10月から銀座メゾン エルメス フォーラムで始まった同展は、異なる領域で活動するクリスチャン・ヒダカとタケシ・ムラタという2人のアーティストを並列することで、アートが誘発する現実と虚構の往来を「訪問者」という視点で繋ぐ試みだ。
クリスチャン・ヒダカは1977年に千葉県の野田市に生まれ、ロンドンを拠点に活躍する画家。顔料を調合した自作の絵具で描かれる、テンペラ画調の鮮やか且つ繊細な色調を纏った絵画作品には、西洋/東洋絵画史、劇場や建築、社会における集団的意識や魔術、個人的な記憶といった、いくつもの参照と引用が散りばめられている。
作品は、絵画がもたらす啓蒙や知覚、絵画を通した時間と物理的距離の横断を実現するものだ。モチーフとなっている人物たちは、それぞれ古代、近代、現代の暗喩(ルビ:メタファー)と捉えることができるし、あるいはヒダカの個人的な記憶のぬくもりを感じることもできる。例えば、ピカソやマティスによるキュビズム、バレエ・リュスの《パラード》の衣装や舞台美術、イスラムの抽象的なモチーフ、日本人女性のような登場人物などの引用は、それぞれ時代背景や主題が異なるものでありながらも、ルネッサンスのフレスコ画のような独特な色彩を用いることでハイブリッドながらも静寂な空気を纏っている。
同展の「訪問者」というテーマから、展示空間全体を絵画における「1つのフレームの内側」として捉え、作品と空間構成の往来から創り上げた。作品の中には同時に展開する複数の時間軸やスケールが据えられており、さらに鑑賞者が展示スペースを歩くことで、さまざまな角度から絵画と視線を交わすことになり、多様な時空間が立ち現れる。従来の「絵画を見るための静止した空間」ではなく、「鑑賞者が体験とともに視線を交わす空間」として機能させているのだ。また、アーティストが「Eurasian」と呼ぶ絵画空間は、遠近法と斜投影図法を用いるものだが、それは、ヨーロッパとアジアが併存し、多くの国を擁しながらも「分断」されているユーラシア大陸の在り方への考察でもあり、ハイブリッドなものが共存する世界への1つの応答でもある。
タケシ・ムラタは1974年シカゴ生まれで、現在はロサンゼルスを拠点とするグリッチ・アートの先駆者的な存在だ。CGのレンダリングに興味を示し、脱中心的なデジタルメディアの制作から生み出される作品は、日常を異なる原点から捉え、現実のうつろいを脱境界的な時空図として提示する。鑑賞者は(無)意識のフローティングを目撃する。
親しみのある形状のキャラクターが、非物質的な融合や溶解、増殖や偽装を繰り返すヴィジョン。日常の風景にコラージュのような効果やシュールな次元が施される映像。2001:A SPACE ODYSSEYのボーマンが次元を超えてたどり着いた異空間のような、現実のフォルムに近いが異様にクリーンな静物画。現実から疎遠であるほど、CGは潔癖さ、あるいはミュータビリティを増し、非意識的現実の姿をあぶり出す。
従来の「CG=モニターの中の閉ざされた世界で展開するパラレル現実」という固定観念は、今や覆されている。ムラタは、ある時はヴァニタス的静物画の様式を採ることで、ある時は街中のスクリーンに映像を投影することで、またある時は彫刻化することで、CGを現実世界に召喚し、オルタナティブな接触機会を生み出す。同展では、空間構成によりヒダカの作品との相互作用が生まれ、鑑賞者は、作品内に口を開けている自身の(無)意識世界へとダイヴする機会を得ることができる。同展について2人にインタビューを行った。
