ニュータイプと、「オタク」たちの実存の物語——「エヴァンゲリオン」が完結した今改めて紐解く、「ガンダム」の世界

1979年に放映開始されたテレビアニメ作品『機動戦士ガンダム』に端を発し、今なお新作が制作されその歴史を拡張し続ける「ガンダム」シリーズ。この6月には劇場版作品『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の公開も開始され、その人気ぶりは衰えることを知らない。

そんな「ガンダム」シリーズが後続作品・クリエイターに与えた影響は計り知れず、特に初代ガンダムから「Z」を経て「逆襲のシャア」に至るまでの初期作品群が、それらを若き日に体験した現在活躍中のクリエイターたちを大いに刺激しその想像力・創造力の形成において重要な役割を担ったであろうことは想像に難くない。今年いよいよ完結した「エヴァンゲリオン」にも、「ガンダム」の水脈を感じ取ることができるはずだ。

なぜ「ガンダム」はかくも特別な存在であるのか。果たして「ガンダム」は何を描き、何を伝えてきたのか。6月に『シン・エヴァンゲリオン論』(河出新書)を上梓する批評家・藤田直哉に、同作・シリーズについて改めて考えてもらった。

「オタクの実存」を描いた「エヴァ」と「ガンダム」

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が公開され、「エヴァンゲリオン」の新劇場版が完結した。『新世紀エヴァンゲリオン』は、単なるロボットアニメではなく、「オタクの実存」の物語を描く作品で、作品世界全体がオタク業界のメタファーになっていた(疑問がある方は、宣伝になってしまい恐縮だが、拙著『シン・エヴァンゲリオン論』を読んでほしい)。

「ガンダム」もまた、そうだった。1993年に刊行された『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会』の中で、富野由悠季、庵野秀明、小黒祐一郎らが語り合っている。その中で庵野は、「スペースコロニー」は、サンライズやアニメ界に見えたり、重力に魂を囚われた人々がアニメオタクたちに見えたりする、つまり、ガンダム世界はオタクたちのメタファーであると言っているのだ。それに対し、富野もそうしていると応じている。

ただ、ちょっとすれ違っていると思うのは、富野は、ジオン軍やティターンズを、サンライズの偉い人たちに置き換えている、と答えているところだ。それに対し、庵野はむしろ、アニメファンたち特有の歪みのようなものを問題にしている。

筆者の解釈は逆で、アニメファンたちに近いのは、重力を振り捨てようとするニュータイプたちなのではないかと思う。

本稿では、そこを手掛かりに、ガンダム世界の再解釈を試みてみたい。

富野由悠季が「ニュータイプ」に投影していたものとは

ニュータイプがなぜ「オタク」たちか? 歴史や伝統の重力から自由になろうとしている存在だから、というのが1つ。もう1つは、アムロやカミーユの造形である。どちらも、科学者や技術者の息子だという異様な設定だ。機械や科学に興味を示す内向的な性格として描かれており、1983年に中森明夫が命名した時点における、コミュニケーションに苦手さを覚える理系少年的な意味での「おたく」概念には強く当てはまる(現代の「オタク」という言葉の意味とはちょっと異なるが、これも語りだすと長いので、前掲書を読んでほしい)

彼らは、ロボットの操縦には強い才能を発揮する。ぼくはそれは、ゲームを超絶うまくプレイするのと似ているように見えるが、過集中によるフロー状態で人間離れした能力を発揮している状態の表現と見做していいだろう。対人関係が得意ではなく、機械の操作に驚異的な能力を発揮する新しい世代として、ニュータイプは(この主人公二人に関しては)造形されているように思う。もっと言えば、いわゆる高知能の「ギフテッド」たちの造形と重なって見える。

『Zガンダム』LD-BOXの中で、庵野が富野にインタビューしている。そこで庵野は富野に「当時の談話で『僕には今の若い子たちがみんなカミーユみたいに見える』と語ってらっしゃったんですが」と訊ねると、富野は「それは感じていた。ロダンの時代だったら鬱病になって、それが亢進していって病院に入れられてしまうという人も少なからずいたわけだろうけど、今の時代はある部分それが風俗になることもままあるわけです。価値観や生活様式が変わったことによって、かつて異端児視されていたものが、TOKYOという状況の中では風俗になっちゃってる部分が目につく」「オジサンにとってそれは好ましい現象に思えなかった」と答えている。

富野は、「カミーユをフォウみたいにシンプルに、『自閉症の坊や』として描きたかったんでしょう」とも発言している。「自閉症」という言葉は現代の医学的に正確な意味とは異なるが、新しい時代の東京という環境の中で生まれた内向的で繊細な新しい世代のことを意識して人物を作っていたのだろうと推測される。

「おたく」という言葉が誕生した1983年前後に、「ガンダム』『Zガンダム』は同時代における新しい若者の特徴を意識し、「ニュータイプ」という設定を作っていた。だから、両者には重なり合う部分があるのだろう。

