Tommy, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/tommy/ Tue, 15 Nov 2022 04:12:48 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.2 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png Tommy, Author at TOKION - カッティングエッジなカルチャー&ファッション情報 https://tokion.jp/author/tommy/ 32 32 アメリカ生まれ大阪在住、流暢に操る関西弁。オタクの彫り師、彫紅と“ヲタトゥー”の世界 https://tokion.jp/2022/11/15/interview-tattoo-artist-hori-benny/ Tue, 15 Nov 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=155575 “オタクとタトゥー”が融合して誕生した“ヲタトゥー”。世界中に広がるこのカルチャーの発信地が大阪・日本橋。タトゥースタジオ「インベージョンクラブ」を訪れ、“ヲタトゥーの伝道師”こと彫紅に話を聞いた。

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世は令和。かつてはアウトローの証明であったタトゥーも、ファッションの一部と捉えるユース世代を中心に、これまでとは文脈の異なるカルチャー的側面を有するものに変わりつつある。

そんな新たな価値観の下に生まれたのが、名作から最新作まで、アニメやゲームといったオタクコンテンツのキャラクターを、鮮やかな色彩と生き生きとした表情で肌に刻む“ヲタトゥー”。オタクとノンオタクの境界線が消失しつつある現代。“オタク×タトゥー”が融合して誕生したこのカルチャーは、今や世界中に広がり、盛り上がりを見せている。

今回は、その発信地である大阪・日本橋のタトゥースタジオ「インベージョンクラブ(Invasion Club)」を訪れ、“ヲタトゥーの伝道師”こと、彫紅に話を聞いた。柔らかな物腰と流暢な関西弁で、時にジョークを交えつつ語る“ヲタトゥー”の世界。作品への愛とたゆまぬ挑戦の日々について。

彫紅(ホリベニ)
1978年、アメリカ生まれ。2002年に来日し、2004年に「チョップスティックタトゥー(CHOP STICK TATTOO)」の彫渉に弟子入り。2007年に彫師としてデビューし、2014年に独立。大阪・日本橋にある自身のタトゥースタジオ「インベージョンクラブ」をベースに活動中。オフの時間はアニメや漫画に費やす。ちなみに「言語と声色次第で、ニュアンスが変わりすぎる」という理由から、どちらも日本語でたしなんでいる。
https://invasion.club/ja
Instagram:@Hori Benny

「アニメだからとばかにはできないレベルでタトゥーを彫ったらどうやろ? って」

——彫紅さんが最初に日本を訪れたのはいつ頃ですか?

彫紅:初来日は1998年。移住したのは2002年なので、もうかれこれ20年たちます。今って、文化や情報にアクセスする手段が自分のポケットの中にあるじゃないですか。それが当時は雑誌だけ。私もたまたま手に取った『バースト』で、ステレオタイプの日本とは違う“誰も知らない日本の姿”もあるんだと教えてもらいました。刺青という文化もすごく気になったし、いろいろな文化を自分の目で確かめたい気持ちが強くなっていって。それである日、ドロップキック・マーフィーズ(Dropkick Murphys)のライヴツアーに帯同していた、サグマーダー(THUG MURDER)っていう日本人バンドの子らに話しかけてみよと思うて、日本語で声をかけてみたんです。

——当時から日本語を話すことができたんですね。

彫紅:高校生の頃から勉強していました。あくまで独学やけどね。ほんで彼女らと友達になって「いつか日本に遊びに来てや」と言われたから遊びに行ったっていう。ずっと前から「いつかは日本に行きたい」と思っていたので、いいきっかけやなって。で、実際に来てみたら今よりもっとエキサイティングでラフな感じやって。なんせ1990年代末やからね。日本を訪れたことでこの国のことをもっと好きになって、もっと知りたくなって、「いつかはこの国で働きたい、住んでみたい!」と思うようになりました。

——そもそも、いつから自分はオタクだと自認していたんですか?

彫紅:最初は12〜13歳の頃。ずっと絵を描くことが好きやったから、アメコミのキャラをまねして描いてみたりしていましたね。まだ日本の漫画やアニメのブームは来ておらず、『ウルトラマン』や『超時空要塞マクロス』やらが、名前を変えて英語版として放映されたりしていた時代。そのあたりから、いろんな出版社が日本の版権物をピックアップしたり、出版するようになっていたのかな。『ドラゴンボール』や『美少女戦士セーラームーン』のアニメが、10年遅れてアメリカで放映され始めた頃には、自分はもう高校生でした。

——その世代だと、テレビで日本のアニメを観ていたアメリカの方は少なそうですね。

彫紅:当時はみんな、VHSのOVA(オリジナル・ビデオ・アニメ)。最初は『スター・ウォーズ』や『スタートレック』のためにビデオデッキを買ったのが、だんだんと日本のアニメタイトルが増えていって。そこで『アキラ』や『トップをねらえ!』を観て、めっちゃ衝撃を受けたんですよ。それはもう頭が爆発するくらい。当時のアメリカでアニメといえば、ディズニーか『ザ・シンプソンズ』だった中で、『アキラ』の近未来のヤンキー+サイバーパンク、しかも超能力もプラスってワケわからないじゃないですか。それが『超時空要塞マクロス』や『トップをねらえ!』になると、かわいい女の子がロボットに乗って、さらに人類を救うために戦うっていう。それまで筋肉ムキムキの男が格好いいと思って描いていたけど、髪の毛サラサラで目キラキラのかわいいボン・キュッ・ボンの女の子のほうがイイって気付いてしまって(笑)。

——当時の彫紅さんにとって、アニメキャラクターでミューズを挙げるなら?

彫紅:そうですねぇ…1人に選ばないとダメなんですか? う〜ん、1番好きなのは『トップをねらえ!』のタカヤ・ノリコかな。あと『うる星やつら』のラムちゃん、『らんま1/2』の天道あかねちゃん……。最近の作品だと『侵略!イカ娘』のキャラも結構好きです。『トップをねらえ!』を初めて観たのも、多分12歳の頃だったかな。男の青春が始まる時期に、ブルマーをはいて戦ったりしているキャラを見ちゃったから……。

——目覚めちゃいますよね。

彫紅:そうなんですよ! もちろんストーリー性も素晴らしかったですよ。庵野(秀明)監督作品だとみんな『新世紀エヴァンゲリオン』とかの有名な作品は知っとんねんけど、『トップ』が彼のデビュー作ですからね。ちょっと前にあった「庵野秀明展」。あれもスゴかった。彼は、過去の作品への尊敬の念を持った上で、新しい命を吹き込む。それがスゴイんですよ。過去の文化があるから今の自分があって、そしてその文化を未来へとつなげていく。もともと、特撮にあまり興味がなかったんやけど、彼の作品を観て、その良さや魅力を再発見しましたからね。

——初めて訪れた日本でいろいろな影響を受けたんですね。再来日したのはいつですか?

彫紅:その約1年後のクリスマスあたりかな。アメリカの友達が「俺も日本に行ってみたい!」ということで、彼と一緒に再び来日して、東京でクリスマスを過ごしました。青春の思い出ですね。私達アメリカ人にとって家族と一緒に過ごすクリスマスを全然知らない街で、それも下手くそな日本語だけを頼りに、そこでできた日本人の友達と街を歩いてライヴに行きまくって、ビールを飲んで酔っ払って「バーミヤン」でご飯を食べて過ごす。そんな生活が2週間くらい続いて、ものすごく楽しかったです。

——ご自身の身体に入っているタトゥーは基本、和彫りですよね。その当時に彫ったものですか?

彫紅:彫り師さんはバラバラですが、すべて日本で彫ってもらったものです。最初に日本を訪れた際には何も入っていませんでした。

——それがなぜ、刺青を入れようと思ったのか、気になります。

彫紅:彫り師の友達もおって、彼らと遊んでいるうちに、毎日絵を描いて彫って、お金をもらう生活がすごく刺激的に見えたんです。それで、自分も毎日スケッチブックに絵を描いていたので「彫り師になれるんかな」と思って、まずは刺青を入れてみなきゃなって。最初は和彫りを深く知りたいという思いからでしたが、1度入れたらもう病みつきに。そんで自分も「チョップスティックタトゥー」というお店で修業を始めました。でも、実際に入ってみるとこれが厳しい世界で……。

——最初は雑務のような仕事から?

彫紅:はい。なんせ当時の私は、なんもわかっていない鼻垂れ小僧。行儀も悪ければ、敬語も全然使えない状態でしたからね。予約の受け付けも全部日本語で、スケジュール管理も手書き。電話で店までの道案内もせなあかんかったし、それらをやりながら仕事を覚えていって。とにかくやることが多くて、寝る間もない日々。そこで10年間働いて2014年9月に独立し、今年で8年になりました。

——当初は和彫りがメインだったんですか?

彫紅:いえ、確かに最初は龍や虎とか和柄ばっかり描いていたんですけれど、途中でスキルアップのため他のジャンルもやり出すように。最初はどんなリクエストでも受け入れて、とりあえずバンバン彫っていました。そのうちに自分なりのこだわりも生まれてくるんですが、とにかく忙しすぎて、デビューから約5年間は週末どころか正月も休みなし。まさに月月火水木金金みたいな。

——“夢や目的を叶えるためには、ガムシャラにやるしかない”って時代でしたからね。そんな日々の中で、いつアニメや漫画のタトゥーを考案したんですか?

