生きるレジェンド、ケニー・シャーフが体験してきたストリートアートの誕生と最後、そして再生

アートヒストリーに名を刻むアンディ・ウォーホル、キース・ヘリング、ジャン・ミシェル・バスキアとともに1980年代のアートシーンに激変をもたらした唯一の生き証人として知られている、アーティストのケニー・シャーフ。ここ数年ストリートアートの再熱が起きていたが、まさにまだその名もつけられていない頃から保守的なアートシーンに、ストリートから新たな美学を仲間と一緒に打ち立てた先駆者でもある。

約30年ぶりに日本での新作個展「I’m Baaack」をNANZUKA UNDERGROUNDにて7月9日まで開催にあたり、来日取材を刊行。 展示初日前日、ケニーは全身「ディオール」と自身のコラボレーションアイテムを着て穏やかな表情でインタビューに現れた。彼の口から出てくる数々のエピソードは、歴史の教科書には載っていない刺激的なものばかり。アンディという先人の背中を追ってNYに乗り込み、雷が落ちるような偶然で出会ったキースとジャンと破竹の勢いでシーンを塗り替えた20代。ともに成功を勝ち取ったと同時に、資本主義の力に狂わされるアーティストの姿。まるでジェットコースターのように親友たちを失った絶望の30代のこと、そしてそこから這い上がってきた激動の人生について話を伺った。

ウォーホルやバスキア等、アート界の天才達との出会い

ケニー・シャーフ(Kenny Scharf)

ーーストリートアートの先駆者とも言えるケニー・シャーフさんですが、ご本人が初めてLAからNYに移った時のグラフィティを含むストリートアートの存在感はどのようなものでしたか?

ケニー・シャーフ(以下、ケニー):今ほどでは全然なかったね。NYに拠点を移したのは、1978年のこと。そこで出会ったジャン・ミシェル・バスキア(以下、ジャン)、キース・ヘリング(以下、キース)と一緒にストリートの世界をギャラリーや美術館に持ち込んだ時代だった。僕等がニューストリートアートの第1世代と言ってもいいと思う。

ーーその融合はどのようにして起きたのでしょうか? 当時の社会のムードもあると思うのですが。

ケニー:ダウンタウンから繰り出してきた僕とキース、ジャンと、アップタウンから出てきたグラフィティアーティスト達が一気に出会ったからだと思う。フューチュラ、リチャード・ハンブルトンなど。それぞれの街で活動していたみんなが、1981年に開催された展覧会「Times Square Show」でたくさんの出会いを経て化学反応を起こした結果、新たなシーンが誕生したんだ。

ーー「Times Square Show」は30日間24時間オープンの伝説のグループショーとして語り継がれていますが、同じく「FUN GALLERY」も重要な場だったと思います。

ケニー:そうだね。僕が名前をつけたギャラリーであり、初めて展示を発表した場所でもある。

ーーケニーさんご自身はLA出身ですが、今振り返ると、やはりそのシーンはNYじゃないと作り出せなかったと思いますか?

ケニー:LAにいる頃から、僕はNYでアーティストになることを夢に描いていた。先人として、NYのシーンを盛り上げていたアンディ・ウォーホルの存在は、大きかったね。ジャン、キースにとっても彼は唯一無二のヒーローだった。アートヒストリーの勉強をするうちに、彼がいかにアーティストとして新たな道を切り開いているのか理解していって。ペインティングもすれば、映画も作るし、「FACTORY」も手掛けてしまうように本当にすべてのことをやってのけるアーティストだった。それはただ単にアイデアが浮かんだからスタジオに行って作品をつくるなんてことではなく、人生すべてをアートにしてしまう存在。だからNYに行く前にそんなアンディの姿に期待を抱いて、僕も同じ場所でアーティストになるって決意していたんだよ。

ーー当時はまだNYも家賃も安いですよね。

ケニー:そう、その代わり治安も悪かったけどね。でも、いざ親にNYに引っ越すことを伝えたら大学進学なしには行けないと猛反対されて。それで唯一合格したスクール・オブ・ビジュアル・アーツへ進学することが決まった18歳当時は、めちゃくちゃ嬉しくて、すぐに車と学費だけ握りしめてNYに向かったんだ。でも現実は大学初日からがっかり。

ーー思っていた躍動感がなかったと……?

