DJ KRUSHソロ活動30周年 たどってきた道と記憶―ヒップホップに魅せられた10代~1990年代半ば―前編

DJ KRUSHがソロ活動30周年を2022年に迎えた。ジャパニーズヒップホップの夜明けから東京アンダーグラウンドで活躍し、そこから世界へ。DJ界の日本代表で、世界から見たらDJ界の東洋の魔術師。今やコアなDJ KRUSHヘッズは世界中に存在する。

これまでリリースしてきたアルバムは10数枚。楽曲制作に関してはオリジナル、リミックス含め、ヒップホップ、ジャズ、ロック、そして日本伝統音楽と、さまざまなジャンルのアーティストと共演し、DJに関しても唯一無二の独自の世界観を築き上げ、世界を舞台に活動をしてきた。そのDJ KRUSHに、この30年の話を……と言いたいところだが、この30年間の濃過ぎるDJ/サウンドクリエイター人生を数時間で聞くなんてとうてい無理な話かもしれない。それでも今、記録しておきたい。

そんな強い思いを胸に、新作アルバムを軸にして、今回は前・中・後編の3回でDJ KRUSHを紹介したい。前編では、DJを始めたきっかけから、1990年代前半にロンドンからアルバムを出した時の話まで。

映画『ワイルド・スタイル』に魅せられて、玉虫色のスーツから「アディダス」へ

――今年でソロ活動30周年を迎えられましたが、これまでどのような30年だったと思いますか。1stからアルバムを聴き返してみて、改めてアルバムごとに当時のKRUSHさんの状況が反映されているなと感じました。

DJ KRUSH:ソロ活動を始めた頃は、DJ人生の先のことまで考えて作っていないわけだよね。始めた頃からそうだけど、その場で起きていること、そこで感じたことを吐き出してきたんだと思う。だから毎回、音が変わっているだろうし、でもそれをやってきたことで感情と感性が磨かれてきたのかなって感じがしますね。

――改めて過去の話からお聞きできればと思いますが、子どもの頃はどんな音楽を聴いていましたか? そして、音楽にのめり込んだきっかけはなんだったのでしょうか?

DJ KRUSH:初めて音楽に触れたのは昭和だから、それこそテレビで『ウルトラマン』や『仮面ライダー』『およげ!たいやきくん』とか、あのあたりだと思う。それからちゃんと音楽に興味を持ったのは小学5年生くらいから。小学生の頃に鼓笛隊の小太鼓を担当していて、中学生になってからはレッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、ブラック・サバス、ピンク・フロイドといったハードロックを中心に聴いていた。だけど中学2年くらいになるとやんちゃ坊主になり始めて、音楽よりも、ちょっと風を切って吹っ飛ばしたほうがおもしろいって感じになっていったんだよね。

その頃、俺は小さなアパートに住んでいて、親が1階の6畳一間に、俺達兄弟は2階の四畳半一間に住んでいたの。その俺達の部屋の隣に暴走族の人が住んでいて、ソウルミュージックのドーナツ盤をよく聴いててさ。そのレコードを貸してくれて、家で聴いているうちにソウルが好きになったんだと思う。その後、頭にパンチパーマをかけてるような世界に行っちゃったんだけど、ヤンチャしてた時は、他には日本のものは永ちゃん(=矢沢永吉)とか、松任谷由美ではなく荒井由美時代の頃のものとかも聴いてたよね。

――ではヒップホップとの出会いは、もう少しあとになりますよね。

DJ KRUSH:そう、もう少しあとだね。その時は暴走族というか“漢(おとこ)を極めよう”みたいな感じだったし、演歌も聴いていたから、カラオケに行けば演歌を歌っていた。

――それは、北島三郎的な。

DJ KRUSH:もちろん、サブちゃんも好きだったよ。でも難しくて歌えないから、吉幾三のようなマイナーな感じが好きだったな。だけどその時期は、音楽に関しては一番グレーゾーン、二の次だった。

高校には受かったんだけど、入学式で初めて担任の先生に会うわけじゃないですか。そうしたらいきなり先生に「ちょっと来い!」って言われて、分厚い名簿でいきなり頭を引っ叩かれて。俺が中学生の頃に悪さしていたのを見てたらしくて。それで俺は3ヵ月くらいで高校をやめてしまったんだ。だけど、仕事しないと金はないし、体を使うしかないからしばらく職人をやって、でもそれもあまり続かず……。というのも、それは“漢”を極めていないから(笑)。そんなふうにフラフラしているうちに、何年かたって映画『ワイルド・スタイル』に出会って、っていう話につながっていくんだけど。

――ヤンチャな10代だったんですね。

DJ KRUSH:その時はそれくらいしかとりえがないなと思って、やんちゃな道へ行ったけど、今考えると肝っ玉も座っていなかったし、根性もなかった。だけど『ワイルド・スタイル』を観て、昔好きだったソウルを思い出したんだよね。映画では「銃を持って戦う代わりに、マイクで戦え!」みたいなことを言っていて、出てくる人達の髪型もパンチパーマの自分に近かった。それで玉虫色であつらえたスーツを脱いで、「アディダス」に着替えたみたいな。同級生には「かっこ悪い!」って言われたけどね(笑)。

――『ワイルド・スタイル』を観て、衝撃を受けたことはどんなことでした? 

