Manabe Kotaroが捉えた、日本の野外レイヴパーティの夜明け

日本の野外レイヴシーンを中心に、フォトグラファー、DJ、オーガナイザー、レーベルオーナー、ライターとして多岐にわたり活動してきたKotaro Manabe。1990年代以降の日本の野外レイヴシーンに携わってきた人であれば、どこかで1度は彼が撮影をしてきたパーティの写真を目にしたことがあると思う。

日本において野外レイヴが大きくなり、飽和状態になろうとも決して魂を売ることなく、レイヴに対する自身の信念を貫き通して、彼が捉えてきた1990年代~2000年代初期の国内野外レイヴパーティの写真の数々は、時を経るごとに貴重なアーカイブとしてその価値を増している。

ここ数年、再び各地で野外パーティが熱気を帯びている中、日本には素晴らしいパーティの歴史があることを、彼の写真は改めて教えてくれる。

Kotaro Manabe
1969年東京生まれ。DJ、フォトグラファー、ライターとして活動中。中学2年生の時に行ったケニア旅行をきっかけに一眼レフカメラを手に入れ、それがきっかけで旅とカメラで撮影をする人生がスタート。1990年にはヒッピートラベラーとの出会いを機に、バックパッカーとなりインドのゴアに。そこでパーティカルチャーと出会い、以後、野外パーティを中心にオーガナイザー、DJ、フォトグラファーとして活動していく。その後、アーティストへのインタビューやライナーノーツの執筆、通訳、レーベルオーナーなど、幅広くマルチに活躍するようになり現在に至る。また、自他ともに認める映画マニア。 
Instagram:@kotaromanabe

外国人トラベラーズに誘われ、ゴアへ

——まずは写真を撮り出したきっかけから聞かせてください。

Kotaro Manabe(以下、Kotaro):中学2年生の時に友達に誘われて行った「少年ケニヤ」という角川映画のキャンペーンの抽選に当選して、集められた20名の子ども達とケニアに行くことになるんだけど、海外旅行なんかまだそんなに一般的ではなかった時代だったし、ケニアなんて一生のうちに行けるかわからないようなところだから、「どうせだったら、いいカメラを持っていきなさい!」って、母親にカメラを買ってもらったの。それで初めて一眼レフカメラを手にしたんだけど、ケニアってことで自分の人生観とか価値観とかが変わったのかもしれない。それで大人達に見守られながら、ジャングルの中で1週間くらい過ごしたんですよ。

——それはなかなかの体験ですね。まさかそこでカメラを手にするとは……。

Kotaro:だけど気が付いたら現地にはTVの撮影クルーがたくさんいて、ちょっとヤラせじみたシーンを撮られたり、「なんか変だな」と子どもながらに感じていて。それで帰国後に番組を観たら、関口宏のナレーションで『少年ケニヤ隊、アフリカのサバンナへ行く』みたいな番組が組まれていたんですよ。現地では見もしなかったライオンが捕食している映像が差し込まれて、そこにまったく別のことで驚いていた時の音声を被せて編集がされていたり……。そんな番組を観た時点で「メディアは信用しない」と感じてしまい、今の自分がどこかで世の中を斜めに見始めるという礎は、その頃に作られたかなと……。 

「The Strong Sun Moon Festival 『EQUINOX』(1997) @岐阜県根の上高原キャンプ場
Photography Kotaro Manab

——ではパーティで写真を撮るようになったのはいつ頃からでしょうか?

Kotaro:パーティシーンを写真に撮るようになったのは、1990年からかな。渋谷のバーでバイトをしていたんだけど、ある日その帰りに、六本木でヒッチハイクしている外国人を見かけたんですよ。それで興味本位で車に乗せたら「マハラジャパレスに行ってくれ!」って。当時、トラベラー達の間で「日本に行ったらマハラジャパレスに行けばいい」とクチコミで広まっていたらしく、よくよく聞いてみると“マハラジャパレス”って通称で呼ばれていた、ヒッピートラベラーの巣窟みたいなゲストハウスが大田区の石川台にあったんですよ。戦後の学生寮みたいな長屋になっていて、外国人のバックパッカー達が60人くらい住んでいたんだけど、それがもう衝撃的で。だけどそこにいる人達はビジュアル的にもフォトジェニックな人が多くて。それで彼らの写真を撮りだしたんだよね。

——1990年代当時のバックパッカーの人達はどこの国の人が多かったですか?