彫紅:2014年に独立するんですが、その数年前から「大好きなアニメのキャラを彫ったらおもしろいかも」とは考えていました。当時はアメリカにもそんなんやってるヤツおらんかったし、いたとしても1つのジャンルっていうほどじゃないって感じで。とはいえ先輩がワンポイントで『機動戦士ガンダム』を彫ったりはしていたので、別に私がアニメタトゥーの元祖ってわけではありません。

——まだ“ジャンルとして”周知されていなかったということですね。

彫紅:ですね。今よりもジャンルごとに固まっていた時代だったので、オールドスクール、和彫り、ブラック&グレイ、西海岸、レタリング、トライバルと。それ以外をやったら師匠や先輩達から「お前、何しとんねん!」って言われるくらいでしたし。そもそも海外ではタトゥーをノリや遊び感覚で入れたりもするので、ネットで見かけるようなアニメタトゥーは、どれもものすごい下手くそだったんです。以前見たエヴァンゲリオンなんてめちゃくちゃな仕上がりで。また、そのタトゥーのオーナーをコメント欄でみんながばかにしているのを見て、私はそれが本当に悔しくって。

——それは、いちアニメファンとして?

彫紅:その人自身もかわいそうやし、私もアニメファンの1人だから「アニメが好きで何が悪いの?」って思ったんです。だったら「アニメだからとばかにはできないレベルで彫ったらどうやろ」ってことで彫り始めたのが、のちの“ヲタトゥー”。最初は確か『侵略!イカ娘』か『うる星やつら』やったかな。それで周りの友達にも「ちょっとこんなん彫らしてくれへん?」ってお願いして、ポートフォリオも作ったりして。

——かなり反応もあったでしょうね。

彫紅:みんな「なんじゃそりゃ!?」って。反応も良かったし、こちらも目立つのが嫌いじゃないから「これをイベントにしたらどうや?」と思って、味園ビルというサブカルビルのひと部屋を借りて、彫り師で友人のトムと「Otattoo Nights」というイベントを主催しました。彼自身もオタクだし、コスプレしている人がいて、DJがアニソンを回す中でタトゥーを彫るっていうミックスイベントが珍しかったこともあり、初回は70人くらいお客さんが集まりました。そこからだんだんとおもしろくなっていって、ピーク時で彫り師が5人くらい参加したのかな。その後もずっとその方向性でやり続けていたので、独立して、ヲタクのヴァイブスを注入した「インベージョンクラブ」というスタジオを設立しました。

「インベージョンクラブ」の外観

スタジオは、関西オタクカルチャーの聖地・日本橋からもほど近い

——現在の場所を選んだのも“大阪の秋葉原”とも称される関西オタクカルチャーの聖地・日本橋に近いからですか?

彫紅:そうですね。ただ外国人の彫り師では物件がなかなか借りられず……。万が一何かあった時にうそはつきたくないじゃないですか。だから最初に「タトゥーを彫ります」と伝えると、大体みんな固まっちゃう。「大丈夫か!?」って思われるのは、差別主義者とかでなくしょうがないことやし。で、8ヵ月くらい物件を探しまくって、やっと見つけたのがココ。もともとは車庫だったみたいで、なんもないスケルトン状態からドアをつけて間取りも変えて、ロフトもと。本当に全部ゼロから自分らで作りました。最初はお客さんも日本人ばっかりやったんですけど、インバウンドの影響で外国人観光客が増えていって徐々にシフト。そんな状況が3〜4年間続いて、コロナ禍に入ってからはほとんどが日本国内のお客さんですね。今だと予約が約半年待ちです。

「いかに自分のスタイルを“目立たせつつ、貫き続けられるか”」

——話をお聞きしている限りでは、忙しくて下絵のデザインを考える時間もなさそうですね。

彫紅:下絵は予約日に合わせてギリギリのタイミングで描いています。スケジュールも不定で、2日間オン→1日オフ→3日間オン→1日オフ→2日間オフといった感じなので、そのオフの間に翌週予約されているお客さんの希望する作品やキャラについて調べたりしつつ。時間があれば1、2話をチェックして、難しい場合は少なくともYouTubeのピックアップ動画を観て、勉強するようにはしています。みなさん、私がすべてのアニメを観ていると勘違いされているようだけど、さすがにそういうわけではないですからね(苦笑)。

たくさんの下絵

『もののけ姫』のサンの仮面&コダマ。

——依頼時には、キャラだけでなくポーズも指定されたりしますか?

彫紅:お客さんも十人十色やから、こだわる部分がみんな違うじゃないですか。「このキャラはこういう衣装であとはお任せで」っていう人もおれば、「絶対このシーンそのままでやってほしい」っていう人もおって。なのでまず、キャラが決まった段階で彫りたい部位の写真も送ってもらうようにしています。これは私が修業してきた和彫りの影響やけれども、人体の流れに合わせてキャラクターのポージングを考えるのに必要なので。

左、写真の中央に描かれた下絵が右のように仕上がる。右、『メイドインアビス』のナナチ

——なるほど。キャラの特徴をしっかり押さえながら、ちゃんと彫紅タッチになっていて、原作ファンの期待も裏切らない。そのバランス感がすごく巧みだなって。

彫紅:例えば、「高橋留美子先生のタッチやったら、こうでしょ!」っていうバランスがあるんですよ。「めちゃくちゃ愛しているキャラだから原作のままで」っていう人もおれば、「もう好きにしてください!」っていう人もおって、そこで100%自分のスタイルで描くことをお客さんが納得するかどうか。

——こちらはオリジナルキャラですか?

オリジナルキャラのサキュバス嬢。花魁に特攻服風セーラー服とケレン味たっぷり

彫紅:はい。コロナ禍前に「既存のアニメキャラばっかり彫っていると、自分の味が薄うなってるんじゃないか?」って気がして、オリジナルキャラを推すようにもなりました。例えば、このサキュバスちゃん。不良っぽくスケバン風のセーラー服を着させたり、どういったかっこうをさせるか考えるのがものすっごい楽しいし、やればやるほどアイデアの引き出しも増えて、お客さんにもオンリーワンの作品を提供できる。最近はそれが理想ですね。確かに好きなキャラを彫るのも楽しいけれど、時計の針は日々ちょっとずつ進んでいくし、自分もまだまだ進化中やからね。

——では、自身がもっともこだわっている部分を挙げるとしたら?

『戦姫絶唱シンフォギア』の雪音クリス、『ソード・アート・オンライン』のアリス・シンセシス・サーティ

彫紅:たくさんあるけど、動かない平面だからこそ動きを見せるようにしないとダメなので、“絵の流れ”ですかね。例えば、ポージングの体のひねりや飛び散る汗、風に吹かれた髪の毛とか。そういった物理と流れを意識することで、キャラのかわいさが増すんです。お尻ならパンツやショートパンツがギュッと上がっていたり、ちょっと腰の肉がのってたり、オッパイならボタンが引っ張られたりと動きによってできる服のしわとか、めちゃくちゃエッチじゃないですか。アニメフィギュアからもめちゃくちゃヒントを得ることが多いですよ。アレは基本的にどこの角度から見ても、かっこよくかわいく見せないとダメなんです。自分のタトゥーもそんな感じで描けたらいいなと。

動きのあるポージング、汗などのシズル感が見どころ。服のしわと影の表現に注視してもらいたい

——お客さんからは、作品のどこを褒められることが多いんですか?

彫紅:どうだろう? なぁ、さっちん(※彫紅さんのマネージャー)、俺のタトゥーはどこがええ?

さっちん:乳首ですかね(即答)。完全に“抜ける”乳首です!

さっちんが絶賛する乳首。実になまめかしい

彫紅:乳首かーい(笑)! 私、お尻派やで。あ、でも「色使いがかわいい」とはよく褒められますね。あとこの作品だと、花の柔らかさと剣の硬さ、そして背景のグラデーション、そういった奥行きや質感の差を表現するのは難しく、だからこそ狙いたいところ。いかに感情をのせて伝えるかも大事ですね。例えばその煉獄(杏寿郎)さんのタトゥー。『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は観ていますか?

  

左、花と剣の質感の違いが巧みに表現されている。右、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』での煉獄杏寿郎。キャラの心情と物語性を余すことなく表現

——もちろんです。

彫紅:映画のラストシーンを表現してんねんから、劇中で描かれていた彼の決意や覚悟といった物語性を感じてもらえないと成功とは言えませんからね。その部分にはこだわりました。あとは入れた本人だけではなく、周りの友達や家族など“誰かに見せた時のこと”も考えなくちゃいけない。タトゥーは一生消えないモノだからね。

『ドラゴンボールZ』の魔人ブウと『ポプテピピック』のポプ子、『富江』の川上富江。カラフルな配色の巧みさとモノクロームの表現力が秀逸

——その点でいえば、モチーフとなった作品やキャラを知らない人にも良さが伝わるんじゃないかなと。作品やキャラのリクエストでは、どんなものが多いですか?

