連載「時の音」Vol.19 田名網敬一の世界を映す鏡

その時々だからこそ生まれ、同時に時代を超えて愛される価値観がある。本連載「時の音」では、そんな価値観を発信する人達に今までの活動を振り返りつつ、未来を見据えて話をしてもらう。

今回はアーティストの田名網敬一。その深淵な意識世界を表象する、プロフェッショナルな編集技術に裏打ちされたコラージュをベースにした作品の数々。高度なパラドックスのもと構築された極彩色の情報の集合体からは、見る者を圧倒するエネルギーがほとばしる。

近年も「アディダス」や「ジュンヤ ワタナベ」等のファッションブランドとのコラボレーション、ニーナ・クラヴィッツから八代亜紀といったミュージシャンのレコードジャケットデザイン等、その活躍の場は広がり続けている。

歳を重ね、衰えるどころか地熱のように湧き出るバイタリティ。「創造力や知力は若い頃よりも今の方がある」と田名網は語る。その生き様は、靄のかかった未来のなかに光明を探して踠く我々世代に対し、羅針盤として力強く道筋を指し示す。その根源的な創造性と精神性を辿るべく、彼のパワフルな作品群に囲まれた青山のアトリエで話を聞いた。

田名網敬一
1936年東京都生まれ。武蔵野美術大学を卒業後、1960年代からグラフィックデザイナーや映像作家、アーティストとして、メディアを中心にジャンルに捕われない創作活動を続ける。近年の主要な展覧会は、2015年にロンドンのテートモダンで開催した個展「The World Goes Pop」やロサンゼルスのアーマンド・ハマー美術館で開催した「Oliver Payne and Keiichi Tanaami」、2020年にナンヅカで開催した「記憶の修築」等がある。また、ニューヨーク近代美術館(MoMA)やシカゴ美術館といった世界中の著名美術館が新たに田名網の作品収蔵をしている。

アートとデザインの間で

−−田名網さんの作品の礎となる職人技的なコラージュをベースにした作品は、グラフィックデザイナーとしての着実なキャリアを経て磨かれたものと思います。ご自身のキャリアと芸術活動の変遷について教えてください。

田名網敬一(以下、田名網):武蔵野美術大学のデザイン科を卒業後、博報堂で広告の仕事に従事し3年ほどで退社、その後デザインを主体としていました。武蔵美時代の仕事もデザイン中心でしたが、本当は当時からアートに関心がありました。しかしアートで生計を立てるのは難しいからやめるべきという母親や親族の意向が強く、現実を優先して考えた結果、デザインの道に進むことにしたんです。その後もアートに力を入れたいという思いは持ち続けていたものの、アートに費やす時間も十分に取れなかったので、自分の生き方は中途半端だと感じてジレンマに悩んでいました。当時付き合っていた友人もデザイナーよりアーティストが多く、三木富雄や荒川修作、篠原有司男、赤瀬川原平といった、所謂「反芸術」と呼ばれる人達でした。従来の美術とは全く違う方向性を目指していた彼らの人間性や生きざまに、どうしても魅かれていましたね。

−−当時のコミュニティに、田名網さんのように「商業デザイン」と「反芸術」の両方に携わっていた人はいましたか?

田名網:いませんでしたね。武蔵美の原弘先生というグラフィックデザインの大家的存在からは、絵描きのような中途半端なことはやらずにデザインに集中するように何度も言われました。僕はそれでも絵を描いていたし、デザインが嫌いだったわけではないのですが「自分の生き方を反映できる仕事をするためには、自分の思い通りに表現できる世界に行かないと意味がない」という考えが絶えず自分自身の中にありました。

そんな悩みを常に抱えながら青春時代を過ごしましたが、ある時、アートの表現においてデザインの方法論が非常に重要だということに気付きます。以降は実験映画の制作にしても絵を描く際にも、デザイン的な手法や方法を取り入れていきました。要するに、アートを表現する上でデザインの制作プロセスが非常に役に立っているんです。

