北米最大規模の日本町だった地から発信される日本の職人技 シアトル「KOBO at Higo」

シアトルのチャイナタウン・インターナショナル・ディストリクト(以下、CID)は、かつては北米最大規模の日本町があった地であり、日本にルーツをもつアメリカ人にとっては歴史的にもっとも重要な場所の1つだ。1880年代に最初の日本人労働者が、アメリカ北西部に到着した後、鉄道や製材所、農場等で過酷な労働に従事した。戦前の世界的な人口増大において、1930年には8500人の日系人が現在のCIDに移住し、アメリカ西海岸では 2 番目に大きな日系人コミュニティとなった。人口増加に伴い日本語学校や新聞社、宗教施設、道場が設けられ、さらに日本町として知られるようになった頃には、日系人経営者による宿泊施設や飲食店、商店等が立ち並んだ。その繁栄は1937年の日中戦争の影響を受けて変化し、日本へ帰国する人々が増えたものの、1941年日系アメリカ人はシアトル最大の少数民族だった。そして1941年12月8日(現地時間7日)、日本軍がアメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争へと突入したことで日系アメリカ人の生活は一変する。当時のアメリカ大統領、ルーズベルトが「大統領令9066号」を発令、アメリカ市民を含む12万人以上の日系人が「敵性外国人」とみなされ、強制収容所へ送還された。シアトルの日本町の住人は土地や財産を全て放棄させられ、スーツケース片手に日本町を去った。

日系人が収容されている間にシアトルのボーイング社は軍用機の需要により急成長し、労働者が急増したため日系人の住居だったエリアには他の人種が住み着いていた。戦後に収容所を出た日系人の多くは、変貌した日本町から他都市へ移住し、同地の日系の店舗もだんだんと数が少なくなっていった。

次いで1951年、当時のシアトル市長のウィリアム F. デビンが同地をアフリカ系アメリカ人、日本、中国、フィリピン等の多様な文化が共存する「インターナショナル・センター」と呼んだことで「インターナショナル・ディストリクト」という名前で親しまれるようになる。1980年代、シアトルはベトナム、ラオス、カンボジアから数千人の移民を歓迎し、彼等は同区の南にあるレーニア バレーに定住し商いを始めた。現在は12番街とジャクソン・ストリートエリアが「リトル サイゴン」と呼ばれている。一方で「インターナショナル」という言葉が、先に同地を開拓した中国系コミュニティの歴史を弱体化させてしまうのではないかと懸念する人々による長年の抗議活動があり、1998 年に「CID」と改名された。

「KOBO Seattle」
アメリカ人夫婦のビンコ・チヨング・ビスビー、ジョン・ビスビーが1995年にシアトル、キャピトル・ヒルにオープンした日本とアメリカ北西部の作家の作品を扱うアート&クラフト・ショップ。2004年に2号店となるアートギャラリー&ショップ「KOBO at Higo」をインターナショナル・ディストリクトにオープン。店名は日本語の「工房」に由来し、伝統的な作品に加えて現代的な作品も専門としている。年6回、厳選された作家によるクラフト&デザインの展示会を開催している。同店は、モノの蓄積ではなく、必要なものをそぎ落とすことで定義される本質的な生活を提案している。天然資源から生み出される作品が人々のインスピレーションを得るきっかけになり、作り手の温もりを想起させる機会作りになることをテーマにしている。
https://koboseattle.com/

多様な民族・文化の生きた歴史を体感できる街で、その本質に触れる

現在の「CID」は主に 3 つの民族グループに分けられる。前述した「リトル サイゴン」、キングストリート周辺の「チャイナタウン」、そして戦前から営まれてきた日系商店、宿泊施設のあるメインストリートの「日本町」だ。

現在の日本町に半世紀以上前の面影を感じることは難しいが、当時のまま現存する貴重な建物がいくつかある。その1つは、1909年に熊本からシアトルへ移住した村上三蔵が、1932年に日本町に開店した日用雑貨店「ヒゴ・バラエティーストア(以下、ヒゴ)」。現在は、アートギャラリー&ショップ「KOBO at Higo(以下、KOBO)」として日本のものづくり、職人技を感じさせるアート&クラフトを販売している。

