対談:DJ KENSEI×井上薫 世紀末のクラブシーンから自然へと向かった理由、20年ぶりの屋久島を巡る新作のこと

2003年、DJ KENSEIや井上薫、GoRo the Vibratianらジャンルを超えたアーティスト達が大隅諸島の屋久島を訪れ、長期間の滞在を経て1枚の作品を作り上げた。それがFinal Drop名義の『elements』だ。屋久島の地でフィールドレコーディングを行い、その素材とスタジオでのセッションを融合させたその内容は、世紀末から新世紀にかけての時代、東京のアンダーグラウンド・シーンで繰り返されていた音楽的実験の成果ともいえるだろう。

それから20年。DJ KENSEIとGoRo the Vibratianを中心に制作が進められたFinal Dropの新作12インチ『Mimyo』が突如リリース。時を同じくして、井上薫はふたたび屋久島の地を訪れ、島で録音した素材をもとに新作『Dedicated to the Island』を発表した(屋久島発のカルチャー誌「SAUNTER Magazine」とのコラボレーション)。

Final Dropの『elements』から20年、屋久島が世界自然遺産に登録されてから30年の2023年、なぜDJ KENSEIと井上薫はふたたび屋久島の地を目指したのか? 2000年代の東京アンダーグラウンド・シーン、その知られざる物語が2人の口から語られる。

90年代後半のオルタナティヴなシーンでの出会い~自然音への目覚め

――KENSEIさんと薫さんが初めて会ったのは90年代のことだと思うんですが、共同制作するほどの付き合いになったきっかけは何だったんですか。

KENSEI:90年代後半、ジャンルでくくれないオルタナティヴなブレイクビーツの動きがあって、そういう人達の音源を集めたコンピが出たりしたんです。NS-COMから出た『TOKYO TECH  BREAKBEATS 2』(2000年)とか。そういう作品のなかに僕が当時やっていたINDOPEPSYCHICSの音源が薫さんのものと一緒に入ってて。

井上:イベントもよく一緒になってたよね。京都のKAZUMAくんがやってたCommunicate Muteっていうパーティーとか。

KENSEI:そうそう。あとはOrganic GrooveとかOVA、レーベルだったらSOUND CHANNELとかね。

――90年代後半から2000年代初頭、以前は違う界隈にいた人達がそのあたりのシーンに集結していた感覚はありましたよね。KENSEIさんにしてもそれ以前はヒップホップで、薫さんはもう少しオーガニックなブレイクビーツをやっていて、ちょっと違うシーンにいる印象がありました。

井上:そうだよね。そのころKENSEIくんが「自然音ってやばいよね」みたいなことを言ってたのは覚えてる。

――KENSEIさんはどういう流れで自然音にたどり着いたんでしょうか。

KENSEI:INDOPEPSYCHICSでは最初ラップやヴォーカルの入ったブレイクビーツをやってたんですけど、どんどんインストになってきて、上物が音響的になっていったんですね。すると空間的なものを意識するようになっていって、そのなかで「音は日常にある」ということに気付いてしまって。環境音や自然音をネタとして使うようになっていくんですよ。

――それまでレコードからサンプリングしていたものが、日常の環境音になっていった、と。

KENSEI:そうそう。当時、モノレイクの『Gobi. The Desert EP』(1999年)っていうゴビ砂漠の音をイメージしたアルバムがリリースされたのですが、それが衝撃的だったんですよ。フィールドレコーディングとか音響的なものに興味を持つきっかけの1つになりました。

井上:ああ、あれは象徴的だったよね。電子音と自然音が調和した作品でね。

――薫さんはそれ以前からフィールドレコーディングに関心を持っていましたよね。

井上:そうですね。90年代前半、(六本木のレコードショップである)WAVEでワールドミュージックのバイヤーをやっていて、その頃から関心を持っていました。徐々に民族楽器のフィールドレコーディングと自然音をコラージュしたような作品に興味を持つようになった。「切り取り方次第で自然音も音楽的に聴けるようになるんだな」と思って。20代の頃はインドネシアによく行っていて、DATのハンディレコーダーで自然音を録音したり。Chari Chari名義の最初のアルバム(99年の『Spring To Summer』)でその時に録った音を結構使いました。

