現代美術作家ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ「柔らかな舞台」インタビュー 多様な声に耳を傾けること、理解できないものを恐れないこと

オランダ出身の現代美術作家ウェンデリン・ファン・オルデンボルフは、20年以上にわたり、映像制作を対話の契機と捉えた多角的な実践を続けている。東京都現代美術館で開催中のアジアで初となる展覧会「柔らかな舞台」では、植民地主義、ナショナリズム、家父長制、フェミニズム、ジェンダーといったさまざまな問題を扱いながら、作品内に登場する参加者の対話を通して、過去と現在を結びつけ、観る者の主観に働きかける6つの映像作品が展開されている。日本で滞在制作した新作《彼女たちの》での具体的なエピソードを含め、作品制作における協働の姿勢や、そこに内包する支配的な言説や権力構造に揺さぶりをかける手法について話を聞いた。

コレクティヴワークに求められるもの

――あなたの映像作品は、リサーチ段階から撮影スタッフを含めたさまざまな人達とのコレクティヴワークであるというのも大きな特徴ですが、協働する人達にどんな姿勢を求めていますか?

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ(以下、WvO):参加してもらう人々に私がやってほしいことを説明しているわけではなくて、むしろ撮影に入る前に意見交換をして、扱う題材に対して自分がどう思っているかということの対話を重ねていきます。そうしてある種の共同の理解や、扱うトピックに対しての熱意を共有した段階で作品制作に入ります。撮影時のセットの中においては、基本的に私は、提案することはあっても、独裁者のように振る舞うわけではなく、そこで何が起きるかということを見ていく、そういう態度でいます。

――例えば今回の展覧会のための新作《彼女たちの》(2022年)の場合、どういう人達が参加するのか、キャスティングの決定についてはどういうプロセスがありましたか?

WvO:誰と撮影するかは、どこで撮影するかという決定とほぼ同時期に行われていきました。まず取り上げる2人の作家(林芙美子と宮本百合子)について学ぶことにも時間がかかりましたが、それを学んでいる最中に、チェルシー・シーダーさん(青山学院大学教授。日本現代史、ジェンダー、社会運動が専門。著書に『Coed Revolution: The Female Student in the Japanese New Left』[Duke University Press, 2021])と会って、かなり興味深い対話をすることができました。そのあとに個々の参加者達が徐々に集まっていった感じです。それから日本に来て、ロケーション(林芙美子記念館、神奈川県立図書館、元映画館)を最終的に決めました。何かアイデアがある時に、人がどんどん集まっていって、その中で何を見つけ、誰に会ったかということで1つひとつ物事が進んでいきますが、今回はそれがすごく有機的なプロセスで決まっていきました。

一緒に参加してもらった人達はもちろん私が興味を持った人達ですが、私は自分がすでに知っていることにはそれほど興味がなくて、参加してくれる方々がどのような新しいものを持ち込んでくれるかということに興味があります。コラボレーションと昨今よくいわれますが、必ずしも皆が一堂に会して意思決定に参加することだけがコラボレーションということではありません。作品を作ることは、「何がコラボレーションか」ということを考える機会にもなっています。

――おそらくどの作品でも、唯一、編集に関しては必ずご自身でされていますね。そこにはかなりこだわりがあると感じたのですが。

WvO:編集するということが、非常にパワフル(権威的)なポジションであるということはその通りです(笑)。私自身が編集をする理由の1つとしては、作品の構造を作って鑑賞者に伝えるという意味で、また形式においての実験をするという意味でも、非常に重要だからです。それがある意味アートの機能でもあります。同時に、編集中は映像素材を通して参加者達が何をどう考えていたかということを学んでもいます。その中にいる参加者達と彼ら彼女らの声を、その距離感を離さないように伝えるということに気をつけて編集しています。もちろんプロセスの最後には参加してくれた人に見せて確認を取ります。

「終わりのなさ」や「断片性」が働きかけるもの

――作品の中で行われている対話がどれも素晴らしいと思いました。使用されるテキストは過去のものですが、オープンかつ、今という時代と結びついた対話がされていて、それは意外と日常ではできないことかなと思いました。

WvO:そのことはまさに先ほどの質問につながっていて、どんな態度を参加者達に求めるか、もしくはどんな空気を撮影クルーを含めて作っていくかということに関わっています。そしておっしゃるように、過去の作品を使っているけども、現在性について語りたいということも重要です。

――参加されている皆さんが、お互いの言葉をよく聞いていますよね。聞くというと受動的なようですが、能動的に聞く、傾聴する態度が印象的でした。

WvO:作品に何をもたらしてくれるかということに、聞くということは非常に重要な要素です。ですが、むしろ日常におけるどんな物事においても、聞くという態度は必要で、そのことが我々がどう一緒に生きるかということにつながっています。私が作品を通してやろうとしていることは、鑑賞者が「自分のことを考える」ことをしてくれたらいいなということです。私の作品が持っている「終わりのなさ」や「断片性」は、最終的には観る者がそこから何かを考えて理解しようとすることを働きかけるので、そこも能動性につながっているのかなと思います。

理解と不理解の間を揺れ動くこと

――ちょっと別の質問ですが、作品を見ながら「翻訳」ということを考えたんですね。例えば《彼女たちの》では、テキストの同じ内容(個所)を、翻訳された英語での朗読のあと、日本語(原文)でも朗読をして、その2つのテキストの微妙な差異、ニュアンスの違いや翻訳でこぼれ落ちたものについて出演者が語り合っています。

WvO:もちろん私は日本のテキストに興味があっても翻訳でしか読めないわけですが、オリジナルテキストとの距離感や違いからも何かを学びたいという気持ちがあるのだと思います。おっしゃるように、カメラの中でさえもその違いについてのディスカッションがありました。

――それはテキストの翻訳だけでなく、文化の翻訳についても同じですよね?