彫紅:多いのは『週刊少年ジャンプ』系で、最近だと『チェンソーマン』とか。あとは『東方Project』とかV-Tuberも。これまで10人くらい彫りましたがジャンル的にも熱いですね。ただタトゥーとして入れるまでの人気になるとは、すごい時代が来たなって。V-Tuberって要は3Dモデルなのでアレンジしやすいんだけど、その分、数百時間のコンテンツを全部チェックしたとしても、キャラのニュアンスがつかみづらくって……。本当にキャラクターの魅力を表現できているのか心配になることもあります。

人気のジャンプ系から『鬼滅の刃』の竈門禰豆子(覚醒)、堕姫

——知っているか、知らないかの理解度の差が、タトゥーとして表現する際の解像度に関わってくるでしょうし。

彫紅:そう、知識はやっぱり大事です。和彫りの世界にも『水滸伝』や『三国志演義』やらありますが、登場人物の着物の柄1つとっても意味があったりして。そういった伝統的な部分をどう進化させていくのかっていうのもあるしね。今はそのあたりが結構自由になってはいるけど、知識が思いっきり間違っているのはちょっと恥ずかしい。お客さんは彫り師を信頼して任せてくれるわけやからね。私も和彫りに関してある程度の知識はあるんやけど、その世界のエキスパートってわけでもないですし。アニメだってそう。ただ、そのアニメや漫画をめちゃくちゃ愛している人達の気持ちは、すごくよくわかるっていうだけで。

——今、ヲタトゥーを手掛ける彫り師はどれくらいいるんですか?

彫紅:東京だと「キャリコ サーカス タトゥー」のミカ(=Mica Cat)ちゃんがそうですね。彼女もオールジャンル彫りますが、本物のオタクですし、自分のスタイルを持っていてめっちゃ上手です。ヲタトゥーが海外でも増えとって“MONONOKE TATOO”でググるとめちゃくちゃヒットするんやけど、だからこそ“いかに自分のスタイルを目立たせつつ、貫き続けられるか”。私自身、今でも作品を彫る前には「今回はどうしよう?」とプレッシャーを感じていますよ。1番のライバルは自分自身じゃないですか。毎日、「昨日の自分を超えたい!」と思ってやっているし、そのためには自分の世界観を手に入れることが必要。ひと目で彫紅の絵だとわかってもらえたら、それが1番の成功だと思います。

『美少女戦士セーラームーン』のちびうさ&ルナ

——『トップをねらえ!』のセリフを借りるなら「努力を止めるな、乗り越えろ。そして、戦え!」ということですね。また、「インベージョンクラブ」はアパレルブランドでもあります。

彫紅:若い頃から、シルクスクリーンでTシャツに自分の好きなバンドのロゴやイラストを刷って、自分用の服を作ったりしてました。で、そんなんやってると、自分のロゴや名前をデザインしたTシャツも作ろうかってなるじゃないですか。それがエスカレートしてブランドにしちゃいました(笑)。一応、お客さんがお土産として買って帰るマーチャンダイズのつもりやったんですが、「どうせならもっと目立ちたい!」「もっとクオリティにこだわりたい!」ってやっているうちに、どんどんアイテム数が増えていってしまって……。ウェアだけではなく、エコバッグ、マスク、かんざし、チョーカー、ポディバッグなんかも。

——一体どこへと向かっているんでしょうか(苦笑)。

彫紅:いや、ほんまにそうなんですよ。なんせソフビ(フィギュア)も作っちゃいましたし。年末にはまた新しいカラーも出す予定です。タトゥーもそうやけど、やればやるほど次の冒険が待っていて、そのたびにおもしろくなっていくからね。もうここまで来ちゃったら、行けるとこまで行くしかないやろって(笑)。

Edit Shuichi Aizawa(TOKION)

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おもしろきこともなき世をおもしろく。「パンクドランカーズ」親方の“UNCOOL IS COOL”な半生 後編 https://tokion.jp/2022/04/28/punk-drunkers-uncool-is-cool-vol2/ Thu, 28 Apr 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=109963 “UNCOOL lS COOL(=ダサイはカッコイー)”をテーマに、独自の世界観を伝える「パンクドランカーズ」。そのすべてを担うのが、デザイナーでありイラストレーターである親方。その“気になる半生”をひもとく。

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“UNCOOL lS COOL(ダサイはカッコイー)”をテーマに掲げるファッションブランド「パンクドランカーズ」。そのすべてを担っているのが、デザイナーでありイラストレーターである親方。彼の脳内から生み出される、コミカルでシュールな世界観の虜とりこになった熱狂的なファンは、ここ日本だけでなく世界中にいる。
前編に続く後編では、親方がこれまで歩んできた“真面目に不真面目”な半生を深掘りしながら、来年で25周年を迎えるブランドの今後、そして自身の展望を聞く。

みんなが巨人なら阪神でしょって。まぁ、要はへそまがりなんです

——前編では聞き忘れましたが、親方というユニークなペンネームはいつから?

親方:「パンクドランカーズ」の立ち上げ時からずっとですね。本名が里見親美で、下の名前はもともと、東京藝術大学で彫刻科の先生を務めていた祖父の雅号だったそうです。親父も兄貴もこの「親」という文字が名前に入っていることもあり、僕も「親」という文字をペンネームに絶対使いたくて、親○となると……親方だなぁって。そこからですね。ちなみに親父は、建築系で美術館や博物館を設計・デザインする会社で働いていました。

——実は、芸術家系のサラブレッドだったんですね。もう少し詳しく親方さんのこれまでの話を聞かせてください。幼少期はどんな子どもでしたか?

親方:太っていて体も大きかったこともあり、幼稚園の頃からから柔道をやっていました。親父に「体がでかくて力もありあまってんなら道場に行け!」なんて言われて、そのまま中学1年まで続けて。

——当時はどんなものに興味を持っていたんでしょうか?

親方:好きな学校の教科も、図工と体育のみっていうわかりやすいスポーツ少年。ウルトラマン仮面ライダー、スーパー戦隊といった特撮モノがすごく好きで。あとは車も! ミニカーもメチャクチャ集めていましたね。漫画だと「週刊少年ジャンプ」とか。寺沢武一先生の『コブラ』は、ハードボイルドな大人の世界観が格好良くてはまって。他には『サーキットの狼』『リングにかけろ』とかも好きだったかなぁ。

——その頃はどんな絵を描かれていましたか?

親方:今でもよく覚えているのが、“俺の考える最強の阪神タイガースのユニホーム”。選手が着て活躍するのを妄想して1人でニヤニヤしながら描いていました(笑)。もしかしたら、この辺の経験がのちの服作りにつながっているのかも。当時はクラスの大半が読売ジャイアンツファンという時代で、それが気に入らなくてタイガースを応援し始めて。以来ずっと阪神ファン。まぁ、要はへそまがりなんですよね。

——カウンターカルチャー的感覚だったと。中学時代もそのまま柔道一直線ですか?

親方:それが中学校に柔道部がなかったので、道場に通いながら部活はサッカー部に。部員数だけやたらと多い弱小校でしたが、サッカーは走るので、その頃から徐々に痩せていって。この頃も美術の授業は相変わらず好きでしたが、まだ自ら好んで絵を描くという感じではなかったですね。

その後の高校では、サッカーで鍛えた足の速さを武器にラグビー部に入部。中学のサッカー部の顧問に「お前にはラグビーが向いている!」なんておだてられてその気になってみたものの、今度は逆に一都四県から猛者が集まるような強豪校で、そのレベルの高さについていけず1年でギブアップ(苦笑)。それで始めたのが空手。親父がボランティアで空手道場の先生もやっていたので「やることがないなら空手をやれ」と言われて「じゃあ、そうするか」って。

——そして高校卒業。

親方:ですが待っていたのは、浪人生で予備校通いの日々。その予備校で出会ったのが、現在の妻でブランドのパートナーでもあるクゲマロでした。

——そこから短大を経て、就職するのではなく歯科技巧士になるための専門学校に入学します。

親方:親から「免許を持っていれば、つぶしが効くから」って言われて、手先が器用で細かい作業も好きだし「やってみるか」って。2年間通って歯科技工士の国家資格を取り、1年くらいラボに勤めました。

——すごく受動的な生き方をされていたんですね。

親方:あ〜、それは確かにありますね。柔道もラグビーも歯科技工士も自分から始めたわけじゃないし。とにかく素直なヤツだったんでしょうね。

——そんな人がなぜ、「パンクドランカーズ」なんていう反骨心の塊のようなブランドを始めたんですか?

親方:その歯科技工士を1年半ぐらいやっていて。お父さんが社長で息子さんが専務という家族経営の小さなラボに勤めていたんですが、専務と社長がたて続けに亡くなってしまって……。他のラボを紹介するよとも言ってもらえたんですが、仕事自体おもしろいと思っていなかったので、結局辞めちゃって。

それで、その技術を使って遊び半分でシルバーアクセ作りを始めました。自宅でワックスを作って週末にお金を払ってラボを借りて鋳造して、街に売りに行く。そんな毎日で、ほぼニートみたいな。正直いい収入にはなったんですが、ずっとそれで食っていけるとは思っておらず……。

——それが何歳の頃ですか?

