「M-1グランプリ2023」鑑賞記——誰のための漫才か? 爆発したのは、キモさと強い気持ち!

久しぶりのクリスマスイブ開催となった「M-1グランプリ2023」。大会史上最多エントリー数となる8540組の頂点に立った令和ロマンはトップバッターから優勝という、第1回大会チャンピオンの中川家以来の快挙を達成した。

今大会は敗者復活戦のルール改訂や会場変更、ワイルドカードのプラットフォーム変更など、予選の段階で例年よりもイレギュラーが多く、改変の年とされていた。新顔のファイナリスト達、そして若きチャンピオンの誕生は新時代の幕開けにふさわしいといえるだろう。ここ数年のブームであった「おじさんドリーム」的な役割は、本年より開催のTHE SECONDが名実ともに担うことになったのかもしれない。

敗者復活戦

今年の決勝の日は、準決勝のオープニングアクトを任せられたベストアマチュア賞のナユタがネタ内で言及していたとおり、いつお風呂に入ればいいのかわからないほどの詰められたタイムスケジュールだった。ルールの改訂により、敗者復活戦から決勝戦の間にブレイクタイムを挟まず、ぶっ通しで行うことになったのだ。

敗者復活戦は本選よりも出場者が多く、サバイバル方式のため最初から最後まで緊張感が持続していた。そのためウオッチャー側は決勝戦前にすでに疲弊している印象があったが、逆に言うとそれだけ敗者復活戦の見応えがあったということだろう。

敗者復活戦において注目すべきは、まず1つに、ブロックや登場順が準決勝での順位を元に設定されているということだ。惜しくも準決勝にて敗退となった組の審査員側の順位が明かされている。おそらくボーダー、あるいは期待が高かったのは各ブロックのトリ、すなわちヘンダーソン、オズワルド、フースーヤあたりであるだろう。まずは敗者復活戦で注目した組について言及したい。

ロングコートダディ

過去2回ファイナル進出を果たしたロングコートダディの出番は、敗者復活戦Aブロックの中盤であった。彼等が準決勝にて披露していたのは、意外なことに過去の決勝でのパターンとは異なるしゃべくり系であり、敗者復活戦でもまた別のしゃべくり漫才を披露した。準決勝よりもさらに強度の増したネタ、かつ構成美を意識したもので新境地を開拓しているような漫才であった。同ブロックのママタルトに敗れはしたものの、過去のファイナルから持ち帰ったものをさらに漫才にフィードバックし、ブラッシュアップできている好例であるだろう。

ヘンダーソン

ラストイヤーのヘンダーソンであるが、この数年行っている漫才の構造自体を問うという方向性のネタの集大成であった。漫才を前提としたあるあるや裏切りなどが映えるネタであり、鬼気迫る表現力で展開されていた。バックボーンとしては、中村フー氏が明かしているように、素人時代に若手芸人の追っかけ的大ファンだったことも影響しているかもしれない。漫才のベースや本質、構造を問うという視点から、お笑いや漫才、積み上げてきた文化そのものへの愛を感じる。ラスト3組に進出し1票を得たことは、長い時間がかかったが、間違いなく歴史に名を残したという証だろう。

ナイチンゲールダンス

準決勝時にも同様の評価を得ていたが、長丁場における高いまま維持された緊張感が苦しくなってきた時の救世主である。ちょうど良い軽さとポップさ、ボケ数の多さが好まれているが、彼等の魅力はそれだけではない。来てほしい時に来てほしい笑いが発生するように作られているのだ。この戦略的なネタは、まさに「M-1」向きの理想的漫才である。「M-1」向きのネタができていない年はエントリーを控えていたという経緯もあり、今回上位に食い込んできたことは狙い通りと言えるだろう。

