マヒトゥ・ザ・ピーポーが語る、GEZAN新作『あのち』とオルタナティヴな音楽の可能性-後編- 反戦平和への希望、またはアイヌの「歌」と多元的な時間

GEZAN
マヒトゥ・ザ・ピーポー(vo. / gt.)、イーグル・タカ(gt.)、ヤクモア(ba.)、石原ロスカル(dr.)の4人組オルタナティブロックバンド。2009年に大阪で結成。2012年、拠点を東京に移し全国各地で独自の視点をもとに活動を行う。国内外の多彩な才能をおくりだすレーベル・十三月を主催。『面白さの価値は自分で決めてほしい』というコンセプトから、入場フリーの投げ銭制の十三月主催野外フェス「全感覚祭」を2014年から開催。2020年1月に5枚目となるフルアルバム『狂 -KLUE-』を発表。2021年5月に新しいベーシスト・ヤクモアが加入し、「FUJI ROCK FESTIVAL 2021」から新体制にて始動する。Million Wish Collectiveと共に制作された3年ぶりのフルアルバム『あのち』を2023年2月1日にリリース。
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2023年2月24日、ロシア軍によるウクライナへの侵攻から1年が経過した。なぜ戦争という極めて悲惨な出来事へと人間は歩を進めてしまうのか。そしてどうすればこの最悪の状況を打開することができるのだろうと悩みつつ、どうすることもできない無力感に打ちひしがれながら生きてきた人々も少なくなかったはずだ。そうした中、GEZANのニューアルバム『あのち』が届けられた。

戦争を直接的に停止する力を持つわけではないにせよ、昨年3月にGEZANの自主レーベル〈十三月〉が主催した反戦集会「No War 0305」には大きな意義があった。もちろん各所で反戦デモは行われていた。だが大半は「ウクライナと共に」もしくは「反プーチン」を掲げたものだった。それはそれで正しい、が、そこにある敵/味方の論理には戦争と近しい危うさが潜んでいる。「No War 0305」が掲げたのは「反戦」というただ一点。それはいわゆる音楽の力が人々の身も心も一致団結へと向かわせるものであるのに対し、むしろバラバラに分かれ、多様な意見が多様なままに共存する場としての連帯の可能性を音楽を通じて垣間見させるものだった。

『あのち』にもやはり、多様で複雑な音そして声がひしめいている。新たな時代のレベル・ミュージックだと言ってもいい。それは一見すると戦争を受けた反戦アルバムのようにも聴こえるが、「プロテスト・ソングではない」とすらマヒトゥ・ザ・ピーポーは語る。では一体、『あのち』とは何なのだろうか。

怒りの叫びと希望の祈り

——ヴォイス・アンサンブルのMillion Wish Collectiveと作り上げた今作『あのち』は「声」が大きなテーマになっています。ただ、同じ「声」でもアルバム前半は怒りの叫びの要素が強く、それに対して祈りのような後半はどこか希望さえ感じさせます。前半がストリートから発されるリアルな声だとしたら、後半はそれを俯瞰する未来的な視点を提供する、ある意味でSF的な構成と言えばいいでしょうか。こうした2面的な構成はどのような構想のもとに制作していったのでしょうか?

マヒトゥ・ザ・ピーポー(以下、マヒト):コロナにしても戦争にしても、さっき(前編で)仰っていたようないろいろな事象って、それらが起きる前の時代の人に話したら、全く現実感が湧かないと思うんです。むしろすげえSF的じゃん、って思うんじゃないかな。安倍晋三が銃殺されるなんて2010年代には誰も予想しなかった。つまり現実がそもそもSF的なことになっている。だから自分としては普通に音楽をやっていても、SF的な響きに向かっていかざるを得ないということはある。

映画でも例えば『E.T.』(1982)のような昔のSFって、あくまでも地球人に軸を置いていて、地球人が宇宙人に出会うというストーリーだったけど、今は『ブレードランナー 2049』(2017)のようにレプリカント側からの視点を描く。要は「向こう側」と言われていた方に軸を置いて、人間が見るのではなくて、人間を見ているわけですよ。少なくともSFは「向こう側」を垣間見るというようなジャンルからは解放されていて、それぐらい混乱した未知のゾーンに入っているから、自分としては自然なプロセスだった。