親方:23、24歳くらいですかね。さすがに親からも「30歳になったら家を出て行け!」と言われていて。こっちとしては「そんな約束はできねぇなぁ」なんて思いながら(笑)。そんなある日、デザインフェスタに参加したんですよね。モノ作りをしている仲間達とサークルを組んでブースを借りて。僕はシルバーアクセを出品していたんですが、反応はイマイチ。そこでTシャツを試しに作ってみたら、メチャクチャ売れちゃって。

——どんなデザインだったのか見てみたいですね。

親方:フロントに漢字で「国技」、バックはモヒカンヘアで入れ墨だらけの力士が取り組みしていて、そこに水戸黄門の歌詞の英語版で「人生楽ありゃ、苦もあるさ」って描かれているデザインでした(笑)。ちなみにそれをアップデートしたパート2の原画がこれ。本当に初期のグラフィックですね。あとは「平常心」なんてのもあったかな。赤ん坊がオープンフィンガーグローブを着けて殴り合ってるっていう(笑)。そのサークルの名前が“パンクドランカーズ”だったんです。

細く長く、“大ブレイクしてこなかった”からこそ今がある

——そこで手応えを感じてブランドを始めようと?

親方:その時点では、まだ本気でやるつもりはなかったんですが、たまたま自分らのTシャツを着て訪れたショップで、スタッフの方に声を掛けられたのをきっかけに卸をするように。僕らは「小遣い稼ぎができるじゃん!」なんて軽い気持ちでしたが、そこから少しずつ取引先が増えていき、本格的にブランドとして活動するようになりました。これが1998年。

——“UNCOOL IS COOL”というコンセプトも当時から変わらず?

親方:ですね。キメキメのかっこいい服が僕らはイヤだったので、ちょっとふざけたところを残した遊び心のある服がイイよねって。その感覚を言葉にしたのが“UNCOOL IS COOL”。日本語にすると“ダサイはカッコイー”ですが、そもそもはパンクドランカーズの楽しみ方として付けたものでした。

——前編では海外での活動の話も聞きました。親方さんは、自身の作品が海外で実際どのように受け止められていると感じますか?

親方:それは聞いたことがなかったんで、僕自身もガチで知りたいですね。みんな「クール!」と言ってくれているけど、実際どうなんでしょうね。もちろん“おもしろさ”はちゃんと伝わっていると思うんですが。

——これまでにブランド、企業、野球チーム、芸人と多種多様な相手とコラボをされてきましたが、特に思い出に残っているコラボがあれば教えてください。

親方:結構あるんですよね。大好きな阪神タイガースもですし、エガちゃん(=江頭2:50)とか。高須クリニックの高須先生とかもそうですし、『THRASHER』もすごく売れたので、やっぱり思い出がありますね。うまい棒も楽しかったですし。僕らの好きなモノだったらありがたくコラボをさせてもらっていて、基本的には“来るもの拒まず”のスタンスです。

——このシュールな世界観をコラボレーションに落とし込む際のあんばいって、どうやって決めているんですか?

親方:コラボに関しても自分らのアイテム同様、おもしろい要素を入れたいっていうのはあるんですが、まれにもう少しマイルドにしてほしいという場合もあるので、そういった時はなるべくパンク臭を前に出さないようにしています。その分、自由にやらせてくれるところに対しては、全力でふざけていきますけどね。

——来年でブランド誕生25周年を迎えますが、これまで活動を続けてこられたコツはありますか?

親方:“大ブレイクしてこなかった”ところじゃないですかね。細く長くみたいな(笑)。大ブレイクすると収拾がつかなくなるというか、自分らでコントロールできなくなっちゃうじゃないですか。ウチの場合、お客さんも10代から60代までとかなり年齢層の幅が広く、それも良かったと思うんです。みんな最初は「若くてイケてるやつに届けたい!」ってブランドを始めるけど、それじゃあ続かないんです。僕はそれよりもいろんな人達に認められたい。サザンオールスターズなんて世代を問わず誰しもが知っていて、しかも新曲が出たらみんな聴く。そういうブランドでありたいですね。26歳で始めて、気付けば50歳。このままずっと“UNCOOL IS COOL”でいられたら最高だなって。

親方
1971年生まれ。千葉県出身。空手3段、左きき。1998年、“和+洋+遊、UNCOOL IS COOL”が、基本コンセプトのブランド「パンクドランカーズ」を設立し、アパレルの枠を超えて多ジャンルにデザインを手掛ける。2003年より現在まで展覧会(個展)やライヴペインティングも頻繁に開催している。
Instagram:@oyakatapunk
https://www.punk-d.com

Photography Yuji Sato
Edit Shuichi Aizawa(TOKION)

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おもしろきこともなき世をおもしろく。「パンクドランカーズ」親方の“UNCOOL IS COOL”な半生 前編 https://tokion.jp/2022/04/16/punk-drunkers-uncool-is-cool-vol1/ Sat, 16 Apr 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=109905 “UNCOOL lS COOL(=ダサイはカッコイー)”をテーマに、独自の世界観を伝える「パンクドランカーズ」。そのすべてを担うのが、デザイナーでありイラストレーターでもある親方。彼にとっての“創作表現”とは。

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“UNCOOL lS COOL(=ダサイはカッコイー)”をテーマに掲げるファッションブランド「パンクドランカーズ」。そのすべてを担っているのが、デザイナーでありイラストレーターである親方。彼が作るソフビフィギュアは世界でも人気を集めており、今や海外の「DesignerCon(デザイナーコン)」でも台風の目のような存在だ。その脳内から生み出されるコミカルでシュールな世界観は、常識で凝り固まった現代社会へのアンチテーゼなのか? 作品に込めたシュールな視点や海外での日本文化のリアクションなど、すべてをひっくるめて親方という人物の魅力に迫る。

見た人が思わず二度見するのが“パンクらしさであり、自分らしさ”

——いきなりですが、「パンクドランカーズ」の象徴にして、親方さんの代表作的キャラクターでもある“あいつ”の誕生経緯を教えてください。

親方:絵を描きためているノートがあるんですが、ブランドを始めて4年目くらいに、そのノートに描いたのは覚えてるんですよね。最初はTシャツ用のグラフィックでしたけど、そのTシャツはすごく売れたってわけではなかったので、キャラに名前も付けておらずでした。それで2、3回使ううちに愛着が湧いてきたので、「あいつの名前を考えよう!」となった時に「あいつでよくない?」と(笑)。覚えやすいしいいねということで、そのまま“あいつ”になりました。

モチーフもよく聞かれるんですが、特にこれといったものはありません。ただ、「スタートレック」のミスタースポックのようなキャラクターを作りたいなぁと思って描いているうちにでき上がったのがこいつ、いや“あいつ”(笑)。見比べると全然違うんですけどね。

——本気なのかふざけているのか紙一重のセンスが、「パンクドランカーズ」の持ち味です。そんなユニークなアイデアはどうやって生まれているのでしょうか。

親方:とにかく常日頃から「こんな服があったら、こんなデザインがあったらおもしろいんじゃないか?」って考え続けています。街を歩いている時も看板広告を見て、アイデアのネタを探したりとか。

「パンクドランカーズ」のプロモーションビデオ

——イラストレーターとして自分のペースで作品を描くのとは違い、アパレルのグラフィックはシーズンの立ち上げに間に合わせなければいけないというプレッシャーもあるのでは?

親方:毎シーズン、その戦いはありますね。いざ机の前に座って「よし、やるぞ!」となっても、何も出てこないんですよ。すると自分自身がどんどん腐っていく。「もうヤダ」って感じで、フテ寝しちゃったりして(笑)。でも、それが何日も続くと、急にパッと出てくるんです。

——作品を描く際、親方さんはアナログ派でしたよね。

親方:かなりのアナログですね。手描きの絵をスキャンして、色入れはパソコン。他の人がタブレットでぱぱっと描いているのを見て、すごく魅力は感じているんですが、周りが止めるんですよ。「作品が変わるから、やめたほうがいい」って。それに、やり直しがきくのも自分にとって良くないかなと。失敗できないからこそ集中して描くんですよね。時には、失敗できないけど失敗して、でもそれがイイ!ってことあるじゃないですか。そんな偶然もおもしろさですし。

——そんな親方さんが 一番影響受けたアーティストは?

親方:いろんな人から影響を受けているとは思うんですが、昔から好きだったのが「キン肉マン」のゆでたまご先生。他には、岡本太郎さんもメチャメチャ好きですね。あとはパスヘッドとかUSUGROWも。USUGROWはヌンチャクっていうハードコアバンドの CDジャケットを描いていたんですが、それがすごく格好良くて好きでした。

——どうやらアウトラインが太めのスタイルがお好きなんですね。

親方:あ〜好きですね。それはあります! 僕の描く絵も太いですし。

——表現する上で大事にしていること、意識していることはありますか?

親方:“普通では終わらないこと”ですかね。「普通だね」って言われるのがイヤで、ひとクセもふたクセもあって、見た人が思わず二度見するのが“パンクらしさであり、自分らしさ”だと思います。

——親方さんの作品は見た瞬間、ダイレクトに伝わるおもしろさがあります。

親方:そこは大事にしているかもしれません。言葉が通じなくてもわかるおもしろさは昔から意識していて。だから海外でも良い反応をもらえるのかも。

——海外では親方=ソフビフィギュア(以下、ソフビ)の作家として有名ですが、ご自身が興味を持たれたのはいつからですか?