フースーヤ

数年前から予選のファンのあいだで期待値が高まっていたが、ここにきて準決勝進出で勢いを増していた。実は通常パートの漫才が普通におもしろく、ギャグパートとの接続も丁寧に言語での補足を行っていた印象である。過去では「中華コレクション」、本作ではPerfumeのくだりは、カタルシスへ導くモチーフは物語において必然性がないものでもよいのかを問う批評性としても機能しているように思われる。複雑な構造にチャレンジし続けるフースーヤは、今後もさらなる飛躍が期待される。

バッテリィズ

反知性主義vs教養主義の構造が非常に批評的で興味深かった。審査員勢の意見と同様、反知性主義側の反論がある種の正当性を持ってしまいその主張によりスノッブさを暴くという構造は、漫才ならではの手法であり、意外な笑いを誘う。

意外にも王道寄りで教養主義の鬼としみちゃむ、丁寧でありながらもスリリングな論理展開が楽しいエバース、スターシステムのように他のネタでもキーパーソンであったザバス矢部が登場しワードチョイスと世界観にこだわるななまがり、聞き手との共犯関係や罪悪感をうまく利用するネタが評価され決勝へと送り込まれたシシガシラなど、すでに敗者復活戦時点で見どころがたくさんあった。ルールと会場が変更されたことにより、例年のような極寒の野外という舞台装置を使い「一度負けた」というイメージを必要以上に強調する雰囲気ではなかったので、それこそパラレルワールドの「M-1グランプリ」的な雰囲気があった。それほどまでに見応えがあり、多くのお笑いファンがこの時点で燃え尽きているような印象さえ受けていた。

決勝戦

さて、本選である。すでに出そろっていた9組のファイナリストに、敗者復活戦にて勝ち上がったシシガシラがジョインするという形で本選は進行していった。

令和ロマン

2023年のABCお笑いグランプリにて、見取り図の盛山氏に「先天性漫才うまうま病」と評された髙比良くるま氏だが、そのとおり場の空気を掌握する力が圧倒的である。話題の進め方、動き、表情、すべてが漫才としての心地よさを招きながらも、有無を言わせないおかしさに接続している。同年のABCお笑いグランプリでは、もう1つ彼を形容する重要な指摘があった。アンガールズ田中氏が、くるま氏に自身と似た「キモい」を感じるという点に言及したのだ。

何もこれは悪口ではなく、鍵となる特徴である。一見スタイリッシュな今時の若者、競技漫才然としたスタンスの中にある、一抹の不気味さが決定打である。準決勝でのネタも、クローズドな環境で追い詰められていく流れと心情が巧みに描写されていた。ともするとホラーにもなりかねない生々しい不気味さに、松井ケムリ氏のいなすような、いい意味で物事を矮小化してくれる作用のあるスタンスのツッコミが魅力である。

既存のネタ、決勝、予選を通して見た印象でも、ストーリーライン自体がしっかりしていたり、明確な着地点を目指しているというわけではないが、特にそれも必要ないと思わせる説得力がある。また、場の空気を掌握しつつもすべてを言語化しない哀愁も感じられ、奥行きを生んでいる。

また、モチーフレベルの話ではあるが、よく見かける「吉本が何か新しい(お笑い以外の)業務を、大手の企業や国や自治体と画策している」という状態の再現である吉本の社員のシーンは、ピンポイントなあるある、かつ批評であるとも言えるだろう。このシーンによって、悪く思われがちな吉本のヘイトコントロールが成功した。うっすら漂っていた「どうせ吉本」「他の会社のチャンピオンのほうがよい」というカウンターが望まれている風潮と、その風潮によりこの数年は実際に非吉本チャンピオンであったという事実に風穴をあけた瞬間でもあった。ここでテクニカルなのは、吉本たたき=大阪たたきとされがちなところを、そうではなく胡散臭く見えるビジネスへと踏み出すような、ある種のネオリベ的でもある姿勢をシニカルに描いたことだろう。結果論ではあるが、内省としても機能したこのシーンによりトロフィーが決定的なものになった。