WvO:もちろんです。理解と不理解の間を揺れ動くということが重要で、何かの文化的な記号であったり象徴であったりすることでも、ある意味、理解できないことを怖れない態度というのが大切だと思っています。

――会場の入り口で上映されている初期の代表作《マウリッツ・スクリプト》(2006年)でも、まず扱われている17世紀のオランダのブラジルでの植民地支配について知らないこと多すぎて戸惑います。対話を聞きながら自分なりに理解したつもりになっても、閲覧できる参考文献やカタログの論考などを読むと、全然気付いてない文脈があることがわかったり……。

WvO:《マウリッツ・スクリプト》で扱っているのは17世紀のテキストなので、同じ言語であっても、現代のオランダ人にとってもある種まったく理解できないというか、文化的な翻訳みたいなことで、距離感が感じられるものです。つまり、17世紀当時のヨーロッパの人達が世界をどう見ていたか、どう考えていたかということに対する距離感は、先ほどの日本と英語の翻訳の問題に似ているということです。

作品の対話を鑑賞者がいかに引き受けるか

――《オブサダ》(2021年)や《彼女たちの》など、近年の作品はフェミニズムに焦点をあてていますが、作品で扱うようになったきっかけがありますか?

WvO:《オブサダ》はフェミニズムについて取り上げているという意識は特になくて、むしろ男性に支配されている職業を彼女達がどう選んでいるかということを描いています。《彼女たちの》に関しては、よりフェミニズムを考える機会になりました。なぜなら日本のフェミニズムについて知らなかったし、日本の文化の中で女性の声がどう発せられているかということも知らなかったので。《オブサダ》に関してはそこまで正面から考えていたわけではなかったのですが、とはいえ若い女性が社会で生きていくことの難しさというものを扱っていて、現行の社会にフィットしない彼女達が抱える欲求みたいなものを描いています。

――扱っているのはポーランドの映画業界や社会でのことですが、日本の映画やアートの現場に限らず、どんな分野でも日本の社会の構造的問題を照射する内容だと思いました。そしてこの作品でも、出演者がとても率直に心の内を吐露したり対話をされていて、そういう声を直接聞く機会にもなっています。例えば、2人の出演者が、あるシーンで話し出すきっかけをお互いが相手に任せて黙ってしまい、受け身でいることを内面化していることに気付く場面がありますね。

WvO:ええ。あそこは私が何かディレクションやインストラクションを与えたわけではなくて、時間を置いてふと息をついてから、彼女達自身がそのことについて「なんで指示を待っちゃったんだろう?」とディスカッションしているんです。その時の自己内省をしたシーンはとてもパワフルなシーンだと思います。

――つまり、そういった対話を生み出せる環境作りがとても重要ということですね。

WvO:その通りです。《オブサダ》の中で、私はいわゆる「監督」がするような指示はほとんどしていません。「映画製作の現場で働くことについて話したらどうか」という提案はしたけれども、何をどんなふうに話してほしいということは一切伝えていません。

――そして、私達は、そうやって生み出された対話を受けて、鑑賞者自身が内省したり、一緒に来た人と話しあったり、そしてそれが美術館を出てからも続くような場をそれぞれが作っていくことが重要なんだなと思いました。

WvO:そうですね。作品が何をそこにもたらしてくれるか、どう作用するかということを感じてもらえたらと思っています。

――言い換えれば、あなたの作品はどの作品も、「別の仕方で」ということを提示されているのかなと思います。例えば、正しいとされている歴史だったり普通とされている価値観だったり。

WvO:はい。鑑賞する人が持っている「ノーマル」というものを揺り動かすことは、1つの重要なことだと思っています。

■ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台
会期 : ~2月19日
会場 : 東京都現代美術館 企画展示室 3F
住所 : 東京都江東区三好 4-1-1
入場料 : 一般1,300 円、大学生・専門学校生・65 歳以上900円、中高生500円、小学生以下無料 ※小学生以下のお客様は保護者の同伴が必要 ※ 身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳持参者とその付き添いの方は無料
Webサイト: https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/Wendelien_van_Oldenborgh/

author:

小林英治

1974年生まれ。編集者・ライター。雑誌や各種Web媒体で様々なインタビュー取材を行なう他、下北沢の書店B&Bのトークイベント企画も手がける。リトルプレス『なnD』編集人のひとり。Twitter:@e_covi

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