DJ KRUSH:最初はブレイクダンスに興味を持ったんだけど、体力ないから諦めて、それよりもグランドマスター・フラッシュがレコード2枚を、ターンテーブル2台使ってきれいにつないでいるのを観て、それがすごく衝撃的だった。映画の中でかかっていた音楽も当時リアルタイムで自分が聴いていた曲だったから、「こういうふうにレコードをつなぐんだ!」って衝撃で、それでDJをやりたいなと思ったんだよね。

「DJ1人でやっていける」と決意させた、エリックB&ラキムの「Paid In Full」

KRUSH POSSE名義で参加している1994年にリリースされたコンピレーション作『THE BEST OF JAPANESE HIP HOP Vol.1』

――DJを目指すようになってから買ったレコードは覚えていますか?

DJ KRUSH:シェリル・リンの「Got Be Real」とかが入っている『Ultimate Breaks & Beats』を、原宿の「デプト」が売り始めて、そこで買ったレコードで2枚使いをしたのが初期の頃かな。あとはシックの「Good Times」とか、ビーサイド / ファブ・5・フレディの「Change The Beat」とか、俗にいう2枚使いできるベタなものじゃないかな。あの頃は、2枚使いとこすりがおもしろかったから。

――私は1980年代末期から1990年代初期に、六本木にあったクラブ「ドルッピー・ドゥロワーズ」によく遊びに行ってたんですけど、暗い地下のDJブースの中からゴリゴリこする音が聴こえてくると、KRUSHさんとDJ HONDAさんがプレイしている日だったというイメージがあります。当時は、KRUSH POSSE(クラッシュ・ポッセ)を並行してやられていた感じですか? ライヴも多くされていたかと思います。

DJ KRUSH:HONDAくんと一緒によくこすってたね(笑)。あの頃は、MUROとDJ GOと一緒にKRUSH POSSEをやっていて、MUROがどう気持ち良くできるかってことをライヴでは軸に考えていたかな。MUROに合うトラックはどんな感じのものがいいかや、スクラッチうんぬんよりもリズムを外さないでビートをどうキープできるかってことを優先していたし、チームでやっていた頃はMCを中心に考えていたから、そのあとに解散してMCがいなくなってしまった時は、この先どうしていいのかわからなくなってしまった時期もあった。

――ヒップホップをやるには、MCが必要だと感じていらっしゃったんですね。

DJ KRUSH:当時45キングとか、ケニー・ドープとか、DJが作るトラックでヒップホップのルールでのループに近いものは出ていたけど、DJ1人で何かやるってことは俺自身はその頃考えていなかった。だけどそこから「やっぱりDJはおもしろい」と感じたのが、エリックB&ラキムの「Paid In Full」かな。オフラ・ハザをネタに使っていて、そんなの他にはなかったし奇抜だと思ったんだよね。そこからはネタモノやドラムだけのものを集めだしたりして、「Paid In Full」を自分なりにどう実現させたらいいかをやりだしたんだよね。だからあの曲で、DJ1人でもやっていけるんじゃないかって思ったんじゃないかな。

エリックB&ラキム 「Paid In Full」

――そこからソロ活動に入られて、1994年には1stアルバム『Krush』、1995年に2nd『Strictly Turntablized』、3rd『Meiso』と立て続けにリリースされました。2ndと3rdはロンドンのレコードレーベル、Mo’ Waxからリリースされましたが、レーベルオーナーのジェームス・ラヴェルとはどのようにして知り合ったのですか? 