シシガシラ

新しい敗者復活システムにより選出された組として登場したシシガシラ。敗者復活戦内でまっとうな選出であるという評価を得ていた。とはいえ、やはりすでに決定していたファイナリスト、そして会場との温度差は感じられる。ファイナリスト選出から数週間のあいだのプロモーションや広告案件には登場していないので、よほどの人気メンバーでなければ知名度的にも少々歓迎されにくいからだろう。皮肉なことに「人気投票」と揶揄されてきたこれまでの敗者復活システムだが、それなりの正当性はあったのかもしれない。

加えて、コンプラいじり系のネタが流行したのが数年前だからということもあるかもしれないが、少々重い印象は否めなかった。これは敗者復活戦で称賛されていた「スタイリッシュさ」によるものだと思う。つまり「キモくない」のだ。粘度の低いオシャレな雰囲気の漫才は、本大会の掲げるテーマ「爆笑が、爆発する。」、そしてその実現手段としての「キモい」とは逆のベクトルのものであっただろう。しかしそれは、あくまで今大会においては、というだけの話である。彼等のネタは、モチーフとしては頭皮事情メインでありながらも、表現や切り口は多種多様であるため、今後のバリエーションが楽しみである。

さや香

「爆発」にふさわしい情熱系であり、実力は誰もが認めていたところだろう。今年の予選では、昨年のさや香の躍進に憧れて情熱系にインスパイアされた組が多く見られた。「熱血お兄さん」としての責任を負い、過去の在阪組と同様、多くのものを背負ってきた1年間だった。在阪組が重た過ぎる荷物を背負って「M-1」に立ち向かう時、いつも思うのは「誰のためでもない、自分達のために漫才をしてほしい」ということであった。競技漫才の限界とは、自我を押し殺し、自分が言いたいことも言えず、節度のある表現しかできないというところである。競技漫才という代償を払う理由はただ1つ、トロフィーを大阪に持ち帰るためであったのだ。ファンのため、会社のため、劇場のため、先輩のため、後輩のため……。しかしそれでは、本当に自分を見失ってしまう。そんなに悲しいことがあるだろうか。

かつて伝説の漫才師が、関西の女帝に「ワンマンショー」だと形容されたことがあった。各種賞レースでも「単独ライブでやれ」と思いたくなるようなネタをする人がいる。誰かのために、自我を犠牲にすることが競技漫才である。しかしもう、「M-1」の役割が終わった人達にとってはワンマンショー上等なのだろう。大人になるということは、ワンマンショーで生きていくということであるからだ。単独をやり、芸風を活かし、キャリアを詰む。自分の人生を生きる。そうやって生きていかなくてはいけないからだ。

自分探しの旅などとっくに終わっていて、それを示す。そういう自分達を「M-1」はどう見ますか? 審査員はどう見ますか? ここ数年の大会では、漫才を解体した掛け合いを拒否しているようなファイナリスト、およびネタが多かったが、あなた達はそれを評価してきた。そのロジックでは、これも評価すべきですよね? そして「自分達のために漫才をしてほしい」と願うファン、それってこういうことですよね? と言わんばかりの、「M-1」の構造を言葉ではなく態度で示す、堂々とした振る舞いだった。

彼等はかねてから誰もやったことのないことをやると宣言していた。その宣言の通りボケとツッコミが逆になり――いや、初めてこの場所に立った時と同じ状態に戻った。

さや香の長く険しくそして熱い旅は終わり、そして終わったからこそ大きな責任と義務を果たした。誰よりも強い気持ちだったのだ。

カベポスター

パーフェクト感のあった昨年に引き続き、ロジカルな展開である。特に永見氏のお笑いのスキルはアマチュア時代から評価が高く、関西の賞レースを総なめにしてきたエリートだが、ここにきて課題が浮き彫りになってきたように思われる。感情的にももう少し踏み込む必要があり、グロテスクさ、すなわち「キモ」を覚悟する必要がある。