−−商業デザインと反芸術の双方に身を置きながら、アートとデザインがご自身の中で融合していくプロセスを体感されたからこそ、ポップ・アートとの出会いにより確信に近いものを感じられたのでしょうか。

田名網:それはあると思います。例えばアンディ・ウォーホルは絵画だけでなく、本や出版物、映画なども制作していました。絵画としての彼の作品自体には強烈な影響は受けませんでしたが、彼の制作に対する考え方や編集工程をそのまま表現に取り入れる手法、ポップアートとしての絵画の理念には、共感を覚えました。逆に、ウォーホルを通して、反芸術の友人達の思想についても深く理解できたんだと思います。

−−アンディ・ウォーホルとの出会いはどの様なきっかけだったのですか。

田名網:実際に彼に会うのはもっと後のことですが……当時銀座に1軒だけ洋書専門店があって、友人の牛ちゃん(篠原有司男)とよく通っていました。ある日、その店の常連だった評論家の植草甚一さんが階段で転んで本を落としたところを、僕と牛ちゃんで手助けしたら御礼にと、店に置いてあった「ARTnews」という本を僕らに見せながら、当時のアメリカで台頭していたアートや作品について教えてくれたんです。その中にウォーホルやリキテンシュタイン等、ポップアートの作品の写真があり、衝撃を受けましたね。「こういうやり方で良いんだ、こういうものが芸術として通用するんだ」と。

−−ポップ・アートの中にデザイン的な要素を感じたのでしょうか?

田名網:ウォーホルやリキテンシュタインの表現は、コマーシャルやマスメディアの素材を応用しアートとして作品化するということだと思います。その手法は私が携わっていたグラフィックデザインとの親和性もあったので、もしかしたら自分もデザイナーとしてのスタンスをそのまま保ちながら、ファインアートの表現ができるのではないかと考えたのです。

−−後に実際にウォーホルに会われたそうですね。

田名網:1974年にウォーホルが東京の大丸デパートで個展を開催するために初来日するということで、NHKが1時間の特番を制作し、そのアートディレクションの依頼が来ました。番組の全体的なヴィジュアルにウォーホルの顔を使おうと考え、NHKのカメラマンに彼の写真撮影をお願いしていたのですが、来日直後で疲れていたウォーホルは終始機嫌が悪く、結局撮影できなかった。そこで当初の構想を変えて、僕自身のアニメーション作品をコラージュしたヴィジュアル・イメージにしたんです。

ウォーホル自体をモチーフにしたデザインではなかったにも関わらず、完成した番組の映像をウォーホル本人に送ったら、とても気に入ってくれました。以前から彼に対してすごく興味があったし、東京での展覧会開催と来日が決まって嬉しかったので、自然とその思いが反映した内容になっていたんだと思います。

−−「コム デ ギャルソン」「アディダス」等のファッションブランドやミュージシャンのアートワーク等、海外を含め多くのコラボレーションを実現されています。コラボにおいて、どのようにデザインの考え方を生かしているのでしょうか?

田名網:コラボレーションの企画を進める際、クライアントが求めるグラフィック・イメージを提供する、というやり方はしていません。自分にはデザイナーとして培った経験があるので、全体のデザインを含めたコラボレーションということを重視しています。例えば、Tシャツの企画でもアイデアを出すところから始めます。長年絵画制作と並行してデザインの仕事をしてきましたが、現在はデザイナーという意識がなくなり、仕事に対してアーティストとして関わるという気持ちへ変化しました。幸いおもしろいオファーが来るので、苦と考えたことはないし、特に洋服は動きがあるのでおもしろいんです。素晴らしいプロジェクトは全てのアート表現に対して良い刺激になるので、相乗効果でプラスになっています。