ケニー:みんな平均値という感じで、ぶっ飛んだ人はいなかった。それで数週間後に、学校のホールにいたらディーボの曲がどこからともなく流れてきて、音をたどっていった先の小さな部屋でペインティングしている少年がいて。それがキース・ヘリングだった。

ーーそんな偶然の出会いだったんですね。

ケニー:部屋中、そして自分自身にも絵の具をまきちらかしながらも、リズムに合わせながら夢中でペイントする彼の姿を見て「自分がNYに来た理由はこれなんだ」って確信した。そこから声を掛けて友達になって、最終的にルームメイトとして一緒にNYで暮らしたよ。

ーーそれでは、ジャンとはまた別の機会に出会ったんですね。

それも偶然だった。キースと出会ってから数日後に、自分のポートフォリオを持って学生食堂に行った時だった。急にジャンが鋭い目つきで「それ見てもいい?」って話しかけてきて。もちろんOKしたら、しばらくして真っすぐな目で彼は僕にこう言ったんだ。「お前は有名になる」って。

ーー初対面なのに(笑)。

ケニー:そう、僕も「おお、まじか」って思った(笑)。当時、ジャンは学校に通ってなかったんだけど、アーティストに出会うために学生食堂に出入りしていたみたいで。17歳のジャンと19歳の僕は、そこからすぐに意気投合して遊んだり、街を歩いてはグラフィティを描いたり。彼はアル・ディアズと一緒にグラフィティデュオ「SAMO©」としても活動していたからね。

ーーそこからあなたを介して、ジャンとキースは出会うと。みんなの憧れだったアンディ・ウォーホルと出会ったのは、どのようなきっかけでしたか?

ケニー:お金もなかった当時の僕等は、毎日自分の作品のポストカードをソーホーの道で売っていたんだ。ジャンはコラージュに取り組んでいる時期で、ある日アンディが彼のポストカードを買ったんだよ。ジャンは帰ってくるなり「やばい! アンディが俺のポストカードを買っていった!」って驚いていて。そこからしばらくしてキースが、地下鉄に描いたドローイングで有名になった時に、アンディ直々にFACTORYでのランチに招待された。僕等はルームメイトだったこともあって、一緒にランチに行こうということになって、ついにスーパーヒーローとの夢のご対面。

ーーアンディに近づくタイミングもその3人で同時に共有していたんですね。アンディとはどんな会話をしたか覚えていますか?

ケニー:実はランチの前に、ナイトクラブで働いていた時に一度話したことがあって。ランチの時にその話をしたら、本人はまるで覚えていなかったんだけど、インパクトのある第一印象だったよ(笑)。当時、「Peppermint Lounge」という1960年代初期だけオープンしていたクラブが、新たに1980年代に再開する時に、3人でバーテンダーやドアマンのバイトをしていた時期があって。同時期に、僕達3人はディエゴ・コルテスのキュレーションによる、100人以上の作家が参加した展覧会「New York/New Wave」(1981)に出展していたんだけど、アンディも同じく参加作家だった。だからクラブのオープニングで、アンディに会った時に「あの……僕等と同じ展覧会に参加してて」って言ったら「ああ、いいね」って返事された次の瞬間に、アンディが取り巻きの男の子に「彼にキスしろ」って命令してて。

ーーやばいですね(笑)。

ケニー:今考えるとね(笑)。それでも、アンディに近づけるならと思って指示に従ったんだけど、本当に当時はそのくらい毎日クレイジーで自由だったんだ。何か問題に巻き込まれるのが日常茶飯事だった。

ーー異常な熱量が時代を変えたんですね。実際、展覧会開催後に起きた現象として、それまで保守的だったアートシーンは、どのような変化をとげましたか?