「KOBO」のオーナーはアメリカ人夫婦のビンコ・チヨング・ビスビー、ジョン・ビスビーの2人。ビンコは台湾出身で日本とアメリカで学業を終えた父親とカリフォルニア生まれで、流暢な日本語を話す日系アメリカ人の母親を持つ。東京で生まれ日本語で育ったが、6歳の時に父が亡くなりシアトルに移り住んだ。移住後、日本町の小学校に通っていた時に母親とともに「ヒゴ」や周辺の商店を訪れていたという。アート好きの母親は、日本で収集した手作りの陶器や民芸品を愛用し、ニューヨークやカリフォルニアの親戚に会いに行く度にビンコを美術館へ連れていった。シアトルから母親と共に和歌山にいた母方の親戚を訪ね、その親戚がシアトルを訪ねるという交流もあった。

ジョンとの出会いはニューヨークの大学院時代。ジョンはニューヨーク市の建築事務所に勤務していたが、2人はより深く日本を知るために1年間東京に住むことを決め、ジョンは日本の大手建築会社に勤務した。建築デザインに造詣が深いジョンと、民芸・工芸好きのビンコは、日本各地を訪れて、多くの人と出会う中で日本の職人技に魅了された。当初は1年の滞在予定が、結果的に5年間を日本で過ごした。

ビンコにとって、日本の工房での職人達との交流は、「成長するにつれ話す機会が減っていた日本語を再習得する機会でもあり、自身のルーツに触れる貴重な体験だった」で、「工房を訪れた時、職人達に歓迎され、温かいもてなしを受けたことを今でも鮮明に覚えている」という。当時についてビンコは「長い歴史のある日本の職人技、アート&クラフトをアメリカで紹介したいと思いました。アメリカの職人は1、2年で何かを作り始めますが、日本の職人は弟子入りし、工房の掃除など身の回りの仕事から学び始め、何かを作れるようになるまで時間がかかります。例えば1つの形を何年にもわたって作ることから始めて、その形を完璧に作れるようになったら別の形を習得し始めるんです」と回想する。

楽しさと驚きに満ちた日本文化を広めるために

「KOBO」の店内には日本の伝統工芸から、現代的な“Kawaii”カルチャーをイメージさせる小物や「MUJI」のアイテムまでが並ぶ。加えてパシフィック・ノースウエスト(アメリカ大陸の太平洋岸北西部)の作家で、日本からインスピレーションを得ている作品も取り扱っている。“売れる”以上に「店に置きたい」という自身の考えを貫いた、型にはまらないキュレーションが同店の強み。

ビンコは「作品を見た時に、共鳴し、縁を感じるものや作品を選んでいます。日本人特有の感性や木・自然への敬意の他に“間”や余白の美しさがある作品を中心に、アメリカ人作家でも何かしらの日本らしさを感じる作品を置いています」とセレクションの視点を語る。「多くの人が『日本のデザイン』について語る時、(歌川)広重や(葛飾)北斎の浮世絵等をあげますが、それ以外にも素晴らしい文化が存在します。例えば、日本食。スタッフの1人が日本のお土産に駄菓子を買ってきました。駄菓子は、日本で昔から親しまれているもので、食べるとやみつきになるほどおいしくて、楽しい気分にもなる。言葉で説明するのは難しいですが、日本文化を全く知らない人達にそういう楽しさや驚き、思いがけない出会いを提供しています」と展望を語る。

「KOBO」のスタッフの豊富な知識や経験も人気の理由の1つだ。「『KOBO』では日本人が多く働いています。アートやデザインを学んだスタッフも多いので、説明しなくても作品の重要性や日本の職人技を理解しています。ここで扱っている作品が手作りか、機械で作られたものか、どこで作られたものかを見分けるのは難しいですから、お客さんへ丁寧に説明していくことが大切です」。