クリスチャン・ヒダカ
1977年、野田市生まれ。現在はロンドンを拠点に活動する。新しい絵画の探究として、自身の複雑な心象を異質な時間的・空間的構造との連鎖を生む論法で作品を描き出す。西洋のキアロスクーロ(明暗法)と東洋の斜投影法を組み合わせたハイブリッドな空間構造「Eurasian」を、2つの伝統文化を融合させるように、絵画のみならず壁画も合わせて制作している。近年の個展に「Tambour Ancien」(Galerie Michel Rein、パリ、2021年)、「Set for Four Players, a Sundial and a Bear(Raphael Zarkaとの2人展)」(Fabian Lang、チューリッヒ、2021年)、「Unhooked a Star」(ルーマニア国立現代美術館、ルーマニア、2018年)等がある。
タケシ・ムラタ
1974年シカゴ生まれ。現在、LAを拠点に活動。動画ファイルの圧縮時に発生するエラーを用いて視覚的効果を与えるグリッチ・アートの先駆者として知られる。CGIをイメージ・メイキングやデジタル・アフターライフ(イメージに形や動きを与えること、死後もデジタルに生き続けること)のメディテーションの過程ととらえ、アニメーション、映像、CGIからNFTまで様々なデジタル・メディアや技法を駆使しながら、独自のリアリズムを追求する。近年の主な個展に、「Living Room」(山本現代、東京、2017)、「Infinite Doors」(The Empty Gallery、香港、2017)、「Takeshi Murata」(Halsey McKay Gallery、NY/スタヴァンゲル美術館、ノルウェー、2015)等がある。
絵を作っていくプロセスそのものが作品 −クリスチャン・ヒダカ−
−−アートにおける表現手法が多様化する中で、絵画という表現を続ける理由を教えてください。
クリスチャン・ヒダカ(以下、ヒダカ):絵画は現代においても「人間が手で描く」ことに意味があります。決して自動化できるものではありません。
私は「表象」の歴史に深い関心を抱き、時代の流れを汲みながら表現することについて考え、ルネサンス期から20世紀キュビズムまで、美術史全体の動きを追ってきました。各時代における絵画の歴史は、それぞれの作品が完結したものとして確立されています。例えば「見る人の視線の在り方」を認識することで発明されたルネサンス期の透視図法。平面絵画が横に伸びることで様々な時間・空間が展開する日本や中国の絵巻物等にみられる斜投影図法。私はこれらの異なる表現を1つの作品の中で組み合わせることで、新たな絵画を創造できないか試みています。絵画という普遍的な表現技法を通して既視感のない作品を制作することが、私のアートにおける探求の1つですね。
何より私が絵画を続ける1番の理由は、絵画を制作する速度が自分の生活リズムやスピードに合っているからです。どの絵画も非常に多くの時間を費やして制作しています。絵画作品を制作する時、私は一般に製造されている絵具は使わず、全て自分で顔料から絵具を作っています。絵画自体は2Dですが、1つの絵画の中に大体10から15くらいのレイヤーを重ねて、平面の中に建築を作り上げるような感覚で描いているんです。絵具作りから始まり、こうして絵を作っていく過程自体が私にとって大切なプロセスであり、プロセスそのものが作品であると考えています。
−−絵画のモチーフについてはどう考えているのでしょうか?