世紀末的なムードの中でたどり着いた、屋久島の深い自然

――では、どういう流れで屋久島に行くアイデアが出てきたのでしょうか。

KENSEI:屋久島に行く前にGOROさんやBetaLandたちとタイのランタ島に制作の旅に行ったんですよ。向こうでフィールドレコーディングして、何か作品を作ろうという企画で。でも、ランタ島で機材の電源を入れたら爆発しちゃいまして(笑)。

一同:ええっ(笑)!

KENSEI:電圧のことを理解してなかったんですよ(笑)。機材一式使えなくなってしまって。バンコクに戻ることもできないし、どうしよう?と思って、とにかくGOROさんのディジュリドゥやカリンバを簡易のレコーダーで録音しました。それが2001年だったかな。結局タイではフィールド録音のみをして、その次に行く場所として自然音を録るならって屋久島が浮かんできたんです。

――当時、90年代末の野外レイヴの季節が一段落して、その次にどこに向かうべきか誰もが探しているような感覚はありましたよね。

KENSEI:世紀末だったこともありますよね。自分も90年代にいろんなことを全開でやりすぎて、ちょっと行き詰まっていた。この先どうなるんだろう?みたいなことを考えてたんですよね。そういう話を薫さんとか、のちに屋久島に行くメンバーに話していたと思うんですよ。みんなも同じようなことを考えていて。

井上:その頃、僕はようやく音楽が仕事になってきて、わりと気分が高揚してる感覚もあったんだけど、世紀末的な不穏なムードは感じていました。オウムの事件や神戸の震災があって、その少し後には9.11があって。個人的には楽しくやってるんだけど、5年先10年先の未来なんてなんの確信もないというね。ある意味、刹那的な生き方をしていたような気がするんですよ。

――ちょうど時代の変わり目でもありましたよね。INDOPEPSYCHICSも2002年に活動休止しますし、KENSEIさん自身、それまでのようなサンプリング主体の音楽制作やビートを軸にしたものから、特定の環境のなかに身を置き、そこでつかみ取ったものから制作を立ち上げていくような作り方に徐々に変わっていったわけですよね。

KENSEI:まさにそうだと思います。テクノロジーでできる表現に対しては自分のなかで一段落したところはありました。音に癒やしを探していたというか。

井上:そういえば、KENSEIくん達はハイチにも行ってたよね?

KENSEI:行ってた。薫さんも行くはずだったんだけど、行けなかったんだよね。Banana Connectionっていうプロジェクトのレコーディングで(2002年)。

井上:その次に屋久島の話が出てきたんだよね、これは行かないと、と。

KENSEI:ハイチの手応えもあったし、そういう体験ができるということが自分にとっても意味のあることだった。ハイチなんて観光で行く場所じゃなかったし、家もバラックばかりで、すごい体験だったんですよ。そういう旅を続けるなかで、屋久島でも特別な体験ができるんじゃないかと思ったんですね。

――それまで屋久島に対してはどんなイメージを持っていたんですか。

井上:BETALANDとかYAMAちゃんとか大阪の連中が何人か屋久島に行ってて、彼らから話を聞いた記憶がある。屋久島といってもそれまでイメージもなかったんだけど、なんかすごいところらしい、と。

KENSEI:噂になってた時期がありましたよね。それもあってすごく興味を持ったんです。行ってみたら一発でわかりましたね。自分の小ささを痛感させられました。呼ばれた感じ。

井上:それまでも自然の豊かな場所を訪れたことはあったけど、あそこまで深い自然の中に入ったことがなかった。最初はちょっとびびったところもあったよね。

2003年にリリースされたFinal Drop『elements』制作時の記憶

――当時の制作ではどんなことが印象に残っていますか。

KENSEI:現地で体験したものや感じたことを消化しきれなかった記憶があります。自然のスケールが自分にとってもかなり衝撃的なもので、それを表現しようとした時に、自分のキャパが追いつかなくて。それで屋久島から戻ってきてから1年ぐらい(音源に)手をつけられなかったんですよ。