ただ、カベポスターはこれまでに何度も何度も一皮剝けてきた。その都度自己開示を厭わず、スタイリッシュでありながらも曲者な側面を表現してきたと思う。決勝に行くということは、これまで得られなかった視点の講評を聞く貴重な機会になるため、良い学びを吸収しているところであるだろう。お昼に爆竹を食べたことは大した問題ではない。

マユリカ

ずっときもだち、幼なじみにはロマンがある。養成所で出会うビジネスパートナーではなく、時には本音でぶつかることもある友達なのである。そういった関係性がベースにありながら、性別や属性を越えた、実はありそうでない設定やテーマ、モチーフ、ボケ、ワードなど、どこを切り取っても楽しいという特徴がある。実は他のどこにもない、唯一無二の存在感。マユリカの魅力は、いつも溌溂としており「ここにいることが嬉しい!」という感情が押さえられない輝きだと思う。そしてまっすぐでありながら、人生を楽しむという意志を感じる。自意識がありながらも、それが表現としてつまらなくなりそうと感じるとまた別の方向からのアプローチを検討する、単純に漫才やお笑い、思考をすることが好きなんだなというのが伝わってくるコンビである。

加えて、中谷氏が奇しくも松本人志氏らの先輩方にあたる年代のレトロな汚れ系芸人のオマージュとなっているという指摘も、軽快なおかしさがあった。反応を見る限り特に意図してはいなそうだったが、「キモ」の歴史や伝統をナチュラルに継ぎし者として、大きなスキルをもって立ち向かっていく姿勢が今後も楽しみだ。

ヤーレンズ

もともと大阪吉本でのキャリアがあるため、ボケ数の多さで勝負するウザ系は、ある意味では王道である。温厚で、がなる感じでもないのにウザいという描写は非常に巧みで多くの人の心を掌握したことだろう。「キモ」の近似である「ウザ」であるため、今回の躍進も納得である。

真空ジェシカ

「決勝に4回は行けない」。まことしやかに流れる噂に苦しめられ、長く続くプレッシャーがあったことだろう。そして予選期間中は自己評価とは全く逆に、無条件に称賛されるたびに笑顔が消えていた。私はこの顔を知っている。3回決勝に行った人達の、重圧と期待の渦中にいる、苦しそうなあの、泣きそうな顔だ。やはり最後はメンタルなのだと思う。強い気持ちで勝つか、勝たなくても好きなことをして散りたいか。正直、もうそのどちらかしかない。どう振る舞うべきかを思い悩んでいるうちに、この日を迎えてしまった印象だった。

ダンビラムーチョ

予選時から非常に評価が高かったが、あまりハマらなかった印象。実際、大原氏のリズム感や歌のうまさは抜群であり、だからこそ漫才のおもしろさが裏付けられているのだが、決勝の環境との相性があまりよくなかったかもしれない。過去予選で披露していたオリジナルソングネタの際に顕著であるが、歌詞のワードチョイスや、フニャオ氏の味のあるツッコミもじわじわとおかしさを生む非常に魅力的なコンビなので今後が楽しみである。

くらげ

「M-1」ドリームを体感したコンビであるだろう。ワンイシューのように見えるが、そこを詰めて濃度自体を高めたい意図を感じた。しかしこの表現の罠は、それだけ濃度を高めようとしても、手法自体が同じだと単調に見える点、そしてウオッチャー側の解像度が高い場合、おもしろさを読み取りにくいという点である。決勝での講評を得て、今後どのようにジャンプアップするかに期待。

モグライダー

予選での評価が高く、かつ売れっ子としてスケジュール的にも厳しい中のエントリー、決勝進出であっただろう。キャリアも長く、すでに「ジョンソン」のメインを張っているという状態で多くの人の見慣れたところであるため、「メディア露出ゆえにパーソナリティを把握しているため、手の内が見えてしまうので笑いにつながりにくい」という、新「M-1」中期によく見られていた現象が発生していた。この数年、「M-1」が新顔や返り咲きを多くファイナル選出してきた意図を再確認してしまった瞬間でもあった。しかし単純にパフォーマンスによるものとも思われる。予選ではもう少し「めんどくさい女の子」の解像度が高く、表現も豊かな印象だった。どれだけ「M-1」の外でキャリアを詰んだとしても、この場所は特別な緊張感に満ち溢れているということなのだろう。

総括——強い気持ちでキモく!

