#映画連載 モーリー・ロバートソン Vol.2 時代の大転換を妄想できる3作品 ―ジョーカー編―

映画鑑賞は動画配信サービスの普及によって、もはや特別な行為ではなくなり、感想の共有やレコメンド検索も簡単になった。しかし、それによって映画を“消費”しているようにも感じる。本連載では、映画を愛する著名人がパーソナルなテーマに沿ったオススメ作品を紹介する。

タレントのモーリー・ロバートソンが2回目の登場。メディアを中心にコメンテーター、DJ、ミュージシャンのほか、国際ジャーナリストとしても活躍し、政治・経済からサブカルチャーまで、いくつもの引き出しを持つ彼がコロナ禍の今だからこそ、見るべき映画を紹介。

「もうすぐそこまで来ている?! 時代の大転換を妄想する」

新型コロナウイルスの出現によって大きく生活が変わった今、時代は大きなサイクルを迎えていると感じます。占星術の概念に基づいた時代、とでも言いましょうか。立証をしなくても良い大きなサイクルが目の前に迫っているなと。

今って、生活保守的な考え方が破綻している時代ですよね。特に特権階級が「何も変わらなくていいんだ!」なんてふんぞり返っていたのが、そのはしごを外されちゃって慌てふためいている。そんな彼らが自警団になって世間をパトロールして、ルールを破ったりする悪い人間を火にくべようっていう世界になってしまった。Twitterで殴りあったりとかね。すでに社会は破綻しているのに、現状に順応できない人たちがすごく多い。そんな旧態依然の秩序の価値観がもう限界にきていて意味を持たなくなった今、幸せになるため、生活保守、政府のマニュアルに描かれていない、とてつもないパワーの活断層が限界に達したように一気にリリースされ、危険だけどおもしろい時代=時代の若返りがすぐそこまで来ていると妄想してしまうんです。

SNSで他人の評価を気にしても幸せになれない、気の利いたコメントをしても自分の評価にはならないってことにも気付き始めている人も多いじゃないですか。そうすると、個人の開放や今までになかった自分の殻を破るチャンスが来ていることにも気付くんですね。そんな状況に、血湧き肉躍り、野獣のような喜びを感じる人も今後は増えてくると思う。自分の殻を破った時に訪れるのは、時代や文化の大転換。近い将来、必ず壮大なスケールでそれを感じ取ることができると思うんですよね。こんな今の僕の妄想にぴったりと合うのが『ジョーカー』『マッドマックス 怒りのデス・ロード』『英国王のスピーチ』の3本。まずは『ジョーカー』からお話ししたいと思います。

※一部ネタバレを含みます

『ジョーカー』
ダウンロード販売中、デジタルレンタル中
ブルーレイ ¥2,619

発売元:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント

販売元:NBC ユニバーサル・エンターテイメント
TM

© DC. Joker  © 2019 Warner Bros. Entertainment Inc., Village Roadshow Films (BVI) Limited and BRON Creative USA, Corp. All rights reserved.

「自身の殻を破るきっかけなんて探すものじゃない」

ジョーカーが描かれた映画やテレビシリーズはたくさんあります。ジャック・ニコルソンが演じたのは1989年上映の『バットマン』で、当時僕は映画館で観たんですけれど、すごい明るいジョーカーだった。漫画を映画化したこともあり、漫画らしく無邪気に演じていたのに対してホアキン・フェニックスが演じたジョーカーはさすがNetflix時代! というような時代をえぐる描写を何重にも重ねているのが印象的です。狂気、統合失調症とも思われる精神疾患を抱えるジョーカーの役は、ホアキン自身その不安定さを研究してアドリブも多く入れていたようですがすごく圧倒されました。それまで内に籠もっていたジョーカーが着々と外に出る準備をしながら問題行動を起こしていく姿は、どうしても今の時代と重なって見えてしまうんです。そして状況がどうであれ、僕にとってはジョーカー本人を見続ける映画でした。