井上:それはよく覚えてる。レーベルのスタッフに「そろそろ作ってもらわないと困ります。スタジオを3日間押さえたので、そこで作ってくれ」とか言われて。そこからみんなの経験を持ち寄って完成までもっていった感じですよね。KENSEIくんはINDOPEPSYCHICSで培ってきたものがあったし、俺は当時ほとんど演奏していなかったギターやベースを弾いたり。シンセも弾いたかな。みんなの経験を持ち寄ると、こんなことができるんだなと思った。

KENSEI:スタジオでみんなでセッションしましたよね。屋久島で録ったフィールドレコーディング音源もあるんですけど、その時のセッションが軸になっている気がする。

井上:でも、今回ひさびさに聞き直してみたんだけど、フィールドレコーディングの音をすごく使ってるんだよね。主に水の音。

KENSEI:ああ、そうかもしれない。

井上:あとは野原でシャラシャラ音を鳴らして、それをバイノーラルマイクで録ったものをベースに曲を作ったり。

――非常にコレクティヴ的な作り方ですよね。お2人にとってもそれまでとは全く違う作り方だっただろうし、そういう制作方法自体に意味を見い出していたのでしょうか。

KENSEI:そうですね。めちゃくちゃ有機的だったと思う。それを狙っていたわけでもないんだけど。

井上:即興的でもあったしね。録音したものをポストプロダクションで作り進めていくという。GOROさんの家にみんなで集まって、話し合いながら進めていきました。

20年ぶりのFinal Dropとしての新作『Mimyo』で目指したものとは

レコードの日である2023年11月3日にリリースされたFinal Dropの新作12インチ『Mimyo』。『elements』制作時に屋久島でフィールドレコーディングされた素材にDJ KENSEIとGoRo the VibratianがRe-Excavation、Re-Touchを施し、KNDがマスタリングした全2曲を収録する。各曲ともに17分を超える壮大なサウンドスケープ。

――では、今回の『Mimyo』はどのような経緯で制作することになったのでしょうか。

KENSEI:GOROさんの活動をサポートしてる人が「今年は屋久島が日本で初めて世界自然遺産に登録されてから30周年だ」と教えてくれたんですよ。Final Dropのアルバムを出してから20年だし、それで節目としても先に進むためにも一度振り返りつつ何か表現できないか、と。GOROさんとも会う機会が増えて、集まれるメンバーで何かやろうという話になりました。

――まずは過去の素材を聞くところから始まったのでしょうか。

KENSEI:そうですね。うちに当時屋久島で録ったDATのテープが40~50本あって、とりあえず聴きながらデータ化しようと。そこからシーンとして使えそうなものを抜き出してみて、そこにGOROさんのカリンバやディジュリドゥを乗せました。

――水の音がすごく印象的ですよね。20年前の『elements』よりも今回のほうが前面に出ています。KENSEIさんはこの水の音に何を感じ取っていたのでしょうか。

KENSEI:当時の耳では気付けなかった音像の中にある粒子みたいなものですかね。聴ける視点の角度や感じる部分が20年という歳月で増えていたので、それを紡ぎとっていくことで全く別の波形が浮かびあがってきたんですよ。

井上:GOROさんの演奏は今回は改めて録ってるの?

KENSEI:いや、当時録ったものを使ってます。GOROさんが感覚的に乗せたものをミックスしたというか、音像をミックスしたというか。考古学者がハケで化石についた砂をはらっていくうちに、実体が出てくる感じですね。

井上:いい表現だね、それは。

KENSEI:MODEL1っていうミキサーのフィルターがすごく良くて、それをいじってると、化石についた泥をハケで落としていくように浮かび上がってくるものがあるんですよ。浮かび上がってきたものを抽出した感じです。

井上:KENSEIくんの今のDJにもつながってる感じがするよね。「春風」の時とか、あとは「THAT IS GOOD」のYouTubeチャンネルで公開されているDJプレイとか、あのあたりに近い目線を感じる。独自の空間性を獲得していて、すごいなと思いました。

