連載「自由人のたしなみ」Vol.9 『土偶を読む』の竹倉史人が考える“縄文”とこれからの知性

日本の“たしなみ”を理解することをテーマに、ジャンルレスで人やコミュニティー、事象を通じて改めて日本文化の本質を考える本連載。今回は『土偶を読む』の著者で人類学者の竹倉史人が登場する。

ここ数年、縄文時代への人々の関心は増すばかりだ。2018年に開催された東京国立博物館の特別展「縄文―1万年の美の鼓動」は来場者数が30万人を超える空前の人気となった。縄文コンテンツは国内だけでなく海外向けのテレビ番組でもフィーチャーされており、2021年には北日本の縄文遺跡群がユネスコの世界遺産に登録されたのが記憶に新しい。

縄文において、最も愛されているのが土偶だろう。他に類を見ない造形は、多くの人を惹きつけ、オークションで数億の値がついたこともあるほどだ。そんな土偶の世界に、爆発的インパクトを与えた人物がいる。昨年『土偶を読む』を出版した人類学者の竹倉史人だ。

サントリー学芸賞とみうらじゅん賞をダブル受賞したベストセラー『土偶を読む』では、従来の「土偶は女性や妊婦をかたどっている」とする“通説”をばっさり一太刀。土偶とは「植物の精霊をかたどったフィギュアである」というまったく新しい説を打ち出した。土偶は一体何に似ているのか、というイコノロジーの視点から仮説を立て、全国各地でのフィールドワークや実証データから仮説の検証を実施。さまざまな土偶のモチーフを、文字通り読み解いていく。これまでの常識に対して”そう見るのは不自然“という率直な違和感を発端に、説得力に富んだ仮説を展開していくさまは学術界からも高い評価を受け、同時に新鮮な謎解きとして多くの読者に受け入れられている。

研究のために数年にわたって土偶に寄り添い、土偶を抱いて寝るまでしていた竹倉に、「なぜ縄文時代に人はこうも魅せられるのか」を尋ねてみた。そもそも縄文時代は「日本の歴史」から除外されることもある存在だったという。

縄文のアミニズムに通じる八百万の神という価値観

「実は縄文時代という時代区分が一般的になったのはごく最近、戦後のことです。それまでは弥生時代とともに“石器時代”と呼ばれ、古事記や日本書紀に記されている正統な日本史からは外れた存在でした。また、縄文文化の詳細が明らかになってきたのもわりあい最近のことです。高度経済成長期の土地開発にともない日本のあちこちから縄文時代の遺跡が発見され、大量の遺物が出土しました。90年代には青森県の三内丸山遺跡の発掘が行われ、縄文人が高度な漆工芸や土木工事の技術を持っていたことも明らかになりました。近年では電子顕微鏡などを使ったアプローチも盛んになり、ミクロな遺物からかれらが植物の栽培まで行っていたことがわかっています。他にも、分子生物学によるDNA解析が進み、日本人の中には縄文人の血が引き継がれていることもわかった。こうしたさまざまな発見が蓄積されていくうちに、縄文人のイメージは『石器時代の野蛮な先住民族』から『豊かな文化を持つわれわれの先祖』というようにすっかり変わりました。こうなると、縄文時代も「日本史」の中に組み込む方が自然になるし、日本文化について考えるときも根底にある縄文文化の存在は無視できなくなります。実際、現在でも各地で行われている「針供養」や「筆供養」のように、丁寧に「道具のお葬式」まで行うという日本人のマインドの源流は縄文時代にまで遡る可能性がありますし、八百万の神という価値観も縄文のアミニズムに通じます。つまり、日本文化の中には縄文的エッセンスが脈々と受け継がれているといっても過言ではありません。そして何より、シンプルでインパクトが強いのが土偶や土器の造形的な魅力です。やはりこの要因はとても大きいと思います。