ヒダカ:今回の展示作品の多くは、「劇場的な空間」をテーマとし、他の作家が描いた絵画などをモチーフにしています。例えばピカソの薔薇色の時代の《アルルカン》や、彼が美術デザインを担当した《パラード》というコクトーのバレエ作品等。またバーゼルドラムも私の作品に反復して登場するモチーフのひとつです。当初はナポレオン時代に戦場で使われたものが、その後パリの大道芸人が呼び込みで使うなどしていたようですが、先述のピカソ作品中にも描かれるなど、時空をまたいで登場しています。
ルネサンス期から現代に至るまで、あらゆる時代の絵画的モチーフを散りばめて形成することで、絵画自体が完成した後も、作品としての働きは継続していきます。絵画を1つの母体として、この母体に散りばめられたリファレンスから、様々な時代や場所に繋がりイメージを拡張していくのです。ここに描かれているキャラクターたちは、本作品を舞台として、各出展元の作品が有する本来の歴史をパフォーマンスしていると言えます。
また、異なる言語を母国語とする人々であっても、同じ文脈を共有していると意思疎通が図れるというシチュエーションがありますが、こうした効果を絵画上で表現することに深い興味を持っています。例えば本作品の構造は、正面から見た1点のパースペクティヴではなく、東洋画に見られる斜めに視点を置いた図法で描いています。東洋の絵画には独特の時間感覚や空間構成があり、「影」が描かれないという特徴があります。東洋的な図法で描いた絵画に立体概念の「影」を差し込ませることによって、前例のない絵画空間を創り出そうと試みています。
《Siparium》の中央に描かれているのは「メデューサの神話」です。「メデューサに睨まれた者は全て石化してしまう」という設定について、「石化」=「創造性を奪われること」のメタファーだと私なりに考えています。元の神話に立ち帰ると、ペルセウス(男性)は「創造性を保つためにメデューサ(女性)の首を切らなければならない」という解釈になりますが、本作では男女を反転させて描いています。男性がメデューサで、女性がメデューサを倒すために鏡を盾として装着しており、その鏡に映る世界も反転している、つまり全てが反転している状況を表現しています。
こうした表現は、鑑賞者が作者と同じ文脈を共有していることで効果を発揮するんです。この作品を制作している時、ちょうど「#MeToo」運動が始まり、私もこの問題についてよく考えていました。女性側に圧力が掛かることによって、女性が石化(=創造性を剥奪)されてしまうのではないか、と。参照先の物語は古代の文脈ではありますが、二項のバランスが不均衡な状況は、時代が移り変わった現在でも、今まさに起こりうる事態だと感じたのです。
−−今回の日本での展示を通して感じられたことをお聞かせください。
ヒダカ:この銀座メゾンエルメス・フォーラムは、無料で誰でも見に来ることができる、ある種公共の空間になっているだけでなく、アーティストとしても新しい作品に挑戦できる場でもあります。いつものスタジオの中では制作できない、この機会だからこそ挑戦できる「自由」がある。
今回、自分の挑戦は「展示空間そのものを作品として表現すること」でしたが、それができたのは銀座メゾンエルメス・フォーラムのような場所があったからです。特にコロナの間は展覧会の機会も少なかったので、今回の展示は素晴らしい経験になりました。
エリアの行き来ではなく、過去や未来を含めた時間の流れで考えると誰でも、いつでも「訪問者」になり得る −タケシ・ムラタ−
−−デジタルメディアに興味を持ったきっかけを教えてください。
タケシ・ムラタ(以下、ムラタ):元々映画の勉強をしていたんですが、映画制作にはまとまった資金や人手が必要で、個人で制作するのは現実的に厳しい状況でした。ちょうどその頃(1990年代半ば)、ミュージシャンの中に、コンピューターのソフトウェアを使ってノイズを作ったりギターのフィードバック音を加工したりして、従来の音楽表現とは異なるアプローチをしている人達がいました。そうしたノイズのような表現を、デジタルメディアを使ったヴィジュアル・アートで作れたらおもしろいと思い立ったんです。デジタルメディアだったら1人でも作れますからね。
初期のデジタル作品は、視覚的な要素が欠けていたり、故意にエラーを発生させる「グリッチ」と呼ばれる効果を多用していましたが、いろいろなデジタル技術を試し続けた結果、3Dソフトウェアを使う制作方法にたどり着きました。例えば、3DのCGによる静物画的な作品は、ソフトウェアのレンダリングの過程で、清潔さというか全く汚れのない非現実的な潔癖さを表現できることに着目して制作したものです。
また、妻と娘と飼い犬、そしていつも散歩する近所のタコス屋やドーナツ屋を撮影した素材から制作した映像作品《Donuts》は、自分が何気なく過ごしている身近な場所にディメンションでコラージュ処理を施して、別の巨大都市のような異空間であるかのように見せることで生まれる効果を実験したものです。
最近の取り組みであるシミュレーション技術を使った《Larry》のシリーズは、「ラリー」という犬のアニメーション作品です。「ラリー」はどこか不安げな頼りない表情をしていて、自分の意思で動きを制御する能力を持たず、制作者である私に、完全にコントロールされている存在です。現実世界にある物質の動きをそのままCGの動きに落とし込むことで、CG世界の中だけで実現する物語を構築することを目指しています。
−−サウンドアートやノイズ・ミュージックに興味を持ったきっかけは?