親方:もちろん子どもの頃にウルトラマンの怪獣のソフビは持っていましたが、10年くらい前に「ゾルメン」「ファイブスタートイ」という2つのソフビメーカーから、ほぼ同時期にコラボの話を頂いたのをきっかけに興味を持つようになりました。それから「こういう世界があるんだ」ってどっぷりハマったって感じですね。

——国内では発売→即完売がお約束になっている「パンクドランカーズ」のソフビですが、海外のイベントでも販売されていますよね。

親方:海外のイベントには参加するようになったのは7年前からです。ロサンゼルスで開催される「デザイナーコン(通称:ディーコン)」というイベントが最初で、持っていったソフビが完売せず、少しだけ売れ残ったんですよね。で、それを現地のディーラーさんに営業して買い取ってもらい、帰国したのですが、翌年にはもう行列ができるくらいの大盛況に! その1年の間にアジアでのイベントにも参加したりと海外の認知度が増していたっていうのもありましたが、そこで手応えを感じました。

本当に落ち着きがないので、じっとしているのに耐えられない

——親方さんと同じスタイルのクリエイターって、海外では多いんですか?

親方:服とオモチャを両方やっている人はいますよ。サンディエゴで「バイオレンストイ」というショップをやっている友達がそうです。ライセンスを取得して『グレムリン』や『ロボコップ』のおしゃれなニットを作ったりしていて。しかも少人数でやっているのも僕らと似ていますし。サンディエゴでは、この前初めて「サンディエゴ・コミコン・インターナショナル」にも参加しました。

——コミックやトイ、アニメなどほぼすべてのジャンルのポップカルチャーやエンターテインメントを扱う、著名なコンベンションですよね。

親方:アメリカで一番規模が大きいのが「サンディエゴ・コミコン・インターナショナル」。その次が「ニューヨーク・コミコン」、次いで「ディーコン」って感じですね。「コンプレックスコン」からも誘いがあったんですが、他の参加イベントとかぶっていたので断っちゃいました。それに「ディーコン」のほうがディープなインディーズのアーティストが出てくるので、マニアックでおもしろい!

——ちなみに英会話は?

親方:それがまったく(笑)。まぁ適当に喋ってますよ。通訳兼アテンダーがいる場合もありますが、相手が気を使って簡単な英語で喋ってくれるので、あまり不便さは感じていません。一時期はちゃんと喋れるようになりたいと思って勉強したんですが、ダメでした。それに向こうに長く滞在していると、最後のほうにはなんとなく聞き取れてくるし、大体こんなことを言っているんだろうなぁってわかるようになりますし。

——実際に肌で感じる、海外でのリアクションはどんな感じですか?

親方:海外に出てよくわかるのが、ソフビは日本のカルチャーということですかね。なのでフロム・ジャパンの作家というだけで、ちょっとだけ良く見てもらえるんですよ。「オー、待ってました!」みたいな(笑)。オモチャの世界では、そういうリスペクトの姿勢をすごく感じますね。

——「パンクドランカーズ」の親方ではなく、ソフビ作家の親方としてリスペクトされていると。そこは日本と違いますか?

親方:どうですかね。実は日本では、ソフビだけで食えている人ってほんのひと握りで、それ以外は別の仕事をしながらの兼業作家が多いんです。ソフビを作ってくれる工場自体、仕事がキツいという理由で若い人はあんまりやらないなんて言われていて、今や下町方面にちょこちょこあるくらい。とはいえ最近は、若い子もだんだんと「ソフビで仕事になるんだ」って気付いてきたようで、ちょっとずつ数が増えているみたいですが。

——時代の変化とともにあるんですね。こんなご時世ですし、時代に合わせて変わっていく人は多いと思います。親方さんは?

親方:僕は変わらないですね。それこそ中学生の頃から好きなモノもずっと一緒で、ずっと中二(笑)。そもそも宣伝やアピールが下手くそなので、その変わっていくやり方自体がわからないんです。たまにありますよ、海外のイベントで行列ができてすげぇ盛り上がったのに、日本では全然それが伝わっていなくて、残念だねって。そういう時に悔しいなとは思いますが。

——わかる人にはいかに偉業かわかるんですけどね。では、ファンは親方さんに何を求めていると感じていますか?

親方:ソフビのファンでいえば、イベント会場なんかで直接お話しすることはあります。大体がオジサンで、オジサンがオジサンにサインするっていう不毛な行為をしながら(笑)。そういう人はみんな純粋。「このまま作り続けてください!」って言ってくれるのを、「これがかわいい女の子だったら最高なのになぁ」って思いながら聞いています(笑)。

——最近ではぬいぐるみも作っていましたし、新たなチャレンジを期待する声も多いのでは?

親方:チャンスさえあれば、新しいことはずっとやり続けたいですね。例えば、ミニカー。以前「シュプリーム」「ホットウィール」とコラボしていましたが、あんなんメッチャうらやましいですよね。やりたいことはまだまだいっぱいありますよ。海外のファンの方も多いので、海外でのコラボもドンドン増やしていきたいし。これまでの仕事を続けながら、そちらもちょっとずつ規模が大きくなっていったらいいなって思っています。

それでいうと、今年11月に開催予定の「ディーコン」では、主催者側から「大きなブースを用意するし費用もこっちで出すから、ソフビだけでなくコラボアパレルも作ってほしい」と言われています。それが今年の一番大きな僕らの仕事になるんじゃないかなぁ。

——コロナ禍であっても、攻めの姿勢は変わらずですね。

親方:本当に落ち着きがないので、ジッとしているのに耐えられないんですよ。なのでこれからも落ち着きなく、アッチコッチ動き回りながらおもしろいことをやっていくつもりです。
(後編に続く)

親方
1971年生まれ。千葉県出身。空手3段、左きき。1998年、“和+洋+遊、UNCOOL IS COOL”が、基本コンセプトのブランド「パンクドランカーズ」を設立し、アパレルの枠を超えて多ジャンルにデザインを手掛ける。2003年より現在まで展覧会(個展)やライヴペインティングも頻繁に開催している。
Instagram:@oyakatapunk
https://www.punk-d.com

Photography Yuji Sato
Edit Shuichi Aizawa(TOKION)

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一針入魂、横振り刺しゅうで開かれた世界への扉——その男、SHISHUMANIAにつき https://tokion.jp/2021/07/18/the-man-called-shishumania/ Sun, 18 Jul 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=46688 技術継承者が年々と減り続けている“横振り刺しゅう”を2次元世界の表現に取り入れて、伝統技術に新たな可能性を見出した男、SHISHUMANIA・フクモリタクマをひもとく。

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クールジャパンな服として海外でも人気が高いスカジャン。そこで用いられる“横振り刺しゅう”は、技術継承者が年々と減り続けている伝統的な技法である。そんな技術を2次元世界の表現に取り入れて、新たな可能性を見つけ出した男、SHISHUMANIA・フクモリタクマ。自衛隊で刺しゅうと出会い、群馬県・桐生で修業を重ね、磨き上げられた技術は、今や有名ミュージシャンからの衣装制作のオファーも届くほど。7月17日から個展を開催する彼のもとを訪ね、自身の経歴、失われゆく伝統技術“横振り刺しゅう”の可能性について聞いた。

スカジャンへの憧れを胸に自衛隊を去り、いざ横振り刺しゅうの世界へ

——フクモリさんは自衛隊で刺しゅうと出会ったと聞きました。

フクモリタクマ(以下、フクモリ):ですね。もともとはパイロットになりたかったんです。本当に飛行機が好きすぎて、毎週のように空港に行って、そこでずっと飛行機を眺めているような子どもでした。中学校に上がっても夢はパイロットになること。それで航空自衛隊生徒(※現在は廃止)に合格して、中学卒業後は埼玉県の熊谷基地に配属になりました。

——自衛隊以外にもいわゆる航空会社のパイロットという道もあると思いますが。

フクモリ:僕自身、地元の宮崎から離れて、上京したいという思いが強かったし、今はこんな感じですけど、その時はガリ勉でずっと勉強してました(笑)。それで、パイロットになるなら航空自衛隊がいいかなって。勉強をしながら給料ももらえますし、なにより将来的にパイロットにもなりやすい。良いこと尽くめじゃないですか。親には「普通の高校に進学したほうがいいんじゃない?」と言われながらも、倍率25倍の試験をダメ元で受けたら合格しちゃって。

——すごいですね。そこでは何を学ぶんですか?

フクモリ:まず基礎課程というのがあります。ここで勉強などの高校生活をしながらいろいろな訓練も行い、3年生でその先の進路が決まります。僕はパイロットと航空管制官になりたくて試験を受けたのですが、どちらも2次試験の適性検査で落ちてしまいました。28歳の時に病院で発達障害の診断を受けたんですが、今考えると多分それが原因だったんでしょうね。

——で、落ちてしまって。

フクモリ:パイロットになりたくて頑張ってきたのに、小さい時からの夢が突然全部消えてしまって、人生初の深い挫折を味わいました。そうはいっても、自衛隊にいる以上は、職種を選ばないといけない。そこで変わった仕事をしてみたいなと考え、教官でも詳細がわからずなんだか007っぽくてかっこいいという理由から情報員を受けました。それが一番人気で落ちるだろうと思っていたら受かったので、とりあえずこの仕事を頑張ってみようと。

——実際、どうでした?