ケニー:「FUN GALLERY」がイースト・ヴィレッジにできた最初のギャラリーだったこともあって、オープンを皮切りにアーティストが続々とそういう場所をつくっていった。それまでは展示すると言ってもクラブしかなくて、一夜限りの発表で翌日には取り下げていたからね。展示期間中には、さっき話したようなアップタウンからのグラフィティライターやヒップホップ、ダウンタウンからはパンクロック、ニューウェイブすベてが混ざり合って、とんでもないエネルギーをみんなで生み出していたんだと思う。実際に「FUN GALLERY」がオープンしてから半年以内には、200軒以上のギャラリーが誕生していた。

ーー200軒以上……すごい数ですね。

ケニー:家賃が安かったこともあって、お金がなくても誰でも始められる環境ではあったからね。むしろ「アートワールドへのドアが開いていないって? なら俺達が自分で開けてやるよ」ってくらいの勢いでね。そうしてさまざまな方向からドアをノックしていった結果、従来のアートワールドへの新たなドアが開かれたんだ。

ーー各々がかつて見たアンディ・ウォーホルのようにスーパーヒーローになる中で、若い年齢ということもあって、コントロールできないほどの人気に狂わされることはなかったのでしょうか?

ケニー:プレッシャーを感じることはなかったね。でも、それまでみんな「楽しさ」のためにアートをやっているんだと信じていたのに、お金もついてきた途端にそうでもなくなっていった。3人の中で一番最初に成功したバスキアが、ある日イタリアから展示発表後に帰国した時に両ポケットに溢れんばかりの現金を突っ込んでレストランに現れたんだよ。「ああ、やばいことになったな」って感じた瞬間だった。

アート界を揺さぶる資本主義の波

ーー成功と同時に、資本主義の波に飲み込まれ始めたんですね。

ケニー:そこからシーンの雰囲気は変わっていった。当時僕も、もちろん成功も報酬も手に入れたかったけど、お金によって競争が生まれることになんだか寂しい気持ちにもなった。でも残念ながら、アーティストになる理由にお金を考えている人が、たくさんいることも知っている。たとえ、それが間違った理由だとしても。

ーーケニーさんもその成功の波に乗っている中でも、冷静でいられたのはなぜでしょうか?

ケニー:売ることから頭を切り離して、純粋に制作に取り組むように意識し続けてきた。誰が買ったとか好きだとかは自分に関係ないし、本当にただただ作品制作を楽しみたいという気持ちを最初から持ち続けていたんだ。むしろ最初に集まった頃は、みんなそのためにアーティストを目指しているんだと思っていたよ。

ーー環境が一変する中で、ご自身が挫折のような経験をしたことはありますか?

ケニー:「FUN GALLERY」を立ち上げてからというもの、憧れのアンディとも親しくなれたし、日本の雑誌「BRUTUS」のNY特集に3人で取り上げてもらって、のぼり調子でスーパースターとして成功を勝ち取り始めていた。そんな絶頂期に突如あらわれたのが、AIDSだったんだ。当時1980年代中盤は、ピーター・ハレー、アシュリー・ビッカートン、ジェフ・クーンズ等「ネオジオ(ネオ・ジオメトリック・コンセプチュアリズムの略称)」が台頭した時代だった。その時代の最中、数えきれないほどに次々と若手アーティストが亡くなっていって、ついには親友のキースもジャンも失ってしまった。まるでジェットコースターのようだったよ。最高頂まで上がりきった瞬間に、友人みんなが亡くなるという最大の悲劇に突き落とされた。当時は、本当にしんどくて「なんで僕だけ生きているんだ」って自分を責めたことも何回もあった。だって、信じられるかい?  30歳前後で、一緒に遊んでた仲間を失うなんて……。そこからNYは僕にとって悲しい街にしか感じられなくなって、マイアミを拠点にし始めたんだ。

ーーそうですよね。30歳前後だと、まだまだこれからみんなで大きくなっていこうという年頃ですよね……。自身で盛り上げたアートシーンから身を引いて、今日に至るまでどのように制作のモチベーションを保ち続けたんですか?