Kotaro:さまざまな国から来てましたね。ヨーロッパから南米まで、あらゆる国の人達が。それが自分が英語を話せるようになるきっかけにもなったんだけど、彼らが話す英語は結局ネイティヴじゃなくて。フランス訛りだったり、イスラエル訛りなど、自国訛りの英語を話していたので、俺も日本語訛りの英語でコミュニケーションをとればいいんだって変なコンプレックスがない状況の、ラフな感じから英語を話す生活になっていったんだよね。

当時の周りにいた日本人の友達は、トレンディドラマの話とかばかりだったから、それよりも外国人トラベラー達と遊んでいたほうが刺激的でよほどいいと思って、彼らと一緒に遊ぶようになっていったんだ。そうこうしているうちにパーティに連れて行かれて、「お前もゴアに来い!」って流れに。なので彼らと知り合って1年もたたないうちに、当時最安で行けたバングラデシュ航空に乗ってインドのゴアに行く……それが1991年。

1996年にスナップしたゴアでのYouth(Dragonfly Records)
Photography Kotaro Manabe

——そんなエピソードが!

Kotaro:当時のゴアって、一般社会からちょっと背を向けているような人がたくさんいたから、パーティで写真を撮るっていうのはご法度だったの。撮っているのが見つかったらフィルムを抜かれるようなものだったから、パーティ自体の写真を撮ることはなかったんだけど、ゴアで一緒に過ごしていた友達を撮ったりしていたよ。

それで帰国後、後に「EQUINOX(イクイノックス)」というイベントを一緒にやることになるメンバーの友達に見せたら「これはすごいじゃん!」ってなって。それでパーティ「EQUINOX」を始めた時に写真撮影NGだったんだけど、自分達でやっていることの記録は残したいから「Kotaroだけは撮影をしてくれ」と言われ、その流れで写真を撮っているうちに、他のオーガナイザー達からも「パーティの写真を撮るならKotaroにお願いしよう」という流れができて、「Vision Quest(ヴィジョン・クエスト)」や「SOLSTICE MUSIC FESTIVAL(ソルスティス・ミュージック・フェスティバル)」「Arcadia(アルカディア)」「anoyo(アノヨ)」だったりと、あの時代のパーティフォトグラファーというポジションが確立されていった。それが2000年代前後。

——KotaroさんがオーガナイザーやDJとしても携わっていた「EQUINOX」が始まったのはいつでしたか?

Kotaro:1993年頃だったと記憶しています。今や伝説の野外パーティの走りみたいに言われて伝説とかいう人もいるけど、野外でパーティが始まったきっかけって、そこまでかっこのいい話ではないんだよね。当初は西麻布の「GEOID(ジオイド)」というクラブでやっていたんだけれど、そのクラブが営業停止になってしまった際に、苦肉の策で「だったら野外でパーティをしてしまえ!」というのが発端だったというエピソードを、当時の「EQUINOX」代表の伊藤淳に聞いたことがある。

飯倉の交差点や代々木公園の入り口を集合場所に、パーティが開催されている場所の地図を渡されて、たどり着くと埼玉県の公園の中という、完全にゲリラで無許可な状態。当然、明け方に公園を散歩をしている一般住民に通報されて警察が来てしまうという。その頃は僕はまだ、トラベラーの友人達をハイエースの荷台に詰め込めるだけ詰め込んで会場に連れて行ったり、フライヤーをプリントするのを手伝う程度の距離感で「EQUINOX」に関わってた程度なんだけどね。

当時の「GEOID」。ここで「EQUINOX」の初期のパーティが開催されていた
Photography Kotaro Manabe

——「EQUINOX」が始まった頃のサウンドはゴアトランスでしたか?