2人が日本のアート&クラフトをシアトルで紹介し始めて27年が経つ。コロナ禍でオンラインの売り上げが飛躍的に伸び、現在では、サンフランシスコやニューヨーク、ミネソタ、フロリダにも顧客がいる。「多くの人が旅をするようになり、アジアに詳しい人が増えています」と手応えを語りながら「私達がKOBOを始めたとき、家族や友人にはビジネスではなく趣味でやり始めたように思われ、先行きを心配されました。それでも自分達のやりたいことにこだわった結果、時間をかけて評価を得ました。今後の目標は、新しい作家を紹介し続け、手作りの価値を感じてもらえる場を創造すること。来年は店舗内を改造し、ここで紹介するアーティストやデザイナーに会うために日本を訪れるつもりです」創業当時を振り返った。

2号店の存在意義は、日系アメリカ人の歴史を継承すること

「KOBO」の1号店は、ファッションやアート、レストランが軒を並べ、LGBTQ+のコミュニティで賑わうキャピトルヒルにある。一方でCIDにある2号店「KOBO at Higo」は、1号店とは全く雰囲気の異なる場所に出店している。その理由は、75年にわたって同地で営業をしてきた「ヒゴ」の存続と日本町の歴史の保存だ。

「ヒゴ」は戦後、村上三蔵の妻と子ども達が長きにわたって店を切り盛りしてきたが、 2003年に村上マサコの引退とともに廃業を決めた。そこでビンコが同店を継承することを決意する。「戦後に店を引き継いだオーナーの娘のマサコさんが、高齢で店を運営していくのが困難になり、日本町の伝統を継承する人に店を譲ろうとしていました。マサコさんの甥である、ポール・ムラカミさんを友人から紹介されて、日本町の歴史を守るために店を譲り受けました。当初は、巨大なスペースをどう改装するか、人員配置や在庫管理の資金と運用の懸念もありましたが、ジョンが建築デザイナーだったことが店舗を段階的に改修、修復する時に役立ちました。資金面の理由もありますが、日本町の歴史を伝えていくためにできるだけ手は加えず、天井や壁、外の看板等はそのまま残しています。古いキャビネットを塗装して再利用し、古い要素を残しながらも新しく生まれ変わらせました」。

現在は一時閉鎖しているが、「KOBO」の店内には「ヒゴ」で長年使われていたディスプレイや元オーナー家族が強制収容された時に持っていたスーツケース等の展示スペースがある。そこは、シアトルのアジア系アメリカ人の歴史を伝える「ウィング・ルーク博物館」が主催する日本町を巡るツアーにも組み込まれている。

また「KOBO」のある一角には、1904年に開店し、現在も営業している北米最古の日本食レストラン「まねき」や、北米に唯一現存する日本式公衆浴場「橋立湯」を地下に備えた「パナマホテル」等がある。1963年に橋立湯は閉店したが、同ホテルは2006年に国定歴史建造物に指定され、現在は宿泊とカフェをやっている。ビンコは、「この店を出店する勇気が持てたのは、パナマホテルのオーナーのジャンがいたから。ホテルを修復して、カフェを併設していると知り、大きな励みと刺激を与えられました」と当時を振り返る。

CIDには人種を超えて、この地で生きた人々の歴史や文化を継承しようとする姿がある。それぞれが独立しながらも必要な時には話し合い、助け合える結びつきがある。

ビンコは「コロナ禍で閉店した店は多く、一時的に治安が悪くなり、現在もその状況を引きずっています。楽観的に考えてはいるものの、積極的な地域保護をする必要があります。日本町とCIDは、シアトルにとって非常に重要で特別な場所です。これからもKOBOでは、日本文化とデザインの素晴らしさを伝えていきたいと思っています」と締めくくった。

■参考文献:Washington State HistoryJapanese American National MuseumDiscover NikkeiThe Wing Luke Museum

author:

NAO

スタイリスト、ライター、コーディネーター。スタイリスト・アシスタントを経て、独立。雑誌、広告、ミュージックビデオなどのスタイリング、コスチュームデザインを手掛ける。2006年にニューヨークに拠点を移し、翌年より米カルチャー誌FutureClawのコントリビューティング・エディター。2015年より企業のコーディネーター、リサーチャーとして東京とニューヨークを行き来しながら活動中。東京のクリエイティブ・エージェンシーS14所属。ライフワークは、縄文、江戸時代の研究。公式サイト

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