1964年東京オリンピック「東洋の魔女」の精神性 仏映像監督ジュリアン・ファロのまなざし

数年前、パリのフランス国立スポーツ研究所に勤務するジュリアン・ファロは、1960年代の日本女子バレーボールチームの16ミリ映像に出合った。日本の繊維メーカー、大日本紡績(現在のユニチカ)貝塚工場の従業員で構成された同チームは、ヨーロッパ遠征で次々と勝利して世界を席巻したことから“東洋の魔女”と呼ばれ、1964年の東京オリンピックで金メダルを勝ち取った。ファロは、同チームのトレーニングの激しさに衝撃を受け、選手達のインタビューを軸にしたオリンピック優勝までの道のりをたどるドキュメンタリー映画『東洋の魔女(原題:Les Sorcières de l’Orient)』の制作を開始した。

3年の歳月をかけて完成した同作品の最大の見どころは、“魔女”と呼ばれた選手たちが当時をありのままに語る姿と、凛とした佇まい。ファロが撮影当時を振り返り、「選手達はとても謙虚だった」というように、想像を絶する過酷な特訓を無私無欲で耐えた精神は50年以上経った現在も選手達の中に残っていることが感じられる。当時の練習やオリンピック映像の他、日本のテレビアニメ『アタックNO.1(1969〜71年)』やモノクロアニメの抜粋、エレクトロミュージックなどを多用した編集方法も才気溢れる。ファロが伝えたかったこと、スポーツの訓練方法における文化的な違い、日本のテレビアニメや音楽を多用した意図を紐解く。

非常に残念なことに本作品に登場する選手の一人、谷田絹子(現姓・井戸川)が昨年12月に亡くなった。谷田は、今年に延期となった東京オリンピックの大阪府の聖火ランナーの一人に選ばれていたため聖火リレーを走ることがかなわなかったことが悔やまれる。

レベルの高い選手達の先鋭的で厳しい一連の練習方法に唖然

――1980年代、ご自身の幼少期に日本のテレビアニメ『アタッカーYOU!(日本では84〜85年放送)』を観ていたそうですね。当時の日本アニメの印象、魅力を教えてください。

ジュリアン・ファロ(以下、ファロ):私は1978年生まれで、1980年代前半にフランスでブームだった日本のテレビアニメを観ていました。当時は自分が観ているアニメのほとんどが日本の作品だとは思いもよりませんでした。メディアの選択肢が少なかったこともありますが、日本アニメは斬新なものとして受け入れられていました。日本の作品はテレビアニメで人気となった後に、漫画原作があることが知られていきました。フランスの1980年代にテレビで放送されていた日本アニメは、1960、70年代に日本で放送されていたものがほとんどだったのでタイムラグはありましたがとても新鮮で、これらを観て育った私の世代は文化的な美意識を共有しています。1990年、2000年代はジブリアニメが人気となり、宮崎監督と高畑監督のファンがたくさんいます。

――フランス人のバレーボールコーチが見せてくれたバレーボールの映像集で「東洋の魔女」を知ったそうですが、何に惹かれましたか?

ファロ:レベルの高い選手達の先鋭的で厳しい一連の練習方法に唖然としながら、同時に『アタッカーYOU!』を想起させました。この映像集がドキュメンタリーを作るきっかけにはなりましたが、当初は映像制作まで考えていませんでした。その後、渋谷昶子監督の64年のカンヌ映画祭短編部門グランプリ作品『挑戦』を観ました。東京オリンピックで金メダルを取った女子バレーボールチームのドキュメンタリー映画として知られている同作品の色鮮やかで美しい映像を観て、自分の企画を進めるのに十分な素材がそろっていると確信しました。

――撮影はどのように進めたのですか?