Kotaro:1990年頭くらいは、まだゴアトランスというジャンルとしての定義はなかったと思う。ゴアでかかっているテクノだからゴアテクノとか、ゴアミュージックとか言われていた。当時はすでに「Space Lab YELLOW」で、 DJ K.U.D.O.さん(Artman aka DJ K.U.D.O.)とかがDJをしていたけど、もう少しジャーマンテクノっぽい感じっていうか。それこそマハラジャパレスにもいたゴアで遊んでいたような人達が遊びに来ていたけど、そのトラベラー達をDJ K.U.D.O.さんは「ゴアピープル」って呼んでいたりしていた。ゴアはヒッピーの人達の聖地と言われる場所の1つで、ビーチや森の中でパーティが開催されることが多かったんだけど、そこでの音はテクノとボディミュージックが混ざっているような感じだった。

——当時のゴアではDJはトラベラー達や地元の人達がやっていたんですか?

Kotaro:地元のインド人達は、ビジネス的なコンテンツの部分には一切関わっていなかったと思う。僕よりもちょっと先輩のレイ・キャッスルとかはプロフェショナル・ウォークマンを使っていた。要はカセットテープを2台使ってDJをして、ミキサーとかの機材がないからミックスなんかできたものじゃないし、すごくベーシックなもの(笑)。僕らの時代あたりでようやくDAT(デジタルオーディオテープ)が主流になってくる。


しかもビーチの砂ぼこりの中でパーティをやるからターンテーブルなんていうものは当然なく、CDJなんかも当時はまだない時代だったからね。僕もゴア渡航の2年目には、自前のDATと小さなDJミキサーを持っていったんだけど、やっぱり機材は当時は貴重で、スヴェン・ヴァスがホテルのヴィラでプライベート、パーティ用にオーガナイザーに頼まれてミキサーを貸したこともあるよ。それこそテクノ外交官って呼ばれていたTOBYさんもゴアには行っていたし、当時のゴアはトランスとかテクノとかジャンルにとらわれずいろいろな要素が混じっていた。

そんな音がどんどん細分化されていったのが確か1993年。このあたりからヨーロッパからトランスのレーベルが誕生し始めてきて、最初はキリング・ジョークってバンドのベーシストのYouth(ユース)が立ち上げたDragonfly Recordsだったと思う。それが初めてゴアトランスのレーベルって言われたんじゃないかな。そこでは後に、ハルシノジェン名義で活躍するサイモン・ポスフォードもエンジニアとして仕事していたり。あとこの時期のトランスアーティスト達は、バンド出身者が多かったんじゃないかな? 現在に至っても、ベン・ワトキンスのジュノ・リアクターはバンド形式なのがいい例だし。イート・スタティックの2人は、オズティック・テンタクルス出身、システム7の2人だって元はゴングのメンバーだし。それこそラジャ・ラムだってカンテサスというバンド出身だからね。   

「The Strong Sun Autumnal Equinox Festival 『EQUINOX』」(1999) @長野県五光牧場
Photography Kotaro Manabe

レコードでもCDでもなく、DATを使用してDJをする

――当時はどのようにしてリリース情報を手に入れていたんですか?

Kotaro:当時はまだCDにもなっていない音源が世界中からゴアに集まっていたんだ。世界各国のDJ達が自国アーティストたちの音源をDATに入れて持ってきて、それをみんなで交換しあう。小さいバーとかでDJをしていると、他の国のアーティストが寄ってきて「俺の曲と交換しない?」ってね。当時のDJ達はその曲交換をセッションって呼んでいたんだけど、翌日そいつの家に行ったり、向こうが自分の宿に来たりして曲交換をしあったよ。ビーチリゾートに来ているはずなのに部屋にこもって2人黙々とヘッドホンしてね……(笑)。


それで、いろんな国のアーティストと交換した曲データを各々自国に持って帰り、その音源が各国のパーティでかかる。ゴアに集まっていたとんがっていた人達がハブになって、世界同時多発的にシーンが盛り上がっていったんだよね。当時はネットもなければ、携帯もないみたいな時代に、口コミとフライヤーだけでシーンがあそまで広がっていったのは、今思い返してもすごいエネルギーがあった時代だったと思う。