気候変動の問題だって同じですよね。もう後戻りできないポイントまで来ているけど、何が起きているのかといえば、人間が個体としては到底捉えられないような、とてつもなく長い時間の尺度で測らなければわからない問題が起きている。でもそのことに向き合わなければいけない。それはある意味でSF的な視点を持つことだと思います。地球という星の期限もそう。戦争で核兵器を使い始めたら普通に壊れてしまうけど、それが今、めちゃくちゃ遠いファンタジーの世界とも思えないようなリアルさを持っているじゃないですか。だから、それこそストリートの感覚のレベルで考えないと、SF的な現実に向き合うことは難しいんじゃないかって。

ただ、アルバムの後半で希望的な響きに寄っているのは、それは『狂(KLUE)』を作った時よりも明らかに世界が混乱していて、自分も追い込まれているということでもあるんです。閉塞感が漂う中で、そのことを写実的にスケッチしたくなかった。ちゃんと嘘をつきたかったというか。『あのち』に含まれている希望の割合は、自分の見ている世界がどれだけ歪んでいるかということでもあるかな。希望があるということをちゃんと言い切る必要があって、それを追いかけて走っている時の方が自分自身も調子が良くなりますからね。

「No War 0305」に込めた想い

——『あのち』には反戦の要素も多いですが、いわゆる反戦アルバムとも少し違っています。イデオロギーをそのまま掲げるのではなく、そもそもなぜ反戦平和が必要なのか、人間が生きていることと深いレベルで向き合った結果生まれたレベル・ミュージックと言いますか。そのあたりの距離感もお伺いしたいのですが、今作を作る上で、ロシアによるウクライナ侵攻や新宿南口で開催した「No War 0305」はどのように流れ込んでいるのでしょうか?

マヒト:今は何かを明言するにはあまりにも複雑な時代だから、記号みたいなもので人を判断したくないとつねづね思っているんです。生きている背景も見ている景色もみんな違うから、あちら側が敵でこちら側が味方、と言い切れるほどシンプルではない。わかりやすく議論を進めるために記号で括って語ることはあるけど、そんなことでは裁けないですよね。「私」という記号すら無理があると思っていて、自分の中にも菌類含めて数多くの他人がうごめいているし、表に出てくる言葉や感情は1つでも、その裏にはいろんな気持ちがある。天使も悪魔もいるけれど、そこで小さな民主主義みたいなことを通して、一応「私」という1人称がそれらを引き受ける役割を果たしている。それぐらい、そもそも誰もが混乱していて、誰かをカテゴライズすることはできるわけがない。

だから、カテゴリーで切り分けて分断を認めることは難しいと思いつつ、そうは言っても「戦争反対」ということに関しては議論の余地もないだろうと。「No War 0305」のステートメントにも書きましたが、ウクライナがすべて正しくてロシアがすべて間違っているというナショナリズムの話をするつもりはなくて、いろんな意見があるけど、少なくとも人が人を殺していい正当な理由なんかないでしょ?という、まずは一旦そのことだけで集まる価値があるし、この感覚はもっとフランクに使われるべきだなと思いました。「No War」という記号は政治的なワードとして使われているけど、「Love」とか「Peace」とかと同じレベルで使われていい言葉、というか同義語だとすら思うし、いかに暮らしと密接で誰一人例外なく全員が当事者なんだと考えると、ジャンルの話ですらない。だから主義主張を明言して切り分けるよりも、せめて感覚だけはもっと解放したい、というね。

そうしたことはこのアルバムでもやっています。だから反戦アルバムとは全然思っていなくて。まあ、全曲でそれに近いことに触れているとは言えますけど、今言ったように、別にそれはラヴ・ソングだって触れることができる。それは生きることを肯定することと何も変わらないですから。

——「Fight War Not Wars」と叫びつつも、ある意味ではプロテスト・ソングではないと。

マヒト:うん。そういうジャンルに置き換える必要すらないと思うんですよね。「No War 0305」の時も、例えばカネコアヤノや(原田)郁子さんはMCで何かを主張したわけではないし、ただステージの上にいていつも歌っている歌を歌って帰っていったんですけど、むしろそれがとても重要だなと。普通のことが普通にできなくてどうすんのって。なんで戦争になったら「いやいや、それぞれに立場というものがあって……」とか言い出して、身動きが取れなくなってしまうんだろう。立場とかの話じゃなくて、プリミティヴな感覚の話として、議論の余地なく戦争はクソでしょ。だからこのアルバムもプロテスト・ソングという気持ちは全くないですね。『狂(KLUE)』よりもないかもしれない。

