主題なき作家、まなざす読者——漫画家・藤本タツキについて

物語を駆動する主題への無頓着。それこそが藤本タツキという漫画作家の第一の特徴だ。

彼の作家歴を概観した時、『ファイアパンチ』と『チェンソーマン』の華々しい成功の一方、その多くを読み切り作家としての期間が占めていることに気づかされる。初漫画賞投稿作の『庭には二羽ニワトリがいた。』から藤本の漫画家キャリアがスタートしていると考えれば、初長編作品である『ファイアパンチ』の第1話が「ジャンプ+」のウェブ誌面上に掲載される2016年まで、藤本タツキはおおよそ7年ほどの期間を短編漫画の制作に費やしたことになる。しかもそのペースは尋常なものではなく、多い時は毎日1本ずつネームを担当編集者に送り、大学卒業後しばらく職に就くことのなかった時期を読み切りの賞金で賄っていたという逸話があるほどだ。

これらの事実やエピソードは藤本の長編漫画の描き手としての早熟さを示すと同時に、彼の物語る対象への執着のなさを明確に示している。基本的に少年漫画の領域において読み切り作品が来るべき誌面連載の機会を獲得するための通過点であることを踏まえても、自作の物語の主題にこだわらず次から次へとパターンを生成していくことに抵抗がない藤本の姿勢は明らかである。むしろそこでは物語の伝達技術を鍛え上げ漫画家として大成するための、入れ替え可能な手段として物語が捉えられているかのようだ。

このような彼の作家的資質は初長編作品である『ファイアパンチ』においてある種偏執的な形で発揮された。主人公は復讐者であり英雄であり神であると同時に誰でもなく、その時その時で名や素性でさえ変えてしまう。そのような入れ替え可能性は主人公に関係する複数の女性の登場人物に関しても示され、彼らの男女一対の図式が半ば無理やりに維持されることによって物語全体の構造がかろうじて安定している。この「超展開」とも評された語りにおける異様なまでの流動性はまさしく藤本タツキの物語の主題に対する無頓着をあからさまにしてしまっている。

そして同時に重要なのは先述した『ファイアパンチ』の語りの流動性がSNSでのコミュニケーションを誘発することによって閲覧回数を増大させるいわゆる「バズ戦略」に最適化したものでもあるということだ。「新連載春の陣」という「ジャンプ+」側のテコ入れ企画の一環として『ファイアパンチ』の連載がスタートしたことを鑑みても、1話ごとに物語設定を根底から覆すような展開が続く同作のエクストリームさが、SNSを中心に新奇なものとして受容され、「ジャンプ+」のサイトアクセス数の向上に多大な貢献をもたらしたのは明らかだ。

物語の主題に対する無頓着とSNSを中心とした消費環境の結託として『ファイアパンチ』を巡る状況はいったん整理できるが、しかし単なる適性という以上に、読者の欲望が物語自体に介入しているように見えることが非常に示唆的である。入れ替え可能でいかようにも展開可能な物語を読者の欲望を通じて1つの形にまとめ上げるという、漫画制作の職業的性格が藤本タツキに関しては極めて重要な位置を占めている。この第二の特徴は彼の次の長編漫画作品である『チェンソーマン』において表れた。順を追って説明していこう。

『チェンソーマン』に潜む複雑な物語構造

『チェンソーマン』の主人公デンジは物語開始時点では未成年でありながら職にも学業にも就かない孤児で、作中世界にはびこるモンスター的存在の悪魔を狩るデビルハンターとしてやくざに酷使されながら、自分の内臓や片目を売ってまで借金返済の足しにする極貧生活を送っていた。悪魔退治稼業に精を出しながら「普通の生活」を求める彼だが、パートナー的存在である悪魔のポチタとの日々に同時にどこか満たされてもいた。そんな彼のささやかな幸せも長くは続かず、やくざの裏切りによってデンジは八つ裂きにされ一度は絶命する。しかしパートナーであるポチタが彼の心臓になり替わることによってデンジは半分人間で半分悪魔の電鋸頭の異形の存在として再生する。ポチタと1つになり蘇生したデンジが自らを裏切ったやくざ集団を血祭りに上げ皆殺しにした後、そこに公安のデビルハンターを名乗るマキマという女性がやってきて、というのがおおむねの第1話の内容だ。

その後はマキマの管理下に置かれたデンジのデビルハンターとしての活躍と、公安のデビルハンター早川アキと人間の死体を乗っ取った悪魔である魔人のパワーとの交流が次第に疑似家族的関係へと発展する過程が数巻にわたって描かれていく。