Photography Kotaro Manabe

――その中で当時の野外パーティへ足を運んでいた自分には、とても印象深いです。

Kotaro:興行(ビジネス)なのか、パーティなのかっていうのは、自分の中でも明確な線引きがあったと思っていて、自分達は「パーティをやっている」っていう感覚だったし、「パーティって何?」って問われた時に、自分が説明するのにわかりやすい例としては、「セキュリティがいるかいないか!?」の違い。だから“SECURITY”って書かれたTシャツを着たスタッフがそこら中にいるのは、自分の中ではパーティじゃない。やっぱり何か問題が起きたら、セキュリティーに頼らずそこにいる人達で解決するべきだし、そもそもパーティにはセキュリティが抑え込まないといけない他人に迷惑をかけるような人達は、本当はいちゃいけないはずなんだよね。

自分は後に「武尊祭」や、「WAKYO」の興行にも携わるようになったんだけど、中にはパーティの規定としてセキュリティを仕方なく入れることもあった。でも基本的に、野外でやるようなパーティはセキュリティTシャツを着た人がステージの前で、腕組みして立っているのは本来のパーティの姿ではないんじゃないかな!?

——自分達の世界観を作るなら自分達で守るってことですね。

Kotaro:だからパーティにお金を払ってくれていたとしても、“お客さん”というより“一緒にいるパーティ仲間”みたいな感じだった。小さなコミュニティーで「このパーティおもしろいよ」という感じで口コミで徐々に広まっていって、友達が友達を誘ってさらに人が増えていく。本来であれば、その中の誰かが何か問題を起こすようであれば、それはセキュリティではなく連れてきた友人がまず対処をするのが筋なんじゃないかと。

そうえいば、
1997年に「EQUINOX」が初めての2泊3日のキャンプインスタイルでのフェスを開催した時に海外のアーティストに言われて印象的だったことがある。「貴重品をそこらに置きっぱなしでダンスフロアに行ってしまっても、それを誰も盗むようなことをしない! こんな平和なパーティシーンが成立しているのは日本だけだ!」ってね。

「The Strong Sun Autumnal Equinox Festival 『EQUINOX』」(1997) @岐阜県根の上高原
「前回は1000人来たし、一晩で終わるのはもったいない」と、1997年には岐阜県の根の上高原で2泊3日のキャンプインのフェスティバルスタイルでパーティを決行
Photography Kotaro Manabe

心身ともに、芯から解放できていたからこその野外パーティ

——Kotaroさんは当時、フィルムカメラで撮影されていたんですよね。携帯もまだない時代でしたし。

Kotaro:携帯はもちろん、デジタルカメラもない時代だからね。2001年にようやくデジタルという言葉が出てきて、それまでパーティでは、ずっとポジフィルムで撮影をしていたんだけど、昼と夜とでフィルムを変えないといけなかった。だからカメラ1台で撮影している場合は、夜にタングステンフィルムで撮影を始めて太陽が登ってき始めたら、途中でフィルムを巻いてデイライト用のフィルムに変えていたんだ。

その当時で36枚撮りのポジフィルムが1本1000円前後していたし、東京に戻ってから現像出すので、最速でもパーティ終了後から数日待たないと仕上がりがわからない。その現像代もかかっていたし、撮影経費だけでもだいぶかかっていたんじゃないかな? 今のデジタル環境を考えると、撮影にかかる負担と重みがだいぶ違っていた印象がある。

——カメラを向けた時に、印象的なシーンはありますか?

