対談:KAZZROCK × SNIPE1 パイオニアが語る日本グラフィティシーンの今昔と、各々の現在地 ―前編―

グラフィティとは「行為」そのものだ――。BLOCK HOUSEの2階、少し遅れると事前に連絡のあったSNIPE1の到着を待っていたHARUKAITO by islandで、KAZZROCKは衒うでもなくそう語った。口調に淀みはない。言葉を放つ際に逡巡の間がない。それは放たれる言葉がどれも借り物ではないということの証だろうか。80年代末、まっさらだった東京の壁の前にスプレー缶を片手に立ち尽くしたあの日以来、独立独歩で東京のストリートを開拓し、シーンを牽引し続けてきた生き証人。アメリカ西海岸発の最狂のグラフィティクルー「CBS」のメンバーとして、日本で初めてグラフィティの個展を開催したのも、この男だった。後塵を拝する人々は、しばしばKAZZROCKのことをこう呼ぶ。「レジェンド」。だけど、KAZZROCK当人は破顔一笑、そんな仰々しい呼称は、たとえそれがリスペクトの表明なのだとしても、「勘弁」なのだという。昨日今日グラフィティを始めたばかりのやつと俺は一緒なんだ、と。今も変わらず同じ地平で遊んでいるだけなんだ、と。

KAZZROCKの個展「GOOD VIBES ONLY!」の会期中、僕は2度、会場があるBLOCK HOUSEを訪れた。明治神宮前駅から歩いて5分ほどの裏路地にあるBLOCK HOUSEは、その数週間、平時とは明らかに様子が違っていた。どこか懐かしい感じ。そう、90年代のあの感じだ。当時、原宿の裏路地にうっかり迷い込んだ際に感じた、にわかに肌がヒリつくような、あの感触。ありていに言えば、今の原宿では感じることのなくなった“ストリート”の気配が、その数週間、BLOCK HOUSEの周囲には確かに漂っていた。1階の階段下では両腕にタトゥーの入ったあんちゃん達がスケボーを片手にたむろしいていた。ギャラリーのある2Fの外通路にも、紫煙を燻らせながら談笑する、やはりタトゥーの入った強面の男達の姿が見える。奇しくも4階でTABOO1の展示が同時開催中だったことが相乗効果を生んでいたかもしれない。まるでBLOCK HOUSEが街の不良達にオキュパイされたかのように、その時、4階建ての建物全体が巨大な溜まり場――“ストリート”と化していた。

原宿の路地裏に突如出現したそのサル山(実際、BLOCK HOUSEの外観はどこか岩山の断崖を彷彿させる)の中心には、他でもないKAZZROCKがいて、KAZZROCKがキャンバスに走らせたエアロゾルスプレーの痕跡があった。あるいはそれら展示された作品そのものは彼らがたむろする上でのひとつの口実に過ぎず、むしろ彼らがそこにたむろしているという状況そのものがコンセプチュアルなアート作品であるかのようにさえ思えた(むろん、展示された作品群はKAZZROCKのスキルとヴァイブスに裏打ちされた間違いないものだった)。ストリートがグラフィティを召喚するのではない。グラフィティこそがストリートを生成するのだ。もしその幻の作品にステイトメントがあるとすれば、そんな具合になるだろうか。都市の景観美化を理論的に支えた、あの悪名高い「割窓理論」も、その意味ではあながち間違っていないのかもしれない。

少しだけヒヤッとする場面があった。なかなか姿を見せないSNIPE1を待っている間、場をつなぐ上でしばしマンツーマンでKAZZROCKへの聞き取りを行っていたのだが、約束の時間から45分が過ぎようという頃、KAZZROCKが「もういいっしょ、終わりにしようぜ、俺、帰るわ」と明らかに苛立った様子で席を立ってしまったのだ。丁度そのタイミングでSNIPE1がHARUKAITO by islandに駆け込んできた。「すんません、カズさん!」、一触即発かと危ぶまれたのも束の間、そこは四半世紀以上同じランドスケープをまなざし続けてきた同志、「なんだよ、お前よー」と罵るKAZZROCKの顔は、すでに綻んでいた。

「90年代中盤、この頃のシーンの話以上におもしろい話はありませんよ」

KAZZROCKよりも5歳ほど年少のSNIPE1もまた、シーンの黎明期より現場に立ち続け、そして今なお前線で描き続けている現役のグラフィティライターだ。「マジでヤバかった」と振り返る当時のシーンを知る二人は、「ストリートアートバブル」とも囁かれる今日の状況をどう見ているのか。いや、本当に聞きたいのはそんな話ではない。もっと純粋に二人の昔話に耳をすましたい。あの頃、東京で、世界で、何が起こっていたのか。いまや「パパ」友として子供の教育の悩みを相談し合うこともあるという二人の語らいを、前後編、2回に分けてお届けする。

二人が出会った頃 90年代初頭の東京のグラフィティシーン

──お二人が出会ったのはいつ頃ですか?