ケニー:僕には家族もいたし、本当になんとかしなきゃいけなかった。当時はしんどかったけど、今振り返れば、そんな大変な時期を乗り越えられたことに感謝している。作品を歯医者、家賃、食費とすべての生活費にトレードするくらい必死だった。でもクリエイティブでいられている限りは、最終的にはなんとか生き残る道を見つけられるんだと思う。人々がサポートしてくれて、注目してくれることはもちろんありがたいけど、アーティストであり続けることには、制作以外に他にできることなんてないんだよ。

ーーその時期がどのくらい続いたのでしょうか?

10~15年くらいかな。インターネットも今ほど普及していない頃だったから、当時はNYを離れる=本当に消えたと思われる時代だった。だから、久しぶりに会った友達に「あれ? 死んだのかと思ってた!」なんて普通に言われたりして。でも、そんな崖っぷちから這い上がってきたアーティスト、それが僕なんだ。

ーーいろいろな山も谷も経験してきた中で、ペイントなど実作業においてアシスタントをつけたことがないと聞いたのですが、本当ですか?

ケニー:そうだね。スタジオ管理として事務作業をサポートするアシスタントの2人はいるけど、ペイントのために誰かをつけたことはない。もちろん、多くのアーティストは制作をアシスタントに任せていることも知っているけど、僕の最大の喜びは絵を描くことなんだ。だから誰にも渡したくない。制作している中で自分自身を新たに発見していくことに、とにかくワクワクするんだ。

ーー生活を支える術だった時期でもありつつ、作品制作をやらなければという圧迫よりも常に楽しむ気持ちが勝っていたんですね。

ケニー:もし描かなきゃいけないって状況になったら、まるで学校から出された宿題に向かうような気分になると思う。宿題は大っ嫌いだからね(笑)。

社会問題と向き合うクリエイション

ーー作品について具体的に伺っていきたいのですが、自身のスタイルを説明するために「ポップ・シュルレアリスト」という言葉を作った経緯を教えてください。

僕の世代は、家庭にテレビが登場した第1世代だった。だからこそ、『原子家族 フリントストーン』や『宇宙家族 ジェットソンズ』をはじめとするカートゥーンからの影響は、僕にとって、とても大きいんだ。幼少期にインプットされたカートゥーンが無意識に 自分の頭から指先へとアウトプットされていく。潜在的な意識を描いていた古典的なシュールレアリズムが、僕の場合はポップなかたちで出てくるから「ポップ・シュールレアリズム」と名付けたんだ。

ーーカートゥーンのようなポップな色使いも特徴ですが、ケニーさんにとって色とはどのような存在ですか?

ケニー:色は、感情を表現するための素晴らしい方法なんだ。落ち着いている時も興奮している時もすべてを表現できる。数年前からはモノクロだけのペイントも始めて、本展では2点発表しているよ。そうした新しいことに挑戦することは、自分自身をストレッチすることでもあるから好きなんだ。

ーー今回の展覧会で、日本語がわかるオーディエンスからすると印象的なのは、社会問題や環境問題にまつわる見出しがコラージュしてある大型のペインティング作品だと思います。2022年にTOTAHで開催した個展「WOODZ ‘N THINGZ」でも環境問題に対しての意識を語っていましたね。

ケニー:幼少期を過ごした1960年代のカルフォルニアでは、エコロジー運動が大きくなってた。当時は空気汚染がひどくて一歩、外に出れば涙も咳も出るような状況だったんだ。だから汚染については特に意識するようになって。でも当時から今なんとかしないと50年後には……って騒がれていたのに、今2023年にそれが現実となっている。今朝、NYにいる娘とテレビ電話したら、カナダの火事でそこら中がオレンジ色になっていた。幼少期から人生で一貫して環境問題については考えざるを得なかったからこそ、作品で「緊急事態だ!」と叫ぶ気持ちになるんだ。本当に人命がかかるような事態になったら、政治問題についても語れない状況になるだろうし、そのくらい僕にとって環境問題は人生でのメイントピックなんだ。