フクモリ:あまりに仕事ができず、人付き合いも全然うまくいかなくて落ち込むばかりの毎日。「社会のレールから完全に外れてしまった自分は、必要のない駄目な人間なんだ」と毎日考えていました。仕事が終わり寮に帰っても、5人部屋で全員シフトが別々なので、常に遮光カーテンの締め切った真っ暗な部屋で、物音も立てられず昼も夜もわからなくなる生活。おまけに配属地が何もない離島だったので外出もできないし。夜、1人でトイレの窓から対岸の街の灯りを見ては泣いていました。

——遊びたい盛りにはキツイですね。なんだか病みそう。

フクモリ:その時の心の支えが、階級章や部隊章の縫い付けで余った糸を使ってやっていた、趣味の手刺しゅうでした。やっていると心が無になれるので、休憩時間も仕事後も。休みの日なんて1日中狂ったように刺しゅう三昧。その様子を見た上司に「ちょっと精神的にヤバイんじゃないか?」と報告されて、定期的に基地を訪れる精神科医のカウンセリングを勧められちゃったりもしつつ(苦笑)。で、上司も「そこまで本気なら」って刺しゅう屋さんをインターネットで調べてくれました。で、弟子入り可能か問い合わせたところ、13件目にしてやっと受け入れ先も見つかって。

——そこで自衛隊をやめて、刺しゅうの道に。

フクモリ:向いてないし、迷惑にしかならないのでやめて新しく人生をやり直そうと思ったんです。刺しゅうはずっと飽きずに続けていたから、じゃあコレをやってみようかなぁって。いわば最後の望みでした。

——ところで刺しゅうとひと口にいっても多種多様。横振り刺しゅうとはどういったモノですか?

フクモリ:今、刺しゅうのほとんどがコンピューターミシンで行われていますが、横振り刺しゅうに使われるのは、それの元になった横振りミシンです。横振り刺しゅうは足で刺しゅうの幅などを操作しつつ、手で方向や角度を調節しながら刺しゅうしていく技術なので、どのように仕上げるかは完全に職人のフィーリング。これによって刺しゅうの目が詰まりすぎず、ふんわりと立体的かつ表情豊かな仕上がりとなります。

——なぜ、その横振り刺しゅうに興味を持ったんですか?

フクモリ:自分でも「東洋エンタープライズ」のスカジャンを持っていたりして、スカジャンへの憧れがあったのが大きかったですね。そのあとは半年くらい続けたんですが、19歳になる年に退官し、群馬県の桐生市で横振り刺しゅうの業界では一番有名な師匠について、改めて横振り刺しゅうの修業を始めました。

師匠から「給料も払っていたのに、仕事を盗んで逃げた」とぬれ衣を着せられて

——修業はどういったことをするのでしょうか?

フクモリ:まずは模様から徐々に覚えていって、虎や牡丹といった伝統的なスカジャンのモチーフに進んでいきます。ただ、いわゆる徒弟制度的な“見て、技を盗む”とかではなく、普通にお金を払って、教えてもらう。1対1でのワークショップみたいな感覚でした。僕のあとに弟子入りした人もいたけど、すぐにやめちゃいましたね。なにせ仕事がマジでないんですよ。徒弟制度的なものって、仕事がたくさんあるから成り立つ制度なんですよね。若い職人が全然いないのは、頑張って覚えても仕事がないからなんだなとその時に気付きました。

——でも、1件あたりの工賃は悪くないのでは。

フクモリ:仕事を斡旋してくれる業者の中抜きがすごいんですよ。なので、職人がもらえる金額なんて信じられないほどの安さ。それでもどうにかやっていけるのは、職人の多くが主婦だからです。みんな結婚していて、小遣い稼ぎ感覚でも生きていけるんです。ですが自分は食っていかなければならないので、3つのバイトを掛け持ちしながらの両立。そのなかで土日とか週1で昼〜夕方6時ぐらいまで教えてもらうみたいな。

——独学で経験を積んでいたし、驚かれたんじゃないですか?

フクモリ:それが逆にへたすぎて、あとから弟子入りした後輩のほうが上手いくらい(苦笑)。「俺には向いてないのかなぁ」って思ったけど「もう自衛隊もやめてきたし、これでなんとかしよう!」って覚悟を決め、その修業を約5年間続けました。

——どのタイミングで独立となったんですか?

フクモリ:仕事がこないようでは、いつまでもバイト止まりだと思ったんです。で、群馬に引っ込んでいても何も始まらないから「東京で仕事を取ってくるんで一緒にやりませんか?」と師匠に伝えたら、「よくぞ言ってくれた。私の看板を使って頑張ってこい」と送り出してもらえて。それで一応、刺しゅう組合の人達に独立のあいさつに行ったら、なぜか無視されて……。

——えっ!?

フクモリ:問いただしたら、「お前は師匠の仕事を全部取って逃げるのか」って罵倒されちゃって。さらに師匠にも「給料も払っていたのに、仕事を盗んで逃げた」とぬれ衣を着せられ……。問い詰めたらトボけられて。「自分にとっての最後の望みだと思って、全てを捨てて刺しゅうを頑張ってきたけど、ここでもこうなるのか……」とすごくショックを受けました。

——それでもう東京に出てきて?

フクモリ:出てきたかったんですけど、東京に家を借りられなかったので、埼玉の戸田公園に住んで、荒川越しの東京を毎日眺めていました。夜になると明るいんですよ、東京って(笑)。

痛刺しゅうは虎や龍とも全然違うし、それよりもずっと難しいんです

——その時点で、技術的には食べていけるレベルに達していたんですか?

フクモリ:全然でしたね。かといってやるしかない。そこで“何者でもない”自分を誰かに知ってもらうには、その時はやり始めたTwitterとニコニコ動画だと考えました。毎日作業中の動画を撮影してニコニコ動画にアップして。ツイートして。そこで1本の動画が当たって殿堂入りしてからは一気にバーッと。

——何がキッカケだったのか気になりますね。

フクモリ:アイドルオタクの人達が、メンバーやグループ名や歌詞を文字で刺しゅうした特攻服を着ていたのを見て「これをイラストでやったらどうだろう?」と思って、“オタクの勝負下着”ってことでトランクスの背面にイラストをでっかく刺しゅうして、作ってる過程と着用姿を動画にしてアップしたら、バズりました。なので完全にタイミングですね。アニメの『ラブライブ!』がメッチャはやっていて、そういった技術の無駄遣いみたいなノリがウケたんです。そこから痛特攻服の依頼がくるようになりました。

——お客さんからのリクエストで始めたわけじゃなく、自発的なものだったんですね。

フクモリ:人気YouTuberのHIKAKINさんとかも同世代だと思うんですが、ちょうどそういう時期だったんでしょうね。世の中的にmixiやアメーバブログが主流で、そんな時にTwitterやニコニコ動画が出てきて、まだYouTubeも知らない人のほうが多かった時代。何かおもしろいネタをやれば、即バズるみたいな。自分の場合、刺しゅうをやっている人や好きな人達とのつながりもなかったので、ネットを活用するしかないと思ったんです。で、作品をたくさんアップしていたら徐々に知ってもらえるように。技術を磨いていつかCMや映画の衣装をやりたいという目標もあったので、そのためには埼玉にいてはダメだと考えて東京に引っ越しました。

——そのあたりからアニメなどの痛刺しゅう(2次元キャラの刺しゅう)依頼が急増したと。いわゆるスカジャン的な意匠が好きで始めたのに、痛刺しゅうをやることへのジレンマは?

フクモリ:自分的にはいわゆるスカジャン的な虎や龍は何十年と続けないとできない技術だと思っていたんですが、割と1年半とかでできるようになっちゃって(笑)。意外と簡単じゃんみたいな。それに比べると痛刺しゅうは虎や龍とも全然違うし、それよりもずっと難しいんですよ。一番にそのキャラが持つかわいさをちゃんと出さなきゃいけない。そこで意識すべきは表情作りにおいて重要な目や髪の毛、あとは指も。それと服もディテールが細かいじゃないですか、リボンとかたくさんついてたりして。それを表現するコツを体得するのには結構苦労しましたが、これまでに150着以上の作品を手掛けてきたことで完璧にマスターできました。

——『ラブライブ!』以外の作品もモチーフにしたりするんですか?