エルフ荒川氏が「お笑いは自己表現であり、笑わせるためのものだと思っていなかった。自分達は浜崎あゆみのような存在だと思っていた」というようなことを言っていたが、驚いたと同時に、本来そうであるべきものだったとも思った。「M-1」至上主義ではなかった頃のお笑いの雰囲気はそういうものもあった。伝えたいメッセージが込められたネタを表現したいから芸人になった人も多いことだろう。千原兄弟など1990年代以前に結成されたコント師などは特に顕著である。

「お笑い芸人」ではなく、「お笑いアーティスト」という表現もある。そして多くの芸人は「そうやって生きていけるならそうしたい(が、そういうわけにはいかない)」と嘆く。資本主義である以上、売れることを見据える以上、アーティストではなく芸人であり、ありがたくメディアに露出することは必要なことだとも思う。将来好きな表現ができるようになるために、今は目の前のM-1やその他のメディア仕事を頑張る、いくら本意ではなくても、という気持ちで頑張っている現役戦士も多いことだろう。

だがしかし、本当に重要な局面では、自分のために漫才をやってもいいのではないか? そんな時があってもいいのではないか? 真意を問うような漫才、客も審査員も気付かない領域で職人的にこだわり抜いた漫才、自分の想いを込める漫才、勝てようが勝てなかろうが、一番伝えたいことを最後の最後に提示することは、ファイナリストとしての責任だ。

さや香はその責任を、誰よりも明確に果たした。しかしその手段に、多くの人が突き放されたと思ったことだろう。悲しみや落胆の声も聞かれる。勝てるはずの実力のはずなのに「なぜ?」で頭がいっぱいのウオッチャーも多いと聞いている。

でも、彼等はそうしたかった。だからそうしただけ。きれいごととは別の文脈で、勝つことなどよりも大切なことがあるからだ。他の誰のためでもない、自分のために漫才をするとはどういうことか、どれだけ強い気持ちが必要なのかを、心から思い知らされた日だった。

そして本大会のもう1つの軸、「キモさ」について考えてみた。キモさとは、ウエットな感情、他者とのかかわり方、グロテスクさ、過剰さ、しつこさのことだと思う。そのキモさとは、うまく平均化できない哀しみからきているかもしれない。普通にできない哀しみと焦燥感――。ただ、その過剰さからくる生産性の高さが有能と評価されることもあれば、おもしろさとなることもある。「キモい」というのはきっと、生きづらさを素直さで乗り越えた先の、おもしろさの称賛である。

マユリカ、ヤーレンズ、そして令和ロマンは、キモさは自分達の特徴であり有能さだと自信を持っていた。さや香は周りが称賛しようが失望しようが、ただただ強い気持ちで振る舞った。そのスタンスは、明らかにこれまでの「M-1」を「M-1」たらしめていたドラマティックさや逆襲劇、ルサンチマンのこじらせとも違う。キモく強くおもしろく。それが今年の答えであった。

author:

手条萌

会社員兼評論作家。広島県尾道市生まれ。『カレーの愛し方、殺し方』(彩流社、2016年)で商業デビュー。お笑い系の『ゼロ年代お笑いクロニクル おもしろさの価値、その後。』や『2020年代お笑いプロローグ 優しい笑いと傷つけるものの正体』『漫才論争 不寛容な社会と思想なき言及』のほか、『ポストおひとりさま時代の遊戯論 非生産的遊びのススメ』や『推しが結婚するということ』『ガチ恋リアコの構造 好きにならずにはいられない』など多くの同人誌を発行している。 Twitter:@tejoumoe

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