ファロ:2019年6月、日本に10日間滞在し、関西、関東圏在住の4人の選手に会いました。松村好子さん、篠崎洋子さん、谷田絹子さん、松村勝美さんとぞれぞれ3、4時間のインタビュー、半田百合子さんは選手5人が集まる昼食会の参加を承諾してもらいました。選手全員に連絡を取りたかったのですが、2人は他界されていました。私は日本語を話せないので、パリ在住の通訳・字幕翻訳家カトリーヌ・カドゥに同行してもらいました。失礼のないように細心の注意を払いたかったのでインタビュー時はワイヤレスマイクは使わず、録音機をテーブルに置いて収録しました。フランスに帰国後、インタビューを翻訳して使いたいシーンを選びながら、選手達が繊維工場で働いていた頃から世界選手権で優勝し、最終的にはオリンピックで金メダルを獲得するまでを時系列にする構成に決めました。 同年10月に再度日本を訪れ、選手達の撮影をしました。すでに選んであるインタビューの抜粋に合わせる映像の構想がありましたが、1人1人に撮影したい場所があるか聞きました。松村好子さんは毎週通っているスポーツジムを選び、健康的に鍛え上げられた体を見せてくれました。篠崎さんは女子バレーボールチームのトレーナーをしているので練習風景を撮りました。谷田さんと松村勝美さんは特に希望がなかったので、当時谷田さんは娘さんとお孫さんと暮らしていたので自宅を撮影場所に提案しました。お孫さんと一緒にゲームをするのが好きだと聞いたので、フランスからカードゲームを買っていき、それを家族でやっている姿を撮りました。松村勝美さんは他の選手と比べて、態度と人柄が異なっていました。撮影に関しても、単刀直入に「言ってくれたら、なんでもやるわ」と言われたのでバスで移動中の車内で撮影をしました。日本には2回行きましたが、予算の関係もあり、迅速かつ効率的に進める必要があったので1選手につき1日で撮影しました。選手達にあまり負担をかけたくなかったので配慮した部分もあります。

保守的であり開放的な指導論に興味

――選手達が心を開いて話している姿が印象的でした。日本は和を重んじる文化が根強いため、上の世代であれば、より自己を語ることに抵抗があります。どのようにアプローチしたのですか?

ファロ:最年少の選手は73歳で私は42歳なので世代間の価値観の違いを乗り越える必要があると思っていた時に、選手達と同年代のカトリーヌに出会いました。カトリーヌは日本映画のフランス語通訳者として有名で、1980年代に黒澤明監督と仕事をし、日本人監督や俳優を大勢知っています。日本に長年住んでいたこともあり、東京オリンピックにも参加していました。カトリーヌには失礼のない対応をしたいと伝え、選手達に連絡を取ってもらい、メールと電話でやりとりをしながら関係を深めていきました。

撮影の最終日、松村勝美さんの家で荷物をまとめている最中にカトリーヌと松村さんが昔からの親友のように手を取り合っていました。カトリーヌは撮影後も日本に行った際は何人かの選手と会っていて、親しい関係が続いています。カトリーヌには本当に感謝していますし、選手達に無理なお願いをしていなかったことを願います。

――師匠と弟子の関係を重視する日本の選手育成方法は、西洋の方法と大きく異なると思います。日本の練習方法をどのように捉えていますか?

ファロ:練習方法は、その国の係る文化を反映しています。私が以前、柔道をやっていた時は日本の伝統的な習慣を意識していました。日本は常に武士道に言及していますし、練習というよりも修業です。日本の訓練は、とにかく疑問を持たずに練習して、技を習得していきます。フランスは師匠と弟子の関係ではなく、先生と生徒の関係で育成です。より認知的な訓練が行われ、自分が何をしているのか、なぜそれをやるのかを常に理解する必要があります。

当時は文化的な誤解やズレがあったと思いますが、欧米人は自分達とは異なる大松監督の指導や練習方法に衝撃を受けたと聞いています。欧米は女性の自由を語る一方で、女性は男性より劣っていると考えていて、女性の自由度は高まっていたものの、「女性に過酷な訓練は必要ない」というのが大多数の意見でした。そんな価値観が根底にある中で、過剰な練習をして体を酷使する日本の女子チームと対峙することになりました。日本は家父長制の社会ですが、大松監督は「女性を男性のように鍛える」とも言っていました。保守的であると同時に開放的でもあるこの複雑な指導論に興味を持ちました。この作品で伝えたかったことの1つは、日本の練習の特異性を世界に伝えることです。当時の大松監督の過酷な練習は他に類を見ないものでしたが、現代のハイレベルな女性アスリートはみんな、男性と同等の練習をしています。

日本の選手は監督に素直に従う人が多いと思いました。サブメンバーに選ばれてもそれに疑問を持ち、議論しません。フランス代表の最高レベルの選手達に同じことをしたら、納得できず監督に抗議するでしょう。両国の選手間の大きな文化の違いを感じました。

チームを世界一にできる完璧な存在として大松監督を信頼

――欧米の観客の反応はどうでしたか?