DJ KRUSH:KRUSH POSSEが解散して1人になった頃、イギリスのアシッドジャズブームがあって、レーベルのTalkin’ LoudやMo’ Waxがアシッドジャズを出していたんだけど、ちょうどその頃に『Straight, No Chaser』ってイギリスのジャズの雑誌をやっていたポール・ブラッドショーが、俺のデモトラックが目一杯入った90分テープを手に入れたんだ。それが向こうのチャートに入って、それを聴いていたMo’ Waxのジェームス・ラヴェルと、Talkin’ Loudのジャイルス・ピーターソンが「これは誰だ!」ってなったみたいで。あの頃のジェームスは若くて元気もあったし、おもしろいことしているなと思って、Mo’ Waxのほうへ進んだんだよね。

――Mo’ Waxから2ndがリリースされた時、私はニューヨークに住んでいたんですけど、UK盤を豊富に取り扱う「8 Ball Records」というレコードショップがあって、そこで「日本のアーティストだよ」と、店員がレコードを勧めてくれたことがありました。

KRUSH:そういった逆パターンが結構あるみたいで(笑)。志人も同じで、彼がアジアを旅していた時に「Kemuri」(2nd収録曲)がかかっていたらしいんですよ。それで志人が「これは誰だ!」って聞いたら、「DJ KRUSHって、日本人を知らないのか!」と言われて知ったらしいんだ。そんなふうに海外で俺の存在を知ったっていう日本人がいるんだよね。

その時に頭の中にある世界を出すことしか、考えていない

――その後メジャーレーベルに移られましたが、その頃から世界を意識されていましたか?

DJ KRUSH:俺の場合は一貫して、その時に自分が感じていることをどれだけ出せるかだけを意識している。だから、この頭の中で描いている世界をいかに音にして届けるかってことしか考えていなかった。

世界で売れるとか売れないとか、本当は考えないとプロとしていけないことなのかもしれないけど。だから売る側のソニーや自分の事務所は、俺の音をどう形づけて売っていこうかってかなり苦労したと思う。だって決してメジャーな音じゃないもん。5th『覚醒』なんか特にそうだし、ソニーが頭を抱えたって言ってたからね。だけど俺なりに毎回考えているんだよ。俺の作品に参加してくれたDJ シャドウは、当時は知られていなかったかもしれないけど、C.L.スムースは音はゴリゴリだけど知られていたし、ショーン・J・ピリオドもレーベルであるRAWKUSの看板でやっていたわけだし。でも当時はコアだって言われてた。

――他にも共演された海外のラッパーで、思い出深い方はいますか?

DJ KRUSH:それぞれ思い出はたくさんあるよね。全然スタジオに来なくて、7時間くらい遅刻するやつとか。「ギャラ払わねえぞ!」って言ったら「日本人がそんなこと言うのか!」ってびっくりされたり(笑)。音楽的に自分がやりたいと思う人とやってきたし、あとは現地のスタジオで録った時は、現地のエンジニアにおもしろいアーティストがいないかとか聞いたりしてね。

――トラックは事前に送っていらっしゃっていたんですか?

DJ KRUSH:送ってはいるんだけど、あの人達は聴かないね(笑)。曲を書いて持ってくる人はほとんどいなかった。THE ROOTS(ザ・ルーツ)もそうだったし、C.L.スムースもそうだったし、たいてい現場で作るというか。スタジオに来てもらって、あいさつをして、「まずは聴いてくれ!」って音をフルテンで出して。そこから彼らは一気に書き出すんだけど、「お前、本当に日本人か!」、「ブルックリンに住んでんじゃないのか!?」とか言われて「住んでない! ……俺、練馬」みたいな(笑)。

DJ KRUSH
1962年、東京生まれ。DJ/サウンドクリエイター。1980年代後半よりDJをスタート。1987年にKRUSH POSSEを結成。1992年に解散後、ソロに転向。1994年1stアルバム『KRUSH』をリリース。1998年には、DJ HIDE、DJ SAKを率い、流-RYU-を結成し、21世紀に向けて発足したJAG PROJECTに参加。6thアルバム『漸-ZEN-』は、インディーズの「グラミー賞」ともいわれるアメリカのAFIMアワードにおいてベスト エレクトロニカ アルバム 2001最優秀賞を受賞。プロデューサー、リミキサー、DJとして日本を拠点に国際的な活動を展開しながら、映画、ドラマ、CM音楽制作などの分野でも幅広く活躍する。DJプレイにおいては大型フェスからクラブツアーまで、世界各国にてこれまで200以上もの公演に出演。
http://www.sus81.jp/djkrush
Instagram:@djkrushofficial 

DJ KRUSH『道 -STORY- 』
(Es・U・Es Corporation)
DJ KRUSHのソロ活動30周年となる2022年、「STORY/道」をコンセプトに国内外のアーティストを招いて音を紡ぐ作品をリリース。そのシリーズ第1弾となる12インチには、ralphJUMADIBA、志人がラップで共演

Photography Shiori Ikeno

author:

Kana Yoshioka

フリーランスエディター/ライター。1990年代前半ニューヨークへの遊学を経て、帰国後クラブカルチャー系の雑誌編集者となる。2003年~2015年までは、ストリートカルチャー誌『warp』マガジンの編集者として活動。現在はストリート、クラブカルチャーを中心に、音楽、アート、ファッションの分野でさまざまなメディアにて、ライター/エディターとして活動中。

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