フクモリ:結構やりましたね。アイマス(『アイドルマスター』)ガルパン(『ガールズ&パンツァー』)とか。ちょうど痛車が海外ではやっているタイミングということもあり、「アニメキャラを刺しゅうしているやつが日本にいるぞ!」って海外メディアから取材もされました。今年、ドイツの出版社から刊行されるアニメに関わる日本の職人を取り上げた本に、自分も載ることになっています。これまで手掛けた作品を持っているオタクを集めてくれと頼まれたので、集まってもらって写真を撮らせてもらって。

——現在は痛刺しゅうのオーダーは受け付けていないとか。

フクモリ: 下書きを描いて、最適な色や糸を選んでハンドメイドで自分でやっていたとはいえ、版権絵をトレースして刺しゅうにしていたので、著作権的にもグレーですし、別に訴えられずとも胸を張って人には言えない。他人のふんどしで食べていてはダメだなぁと思ってやめました。それとコンピューターミシンの刺しゅう屋さんが、刺しゅう入れ放題とかをやり始めたのもありますね。自分的にもやり切った感があったし、ちょうど引き際を考えていたところでもあったので、良いタイミングかなって。

多忙すぎる日々から一転、急に刺しゅうができなくなってしまい、ホストになりました

——通常の個人オーダーではどんなモノが多いんですか?

フクモリ:やはりスカジャンが多いですね。珍しいケースだと、フンドシに名入れの刺しゅうをしたこともあります(笑)。あとはファッション業界の人やスタイリストさん、ブランドからの依頼を受けていたら、そこからの流れでKinKi Kidsさんが紅白歌合戦で着用する衣装や、BREAKERZさんのライヴ衣装の依頼も舞い込んできて。

——他にも大きな仕事をかなりやられていますよね。

フクモリ:一番驚いたのがサイゲームスさんからの依頼ですね。「Evolution Championship Series 2018」という世界最大規模の格闘ゲーム大会に参加する選手用のユニフォームとして、それぞれの使用キャラを刺しゅうしたスカジャンを制作しました。あれはヤバかったですね。「われわれはクリエイターを応援しているので、希望金額を提示してください」って言ってくださって。結局、普通の値段でやっちゃいましたけど(笑)。で、僕も大会が開催されたラスベガスに同行させてもらったんですが、メチャクチャでっかいスタジアムに作られたステージで2人だけで戦うんですよ。そこで結構やり切ったかもしれません。でその後、野村周平さんの主演映画『純平、考え直せ』で、待望の衣装制作のお話もいただきまして。エンドクレジットの衣装協力の先頭に、SHISHUMANIAの名前を見つけた時は思わず号泣しましたね。

——そしてSHISHUMANIAの名前も広まっていって。

フクモリ:僕のサイトYouTube、ニコニコ動画にネット記事やSNS、知人からの紹介など、いろんなところで知ってもらう機会が増えたことで、本当にドンドン仕事が増えていって。当時は毎日刺しゅうをやっていましたね。それこそ頭がおかしくなるくらい。個人オーダーも1年で150着は作っていて。2日に1着は発送しているんですよね。しかも同時進行で数着を進めるのではなく、1着ずつ順番に。その上で写真を撮ってホームページを更新して、カウンセリングして刺しゅうして。

——ハードな毎日だったと。1着の完成までにかかる所要時間は?

フクモリ:時間は1着まぁ2日くらいですかね。メチャクチャ集中して8時間くらい一気にやっちゃうんです。

——当時つづられていたブログを読むと、いかに追い詰められていたのがわかります。

フクモリ:ですね。ある日、刺しゅうが急にできなくなっちゃって。それから2週間くらいはただボーっとしているだけ。朝起きて布団に座っていたらいつの間にか夜になっているみたいな。何もできなくなって周りからも病院に行ったほうがいいって言われて。結果、ADHD(注意欠如・多動症)と診断されました。

――ADHDと診断され、刺しゅうから離れていた時期ってどう過ごしていたんですか?

フクモリ:とりあえず受けていた注文は謝ってすべてキャンセルさせてもらい、薬を飲んで1週間は寝たきり状態。その薬が効いてちょっと気分よくなったので、全員に謝罪して返金させてもらって。そこからなぜこうなってしまったのかを考えて、「じゃあ、逆に自分には向いてないと思っていることに一度挑戦してみよう」と、当時住んでいた場所が新宿・歌舞伎町がすぐ近くだったこともありホストになりました。

――かなり急展開! そちらの業界こそ、適者生存の最たるものですよね。

フクモリ:結局、全然お客さんがつかず本当に向いてないとわかって3ヵ月でやめました(笑)。まあ逃避ですね。全部リセットしようって思って。もしかしたら薬の力で思考が普通ではなくなっていたのかもしれませんね。薬を飲み忘れると、2、3日体がまったく動かなくなるんです。ホストと同時にその薬もやめました。そんな時、なんとなく観た映画『JORKER』に感動して「ひさしぶりに刺しゅうがしたい!」と思えている自分に気が付いて。コレを刺しゅうしながら「ヤベェ、できんじゃん! やっぱり刺しゅうが好きなんだなぁ」と再認識しました。

“やっていて楽しい”とか“人に喜んでもらえる”それが今は一番大事

——昔の自分と今の自分、比べてみて表現に変化はありますか?

フクモリ:技術的に表現の幅が広がったのもありますが、それ以上に発想の幅も広く・深くなったと思います。いろんな仕事を受けているうちにできることが増えていきましたが、その反面、同じことの繰り返しが退屈だと感じるようにもなっていました。それで、活動再開とともにもっと自分自身を表現しようと思い始めたのがオリジナルモチーフの作品制作です。

——なるほど。今現在、SHISHUMANIA=フクモリタクマが表現したいモノはすべて作品に詰まっていると。最近では、積極的に個展も行われているようで。

フクモリ:4月に行われた2回目の個展では「ENTER THE LOOP」というタイトルをつけました。“生きる”ってループなんですよね。毎日同じように起きて、仕事に行って、食事して、風呂入って寝て。2 月頃に知り合いが自殺してしまい……それで気付いたんです。その人は現実のループがつらすぎて、生きるのをやめた(解放した)んだなって。だったら僕は、楽しいループにしようと思いました。見て・触れてくれた人が楽しくなるループが続くような個展や、自分が楽しくなる作品を作ろうって。

4月に開催された個展「ENTER THE LOOP」用のイメージムービーと、実際の刺しゅう工程を撮影したムービー

——最近の作品についても教えてください。

フクモリ:これなんかは、刺しゅうと組み合わせたドライフラワーで“諸行無常”を表現しています。1年ぐらいかけて色が徐々に失われて枯れていくことで“すべては今のままではいない、どんどん変わっていく”というイメージで作りました。また、刺しゅうを入れたコーチジャケットやフーディなどのアパレルも作っています。これは平家ガニと鬼をマッシュアップ。カニって横にしか動けないじゃないですか。それがスタイルを崩さず、己を貫くっていうのと通ずるものがあってかっこいいなって。こちらの虎はサイケデリックな配色で刺しゅうしたワッペンを、レザーなどの生地に貼り付けてパネルに。これらの作品は公式サイト内のオンラインストアでも販売しています。

――横振り刺しゅうは後継者の減少により、今や失われゆく技術といわれています。

フクモリ:ですね。なので作品でうまくできたモノがあれば、データ化して量産化するという試みも進めています。50、60年前までは横振りミシンが当たり前でしたが、やがてコンピューターミシンが普及していきました。その際に当時の横振り刺しゅう職人達が横振りの技術をデータ化していたんです。それを再び、50、60年越しに再現してみようと。本物の横振り刺しゅうと変わらないクオリティのモノとして職人の手で再生させる。これによって横振り刺しゅうという技術・文化を残していく。これもまたループの1つですね。

——刺しゅう業界の中で、自分はどのようなポジションにあると思いますか?

フクモリ:家業でもなく、ただ自分がやりたくてやっているだけですからね。「なんか変なやつがいるらしいよ」というポジションでずっとい続けたいと思っています。

——“横降り刺しゅうを世界に広めたい”という思いも?

フクモリ;以前はありましたが、今は“自分が楽しいことが一番大事”な気がしていて。ぶっ壊れた時にいろいろ考えたんです。それまで有名になることしか考えていなかったけど、それ以上に“やっていて楽しい”とか“人に喜んでもらえる”というほうにウエイトを置くようになってきました。これからも個展を開き続け、“ここに来ると楽しい”っていう活動を続けていけば、自分の考える“楽しい”がもっとずっと広がっていく。そうやって楽しさのループを続けていくのが、今の僕の望みです。

SHISHUMANIA(フクモリ タクマ)
1990年生まれ。宮崎県出身。2005年に航空自衛隊生徒入隊し、2008年に卒業。同年、日本における刺しゅうの聖地として名高い群馬県桐生市で刺しゅう職人の元に弟子入り。2014年に独立し、2015年からSHISHUMANIAとして活動開始。失われゆく日本の伝統技術“横振り刺しゅう”を駆使して、アーティスト衣装、映画衣装、祭り衣装・オーダーメイドと幅広く作品を手掛ける。
https://www.shishumania.com/
instagram:@shishumania

「SHISHUMANIA EXBITION」
会期:7月17~24日
会場:TELC
住所:東京都目黒区駒場1-16-12
時間:13:00~20:00
入場料:無料

Photography Shinpo Kimura

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離婚して車中泊になったノマド漫画家・井上いちろうの日々 https://tokion.jp/2021/03/22/nomad-manga-artist-ichirou-inoue/ Mon, 22 Mar 2021 06:00:34 +0000 https://tokion.jp/?p=25252 日本各地を巡って車中泊しつつ漫画を描く、ノマド漫画家・井上いちろう。彼が語るのは、離婚をして手に入れたはずの“自由”に“不自由さ”を感じる日々と、ネットを使った漫画の新たな可能性。