その中で彼が一貫して求め、そして一時的に手に入れた「普通の生活」つまりは与えられた仕事さえこなしていれば衣食住に困ることのない状況はあくまでデンジの極度の貧困生活という出自によって願われたものであり、決して内発的なものではないことに注意が必要だ。このことが悲劇的な形で暴かれるのが82話で、貧しさの中に自足していたデンジを精神的に追い詰め表面的に願われた「普通の生活」を本気で断念せざるを得ないようにするために、あえて早川アキとパワーとの間に疑似家族的関係を築かせ、デンジ自身の手で取り返しのつかない形でそれを壊すよう仕向けたというマキマの目論見が、彼女自身の告白によって示されるのだ。『チェンソーマン』屈指のターニングポイントともいえる同話において、「普通の生活」なるものが策謀にデンジを引き込むためのエサでしかなかったことが明らかにされ、デンジは一時精神的に不能状態に陥る。ここで暴かれるのは彼のデビルハンターとしての活躍もそれを支えた動機もすべて他の誰かによって計画的に謀られた空虚なものだということだ。『チェンソーマン』の作者である藤本タツキの物語の主題への関心の不在という特質は先に論じた通りで、同作の主人公デンジの動機の根拠の不在は言うまでもなくこれとリンクしている。

ただ『チェンソーマン』が複雑なのは物語をもてあそぶ作者と動機をもてあそぶマキマをどこか重ねつつも、そのような在り方を批判するような展開があとに続くことだ。具体的にはデンジを追い詰めるための舞台装置でしかなかった早川アキとパワーとの交流こそが、彼がもう一度復活しマキマに対してリベンジを挑む原動力になるのだ。つまりミクロな関係性の積み重ねが敵役の描いた筋書きの誤算となる展開を描くことで、入れ替え可能な駒だったはずの対象に反逆される寓話的主題を読み手に示唆する効果を生んでいる。

しかし当たり前の話だが、このような作中の不確定要素が物語の進行の決め手になるという流れは、あくまで藤本タツキによって巧みに設計されたものにすぎない。ここにあるのは三層の主観のレイヤー、つまり81話以前のデンジの主観、それを裏でコントロールしていたマキマの主観、そしてマキマの計画の誤算も含めて物語展開を設計する作者の主観の3つだ。『チェンソーマン』の物語は主人公の主観がまず否定され、その背後にあった敵役の主観が続いて否定されるという順序をたどるが、ここで作者と登場人物の同一化が回避されることによって、物語設計の主体である藤本の存在が後景化していることに着目すべきである。つまりあくまで『チェンソーマン』の物語は作者に操作可能な範囲に収まっており、主人公の動機であれ、物語の展開であれ、対象の固有の価値を認めず、それらを意のままにもてあそぶことそれ自体の批判としては不徹底だということだ。

ではなぜこの自己批判の演技とも言うべき複雑な物語構造を藤本タツキは提示したのか。答えは簡単だ。読者をだますためである。『ファイアパンチ』の好評を経て本誌連載が決まったという経緯を考えても「ジャンプ+」と「週刊少年ジャンプ」本誌の読者数の差は歴然としており、打ち切りの可能性も含め『チェンソーマン』はより厳しい視線にさらされていたと言える。『ファイアパンチ』のような極端にトリッキーな展開は何よりも読者層の問題から使えず、ストーリー漫画を通じて何かしらの主題を表現するという定形を意識せざるを得なくなったことで、彼がひねり出したのがこの『チェンソーマン』の物語構造なのではないか。

主題の不在と読者の視線が結託する中で形成された近年の藤本タツキの奇妙な作風は、しかしながら、作者の手のみによって作られる短編漫画の形式には援用されないようである。『ルックバック』にせよ『さよなら絵梨』にせよ、技法的には洗練を極める一方、前者は突然の親友の死の受容、後者は思春期の記憶に決着をつけミドルエイジクライシスを乗り越えるといった、きわめて紋切り型の主題となっており、主題をあらかじめ放棄した『ファイアパンチ』や自己批判的な主題を演じた『チェンソーマン』のような捻じれた達成はそこにはない。この意味において藤本タツキは読者を確実に必要としている。

『チェンソーマン』の第2部は今年の7月13日「ジャンプ+」誌上で連載開始された。漫画作家としての評価も、掲載媒体の位置づけも、そしてなによりも読者の視線も、すべてがかつてと異なる中、藤本タツキはどんな関係を読者と取り結ぶのだろうか。

Photography Yohei Kichiraku

author:

李氏

音楽ZINE『痙攣』編集長。自身が主催する音楽ZINEを運営しながら、「Mikiki」や「CINRA」といったウェブサイトを中心に音楽ライターとしての活動も行う。 Twitter:@BLUEPANOPTICON

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