ファロ:ほとんどの観客は高度なスポーツの知識があまりないと思うので、先ほど話したような日本と欧米の違いを見出すのは困難です。欧米の観客は、当時の日本の高度なスポーツは企業が組織していて、バレーボールは繊維産業と密接に結びついていたことに驚くと思います。フランス国内のスポーツは行政機関のスポーツ省が組織しており、アメリカは大学で高度なスポーツ育成が行われています。日本の女子バレーボールチームは先駆けであり、世界一の選手になるために今まで以上に過酷で膨大な練習をしました。この作品によって、大松監督が“鬼”ではなかったこと、選手達は虐待を受けていなかったことを理解してもらえれば嬉しいです。

篠崎さんが74歳になってもバレーボールを続けていると知り、当時のことをそんなに不快に感じていないのではないかと思いました。バレーボールに情熱を注いだ選手達は、圧倒的な能力をもったまさしく魔女でした。チームを世界一にできる完璧な存在として大松監督を信頼していたからこそ、厳しい練習を受け入れましたし、選手達のインタビューはそれらを伝える重要な要素になっています。

――思い入れのある場面を教えてください。

ファロ:2つあり、1つは選手達が昼食をとっている場面で、水を飲んでいるのにお酒を飲んでいるフリをしてみんなを大笑いさせた人がいました。若い頃もこんなふうにみんなで笑っていたんだろうと感じさせる、自然な心地よさがありました。とても感動的で、今でも見ると涙が出ます。もう1つはオリンピックの決勝戦に勝利した直後、大松監督がベンチに座ったままでいる場面です。目に涙を浮かべていて誰にも気付かれたくなかったのか、とても印象的でした。この勝利は長い旅の終わりであり、選手との別れを意味しています。目標を達成し、選手達は巣立っていく。監督としては、嬉しさと悲しさが入り混じっていたと思います。

――アニメや音楽の編集も卓越していました。音楽ではポーティスヘッドの『マシンガン』を効果的に使用し、ジェイソン・ライトルとはコラボレーションしています。インスピレーションやアイデアはどこから浮かんでくるのですか?

ファロ:世界選手権やオリンピックの決勝を充分に描写できるだけの映像がなかったので、アニメは各映像の間を埋めるために使いました。実際の練習風景と『アタックNo.1』の映像は、似ているものがたくさんありました。

映像を編集する際に、3次元を演出するリズム感のある音楽や音源を探していました。編集作業中にポーティスヘッドが3枚目のアルバムをリリースしたのですが、その中の1曲『マシンガン』のレトロなシンセサイザーに日本的なものを感じ、採用しました。私はヴィンテージ・シンセサイザー、特に日本製が好きなので、日本に行った際にヴィンテージシンセを入手してエンディングの音楽を作りました。ライトルが作ってくれたオリンピックの決勝戦で日本チームが勝利する場面の音楽は、大松監督の憂いを帯びた表情と絶妙に調和が取れています。 1960年代の日本は電子機器の先駆者でもあり“来るべき未来像”のようなイメージがあったため、レトロで未来的な音楽を取り入れました。

――お話を伺っていると日本の文化に精通されているように感じますが、この作品で新たな発見はありましたか?

ファロ: 選手達の謙虚さを痛感しました。「偉大な功績を残した、特別な存在」と伝えたら、謙虚さを装っているわけではなく心から「大したことではない」と言い続けました。インタビューを翻訳する過程で日本語の複雑さと心の機微を学びました。

インタビュー中に奇跡のような出来事がありました。私は日本語を話せませんが、通訳なしでも選手達の話し方や身振り手振りで会話を正しく理解できている場面がたくさんありました。魔法にかかったような体験でしたが、私がこのテーマを熟知し、選手達を理解しようと最善を尽くした結果だと思います。

ジュリアン・ファロ
フランス国立スポーツ体育研究所(INSEP)の映像管理部門に15年間勤務。同研究所にはスポーツ研究用に撮影された貴重な16ミリフィルムの膨大なアーカイブ映像が所蔵されている。高度な技術を持つアスリート達の驚異的な業績に魅了され、映画という媒体を通して、スポーツ・映画・芸術の架け橋となることを目指し、映像作品を制作している。 長編1作目でジョン・マッケンローのドキュメンタリー、『L’Empire de la perfection(原題)」(2018)を制作、本作が2作目となる。

Picture Provided UFO Production

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NAO

スタイリスト、ライター、コーディネーター。スタイリスト・アシスタントを経て、独立。雑誌、広告、ミュージックビデオなどのスタイリング、コスチュームデザインを手掛ける。2006年にニューヨークに拠点を移し、翌年より米カルチャー誌FutureClawのコントリビューティング・エディター。2015年より企業のコーディネーター、リサーチャーとして東京とニューヨークを行き来しながら活動中。東京のクリエイティブ・エージェンシーS14所属。ライフワークは、縄文、江戸時代の研究。公式サイト

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