ムラタ:1994年頃に、友達の母親が「ロラパルーザ」というフェスのチケットをくれたので観に行きました。当時はスマッシング・パンプキンズなんかが人気だったけど、あんまり好きになれなかった。斜に構えていた時期だったので(笑)。その前座でボアダムスが登場したんです。アメリカツアーの一環で参加していたと思います。会場はコロラド州デンバーの田舎で、しかもまだ早い時間帯だったので、ライヴが始まっても客はプレスのカメラマンだけ。そんな中ボアダムスのEYƎさんは、観客がいないのでプレスのカメラに向けて何度もダイブしていたんです(笑)。
今まで聴いたことのない音を発したり、子供用のピアノの音をサンプリングしたり、普通じゃ考えられない楽器の使い方をしていて。衝撃的でしたね。それが新たなアプローチの音楽に出会った最初の機会で、今でも鮮明に覚えてます。
−−そうした音楽にインスパイアされて、デジタルメディアを使った表現に直結したのでしょうか。
ムラタ:そうですね。ヴィジュアル・アートではコラージュ作品などから受けたインスピレーションとノイズ音楽的な表現が繋がる気がしていました。大竹伸朗さんのようなイメージですね。
基本的に自分の作品には音楽的な要素が強いと思っています。映像の在り方が音楽の在り方と同じ方向性というか。ノイズ・ミュージックで言えば、ヘアポリスというレキシントンのノイズバンドとか、ウルフ・アイズとか、1990年代〜2000年初期の音楽ですね。
ヘアポリスのメンバーだったロバート・ビーティーとは、私の初期作品のサウンドトラックをはじめ、長年コラボレーションしてきました。20歳くらいの時、ウェブマガジンのインタヴューで「個人的なリコメンドCDや作品を誰かとトレードすることが好きだ」と発言したところ、その記事を読んだロバートが自作のCDを送ってきてくれたので、映像作品を送り返しました。そこから彼とのリレーションが始まったんです。まるでお互いにインスピレーションを交換しているようでした。彼はレコードジャケットのデザインも行っていて、最近だとザ・ウィークエンドのアルバムも手掛けています。
−−「現実は静的ではなく流動的で、溶解、侵食していくもの」という独自の感覚は、どのようにして得られましたか。
ムラタ:デジタルメディアでの作品制作を通じて、例えば日常では意識的に創り出すことのできない幻覚やサイケデリックのようなイメージ、特に時間・空間認識における「時間の流れ」とか「空間的に存在すると認知していたものが喪失する」といった「感覚」を意図的に作り出せることがわかりました。この発見が現実の捉え方に影響していると思います。
一方で娘が生まれて親になったことで、若い頃に比べて、普遍的な目線で物事を捉えることができるようになったと感じています。普段の生活でも、さまざまな循環であったり世代交代、反復に伴う変化等を感じ取るようになりました。この感覚から、自分が現実と思っている事や信じているものが、実は移ろいやすかったり、疑わしかったり、脆い物なんだとわかったんです。
空間や時間の流れの中で、移ろいやすい物事をいかに捉えるか。国やエリアの行き来ではなく、過去や未来を含めてもっと大きく考えれば、誰だろうと、いつでも「訪問者」になり得ます。その上で、空間や時間を超えた向こう側にある普遍的な感情、自分が家や故郷だと感じる場所へのこだわりや想いを大切にすること。これが今回の展示会のテーマに対する答えになるのではないかと考えています。
■「訪問者」クリスチャン・ヒダカ&タケシ・ムラタ展
会期:2023年1月31日まで
会場:銀座メゾンエルメス フォーラム
住所:東京都中央区銀座5-4-1 8、9階
時間:11:00~19:00(最終入場18:30)
休日:12月8日 ※エルメス銀座店の営業に準じる
入場料:無料
Photography Shuhei Shine
Interview Akio Kunisawa
Edit Jun Ashizawa(TOKION)