 創造のインスピレーション

−−アートの表現において、インスピレーションとして大きな要素となっているのは、幼少期の戦争の原体験や記憶がありますね。

田名網:僕は小さい時に戦争の恐怖を体験しましたが、どの時点で人生を振り返ってみても、あれほど衝撃的な出来事は無いんです。僕の人生で戦争以上の強烈な記憶は存在しない。それだけ戦争はすさまじいものだったんです。ウクライナの状況を考えると少しわかるかもしれませんが、毎日当たり前のように人の死に直面していました。戦時下でなければ、そういう光景を見ることはないでしょう。しかし僕は幼少期に目の当たりにしていたため、忘却が不可能な記憶としてこびり付いてしまっているんです。なので、特に直接的に戦争を描こうとか表現しようという意識は無いんですが、自分でも整理しきれない記憶が心の奥底に常に留まっていて、表現を通して無意識的に表出しているのだと思います。

−−アメリカの文化に影響を受ける一方で、戦争の相手国としてのアメリカについて、田名網さんはどのように整理をしていたのでしょうか?

田名網:戦争が終わって僕が中学生になる頃、映画以外の娯楽がほとんどなかったので、目黒駅近くにあった小さな映画館によく通うようになりました。そこはB級アメリカ映画専門の映画館で、おそらくアメリカ側の意向によって、所謂プロパガンダ映画が上映されていました。

親からは「敵国アメリカ」の話を散々聞かされてきたので、当然アメリカには懐疑的なイメージを持っていたんですが、ディズニーやフライシャー兄弟の作品など、アメリカの素晴らしさを全面的に体現している映画を観ているうちに、アメリカが大好きになってしまったんですよ。当時は映画などを通してアメリカに憧れを持った若者が少なくなかったと思います。

−−田名網さんの作品にはアメリカの戦闘機のモチーフが出てきますが、ある種皮肉的な観点で表現されているような印象も受けます。

田名網:戦争について子どもの時は意味さえ十分理解できなかったのですが、苦しんだ状況は日常的に見ていたので、アメリカに対する憧れもネガティヴな部分も、複雑に絡み合った感情が表現に顕れているんだと思います。

強く印象に残っているのはアメリカ軍の弁当ですね。戦後は食料事情が厳しかったので、月に1回アメリカの物資が各家庭に支給されました。その中にアメリカ軍の兵士が食べる弁当があったんです。きれいな弁当箱に、真っ白いパン、魚、ソーセージ、フルーツ、お菓子等がバランスよく配置されていて、そのヴィジュアルの美しさに心を奪われました。

あと、自宅の隣にいわゆる当時の西洋館があって、小さな女の子がいるアメリカ人将校の一家が住んでいたんです。その家で働くメイドさんが、その家の娘さんが普段食べているチョコやチューインガムをくれた時のことをよく覚えています。結局、彼等を通してアメリカのライフスタイルに魅了されていたんだと思います。

−−戦争について、圧倒的な理不尽さでこれまでの日常を踏み潰していく、現実を遥かに凌駕する現実という様なイメージがあるのですが、そうした戦争の負のパワーやエネルギーが田名網さんの作品にも顕れているのでしょうか。

田名網:創作しているうちに、意図せず戦争のイメージを彷彿とさせる表現になっているケースが多々あるんですが、そのうちの1つが色彩です。終戦後、新潟の疎開先から帰京して、目黒駅の権之助坂の上から慣れ親しんだはずの街を眺めた時のことなんですが、そこにはあったはずの樹木や建物はなく、全てが変わり果てていました。赤く染まった焦土が広がって、その地平線の先には、経験したことのないくらい澄んだ青空が広がっていたんです。日常的にあったものが全てなくなっているというショッキングな経験と、赤と青に二分割された景色がものすごく衝撃的だった。絵を描く時の色彩に常に影響を及ぼしているし、その光景は記憶として頻繁に蘇ります。