KAZZROCK:あれ、俺らが初めて会ったのっていつだっけ?

SNIPE1:1993年くらい、代々木公園ですよ。

KAZZROCK:そうだっけ? 全然覚えてないわ。SNIPEその時ひとりだった?

SNIPE1:IZOとかと一緒でしたね。でも冷たかったすよ、あの時のカズくん(笑)。

KAZZROCK:93年でしょ? まあ冷たかった時代だね(笑)。ちょうど東京のグラフィティシーンにまだ小さいながらも火がつき始めた頃。

SNIPE1:そうでしたね。カズくんは代々木公園のパイオニアで。だから俺はあのテリトリーには入らないようにしてましたよ。俺は駒沢公園だったから。カズくんもあんまりこっちには来なかったすよね。

KAZZROCK:行ってなかったね。

SNIPE1:当時すでにカズくんはメディアにすごい出てましたよね。目立ってた。ただ表の世界に顔出しててもやるべきことはやってて、リーガルな仕事だけじゃなく、イリーガルもやってた。そこは純粋にリスペクしてましたね。メディアに出た途端にイリーガルやらなくなる人、多いじゃないですか。

KAZZROCK:そこは自分でも意識してやってたよね。正直、メディアに出たことでディスられることもあったのよ。でも俺はさ、小さいサークルだけで終わってもしょうがないでしょって思ってたから。メディアに出ることによって、例えば地方のガキが「俺もやってみよう」ってなった方がおもしろいじゃん。実際、俺は当時から大阪とか行ってたけどアメ村にさえグラフィティが全然なくてさ。夕方にボムしてても誰にも何も言われなかったんだよね。当時、大阪には、ほとんど街中にグラフィティはなかった。唯一、XLARGEがオープンした時にSLICKさんがキカイダーを描きにきてて、それは見てたけどね。まあ、そういう状況ってこともあって、メディアがアプローチしてきた時には「やってやるよ」ってのはあったね。

SNIPE1:俺らの下の世代とかはやっぱりカズくんに影響されてグラフィティ始めた人間は多いっすからね。

KAZZROCK:まあ、だからといってコマーシャルな方に寄ってたかっていったらそんなことないけどね。メディアに出つつもやってた。俺のことだけは神様が許してくれるって思ってたよ(笑)。

SNIPE1:いや、許さないっすよ(笑)。

KAZZROCK:あと俺は93年くらいから「CBS(編集部註:LAを代表するグラフィティクルー)」に入ってたけどさ、向こうの連中に「メディアに出たよ」って言うと「すげーじゃん、やったな」って反応だったんだよ。こっちから営業したわけでもなく、向こうから寄ってきて宣伝してくれるんだから、出ない理由がないよね。ただ日本でのディスられっぷりは半端じゃなかった。

SNIPE1:そうっすか? 俺の周りにはいなかったすけどね、カズくんをディスってるやつ。

KAZZROCK:なんにせよそういうところもうまくやりつつ、今も俺は描き続けてるから。なんだかんだ描き続けたやつの勝ちだって思うんだよ。やめたら終わりだからね。

SNIPE1:いろいろと言ってた割にやめてるやつが多いっすからね。

KAZZROCK:もったいないよね。1年2年やめててもさ、自分の軸にストリートアートが好きだって思いがあるなら、もう1回戻ってくればいいわけだよ。

SNIPE1:やめられるわけないですよね。あの快感を知ってたら本来やめようがない。

90年代初頭のLAシーン、CBSへの加入

──カズさんから見て90年代当時のSNIPEさんはどういう印象でしたか?

KAZZROCK:SNIPEに限らずだけど、俺は他のライターのことはあんま意識してなかったよね、別に。

SNIPE1:(笑)。

KAZZROCK:ほら、ゴーイングオーバー(編集部註:他のライターのグラフィティに自身のグラフィティを上塗りする行為)とかされたりすると、めんどくせえな、なんだこいつってなるけどさ。SNIPEはそういうタイプじゃなかったし。

