うんですけど、基本的にはそうですよね。ニュアンスとして、例えば90sっぽいとかはあるかもしれないけれども、そこに箇条書きできるルールはそんなにない。だから、劇中でOMSBさんがBIMさんに「ビートを作っている時、イメージどんな感じだったんですか?」って尋ねられて「無」って答えていた。あれ以上の答え、たぶんないですよね。

三宅:そうそう。やっぱり『THE COCKPIT』は自分にとってすごく大きな作品。

――よくいう、ターニングポイント的な位置づけなんでしょうか?

三宅:ですね。でも、毎作そうかな。1本の作品を撮り終えると、ようやく1つ歳を取れたような感覚があります。歳を取ると言うと経験値っぽいか。どっちかというと、生まれ直すみたいに、前の考えが破壊されて変わるような経験かもしれない。その感覚がやってくると、あぁ仕事したな、歳取れたな、と思えるかな。その手応えは長編に限らず、MVでも文章を書くことでも起きたりもする。

歳を取った感覚って、学校なら学年で明示されていたから意識できたけど、学校を出た後はあんまり分からなくなりません? 結婚とか出産とか、親の死とか以外で、節目ってなんだろう。会社員だったら転職とか昇進とか、何か実感できる分岐点があるんだろうけど、フリーランスだと、ずっと大学5年生のままっぽくもいけちゃって。自分の場合は映画を1本完成させる時だけが節目になる。自分で編集しているのもあって、長い期間をかけて自分のやったことを批判と検証することになるし、それで歳を取った気になるのかも。

――そういった自己批判、検証って当初からしていたんですか?

三宅:うーん……いつからかなのかはあまり覚えていない。小さい頃に振り返ってしまうけど、モノを作ったりするのは好きだったんです。実家のダイニングテーブルの裏面が落書きスペースで、そこに潜って上を向いて絵を描き続けていて。結局は、好き勝手そうやってものを作れればそれで十分な人間なんだと思う。でも、今は仕事だし、1人でやることじゃないし、それに映画史という歴史もありますから、批判も検証も必要になる。

最初の変わる変わらないの話に戻るけど、まあ自分の人生はさておき、世の中がどう変わってきたのか、これから変わるのか変わらないのか、っていうことに関心があるというか、考える方がおもしろいとは思っていて。映画を作ったり見たりしながら、映画とともにそれを考えようとしているんだと思う。あんまり伝わらないと思うけど、一応、そのつもり。で、10年前は瞬発力とか徹夜力があったけど、ある意味で隙だらけだったし、今は、コツコツやらなきゃなぁ、っていうモードです。1歩1歩ってよく言うけど、1カット1カットちゃんとやろう、っていう感じですかね。どっちかっていうとだらだらした一夜漬けタイプの人間だから、もう、すんごく面倒くさいけど(笑)。

三宅唱
1984年、札幌生まれの映画監督。一橋大学社会学部卒業、映画美学校フィクション・コース初等科修了。いくつかの短編を手掛けた後、2010年に初長編作品『やくたたず』、2012年に劇場公開第1作『Playback』を監督。第86回芥川龍之介賞候補となった作家、佐藤泰志の小説を原作とする2018年公開の『きみの鳥はうたえる』で、第10回TAMA映画賞 最優秀新進監督賞を受賞。近作に、Netflixオリジナルの連続ドラマ『呪怨:呪いの家』がある。また、建築家の鈴木了二との共同監督作品『物質試行58 A RETURN OF BRUNO TAUT 2016』や、山口情報芸術センター(YCAM)とそこに集った中高生たちと共に制作した『ワイルドツアー』など、活動は多岐に渡る。

Photography Teppei Hori

author:

大隅祐輔

福島県福島市生まれ。編集者・ライター。武蔵野美術大学 芸術文化学科を卒業した後、いくつかのメディアを経て、2016年にフリーに。ライフワークとしてテクノとアンビエントを作っており、現在、アルバム制作中。好きな画家はセザンヌとモネ。

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