−−田名網さんの作品は極彩色が特徴の1つですが、インスピレーション源は何でしょうか。

田名網:一般的には子どもの頃の体験が後年の色彩感覚に影響を及ぼすと言われていて、僕の場合も当てはまると思います。祖父が京橋で洋服の服地問屋を営んでいて、高島屋デパートの裏側に家がありました。街はネオンサインに彩られているし、高島屋が遊び場という色彩に溢れた環境で幼少期を過ごしたんです。あと、家には服地が山のように積まれていて、その中にジャケットの裏に付けるタグがありました。当時のタグはすごく凝っていて、金糸や銀糸でラクダなどのエキゾチックなモチーフが刺繍されていて、何度見ても飽きることはがなかったですね。この幼少期の色彩に対する経験が、現在のある種、過剰とも思える色彩表現に繋がっているのではないかと思います。

コロナ禍による創作活動の変化

−−コロナ禍において、創作活動が制限されていた時期をどのように過ごしていましたか?また表現に対する影響はありましたか。

田名網:70歳になる頃、僕もそろそろ創作活動がむずかしくなるのかと思ってましたが、表現したいという欲望は若い頃よりも今の方があるように感じます。この感覚はコロナ禍で活動が制限されたことで、より高まりましたね。創造力や知力は、若い頃には豊かで肉体的な衰えと同時に衰退するものだと思ってましたが、僕の場合はそうではないみたいです。肉体的には衰えているはずですけど、創造力は30〜40代の頃よりもかえって今の方があるようで、本当に不思議です。表現したいものが次々に溢れてきて、どんどん手が動く。若いときよりもエネルギー自体は低下していたとしても、僕自身はそう感じないんです。50歳前後の頃は少し活動ペースを落とそうとも思っていましたが、今は全く思わなくなりましたね。

−−コロナによって社会活動が停止したことで、図らずもご自身の考える時間ができたというのも一因でしょうか。

田名網:そうかもしれないですね。今考えるとコロナ前は幅広く活動していたこともあったし、本当に自分がやりたいことに時間を割けていない状況でした。締切があるので、瞬時に判断することも求められていましたから。でも、コロナによって周囲のあらゆる活動が停滞すると自分の時間もできたので、1日中、思考を集中することができるようになりました。その影響は大きくて、今まで考えもしなかった発想が浮かんでくるので、創造性が広がったんだと思います。

あと、コロナ禍でピカソの《母子像》の模写を始めました。最初は10点くらい描いたら止めようと思っていましたが、気付くと何百点も描いていた。ピカソの絵から絵画的な何かを学んでいる訳ではなく、ピカソの絵を見ながら描くことで、自分自身の思考回路が絶えず活性化し、そこからあらゆる要素を見出せることを発見したんです。例えば、ピカソが描く「手」は奇妙な形をしているのですが、どうしてこの手を描いたのか、模写していくうちに自分の中で解明されていくんです。ピカソが自分に乗り移るという訳ではないですが、彼の思念が自分の中で整理されていく過程に意識を傾けて、深く考えながら絵を描くことは初めてだったので、すごくおもしろい経験でしたね。

−−これまでのデザインに関するプロジェクトにおいては瞬発的な発想で制作されていた印象を持ちましたが、今回の展示「世界を映す鏡」ではそういった手法とは距離をおいて、理性的で、自然に湧き上がる発想から制作された作品が多い印象を持ちました。

田名網:ピカソの《母子像》の模写を始めた当初は、絵をよく見て構図や絵柄を正確に描いていたんですが、その後、少しデフォルメするようになりました。そこからは、ピカソの絵を見ないで描いたらどうなるかとか、試したいアイデアがどんどん浮かんできて、延々と実験を繰り返すような感覚で描きました。模写に変わりはないんですが、更に違う方向に進んでいくのがわかるし、自分の方法論がどんどん広がっていくのでおもしろいですよね。