野にある草花にも敬意を払う自然信仰のアミニズムをベースに、採集・栽培・狩猟・漁労を中心として生きる糧を獲得。大きな身分格差もなかったといわれている縄文人。私達が生きる現代社会とシステムは異なっている。だからこそ、日本人はその古代の片鱗が自己の内部にあると気付いた時、愛着が湧き上がってくるのだろう。なかでもユニークな意匠を持った土偶は、その象徴的な存在となっている。説明無用の造形的な魅力は「観光資源としても十分価値があるもの」だと竹倉はいう。しかし「植物の精霊」のフィギュアとして、ゆるキャラのように観光大使の役割を担うのは、まだしばらく時間がかかりそうだ。竹倉の新しい説を認めようとしない考古学の関係者も少なくないからだ。それもそのはず、これまで長年にわたって掲げてきた自分たちの説を、そうやすやすと撤回するはずもない。

しかし、考えてみてほしい。どう見ても土偶の多くは人間の女性の姿には似ていないし、その具体的な造形からは、竹倉が指摘するように土偶の様式ごとに異なるモチーフが存在していると考える方がはるかに自然である。それが『土偶を読む』がベストセラーとなり、多くの人から支持されている理由だろう。その一方で、竹倉のような新しい説は異を唱える一方で自分達は従来の曖昧な“通説”を繰り返すばかりという人達が存在していることも事実だ。こうした学界の状況に違和感を抱く人も少なくないのではないか。竹倉はそんな旧態依然とした反応には、男性の研究者による知的資源の独占の問題があると指摘する。

「縄文土器と同様、土偶も多くが女性の手によって作られたものだと思います。土偶のモチーフが植物や貝であるのは、まさにそれが栽培や採集といった女性の生業と関係しているからでしょう。つまり土偶は女性たちの生活の道具だった。しかし、これまでの研究者を見てください。ほとんどが男です。そして男たちが勝手に土偶を神秘化して願望を投影したり、あるいは逆に官僚的なやり方で土偶を徹底的にモノ化してカタログを作って満足する。土偶に対するロマンティシズムとフェティシズム、いかにも男性がやりそうなことですね。私の研究成果の批判も結構ですけど、その暇があったら税金使ってやってきた自分たちの土偶研究がどれほどのものなのか、ぜひ検証してみて欲しいですね。ちなみに私は独立研究者なのですべて自腹です(笑)。いずれにせよ、古代の「女性の道具」から現代の「男性の道具」になってしまった土偶の存在は、男性中心に設計された現代の学問、社会制度、知性のあり方の弊害を見事に象徴しています。」

土偶を語ることは、ジェンダーの問題にも通じていたのである!

近年の研究により、縄文人はかつての想定よりはるかに植物性の資源に依存していたことがわかってきている。「食料の調達においては、おもに男性が狩猟・漁を、そして女性が植物採集・栽培・潮干狩りをリードしていたと考えられます」と竹倉は言う。つまり食料確保の重要な部分が女性の活躍いかんにかかっていたというのだ。そんな縄文時代を男性ばかりで研究してきた不自然さ。竹倉は学問の世界にはまだまだ父性的な権威主義がはびこっており、制度の中で学問をすることの限界を感じているとも言う。

「土偶に“ビビビ”と感じて研究を始めましたが、私は考古学が専門ではありません。そもそも土偶=考古学という発想が古い過去のものです。土偶は土偶であって、それをどのような方法でどのように考えようが自由なのです。職業学者、専門分野ありきで研究対象があるのではない。逆です。研究対象があって、そこに全人的な知性、リベラル・アーツを駆使して挑むのが本来の学問の姿です」。自著が話題になり、4月にはその副読本ともいえる『土偶を読む図鑑』も上梓した竹倉であるが、「土偶の研究者」になるつもりは毛頭ないという。では、彼がメインフィールドにするのは一体何なのか。それは研究者というアカデミアの世界に焦点を当てたものではなく、万人に共通する学びや知性の本質に関わることであった。

