スコットランドからベルリンに渡ったマーク・リーダー。1989年のベルリンの壁の崩壊。それを後押ししたとされるパンクシーンの台頭。それから同時期の1980年代にアメリカのデトロイトをきっかけに勃興したテクノシーン。ドイツ統一後、ヒッピーカルチャーやテクノカルチャーが融合し、世界最大級のレイヴとして後まで語り草となるラヴパレードにも立ち会ってきた。一方でプロデューサーとしてはニューオーダーとしてリリースされた「Blue Monday」の制作に立ち会い、ベルリンに石野卓球など日本のテクノミュージシャンを送り込んだ張本人で、プロデューサーであり、リミキサーでもある。
要するに時代の境目を常に目撃してきた音楽文化の変遷に影響を与えてきた生き証人なのだ。その意味もあって彼の活動の本筋は、冒頭の「音楽密売人」という言葉に集約される。
アンダーグラウンドに生きる人々とニック・ケイヴといった西ベルリンに惹かれ住んでいたアーティストたちとの交流やインタビューなどが克明に記された彼の自伝的ドキュメンタリー映画『B-Movie:Lust & Sound In West-Berlin 1979-1989』(以下、B-Movie)が公開されてからからはや3年。
今なおベルリンに住み続けながら、次のムーブメントを目撃し、仕掛けようとしている。彼が指定したクロイツベルクのカフェで、これまで語られてこなかった貴重な証言を収めたロングインタビューを前後編でお届けする。前編では映画に付随して、ベルリンの壁崩壊以前の体験から話を聞く。
ベルリンの壁崩壊以前、東ドイツで見た景色
―― 映画『B- Movie』では、東ベルリンにカセットやレコードなど音楽文化を“密輸”している姿が印象的でした。ベルリンの壁崩壊前で危険だと感じることはなかったのでしょうか?
マーク・リーダー(以下、マーク):正直に言って今の方が危険だと思うよ(笑)。昔は生命を脅かす危険はなくて、“政治的な意味合い”でのみ危険だったというか。当時のベルリンは世界の潮流から切り離され、共産圏ど真ん中という感じ。でもだからといって道を歩いてたらいきなり強盗にあったり、誰かに突然刺されたりするような危険は特になかったよ。映画『クリスチーネ・F』(※カルト的な人気を博したドラッグに溺れる10代を描いたベルリンが舞台の映画)のような麻薬中毒者はベルリン動物園駅周辺にしかいなかったし。でも最近ではU-Bahn(地下鉄)でヘルマンプラッツからアレクサンダープラッツに向かっていると、5分おきに麻薬中毒者の物乞いが乗ってくるよね。昔はそうではなかった。
――それにしても音楽の聖地・イギリスからまだ政治的な抑圧の最中にあったベルリンを住処に選ぶのは勇気のいることだと思います。
マーク:僕はスコットランドの片田舎に住んでいたんだ。文化的なものが豊かでない街で、10代の頃にバイト先のレコード屋で“クラウトロック”を発見して。イギリスではポップが全盛。そんな最中にビートルズを聴いて育った。曲の長さは3分。でもドイツの曲には20分続くものがあったり。展開がずっと変わらなかったり、サビがなかったり……まるでクラシック音楽のようでさ。
子どもの頃にバイオリンを弾いていたし、クラシック音楽に元々興味があったからクラウトロックにビートルズやジミ・ヘンドリックスなど主流の音楽とクラシック音楽とのつながりを見出すことができたんだ。
――どんな音楽を聴いていたんですか?
マーク:例えばカンやクラフトワーク。それからタンジェリン・ドリーム。あとはアシュ・ラ・テンペルもいるね。こうしたユニークなアーティストを発見して、視野が格段に広がったんだよ。それからベルリンのシーンを見てみたいと思うようになっていったかな。
――実際にベルリンに行ってみてどうでしたか?