Kotaro:アーティストがライヴでギターを弾いている姿なんかは画にはなるだけど、当時のDJはブースにいるだけでかっこいい画になるというか、オーラを放っていたんだよね。だけど、2000年代以降から自分はパーティであまり写真を撮らなくなっていったんだ。

というのも、どのパーティもどのDJブースも自分の中でときめかなくなってしまって……。撮っていて楽しい瞬間が、自分の中ではあまりなくなっていってしまったというか。それがオーガナイザーにも伝わっていたと思うし、オーガナイザーからはお客さんの写真をもっと撮ってほしいっていう要望が増えてきたりと、撮りたいものと撮ってもらいたいものにズレも出てきてしまった。

あとは当時はフィルムの枚数に限りがあるので、一球入魂というか、シャッターをむやみに切れなかった。慎重にシャッターチャンスを狙って撮る心構えもいい緊張感で撮れていたのかもしれないね。そういうものも昨今のデジタル時代の写真と違ったものに見えてくる要因になるのかも。

X DREAM、ジュノ・リアクターのBen Watkins、DJ TSUYOSHI、Siva Jorgと、Kotaroが撮影をした1990年代~2000年にかけてパーティに出演していたアーティスト達
Photography Kotaro Manabe

——Kotaroさんがときめいていた時代は、何が魅力だったのでしょうか。

Kotaro:空気感かな。あの時代、本当に解放できていたんだと思う。今、サウナブームで整ったとか言ってるけど、本当にあの当時の空間でみんなは整っていたんだと思う。でもあれをもう1度やろうってなっても、絶対に再現できないと思う。あの素晴らしい空間ってオーガナイザーの力だけで成立していたものじゃないんですよ。そこにいた人達が全員で出していた空気だと思うし、その時代背景や世界情勢とも密接に関係しているから。違う形の素晴らしい空間は目指せるかもしれないけど、あの時代のものは再現できないんだろうな。


そんなシーンも2000年代前後で変わっていってしまったと感じていて、その頃からメディアに注目され始めて大手がこぞって取り上げてくるようになっていた。そうなるとスポンサーや協賛がついて大きくなっていくのはいいんだけど、そこから本来パーティが持っていた雰囲気がかなり変わっていった印象があるかな。

——1990年代後半から、2000年代半ばにかけてそれまであった野外パーティが衰退していきましたが、その原因は他にもありますか?

Kotaro:野外パーティが衰退してしまった1つの原因に、「天候によって大打撃を受ける」というのがあって、予想もしなかったトラブルや出費がかさんでしまい、どこのオーガナイザーも赤字を抱えてしまって倒れていっちゃったんですよね。「EQUINOX」の最後は、長野県五光牧場で台風が来て数百万の赤字を出してしまったし、「SOLSTICE MUSIC FESTIVAL」は頻繁に悪天候に見舞われ野外フェスをやめざるをえない時期がありました。

中でも印象的だったのが「anoyo」主催のパーティ。“Rolling Thunder”と題したパーティではタイトル通りに嵐が起きてしまったし、新島で開催した“Ground Swell”の時は地震が起きちゃった(苦笑)。「METAMORPHOSE」も最終的には悪天候でトドメを刺されてしまったしね……。日本でオーガナイズすると、天候で経済的な負担を強いられるケースがものすごく多い。それが日本のパーティの宿命だったというか。日本は野外パーティにはあまり適した気候ではないんだよね。

もう1つ衰退原因を挙げるとするなら、先に述べた海外のDJ達が感動していた「平和な日本のパーティシーン」の環境が、2000年を境に荒れ始めたことかな。テント荒らしやレイプまがいのことが起こり始めちゃうんだよね。クズがクズを呼び寄せる連鎖がピークになるのが2000年代中盤あたり。大きくこの2つが衰退の要因であったように感じますね。

「VISION QUEST」(2000) @長野県こだまの森
Photography Kotaro Manabe

過去から現在まで、野外レイヴは脈々と続く

——近年はまた野外で開催されるパーティが増えてきていますが、この流れはどう感じていますか?