——「No War 0305」でとても印象的だったのが、それこそカネコアヤノさんは反戦歌を歌ったわけではないにもかかわらず、例えば「爛漫」という曲の「わかってたまるか 涙が溢れる」というフレーズが非常に切実な言葉として響いたことでした。そうした場面がたくさんあった。だから『あのち』がプロテスト・ソングではないということも、むしろそのことによって、イデオロギーとは異なる政治性に深いところで繋がっていくのではないかと思いました。

マヒト:そうなんですよね。ちょうど「No War 0305」をやる直前に、あるミュージシャンと居酒屋で出くわして、その人が「自分はラヴ・ソングしか歌えないからデモは無理だなあ」とか言ってきたことがあって。いやいや、そのラヴ・ソングを歌う気持ちだったり恋をするということだったりが、いかにして成り立っているのか、それは平和というものが担保された上でようやくできあがるものじゃないのか、って思っちゃって。そういう、一見すると無関係に思える数多くのことが「No War」に繋がっている。というか、戦争がない時間の中で許されていた営みがいっぱいあるんですよ。

だからプロテストしているかどうかじゃなくて、例えば家で猫と一緒に過ごす、コーヒーを飲む、あるいは好きな人と散歩をするとか、そんなことだってすべて「No War」の範疇にありますよね。そういうことの立体感を見せることが「No War 0305」の1個の目的でもあったし、実際にそれぐらいの広がりを言葉自体がもっと内包していくべきだと思っています。でも、そういうことに自覚的な人も増えているんじゃないかな。折坂悠太が年明けに「あけましておめでとうございます。本年もよろしくどうぞ。戦争反対」ってツイートしていて、ああいうふうにフランクに使われていいはずだよなって。

音楽に反映される時代性

——今回の『あのち』から、例えば七尾旅人さんの『911FANTASIA』を連想したリスナーもいたようですが、マヒトさん自身が影響を受けたり好きで聴いたりしてきたレベル・ミュージックにはどのような作品がありますか?

マヒト:全然違うかもしれないけど、ニーナ・シモンを聴いているとリアリティを感じることはありますね。浅川マキさんがニーナ・シモンに触れて「ジャズは黒人の体温だ」みたいなことを言っていて、私にとってはああいう息づかいとか、そこに存在していること自体がレベル・ミュージックに聴こえた。それは今聴いても同じように感じる。やっぱり、もっと人間の息づかいみたいなものに目を向けるべきだと思うんです。今は記号的なものが加速していく人ばかりじゃないですか。AIに絵を描かせるのが流行ってますけど、私からしたら全然笑えない。そのままいけばもう数年後にはイラストレーターの仕事がなくなるだろうし、同じことは音楽でも起きていて。遠からずAIが作る曲も人間が作るのと遜色なくなっていって、それどころか学習量で言えば人間を遥かに凌駕するようになる。言い方を変えると、そうした記号的な操作ではできないことをちゃんと美しいと呼ぶ準備をカルチャーと言われるものが責任を持ってやっていかないと、人間が人間である意味を見出せなくなってしまいますよね。だから、AIブームは全然笑えない。

例えばオノ・ヨーコさんの《青い部屋のイヴェント》というインスタレーションで、1本の線が引いてあって、その下に「この線はとても大きな円の一部です」と書いてある作品がありますよね。人間って真っ直ぐの線を引けなくて、直線のつもりでも左と右が微妙にズレていて、それを引き延ばしていくと最後は円になってしまう、という。そういう、真っ直ぐの線を引けないというところに人間の強さがあるのだと思う。そういう強みとか、曖昧さや不完全さに可能性があると言い切らなきゃいけないんじゃないかな。

——ニーナ・シモンと言えば、「時代を反映させることはアーティストの責務である」という名言でも知られています。それに対して「ミュージシャンはただ音楽を作ればいい」と意見する人もいますが、マヒトさんとしては、やはりニーナ・シモンのスタンスに共感するところが大きいですか?