ーー作品を通して叫び続けていると。

ケニー:もちろん僕もここに来るまで飛行機も車も乗ったから、パーフェクトとは言えない。都市に住んでいる限り、日常生活で排出されるものへの罪の意識はある。そういう思いで今回NANZUKA UNDERGROUNDの中央部に設置したインスタレーション「Cosmic Cavern」では、40年間にわたって集めてきたプラスチックのゴミを使っているんだ。日本では初公開だね。

ーー現実で起き始めている異常事態に対してアラートを鳴らしながらも、ケニーさんの作品では、あくまでもその現実はシリアスではなく、ポップに包まれていますね。

ケニー:僕達は大惨事が世界中のどこかで起きている中で暮らしているけれど、誰もが自分の人生を楽しみたいと思っている。残酷な現実と幸せを追い求めることの両方を絵の中に取り込んでいるんだ。奥には新聞の見出しがあるけど、手前では花や鳥などがまだ幸せそうに暮らしている。僕はみんなを強制的に環境問題・社会問題に向き合わせようと思ってなくて、まずは興味を持つことのきっかけになったら嬉しいんだ。だって本当は悲劇が嫌いだから。やっぱりJOYとHOPEを持ち続けていたいよ。

ーー自宅ではガーデニングもやっているようですね。

ケニー:ペイントとガーデニングは、不思議と似ているところがあるんだ。何もないところから、自分でいろいろな方法を試していく過程に親和性があると思っている。もしペインターになってなかったら、ガーデナーになっていたんじゃないかな。

ーコロナ禍はどのように過ごしていましたか?

ケニー:1人でスタジオにこもる時間が増えて、正直いうと制作においては良い時間になった。誰も邪魔しないし、静かだし。LAは基本的に車や自転車移動が主流だから、ずっと室内にいるというよりもビーチや公園などで過ごせて、制作に集中できる期間だったね。

ーー今回同時開催で、草月会館でもインスタレーションを開催されていたんですね。

ケニー:1985年に草月会館で開催された「アート・イン・アクション」で発表したキャデラック「夢の車」を限定公開しているよ。イサム・ノグチの石庭に入ると、新作の立体彫刻作品のインスタレーションが並んでいて、さまざまな感情を表しているキャラクターとして立ち上がっているんだ。

ーーNANZUKA UNDERGROUNDの2階にあるモノクロの作品でも、モジャモジャのキャラクターが日本語の間からのぞき込んでいますね。

ケニー:この毛むくじゃらのキャラクターは、僕自身を表しているんだ。だから「KEMUKUJYARA」という日本語はわかる(笑)。日本語はトレースしながら描いていて、下には東京の景色が広がっているんだ。

ーー最後の質問として、約30年ぶりの来日個展となりますが、展示が落ち着いたらまずはどこに行きたいですか?

ケニー:箱根だね。30年前に訪れた時の美しい景色は忘れられない。でも今回じゃないな。今度は愛する家族みんなと一緒に遊びにくるよ!

Photography Kazushi Toyota

author:

倉田佳子

1991年生まれ。国内外のファッションデザイナー、フォトグラファー、アーティストなどを幅広い分野で特集・取材。これまでの寄稿媒体に、「Fashionsnap.com」「HOMME girls」「i-D JAPAN」「Quotation」「STUDIO VOICE」「SSENSE」「VOGUE JAPAN」などがある。2019年3月にはアダチプレス出版による書籍『“複雑なタイトルをここに” 』の共同翻訳・編集を行う。CALM&PUNK GALLERYのキュレーションにも関わっている。 Twitter:@_yoshiko36 Instagram:@yoshiko_kurata https://yoshiko03.tumblr.com

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