Kotaro:コロナ禍もあって野外パーティが増えてきたなと思います。やっている人達の意識も変わってきているし。例えば、2000年以降のメンタリティ的な協賛をつけて1万人呼びましょうというものではなく、地に足の着いた自分達でまずは楽しもうっていうパーティが増えてきている。これってすごくいい流れですよね。だいたい100~300人前後の規模が多いかな。最近はいい意味でも悪い意味でも、「いい子」が多いという印象。遊び方はスマートだし、僕らの時よりも精神年齢が上じゃんって感じ。まだ若いんだからもう少しハメを外してもいいんじゃないのって思ったりもするけど、それはそれでいいのかなとも思う。かつて僕らがやっていたことって、今考えてもよくあんなことしてたなって自覚があるので(笑)。

岐阜県度合キャンプ場での「Juno Reactor Live 『EQUINOX』」(1996) 後、メンバー達とKotaro

——コロナ禍にご自身の写真を整理されて、 SNSでも写真をアップされていましたが、ひさしぶりに写真を見てみてどうでした? 

Kotaro:写真のクオリティを見ると、人に見せるもんじゃないなあっていう自分がいたりするよ(笑)。やっぱり今の時代のものと見比べてしまうとどうもね。でも当時の機材で撮ったものとすれば、それも味かもなって思えもする。

あとはどれくらいこの写真が、現代に刺さるのかなっていうのもあるかな。もちろん当時を知っている人達は懐かしいだろうけど、今は自分の子どもと同じような世代がパーティに行ったりしている時代だからね。それって僕らがウッドストックの写真集を見るみたいな感じなのかなとか考えたりすると、今の若い人達にも見せることは、少しは歴史伝承的観点から必要なのかなとか、ちょっとだけ感じたりもする。当時のパーティのアーカイブをこれだけ抱えている人ってきっと僕くらいしかいないからさ。

Kotaro Manabeと振り返る日本の野外パーティの夜明け

「The Strong Sun Autumnal Equinox Festival 『EQUINOX』」(1999) @長野県五光牧場
アビカルとストリングスデコレーション 。「イタリア人のアビカルが、蛍光のストリングスを作るのに、新宿の岡田屋とかで毛糸を買ってきて、さらにその糸を秋葉原で買ったモーターでぐるぐる回るようにしていってたのを覚えてる。五光牧場での『EQUINOX』の時はパーティ開催の1ヵ月くらい前から泊まりこんでデコレーションを作っていた」(Kotaro)
Photography Kotaro Manabe

「EQUINOX」(1996) @岐阜県渡合キャンプ場
Kotaroの写真が初めてメディア『BALANCE』の表紙に採用された、岐阜県渡合キャンプ場での「EQUINOX」(1996)。『BALANCE』は、1999~2001年に発刊されていた野外パーティ周辺のカルチャーを取り上げたフリーペーパーで、編集は当時シーンの中心にいたフリーライターの菊地崇が担当していた
Photography Kotaro Manabe

「SOLSTICE MUSIC FESTIVAL」(2001) @山梨県本栖ハイランド
「2001年に開催された『SOLSTICE MUSIC FESTIVAL』。注目してほしいのは、M.M.DelightというVJチームを率いていた森田勝さん。2008年に亡くなられてしまったんだけど、日本の野外パーティを作り上げた人でもあり、後に『渚音楽祭』とかも立ち上げた人で。その森田さんが湖に浮かせた丸い球にVJを当てたりして演出してくれたんだよね」(Kotaro)
Photography Kotaro Manabe

「武尊祭」(2001) @群馬県武尊牧場キャンプ場
「これは2001年に開催された『武尊祭』でのジュノ・リアクターのライヴ。この時は5000人くらい集まりました」(Kotaro)
Photography Kotaro Manabe

「春風」(2002) @東京都代々木公園
「人が一番入った頃の『春風』。場所は代々木公園だったんだけど、フリーパーティで誰もが自由に出入りする空間だったので、パーティ目的ではない一般人が会場内で悪さをしたことで、次の年から数年にわたり『春風』は中止になってしまった」(Kotaro)
Photography Kotaro Manabe

Photography Taichi Nagai

author:

Kana Yoshioka

フリーランスエディター/ライター。1990年代前半ニューヨークへの遊学を経て、帰国後クラブカルチャー系の雑誌編集者となる。2003年~2015年までは、ストリートカルチャー誌『warp』マガジンの編集者として活動。現在はストリート、クラブカルチャーを中心に、音楽、アート、ファッションの分野でさまざまなメディアにて、ライター/エディターとして活動中。

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