マヒト:もちろん共感するし、そもそも、どうやって時代と無関係に音を出せるのかわからないね。言葉があろうとなかろうと、この時代を生きていて、同じ雨に打たれているし、ウイルスという見えないものにも同じように怯えただろうし、同じ閉塞感も感じたはずだし、どうやって無関係でいられるのかがわからない。ずっと家の中に閉じこもって、外でミサイルが飛んでようが雨が降ってようが、遮光カーテンを閉め切って制作するみたいなやり方で無関係でいることもできるのかもしれないけど、ちょっと私には想像もできないですね。

ただ淡々と音楽を作ればいいって言うけど、ただ淡々と作るものにも時代性が反映されてしまうことになぜ気づけないのかなとも思う。そのことに反発して時代性を無視するということもすごく時代を反映した表現だと思うし。手を取り合って時代と向き合うという方法だけじゃなくて、そことは距離をとったりズレていったりすることもやっぱり関係の範疇だと思っていて。それはさっき言ったようなカネコアヤノが歌う歌が「No War」になる、ということと同じで。みんなで同じ方向を向くとか、一緒に歩みを進める、というわかりやすいハモり方だけじゃない、複雑な関わり方が許されていると思うし、そういう意味で考えれば無関係でいられる人なんていない。

淡々と音楽を作ればいいって、視野が狭いんじゃないかって思うよね。それを少し掛け違えたら「ていねいな暮らし」みたいなところに行き着く。それはもう貴族的な人にしか許されない感覚で、でもそんな人ですらコロナも戦争も無関係ではいられなかっただろうし。『あのち』にも当然、時代が反映されている。ただ、私としては時代と向き合おうとしたわけではなくて、あくまでも自分の中のストラグルを見つけて希望みたいなものと対峙しただけではあるけれど。

アイヌとの関わりから得た経験

——『あのち』の制作でマヒトさんが対峙したものの中には、GEZANが出演したウタサ祭りやアイヌとの関わりも大きなものとしてあったのでしょうか?

マヒト:うん、でかいね。

——そもそもアイヌとの関わりはいつから始まりましたか?

マヒト:3年前、2020年に開催された1回目のウタサ祭りに行ったのが最初。やっぱり歌との距離が近いことが衝撃的でした。私はミュージシャンだからステージの上で歌っていて、それを聴く観客がいる、という構造があるんだけど、アイヌのウポポ(註:アイヌの伝統的な集団歌唱の1つ)には歌い手か否かと言う境界線はなくて、打ち上げなんかが顕著だけど、全員が歌って輪踊りを踊るみたいな状況。そこにはプロもアマもないし、オンとオフもなくて。その歌との距離が衝撃的で、とても面白かった。しかもサイケデリックな輪唱だし、単純に音楽的に惹かれるところもある。そうしたアイヌの歌との付き合い方は新鮮で。

盆踊りも似ているかもしれないですよね。職業柄どうしても「自分は個性的でいなきゃいけない」みたいなアイデンティティの問いかけが常に追いかけてくるところがあったんですけど、ああやってみんなが円になって回っていると、そういうものから解放される気分になる。別に自分が前に出て目立たなくてよくて、輪の中の1つになればいいっていうか。それはアニミズム的な、大きな自然と一体化する感覚にも近くて、気持ちよかったんですね。それでアイヌの歌に惹かれたというか、恋をした。

——アイヌとの関わりから得た経験は、『あのち』ではどのように流れていますか?

マヒト:もちろん自分はヴォーカルで、ストーリーテラーとして言葉を発するんだけど、それとはまた違うストーリーがコーラスの輪唱でずっと続いていく。でもそういった立体感って、本当は現実の世界にもたくさんあるんですよね。例えば時計が刻む秒単位の時間がある。けれど外の季節には春に向かってゆっくりとグラデーションしていく時間が流れている。それに自分の中には体内時計的な時間も働いているし、寿命という時間もある。あと、一昨日(2月5日)見たウタサ祭りの記憶がだんだん思い出になっていく速度もあって、そういう複数の時間が同時進行で共存する中で私達は生きている。

1つの機械的なクロノス時間しか動いていないなんていうのは絶対に嘘なわけで、本当は誰もが複数の時間を生きるという器用なことをやってのけている。そういうことが1枚のアルバムの中、1つの曲の中でも起きているだろうし、特に『あのち』では複数の時間の軸が回っていく立体感を意識していましたね。そういう関わり方については、やっぱりウタサ祭りでアイヌの人達と一緒に紡いできた時間があったからこそ考えたことでした。

——ところで、タイトルの「あのち」は、聴き慣れない言葉ですが、何かアイヌと関係があるのでしょうか?