ピカソの評価は千差万別ですが、今では、表現者としてこれだけの天才はそう簡単には出てこないと感じています。模写していておもしろい作家は何人かいますが、ピカソの場合は、描いていて考えが尽きることがない。遺作がピカソになってしまうのかと思うくらいです。ある意味、恐ろしいことでもありますが、描くことが止まらない。これこそ芸術家としての才能なんだと思います。ピカソは生涯で4万点近く絵を描いたと言われていますけど、それだけの量を描くエネルギーはものすごい。とにかく描くのが早かったみたいで、パレットに絵の具を出して色を作って描くのではなく、原色をキャンバスにのせて塗り拡げ、直接描いていたみたいです。

僕がデザイナーとして仕事をしていた頃は、作品にじっくり時間をかけて考える習慣はなかったので、仕事は早く、打ち合わせしている間にイメージが出来上がるくらいだったので、思考を掘り下げたり、試行錯誤をして悩むというということは少なかったですね。ピカソの模写は、キャンバスに向き合う時間が考える時間になるのです。模写をしていく中で、イメージが浮かび、さらにモチベーションも膨らんでいきました。ピカソという巨人の土俵を借りたことで初めて感じることができました。

赤塚不二夫との邂逅

−−現在、アトリエに赤塚不二夫さんのキャラクターや擬音をコラージュした作品がありますね。

田名網:僕は根っからの赤塚さんのファンなんです。自分は漫画家になりたくてもなれなかったということもあって、赤塚さんに対しては羨望とコンプレックスを抱いてました。彼とは同じくらいの年齢ですけど、彼は大スターですからね。会うと、いつも先生に話すような固い感じになっていました。本当はもっと仲良くなれたはずなのに、僕の方で一線を引いていて、残念ながら友達として付き合うことができなかったんですね。

赤塚さんと知り合ったのは映画監督の若松孝二さんの紹介でした。僕が当時よく行っていた飲み屋に若松さんも来ていて、すでにスターになっていた赤塚さんに引き合わせてくれたんです。僕は緊張してしまって、とりあえず赤塚さんと若松さんの話を隣で聞いていたら、若松さんが映画制作の費用が足りないからなんとかしてほしいと頼んでいたんですね。赤塚さんは少しお酒を飲んで考えた後に「うん、いいよ」と承諾したんです。漫画で成功しているだけではなくて、人間としてのスケールも大きくて、これが本当のスターのふるまいかと圧倒されましたね。

−−常人の理解を超えた豪快さを感じますね。

田名網:そうですね。それから毎日飲み屋で会うようになっても、赤塚さんに一目置いていました。その頃、ネクタイをした青年をよく連れていて、それがタモリさんでした。当時「裸のショー」というネタを披露していたんですが、赤塚さんが全裸になって床に寝そべり、タモリさんがとんでもなく太いロウソクをボタボタ垂らすわけです。赤塚さんの身体はすぐに真っ赤になって「ウオォ」とうめきながら悶える、ということが毎日繰り返されるんです。もう、恐怖でしたね(笑)。それに、赤塚さんの行きつけのバーには「赤塚セット」と呼ばれるロウソクのセットが置いてあって行く先々でショーを披露するわけです。その光景を見ていて、赤塚さんはやっぱりすごい人なんだと感心しました。

とにかく赤塚さんには畏れ多さを感じていましたが、攻撃性が一切ない本当に優しい人でしたね。友人の牛ちゃんにもよく似ていて、僕がもっと素直だったらすごく仲良くなれたんじゃないかといまだにもったいなく思いますね。

■世界を映す鏡 A Mirror of the World
会期:11月12日〜12月25日
会場:NANZUKA UNDERGROUND
住所:東京都渋谷区神宮前3-30-10
時間:11:00~19:00
休日:月曜日
入場料:無料
公式サイト:https://nanzuka.com/

Photography RiE Amano
Interview Akio Kunisawa
Edit Jun Ashizawa(TOKION)

author:

Nami Kunisawa

フリーランスで編集・執筆を行う。主に「Whitelies Magazine」(ベルリン)や「Replica Man Magazine」「Port Magazine」(ロンドン)等で、アート、ファッション、音楽、写真、建築等に関する記事に携わる。Instagram:@nami_kunisawa

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