ばかにされたり、殴られたり、銃を売りつけられたり、お母さんがジョーカーの父親だと信じる相手に書き続けている手紙など、彼が人殺しをしてしまう=大爆発に至るまでの伏線はあらゆるシーンに描かれているけれど、銃は小道具でしかないし、手紙に書かれている内容だって嘘か本当かなんてわからない。それでも彼が大爆発したのはきっかけをずっと待っていたからに過ぎないんですよね。アルベール・カミュの『異邦人』で殺人犯が「太陽がまぶしかったので人を殺しました」と供述したのと同じで、彼にとって殻を破るきっかけは別になんだって良かったということをすごく感じました。デリケートな秩序をかろうじて守っている人が、他者に正論を言われると自分のバランスを保てず「その正論を許せない!」と喚き散らして、変化を許すことができないところが、今の日本が抱える不寛容さだと思うのですが、ジョーカーを見ていると、そもそも最初から不安定なものはずっと不安定なままで崩れるのをそっと待っているだけなんだなと。かろうじてつっかえ棒をして保っているほど、自分が臆病だということをわかりながらも最後には気が狂ったように不安な気持ちがあふれてしまい、1回殺してしまうとドミノ倒しのように次々と連鎖してしまう。そして不安は全部なかったことにしてやろうとロバート・デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンを殺しちゃう。めちゃくちゃなんだけれど、妙に腑に落ちるというか。もうこの後はパーティで、思考性のない群衆が警察を殺したりしてしまったり……。これはシンボル的に見ると権力を殺してしまうということなんだろうけれど、皆、結局各々が持っている不安や想いを吐き出す=時代の大転換のシーンだと読み取ることができる。群衆シーンはよっぽどリアルのデモなんかの方が大規模だから下手に映画で描いてしまうと具体性がなかったり物足りなくなりがちなところを、あえてジョーカーが神であるかのように描いているのもすごく秀逸。群衆にとっては、ジョーカーがトリガーだったというわけですよね。ただ、結局その先にある新秩序は誰にもわからないというのもおもしろい。まさに今現在私たちが置かれている状況と同じですからね。

「ロバート・デ・ニーロの存在は時代の移ろいを見事に表現」

ロバート・デ・ニーロの存在もすごくおもしろい見方ができるんです。彼は、『タクシードライバー』で狂気の権化のような役柄を演じましたよね。そんな彼がこの映画では熟年の往年スターを演じ、消耗品の出演者を上手に動かしている安定した存在として描かれている。少々強引ではあるけれど、かつて狂気の権化だった彼が現在では生活保守志向になり、射殺されるという勝手な物語をオーバーレイして観ることができるので、そういう意味ではおもしろかった。狂気というのは普通の中にあるんだということがわかるというか。日常的な普通さや保守的で中産階級的なカタログに載っている幸せが歪んでいくと、行き着くところはここなんだというのが上手に語られているような気がします。

ただ、ロバート・デ・ニーロこそが狂気の権化として『ジョーカー』に出ていると考える人も多かったみたい。ある種の、自己ブランド化して巨匠となったデ・ニーロがそこにいて、彼を敬愛する若手=ホアキンがやってきて射殺する。これって実はデ・ニーロの本望なんじゃないかと考えているようなるんだけれど、なるほどなと。“戦場で死ぬことこそ美しい“じゃないけれど、怒涛の情熱ある生き方であり、死に様であると解釈できた。病院や特老院で死ぬのではなく、戦場で死ぬことに時代の渇きのようなものも感じられますしね。 ジョーカーはとにかくはちゃめちゃやるわけですが、僕は全然悲惨な気持ちにはならず、むしろ希望の物語として捉えましたしなんなら彼のようにはちゃめちゃしたい! なんて思いましたね(笑)。その先の世界がどうなるか、すごく興味がありますしね。

Edit Kei Watabe
Photography Teppei Hoshida

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モーリー ロバートソン

日米双方の教育を受けた後、東京大学とハーバード大学に現役合格。ハーバード大学を卒業後、メディアを中心にタレント・ミュージシャン・国際ジャーナリストとして幅広く活躍中。現在、日本テレビ「スッキリ」にレギュラー出演。著書「悪くあれ!窒息ニッポン、自由に生きる思考法」(スモール出版)も好評発売中。 Photography Kazuyoshi Shimomura

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