SNIPE1:俺はオーバーはしないっすよ。

KAZZROCK:そうそう。SNIPEはそういう自分なりのルール、「ここはいいけどここはやめとこう」みたいな線引きがちゃんとしてたから。

SNIPE1:ただ、あの頃、カズくんに1度注意を受けたのは覚えてますけどね。

KAZZROCK:何それ? 覚えてない。

SNIPE1:原宿でやってる時にカズくんの知り合いの店にボム(編集部註:街中にグラフィティをかくこと)ッちゃって。

KAZZROCK:ああ、裏原とかあの辺だろ? あの一帯がまだどんよりしてた時。

SNIPE1:そうそう。「あそこの店はやめとけよ」って。

KAZZROCK:そんなことあったか。まああそこらへんではよくいろんな連中とたむろしてたよね。

SNIPE1:でもカズくんってピンでやってる印象が強いんですよね。そういうところもリスペクトもらってたと思う。俺なんかは完全に人数で攻めてたから。

KAZZROCK:俺は基本的にソロだったね。その方が圧倒的に早いんだよ。

SNIPE1:ですよね。ただVANGUARD(編集部註:KAZZROCKが90年代初頭に設立したグラフィティやヒップホップなどストリートシーンでのさまざまな活動を目的とした団体)は人数多かったけど。

KAZZROCK:VANGUARDは一時期150人くらいにまで膨れ上がってたよね。ダンスやってる奴、DJやってる奴、スケボーやってる奴、いろいろいたけどみんなグラフィティ大好きで。そういう仲間と一緒にいて、率先して描くのはいつも俺だった。懐かしいな。

SNIPE1:俺は地元の連中を騙してみんなにスプレー缶持たせてグラフィティに引きずり込んだんすよ。で、駒沢公園で遊んでたら、他のグラフィティやってる連中も近寄ってきて。大体いつも20人くらいで動いてて、上野とか浅草とかに遠征して1つの街を一晩でボッコボコにして帰るみたいな。

──お二人は共に90年代の前半にアメリカに行かれてますよね。

KAZZROCK:俺は90~92年の頃はよくLAに行ってたよね。その後も断続的に行ってる。93年には「CBS」に入ってるしね。

SNIPE1:LAの一番いい時代ですよね。

KAZZROCK:そうだね、RISKさん(Kelly “RISK” Graval)やSLICKさん、HEXさんもバンバン描いてた頃だし、Mrカートゥーンさんとかが現役バリバリだった頃のLAだから。ロサンゼルス暴動とかもあったしね。

SNIPE1:ゼロギャラリー(編集部註:01 Gallery。ストリートアートシーンに大きな貢献を果たしたアートギャラリー)もありましたよね。あと「AM7」の連中とかもいた。俺、あいつらと一緒に描きましたよ。

KAZZROCK:「CBS」の弟分みたいな連中だよね。うわ、懐かしいなあ。

SNIPE1:ヨーロッパ連中が集まってね、「CBS」には入れないからって作ったのが「AM7」。すごいいい奴らで、俺も外から来た人間ってことですぐに息が合って。メルローズの表は「CBS」が描いてたから、僕らは裏の方に描いてましたね。

KAZZROCK:「CBS」は本拠地がミッドタウンだからね。それこそミアさん(Mear One)なんかもメルローズとフェアファックスの角のあたりのアパートメントに住んでてさ、よく行ってたよ。

SNIPE1:あそこ高校ありますよね。その下にトンネルがあって。俺、あのトンネルでも描いてたことあります。ミアは超リスペクトですよ、マジでかっこいいっすから。

SNIPE1が体験した、NYのグラフィティシーン

──当時、SNIPEさんはNYに住まわれてたんですよね?

SNIPE1:そうっすね。90から93年くらい。

KAZZROCK:SNIPEがNYなのは作風を見ればわかるよね。レタリングの感じとかがそっちのスタイル。もちろん自分のスタイルもちゃんと持ってるわけだけど。俺はその点、LAスタイルだよね。だからレタリングよりもキャラが好きだし。カリフォルニアはレターよりキャラだからね。

SNIPE1:タグ(編集部註:グラフィティライターのサイン)とスローアップ(編集部註:単色か2色で文字のアウトラインを書いたもの)に関してはブロンクスのガキ(BEP、BRT、NSV)にいろいろと教えてもらいましたから。今もそのクルーの連中とは連絡取り合っています。

KAZZROCK:SNIPEは普通にマスターピースとかもカッコいいの描いてたよね。

SNIPE1:え、そんなこと言われると思わなかった(笑)。

──当時のNYというとAlleged Gallery(編集部註:1992年の設立から2002年のクローズまでストリートアートを多く紹介してきたアートギャラリー)とかには行かれてましたか?