「知というのは、もっと知りたいという気持ちから生まれるワクワクした楽しいもの」

「私はムサビ(武蔵野美術大学)を中退し、しばらくプラプラしてから東京大学の文科Ⅲ類に入学し、宗教学科を卒業しましたが、このときに既に自分のやりたいことや知りたいことと、実際に学界で行われていることとのあいだにギャップを感じていました。自分にとって学問というのは単なるツールに過ぎないわけです。でも学問のための学問というか、学問を自己目的化したようなものが溢れていました。肌に合わなかったんですね、そういうものが。けれどその合わないことをあえて続けることで、予測できないような化学反応が生まれることも確かにあります。いろいろあって30代になってから東工大の大学院に9年近く在籍していましたが、大学という巨大組織の中で息を潜めている間に、自分の中の何かがとても鍛えられたように思います。あの頃はベトコンのような気持ちでしたね(笑)」。

ベトコンとは、ベトナム戦争においてクワや鎌を手に政府弾圧に抗議したことを発端とする反帝国主義の解放戦線。政府やその後ろ盾であったアメリカ軍のような権威を、長過ぎる学生生活というジャングルに潜みながら虎視眈々と狙い続け、放った矢が縄文時代の土偶にまで届いたわけだ。

「土偶が何に似ているかという直感から始める私の方法論は、長らく考古学で軽視されてきたアプローチです。そういうやり方は「単なる思いつき」であり、自分たち学者はもっと崇高で立派な学問をやっているのだといったところでしょう。私から見ればむしろ滑稽な、そうした生活感覚から乖離した権威主義をどうやってぶっ壊してやろうかと考えていました。学問や知性というのは、いわゆる「専門家」だけのものではないし、ましてや肩書を傘に権威をチラつかせるおじさん達が独占してよいものではありません。知性というのは、もっとシンプルな、伸びやかな好奇心から生まれるワクワクした楽しいものであり、学問がいくら高度化しても、常に立ち返る基本はそこにある。これからも権威や社会制度に絡め取られない、人間本来の自由な知性に磨きをかけていきたいと思います」。

人はジャンルやカテゴリーが決まったものに安心する傾向がある。竹倉の場合も、土偶を研究しているのなら、土偶もしくは縄文時代のエキスパートであると認識できれば落ち着いてその活動を見ることができる。しかし彼は、土偶エキスパートとなるつもりはなく、前著は『輪廻転生』である。では彼のテーマは何なのか。知性が本来心が沸き立つようなワクワクし豊かな存在であるよう、権威の檻から解き放つこと。すなわち学問開放、知性開放と呼べるものなのだ。

どの研究機関にも学会にも属さない独立研究者という立場から、学問の素晴らしさとその自由を唱える異色の存在。土偶の次に覆されるわれわれの「常識」は何であるのか。パンデミック以降、新しい価値観がいくつも生まれているが、知が新しい自由を手に入れることで生まれるものは……。それは学問の世界だけでなく社会にとってもワクワクするものになるのではないだろうか。

竹倉史人
1976年生まれ。人類学者、独立研究者。武蔵野美術大学中退、東京大学卒業後、東京工業大学大学院博士課程満期退学。著書に『輪廻転生』(講談社)、『土偶を読む』(晶文社)、『土偶を読む図鑑』(小学館)などがある。

Photography Kunihisa Kobayashi

author:

田中 敏惠

編集者、文筆家。ジャーナリストの進化系を標榜する「キミテラス」主宰。著書に『ブータン王室は、なぜこんなに愛されるのか』、編著書に『Kajitsu』、共著書に『未踏 あら輝』。編書に『旅する舌ごころ』(白洲信哉)、企画&編集協力に『アンジュと頭獅王』(吉田修一)などがある。ブータンと日本の橋渡しがライフワーク。 キミテラス(KIMITERASU)

この記事を共有