シリーズを重ねるごとに変遷していった「ニュータイプ」の位置付け

ニュータイプは、宇宙に適応して進化した新人類のことである。

1作目では、超人的な察知能力のある彼らのように人類が進化することで、互いに分かり合い、戦いが終わるかもしれないという希望が託されていた。しかし『Z』では、人工的に作られたニュータイプもどきである「強化人間」たちの悲劇が描かれる。彼女たちは精神的に不安定で、悪いマキャベリストたちの政治の道具として使い捨てられる。主人公カミーユはその哀しさに感応し、敵を倒すが、最終的には精神崩壊に至ってしまう。人間の分かり合えなさ、戦いのどうしようもなさへの絶望が『Z』では表現されていると言ってもいいだろう(SNSでの政治的な運動や争いを見ていると、カミーユ的な気分になる)。

皆がニュータイプになれば分かり合えるはずなのに、という理想主義は、『逆襲のシャア』でネガティヴに反転する。ニュータイプとして覚醒できない地球人類の愚かさを粛清してしまおうとするのだ。それはほとんど、カンボジアでのクメールルージュを思わせる急進主義の行き着く先の虐殺であり、ニュータイプ思想はここで1つの行き止まりを迎える。

富野はその後、ニュータイプ思想をネガティヴに評価するようになっていき、むしろ宇宙に適応した人類ではなく、地球などの大地に残るオールドタイプを重視するようになる。『∀』では、ガンダムを囲んで土俗的な村祭りをしながら「男は男 女は女」と歌うし、『Gのレコンギスタ』の「G」は「GROUND」であり、「大地」を重視せよという、反ニュータイプ思想が強くなっていくのだ。

「大地」「重力」とは、歴史、伝統、生活などの象徴であろうし、「宇宙」には歴史や伝統のない真空地帯=仮想空間のイメージも投影されているだろう。

これは思えば、最初のガンダムの第1話に既にあった思想である。アムロやカイなどの新しい若い世代を主人公に据えてはいるが、1話ではむしろ物理的現実の重みや、痛みを感じさせる演出が多い。富野は1941年生まれで、第二次世界大戦を経験しているが、そのような戦争経験世代による、若い世代へのメッセージが強く感じられるのだ。

そのような「重力=歴史」から自由になることへの希望がファーストにはあった。だが、それはやがて富野作品の中では否定されるようになっていく。

近現代日本における思想的・世代的闘争の寓話としての「ガンダム」

ガンダム世界が寓意的に描いているのは、主に「ニュータイプ」に象徴される新しい生き方をする者たちと、地上や重力に引き寄せられたものたちの戦争であり、それがオタク的な新しい世代を念頭に置いた寓話であると本論では解釈してきたが、そこに象徴させられているのはいわゆる「オタク」だけではない。

例えば、1960年代に隆盛した「若者の叛乱」の時代におけるカウンターカルチャーや、ニューエイジ思想もたっぷり入り込んでいる。政治のシステムに対し、個人的な感情を重視する叫びや、ララアに象徴される神秘主義的なイメージがそれだ。

実際、「ガンダム」のキャラクターデザインをした安彦良和は、全共闘の闘士である。弘前大学での活動家時代の友人には、元連合赤軍メンバーさえいた(『革命とサブカル』で対談している)。それだけが原因ではないだろうが、60年代の革命の機運、政治運動、内ゲバ、それからソビエトなどの歴史も、ガンダムは寓話的に取り込んでいる。

ガンダムは、戦中・戦後の日本における大きな変化、思想的・世代的闘争の寓話として作中の政治やドラマを形成した作品だった。実際、富野は、『Z』までは「作品を通してシリアスにものを考える」ことをしていたと述べている。それは、戦後日本社会において次々に現れた様々なライフスタイルの葛藤と衝突のドラマであり、多くの人々が自分自身を理解するために参照もした。それが、『エヴァンゲリオン』にも引き継がれたのだと考えられる。

だからこそ、単なる絵空事としてではなく、この世界に生きている私たちが自分の事のように感情移入し、身につまされる作品なのだ。大袈裟に言えば、その中で本当に描かれているのは社会の行先、未来の行方についての葛藤と闘争のドラマであり、視聴者に作品を通じて影響を与えることで、現実の未来をも作り出した作品でもある。

ニュータイプの思想の変遷の中に、ぼくは、オタク的な新しい世代に賭けられた夢と、絶望のドラマを見てしまう。それは『ガンダム』を目指したという『エヴァンゲリオン』にダイレクトに継がれている。「大地」を重視するようになった『シン』は、富野監督のニュータイプ論の変遷と重なる。「ガンダム」や「エヴァ」が寓意的に示したドラマは、1つの重要な戦後日本精神史だと言えるだろう。

Photography Kazuo Yoshida

author:

藤田直哉

1983年、札幌生まれ。批評家。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。日本映画大学准教授。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『新世紀ゾンビ論』『娯楽としての炎上』他。 Twitter:@naoya_fujita

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