1980年代から1990年代にかけての東京のカルチャーは、どんな輝きを放っていたのか。なぜ今それが国境を超えて再び注目を集めているのか。
そんなテーマを元に、日本とアメリカを中心に活動する韓国人プロデューサー/DJのNight Tempoと“元祖・渋谷系の女王”こと野宮真貴による対談を行った。
両者は互いの作品でコラボしたばかりだ。Night Tempoは昨年12月にリリースした初のオリジナルアルバム『Ladies In The City』に野宮真貴をフィーチャーした楽曲「Tokyo Rouge」を収録。一方、野宮真貴はデビュー40周年を記念したプロジェクト「World Tour Mix」の第1弾としてピチカート・ファイヴの代表曲をNight Tempoがリアレンジし、野宮がセルフカバーした「東京は夜の七時 (feat. Night Tempo)」をリリースしている。
前編では、『Ladies In The City』の舞台である80年代から90年代の東京における野宮の活動や、Night Tempoから見た当時の音楽シーンについて語ってもらった。
Night Tempoとピチカート・ファイヴに共通する“外側からの視点”とは?
――『Ladies In The City』のコンセプトはどういうところから生まれたんですか?
Night Tempo:コロナ禍になって自分が一番ハマったのがトレンディドラマだったんです。そこからインスピレーションを受けました。トレンディドラマが流行った時期の日本の現代史を研究したんですが、男性に比べて女性の作品はそこまで目立っていないように感じました。その時代の女性を自分がもっと紹介できたらと思って、そこからコンセプトを決めました。
――野宮さんはNight Tempoさんにどんな印象を受けていましたか?
野宮真貴(以下、野宮):日本にも歌謡曲のDJはたくさんいますけれども、やっぱりちょっと違った視点が入っているのが興味深かったです。それがアメリカですごく受けている状況を見て、90年代にピチカート・ファイヴが海外で支持されていた感じにも似てるなと思っていました。
――ピチカート・ファイヴが海外で支持されていた感じに似ているというのは?
野宮:Night Tempoさんは80年代生まれだから、日本のその頃の音楽を新鮮な耳で聴いていると思うんですけれど、ピチカート・ファイヴも海外の60年代の音楽をリスペクトしていて。それに音楽だけじゃなくて、ファッションとか映画とかアートとか、60年代カルチャー全般に影響を受けています。ピチカート・ファイヴがやっていたことって、海外の隠れた名曲を掘り起こして、それを私達なりに解釈して、再構築して、発表していたということですね。それが海外で受けたというのは、つまり、60年代にそれぞれの国にあった宝物を、私達が外から掘り起こしてプレゼンテーションしたことで気付いたという一面があったと思うんです。それと同じように、Night Tempoさんがやっていることは、私達が気付いていなかった80年代や90年代の日本の素晴らしい音楽を違う視点で紹介してくれて、気付かせてくれる。そういう感じが似ているということですね。
――時代と国は違えど、視点が共通しているということですね。
野宮:そうですね。同時に、ピチカート・ファイヴには当時の東京のエッセンスがいっぱい入っていたし、90年代の東京はたぶん世界で一番かっこいい都市だった、そういう憧れも混ざって支持されたのではないかと。
Night Tempoから見た80〜90年代の日本の音楽シーン
――Night Tempoさんはピチカート・ファイヴの音楽にどういう魅力を感じていましたか?
Night Tempo:僕がまだ若かった頃は90年代の日本の音楽を詳しく知らなかったんですけど、韓国でも聴かれた日本のアーティストが何人かいて、そのうちの1組がピチカート・ファイヴでした。他にもBONNIE PINKさんや宇多田ヒカルさんがよく聴かれていました。それらの音楽を聴いて、韓国の当時の歌謡曲と全然違う、最先端の感じがしていて。だからこそ、もし自分が音楽を作る人になったらこういう音楽をやってみたいと思っていました。結局、当時は周囲からの反対もあってできなかったんですけど、その頃からの憧れでした。で、最近になって、自分の世界観を広げるために90年代の音楽をいろいろと聴くようになって感じたんですけれど、80年代から90年代までの日本の音楽シーンって、理想的な流れだったと思うんです。韓国でも台湾でも音楽シーン自体はあっても、オシャレな音楽がマーケットになったのは日本だけだった。日本の人はそこまで気付いていないと思うんですけれど、アジアから見たら、憧れがずっとありました。
――80年代後半から90年代の日本の音楽シーンをいろいろ研究したということですが、Night Tempoさんが魅力を感じたポイントはどういうところにありましたか?
Night Tempo:80年代末は日本の若者がすごく熱かったと思います。ハートが熱くて、音楽スタイル自体も派手だった。でも、90年代に入ってどんどん落ち着いたおしゃれなものになっていくんですね。80年代は“派手なおしゃれ”だったのが90年代は“クールなおしゃれ”になって、雰囲気が変わっていくので飽きないんです。個人的に学ぶことも多かったですし、やっぱり好きな時代は80年代から90年代半ばくらいまでですね。あと、いろんな人が「90年代はバブル経済が弾けてダメになった」と言いますが、実際はそうでもないと思っていて。会社の社長とかお金持ちは大変だったと思うけれど、若者にとってはあまり変わらなかった。だから、みんながカルチャーを楽しむことができた時代だと思います。
「東京から発信しているものが世界で一番かっこいいと思ってた」(野宮)
――野宮さんはどうでしょう? まさに当事者として、80年代から90年代の東京の社会やカルチャーをどう体感していましたか?