マーク:最初は「レコードをたくさん買えるかな」程度の気持ちだったんだ(笑)。レコードを買って少し観光するために1日だけ行こうって。でも行ったら街の雰囲気が重くて灰色で、カルチャーショックで。ベルリンが第二次世界大戦で戦地になったとは知っていたけれど、街が実際にどんな状況だったかまでは知らなかった。だから実際に行って建物を見てみると、窓越しに銃撃戦が起こっていたのだろうな、というのがよくわかってさ。なかでも一番驚いたのが、街の東側に入った時だね。
――マークは壁をうまくすり抜けられたんですね。
マーク:うん。実はベルリンを訪れるまでは、東側の音楽について知らなかったんだ。前提として東ドイツは社会主義の背景があったから。その首都である東ベルリンも政府当局に人々が監視されていたんだよね。(東側の)テレビでは幸せな家族や花、社会主義についての歌が流れてた。
――映画『グッバイ・レーニン』で観るような世界観ですね。
マーク:確かに。でも、それ以外にも絶対にあるだろうと(笑)。実際に行ってみると東側の人達が西側のラジオを密かに聴いてたことを知ったんだ。ということは、東ドイツのアーティストもいるはずだ! 東ドイツのオルタナティヴ音楽シーンがあるはずだ! って思ったんだよ。
それから教会のライヴや地下室やガレージで政府から隠れて演奏してる若者達を探そうと試みた。そこに行けば何かしらの文化はあるだろうと思って。それからパンキッシュな髪型や服装をした若者を東ベルリンの電車で発見した。それから彼が電車を降りた瞬間追いかけたよ。彼の肩を軽くたたいて、尋ねてみたんだ。「どんな音楽が好き?」と。
東ドイツの電車で見かけたパンクスとの出会い。音楽を密売した映画のような半生
――鼻が利くマークらしいエピソードだと思います(笑)。
マーク:東ドイツの国家が許可しているロックコンサートが気に入らなかったからね。まずは「パンクロックのギグを知らないか」と尋ねてみた。いやあ、変な顔をされたねぇ(笑)。彼はすぐに「パンクは禁止されている」と答えたんだ。でもそこで諦めないで「何かしらアンダーグラウンドシーンはあるだろう?」と尋ねたら「それもない」っていうんだ。
残念だけどこの場では明確な情報は得られないだろうと思って。彼に僕の住所を書いた紙切れを渡したんだよね。「何か見つけたり聞いたりしたら、ポストカードで教えてくれ」と。でも結局半年以上、何の音沙汰もなかったな。
――そんなに映画みたいにうまくはいかないですね。
マーク:でもね。ある時とある女性から「会いたい」という手紙をもらったんだ。「共和国宮殿」という東ドイツの議会の中にあるカクテルバーで会いたい、と。
――おお! 急展開じゃないですか。
マーク:それから日時を複数提案してくれて。気分はもうジェームズ・ボンドのスパイ映画のような感じ(笑)。当然、会いに行ってさ。彼女は東ドイツのパンクシーンに関わっていると言うんだ。パンクは違法だったから、彼女は慎重でいろんな質問をしてきて。「僕が何者なのか、何を求めてるのか」など人物像を探っているようだった。
――秘密警察(シュタージ)からの内部調査みたいでドキドキしますね。
マーク:まさに。
――え?
マーク:彼女にどこで僕の住所を入手したか聞いてみると、パンクスの男性からもらったと。1989年のドイツ統一後に、シュタージが集めた僕に関するファイルを見ることができたけど、そこであの街で声をかけたパンクスは実はシュタージの一員だったことが判明してさ。
――そんなことって本当にあるんですね!
マーク:衝撃だったよ。僕が彼に住所を渡した直後にシュタージに連絡して、「イギリス人に会ったのだが、彼はアンダーグラウンドを探しているらしい」と報告したみたいで。あとから知ったことなのだけど、東ドイツで“アンダーグラウンド”という言葉は“アンダーグラウンド”な音楽シーンではなく、政治的なアンダーグラウンド組織を指していたみたいで。要するに政府に対して「このイギリス人は何を探してるのか」と警戒したそうなんだ。どうやら僕は彼を通じて、東ドイツ国家から監視をされていたみたいなんだよね。MI5やCIAスパイだと疑って(笑)。
――本当に映画みたいなことが現実で起きていたんですね。
マーク:でも当局の職員が夜遅くまで僕のことを調べてると思うとおもしろいよね。僕の目的が「打倒政府」ではなく、「音楽を探してる」なんて思ってもなかったんでしょう。
――それにしても、当時ベルリンの壁を抜けて東ドイツに足を踏み入れるのは恐ろしくなかったのでしょうか?
マーク:ベルリンの壁は僕の「東ドイツの人達を幸せにしたい」という気持ちを留めることはなかった。彼等は僕と同じように音楽を愛していたし、欲しいレコードが東ドイツでは手に入らなかったから、ハンガリーとかチェコスロバキアといった東ドイツと比べて規制が緩い都市にわざわざ旅行で行ってジョイ・ディヴィジョンとかのレコードを買ってたみたいなんだ。それを見て、「彼等が欲しがってるレコードを全部持っているから、カセットに入れて東ドイツに持ち込もう」と決めた。誰かにそのカセットを渡せば、その人がまた違う人にカセットを渡して、という連鎖が起こる確信があったんだ。
当時からマークは既に音楽という国境を越える文化を使って、街から街への往来を続けていたのであった。後編では、マークがベルリンの中で関わり合いをもっていたミュージシャンたちとのやりとり。そしてこのコロナパンデミックが起きて以降の世界を様々な時代の変遷を見つめてきたマークがどのように捉えているのかについて、話を伺ってみることにしよう。
(後編に続く)