マヒト:いや、全然関係ないです(笑)。

——どういう由来があるのでしょう?

マヒト:1個の生命体みたいなものが生まれた感覚というか。例えば神社やお寺にいる狛犬って、「あ」って口を開けているのと「ん」って閉じているので、阿吽で対になっていますよね。そこには生まれてから死ぬまでという意味もあって、だから始まりの音として「あ」がある。それで「あ」をつけたかったかな。

全感覚祭に向けて出会い直す

——なるほど、わかりました。最後に全感覚祭についてお聞きしたいです。2023年に開催する予定はありますか?

マヒト:今年中にやると言い切りたいです。まだ何も進んでいないけど、必ずやる予定。やっぱりコロナで失ったもので言うと、全感覚祭のクルーがバラけていってしまったのも大きかった。あれは仕事としてお金の契約で繋がっていたわけではないから、環境が変わったことでどうしてもチーム内が砕けていってしまったんです。だからそのあたりはちゃんと出会い直さないと再スタートは切れない。今これを読んでいるあなたにもしも気概があったら、私達と出会ってほしいと思うね。力を貸して欲しいというよりは、雷を落としたような感覚を必要としているというか。

『あのち』に収録した「JUST LOVE」という曲は、すごく青い歌詞ですけど、「こんな夜をわたしずっと待っていた/だからわたし/歌うことが好きなんだ」と歌っていて。それは全感覚祭で歌うことをイメージしながら書いた歌詞なんですね。歌が好きでやってきたから、またこの景色、この夜が戻ってきたというか、また始まることができた。だからある意味で「JUST LOVE」は全感覚祭で歌わないと完結しないと思っていて、その意味でもやりたいですね。

——それは人間にとって祭りが必要だということでもあるのでしょうか?

マヒト:本当にそうだと思う。祭りっていわゆるフェスとは違って、もっと日常に溶け出していくものだし、前後の暮らしにエフェクトがかかっていくんですよ。そういう時間が作れたらいいなと。正しさではなくて、細胞が沸き立つような出来事を体感として提示したい。やっぱり自分が好きなライヴもそういうものだし、それは暮らしのレベルにある、音楽という範疇では届かないところにもたくさんあって。ご飯を食べるということもそうです。そうしたことが立体的に目指せるという意味でも、今、全感覚祭でしかできないことが自分の中にすごくある気がしていて。それは『あのち』の1つ先の話になるんじゃないかなって。

Photography Yuki Aizawa

■『あのち』
リリース日 : 2023年2月1日
フォーマット : CD/デジタル
価格:(CD)¥3,300
TRACKLIST
1. (い)のちの一つ前のはなし
2. 誅犬
3. Fight War Not Wars
4. もう俺らは我慢できない
5. We All Fall
6. TOKYO DUB STORY
7. 萃点
8. そらたぴ わたしたぴ(鳥話)
9. We Were The World
10. Third Summer of Love
11. 終曲の前奏で赤と目があったあのち
12. JUST LOVE
13. リンダリリンダ
https://gezan.lnk.to/ANOCHI

■あのち release BODY LANGUAGE TOUR 2023
2023年1月27日 東京・渋谷 WWW X
2023年2月1日 北海道・札幌 Sound lab mole
2023年2月25日 静岡・浜松 FORCE
2023年3月2日 愛知・名古屋 CLUB UPSET
2023年3月4日 大阪・梅田 UMEDA CLUB QUATTRO
2023年3月18日 福岡 LIVEHOUSE CB
2023年3月19日 広島 4.14
2023年3月21日 岡山 YEBISU YA PRO / WITH Age Factory
2023年3月31日 神奈川・横浜 F.A.D YOKOHAMA / WITH 崎山蒼志
2023年4月2日 埼玉HEAVEN’S ROCK 埼玉新都心VJ-3 / WITH 君島大空トリオ
2023年4月18日 東京・中野 サンプラザホール
https://gezan.net/live/

author:

細田 成嗣

1989年生まれ。ライター、音楽批評。編著に『AA 五十年後のアルバート・アイラー』(カンパニー社、2021年)、主な論考に「即興音楽の新しい波──触れてみるための、あるいは考えはじめるためのディスク・ガイド」、「来たるべき「非在の音」に向けて──特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から」など。国分寺M'sにて現代の即興音楽をテーマに据えたイベント・シリーズを企画、開催。 Twitter: @HosodaNarushi

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