野宮:80年代は、景気は良かったと思いますが、私にはあんまり関係なかったですね。私は81年にデビューしたんですけれど、全然売れなくて、お金も本当になかったから、自分だけ取り残されているような感じでした。その少し前は、お金がないからよくディスコに行ってご飯を食べていましたよ。当時のディスコって、新宿とかの大バコだと飲み放題、食べ放題で、レディースデーというものがあって、女性は無料で入れたんです。そんな時代だったんですね。その後にポータブル・ロックというバンドを組むんですけど、それも全然売れなかった。ゲームのサントラの曲を歌ったり、CMソングを歌ったり、他のアーティストのバッキングボーカルをしたり、そういった音楽の仕事をしながらバンドも並行してやっていました。浮かれた感じとはちょっと違っていました。そうこうしてるうちにピチカート・ファイヴに加入するんですけど、最初はコーラスとしての参加でした。
――時代のムードや当時のカルチャーについてはどんな風に見ていましたか?
野宮:80年代の広告はすごく派手でしたね。好景気で大企業が広告に予算を投下して、広告の世界にお金があった時代。私もCMソングの仕事が途切れることがなかったことを考えると、やはりバブルの恩恵を受けていたのかな。ピチカート・ファイヴに正式に加入したのは90年だったんですが、その頃もヒットさせるためにCMとのタイアップが重要だったんですよね。ピチカート・ファイヴの「スウィート・ソウル・レヴュー」もそうですけれど、化粧品のCMソングからヒットが生まれた時代でした。そこから90年代は、バブルが崩壊したといっても、ディレイしてCDバブルは2000年まで続きますから、まだまだレコード会社にも予算が潤沢にあったし、ピチカート・ファイヴでは一流のミュージシャンに演奏してもらうこともできました。特殊仕様のCDジャケットを作らせてもらったり、ジャケット撮影のために海外に行ったり、いろんなことができたので、すごく幸せだったなと思います。
――野宮さんは「90年代の東京は世界で一番かっこよかった」と仰ってましたが、それはどういう感覚でしたか。
野宮:80年代までは、音楽もカルチャーもファッションも、海外のものに憧れていて、それを円の強力な力でインポートしていたけれど、90年代にそれが逆転したような感覚がありました。食べ物も洋服も音楽も世界中のものが手に入る超消費社会になって、今度はそれをミクスチャーして独自のカルチャーを作り出していった。サンプリングとかコラージュとか、世界のカルチャーのいいとこどり。その“いいとこどり“をリスペクトと愛を持ってセンス良く構築したのがいわゆる“渋谷系”と言われる音楽だと。そうやって日本から、東京から発信しているものが世界で一番かっこいいと思っていました。ピチカート・ファイヴにしても、アメリカのマタドール・レコードからデビューして、海外でリリースしてワールドツアーもして、自分達が世界で一番かっこいい音楽をやっているんだって思いながら“外タレ”気分でやっていましたね。当時はSNSがなかったので、十分に日本にフィードバックされなかったかもしれないけれど、本当にスターでしたね。パリコレや海外のCMや映画のサウンド・トラックに起用されたり、アメリカツアーもヨーロッパツアーもどこへ行ってもチケットはソールドアウトだったりで、熱狂がありました。
「ケイタマルヤマ」さんが1997年にパリコレクションに初参加した時は、ランウエイでピチカート・ファイヴの曲を歌いました。それから25年経って、昨年12月の「ケイタマルヤマ」のファッションショーで、再び「東京は夜の七時(feat. Night Tempo)」や「スウィート・ソウル・レビュー」をパフォーマンスできたのは感慨深かったです。25年経っても小西康陽さんが作ったピチカート・ファイヴの曲は色褪せないし、それをNight Tempoという次世代のアーティストがリアレンジしてくれたということがとても嬉しい。私は歌手として名曲を歌い継いでいくという使命があると思っているので、それが叶ったという感じです。
Night Tempo:もし野宮さんが当時ピチカート・ファイヴをやっていなかったとしたら、他に目を付けていた音楽ジャンルはありましたか?
野宮:私はもともと歌謡曲の歌手になりたかったんですね。子どもの頃から歌謡曲を聴いて育ったので。そこから洋楽のロックを聴いたり、バンドをやったりするようになって、81年にデビューして。80年代はニューウェーブ、90年代は渋谷系、そこからソロでやっているわけなんですけれど、それは自分から選んだというよりは、その時その時の出逢いと時代の流れに応じていた感じがありますね。だから、基本的に私の中には歌謡曲の要素がすごくあるような気がしています。昨年の筒美京平先生のトリビュートライヴに往年のスターの方達と一緒に出演させてもらったんですけれど、それは「歌手になってよかった」と一番思った最近の出来事の1つでした。そういうところもNight Tempoさんとのつながりがあるのかなと思います。
――Night Tempoさんは90年代には女性の作品があまり目立っていなかったと仰っていましたが、野宮さんとしては、女性ミュージシャンだからこその活躍しにくさは感じていましたか?
野宮:それは全然なかったです。世間一般の社会では女性が生きづらかったりしたのかもしれないけれど、私はずっと音楽の世界にいたから。音楽の世界も男性のほうが圧倒的に多かったですけど、やはり音楽は自由なので、男も女も、日本も海外も関係なく、そういう境界を全部超えられるものだと思うので。女性だから苦労したとか、そういうことを私は感じたことはないですね。
後編に続く