KENSEI:素材自体に普遍性があったんだと思います。今のほうが機材のクオリティーは上がってるんだろうけど、GOROさんには当時「そういうことじゃない」と言われて(笑)。

――それはどういうことだったんでしょう。

KENSEI:ポストプロダクションの段階になるとみんな演奏の粗が気になってくるんですよ。でも、編集していくうちに、その時のヴァイブスが失われてしまう。そういうものじゃなくて、全体として表現したいものがある、と。「木を見て森を見ず」みたいな話というか、「1つひとつの木を直していくと森じゃなくなっちゃう」という話はGOROさんにされました。

――GOROさんの存在はFinal Dropにとって大きかったわけですね。

KENSEI:大きいですね。それまでは自分もすごく細かくエディットしてたんですよ。そういうところじゃない視点、ぱっと聴いた時の感覚を重視するようになりました。

井上薫が屋久島で新たにフィールドレコーディングを行い制作した『Dedicated to the Island』

9月に発表された井上薫の新作『Dedicated to the Island』。新たに屋久島でフィールドレコーディングした素材をもとに制作した全9曲を収録。

KENSEI:聴きました。素晴らしかったです。水の音がとてもクリアでFinal Dropとはまた違ったアーバンなムードも感じつつ、屋久島のムードとプリミティブな感じも更新されてるなと思いました。是非レコードにしてほしいですね(笑)。

井上:今回は(『SAUNTER Magazine』の発行人である)国本さんから「屋久島をテーマに作品を作りませんか」という話をいただいたんですけど、そのタイミングで完成まで2ヵ月弱ぐらいしか時間がなくて。以前だったら断っていたかもしれないけど、やるしかないなと思って。

――屋久島に対して特別なものを感じていた?

井上:それもありますよね。あと、その時期音楽制作のやり方を刷新しようとしていたんだけど、なかなかできなかったのでトライアルという意味合いと、それまではほとんど聴いていなかったフランス近代音楽みたいなものを聴くようになったり、ジャズに改めて関心を持つようになったこともあって、今回は音楽的にどう成立させるかすごく意識していた部分がありました。

――その意味では『Mimyo』とだいぶ作り方が違うわけですね。

井上:そうだね。今回は3泊4日で屋久島に行ったんだけど、その時に体験したことを身にまといながら、いかに音楽的に作り上げることができるのか意識していました。比べるのも変な話なんだけど、屋久島のあり方が表現されているのはKENSEIくんが作った『Mimyo』のほうの気がするんだよね。自分のは屋久島のことを表現するというよりも、自分自身のパーソナルな思いが根っこにあるから。

――薫さんが屋久島でフィールドレコーディングするということで、僕は環境音・自然音だけで構築されたアブストラクトな作品になるんじゃないかと思ってたんですよ。

井上:最初はそういうものをイメージしていました。でも、徐々に音楽的なフォーカスが定まってきて、かなり集中して作ることができました。だいぶ年齢を重ねたけど、まだこんな作り方をできるんだなと(笑)。今後音楽を作るうえでいい刺激になったし、重要な体験でした。

――今後、Final Dropで何かをやっていく可能性はあるんでしょうか?

KENSEI:うん、ありますね。やろうという話もしていますし、どこかに行きたいという話もしている。Final Dropという形を通して何か表現できればと考えています。

Photography Kentaro Oshio
Special Thanks Shinji Kunimoto ( SAUNTER Magazine )

author:

大石始

世界各地の音楽・地域文化を追いかけるライター。著書・編著書に『奥東京人に会いに行く』(晶文社)、『ニッポンのマツリズム』(アルテスパプリッシング)、『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)、『大韓ロック探訪記』(DU BOOKS)、『GLOCAL BEATS』(音楽出版社)他。最新刊は2020年12月の『盆踊りの戦後史~「ふるさと」の喪失と創造』(筑摩書房)。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」主宰。 http://bonproduction.net

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