SNIPE1:いや、行ってないっすね。本当、ゲトーのガキと遊んでただけだから。まだギャラリーとかでライターが何かするって感じでもなかったしね。でもALIFEのオープニングには行ったことがある! 2000年頃かな。そこらじゅうで喧嘩してましたね(笑)。

KAZZROCK:そうだよね。グラフィティライターがエキジビジョンやるような時代ではまだなかった。

SNIPE1:ストリートアートみたいな概念はあったと思うけど今みたいにポップじゃなかったっすよね。多分、ツイスト(バリー・マッギー)やKAWSがアートの方にいくようになってから変わっていった。

KAZZROCK:2000年くらいだよね。まあ、俺は95年にギャラリーで1回やってるけど。

SNIPE1:ええ!?

KAZZROCK:「GRAFFITI ART ISNOT A CRIME」っていう個展ね。

SNIPE1:早いなあ。あ、でも当時だとGraffiti Expo 96とかもありましたよね。

KAZZROCK:俺も下高井戸でディスカッションやったの覚えてるよ。

SNIPE1:あ、あれカズさんも来てたんですか。

KAZZROCK:声かけられてね。クルー何人かとうちの犬(ブルドッグ)連れて行ったよ。舞台に並んでなんかディスカッションするっていう話でさ。でも、そこでもまあ叩いてくるわけ。グラフィティはヴァンダルでアングラで云々ってさ。

SNIPE1:俺はあそこでYOUさん(YOU THE ROCK)とラップしてたんすよ(笑)。ただ、カズさんへの批判の根底には僻みもある気がしますね。例えばミアとかはボムとかあまりするタイプではないけど、ボマーの目線からもリスペクトできますから。ボムだけがグラフィティだ、みたいな主張は違う気がします。

KAZZROCK:ボムばかりをやっていても、なかなか続かないからね。それでご飯を食べよう、命を懸けようって思ってるなら次のことを考えることが必要な局面もあるかもしれない。ただメイクマネーってことだけじゃなくてね。毎日の時間の中にどうやってアートの時間を持てるようにするか、とかさ。そういうことを俺はすげえ考えてきた。なんで俺はこんなアルバイトみたいなことやってんだろう、この時間に絵を描きたいのになって常に思ってたから。

SNIPE1:わかります。まあ、あれこれ他人の文句ばっかり言ってると、まわりめぐってカルマが自分のところに戻って来ちゃうもんです。悪いこと言った奴は悪いこと言われて終わり。

KAZZROCK:なんにせよ当時はいろいろとモメごとも多かったよね。

SNIPE1:いろいろありましたね(笑)。あの頃のカズくん、ヤバかったからなあ。

KAZZROCK:今はめっちゃ優しいでしょ?

SNIPE1:最高っすよ。グラフィティの先輩であり、人生の先輩でもありますから(笑)。

後編に続く)

*

KAZZROCK
グラフィティライター/アーティスト。東京都出身。1990 年代前半、グラフィティ、ヒップホップ等ストリートシーンでの様々な活動を目的とした団体”VANGUARD”を設立。その後、自身のスキルアップの為に単身渡米し、ロサンゼルスのグラフィティアート団体”CBS”に所属。日本人で唯一のメンバーになる。帰国後、ストリートでの活動とともに個展やCD ジャケットのアートワーク、メーカーへのデザイン提供等を経て、1998 年、⾃⾝のアパレルブランド「KAZZROC ORIGINAL」を⽴ち上げたほか、翌年、⾃社「VANGUARD」を設⽴。2005 年には全⽇本ロードレース選⼿権ST600 クラスにメインスポンサーとして参加し、「KAZZROCK RACING」としてレーシングスーツ、ヘルメットなどをデザインした。2015 年には、⾹港での作品展、2019 年は台湾での絵画展(台北、台中、台南、⾼雄など10カ所で展⽰)を開催。現在も多⽅⾯に渡って精⼒的に国内外で活躍を続ける。
Instagram:@kazzrock_cbs
Twitter:@kroriginal

SNIPE1
グラフィティライター/アーティスト。1990年代初頭に10代でNYグラフィティシーンに身を投じ、その後、世界中のグラフィティコミュニティを巡りコネクションを築いた後に帰国。活動の拠点を日本に移し、今日までの日本に於けるグラフィティカルチャーの興隆に多方面で尽力してきた。2018年、自身初となるソロエキシビションを、村上隆が運営するHidari Zingaroにて開催し、好評を得る。LA、NY、バンコク、香港、メルボルンなど、世界中の前衛ギャラリーにて今もなお、アート界をボミング中。
Instagram:@fukitalltokyo

Photography Ryosuke Kikuchi

Special Thanks HARUKAITO by island

author:

辻陽介

編集、文筆。『HAGAZINE』編集人。共編著『コロナ禍をどう読むか』(亜紀書房)。現在『BABU伝—北九州の聖なるゴミ』を連載中。 Twitter:@vobozine

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