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「“自由”になれたはずが、毎朝“不自由さ”を感じています」。

これは、離婚を機に、自宅を手放した漫画家・井上いちろうの言葉である。彼は、父から譲り受けた軽ワゴン車で車中泊をしながら、気の向くまま、各地をのんびり巡りつつ旅先で漫画を描く日々をTwitterで発信し、現在では3万人ものフォロワーを誇る注目のノマド漫画家だ。

新型コロナウイルスの流行が引き起こした世界的不況により、バンライフ(車を中心としたライフスタイル全般を指す)という生き方に注目が集まる昨今。これからさらに増えていくであろう、家を持たないライフスタイルを実践している男が語るのは、非日常を日常とする者の偽らざる声。

もう一度、家を手に入れてイチからやり直すなんて、アホらしいなって

――現在の生活を始めたキッカケが離婚だったとか。

井上いちろう(以下、井上):そうですね。その1年前に中古で一戸建ての家を購入していたんですが、それを売却して財産分与で分け合う形になったので、引っ越さざるを得なくなってしまいまして……。いわゆる人生における大きな買い物の頂点といえば家じゃないですか。もう一度そこを目指して、イチからやり直すことに、ちょっとアホらしさを感じてしまったんです。その気力もないし、そもそも意味がないと思っちゃったんですよね。しかもその時、タイミング的に全然仕事がなかったので開き直ってという感じですかね。

――金銭面が理由としては大きかったんですか?

井上:大いにあったんじゃないでしょうか。一時期は年収も2千万円近くありましたが、出版不況で仕事をしていたギャンブル雑誌の相次ぐ廃刊で、月収も10万円までに激減。僕自身の仕事が減っていく一方で、妻は働いていたため僕に対して依存することなく、自立できる状況にあったということが、離婚に踏み出す要因にあったと思います。

――そしてお父様から譲り受けたのが、のちに新たな生活のベースとなるスズキのエブリイワゴン。

井上:離婚する3年くらい前に親父が新車で買っていたけど、走行距離も3万kmちょっとであまり乗っていなかったんですよね。それで車を見た瞬間に「これで全然、生活ができるじゃないか」と確信を得て、車中泊で生きていくという決意に拍車がかかりました。

――生活のベースになっているのは、高速道路上に設置されたSA(サービスエリア)・PA(パーキングエリア)なんですよね。ずっと車で過ごす生活というのは、どんなものでしょうか?

井上:みなさんは車を所有していたとしても、街中だと大してスピードを出すことはないじゃないですか? それが僕の場合は違うんです。出発したら即フルスロットルで、いきなり時速100kmの世界に放り込まれる(笑)。そういう生活ってないじゃないですか。そうするとどうなるかって、その日の気候や温度、湿度で車のエンジンの調子が一発でわかるようになるんですよ。これは普通に車と付き合っていたらわからない。僕にとって車は文字通り相棒のような存在になっていると改めて気付いて、自分でもちょっとびっくりしました。

――もはや職業ドライバーの域に達していますね。どのような生活ルーティンを過ごしているのかも気になります。

井上:どうしても夜に作業することが多いので、近隣に迷惑をかけないような気遣いは必要になります。その点、SA・PAはドライバーのために作られたものなので、夜そこで何をしていようが基本のマナーを守りさえすればOK。僕はエンジンも切っていますが、周りの長距離トラックなんかはかけっぱなしです。そこで午前10時くらいに仮眠から目覚めて、お腹が空いていればご飯を食べたりもしますが、そこでまたちょっと作業をします。ここで重要なのが、高速道路に決められている滞在時間のリミット。高速道路に入った時間と走行距離から計算して、高速道路滞在時間が長いと判断された場合、ETCゲートが開かなかったり、出口で止められてしまうんです。僕はそのギリギリのタイミングを把握しているので、その時間内で作業ノルマを決めて、その日の行動スケジュールを組むようにしています。

――漫画はどのように描いているんですか?

井上:車両後部の荷室に作業スペースを作って、そこでiPadで描いています。ということもあって、この生活にポータブル電源は必要不可欠。常にバッテリー残量を確認しつつ、減ってきたら走行充電に入るというように、昼間〜夕方にかけては移動に費やしている感じですね。また、この生活における最大のわずらわしさは渋滞なので、一般道が混む夕方の17時〜18時くらいはあまり移動をせず、作業時間に当てたり高速道路上を走っていたりすることが多いです。とはいえ、それも車内の快適度に左右されるので、そこは季節や気候に応じて。夏場なんて、殺人的な暑さになりますから(笑)。

――食事やお風呂は?

井上:食事はSA・PA、コンビニがメインですね。洗濯物なんかは週1回ペースで、街のコインランドリーで済ませて、お風呂は銭湯だったり健康ランドを使ったりしています。食べ物もですが、そういった土地ごとのお気に入りを見つけるのも楽しみの1つですよ。

――移動にはガソリン代はもちろん高速料金もかかるし、意外にコストのかかる生活にも思えますが……。

井上:移動といっても、僕の中では大移動と小移動というのがあります。例えば大移動で、渋谷から静岡まで移動するとなると、高速料金が約3600円。それが深夜割引だと2000円ちょっと。さらにガソリンがフル満タンにして約4000円で、向こうに到着したらメーターが1/3に減っててという塩梅。これが小移動だと1区間しか乗らなかったりするので250円〜300円。それで一夜を明かすとなると、僕のその日の宿泊費は約300円+αで済む計算となるので、コストパフォーマンス的には悪くないかなって。ただ、そのガソリン代がすごくて……。去年は年間約60万円! ちょっと自分でもびっくりしちゃいましたね(苦笑)。

――今は、生活のベースとなっているエリアってあるんですか?

井上:むしろ、それを広げる日々っていう感じです。僕の場合は観光的なこともしますが、別に日本一周などの目的を持っているわけではないので、一度訪れた土地をしつこく回るんです。で、そのうちにその街での立ち回りが見えてくる。それが見つかるまで大体1週間はかかります。

――そういえば、漫画の中でパチンコ屋に行く描写がありますが、旅先でも打っているんですか?

井上:やります、やります! 春夏の時季は特に。さっきも話したように車中がかなり暑くなるので、避難場所としてパチンコ屋に逃げ込むんです。もともと旅打ちのパチスロ漫画を描いていたこともあったので経験則として「まだ勝負ができる」という確信もありましたしね。もちろんメインにする気はありませんが、それも生活していく上での選択肢の1つにはありました。今後はそこも漫画で描いていくことなると思います。

――それは楽しみですね。ところで、最近はバンライフや車中泊をテーマにした漫画や映画も増えています。ご自身への注目が集まっていることは実感していますか?

井上:どちらかといえば最近よりも、去年の緊急事態宣言が出た直後にそれを強く感じました。世間がテレワークやリモートワークに目を向けるようになり「世間が注目してきたな」と。今じゃ、『ノマドランド』がアカデミー賞を取りそうな勢いですが、あれなんかは僕に近いかな。なので、今はやっているバンライフに、自分はあたらないのかなあって。正直、何千万円もするキャンピングカーを買うお金があれば、いい部屋に住みますよって話ですからね。もちろん、住みませんけど(笑)。

自由になれる場所を探して、旅をしているとも言えるかもしれない

――2019年12月に、Twitter漫画『#離婚して車中泊になりました』を投稿しだしますが、その後すぐに緊急事態宣言が発令され、県を跨いだ移動に対しての風当たりが強くなっていきました。

井上:そうですね。他県ナンバー狩りとかもあったりして、地方を訪れるということに対して、後ろめたさだったり難しさだったりを感じる部分はありましたよ。当初は地方の知らないところをたくさん巡るといった、観光的な部分も描きたかったんですが、ちょっと厳しい空気になってきて……。結果的に高速道路を行ったり来たりっていう内容になりました。

――そもそも、なぜTwitterを使って漫画を発信しようと考えたんですか?

井上:この生活に入ったのが2019年の10月くらいだったのかな。最初に話したように、その頃には漫画の仕事がもうほとんどなくて自暴自棄に近い状態だったこともあり、おもしろそうだなと思ったんです。もし仕事がなくても家を売った金があるから、たまに入ってくるイラストの仕事をすれば、1年や2年ぐらいは生活できると楽観視していましたし。ただ問題は、家財道具を一切合切処分してしまったので、仕事が入ってきても漫画を描くことができない(苦笑)。そこで必要に迫られてiPadを購入して試してみたら、結構早く描けるぞと。同時に「俺って、漫画を描くことがやっぱ好きなんだな」とも気付かされつつ、これで全国を回りながら漫画を描いて発信するのもおもしろいんじゃないかって考えて、Twitterに漫画を投稿することにしました。

――純粋に、希望に胸を膨らませていたわけですね。

井上:ですね。当時はそんな生活をしている漫画家なんていなくてチャンスだと思っていたので、同情的な反応のほうが多かったことには僕自身、若干困惑しつつ(苦笑)。

――井上さんの漫画には哀愁のようなものを感じるので、それも一因かもしれません。基本的にオチがなく終わるので、そこに哀愁も感じるというか。

井上:おもしろいという価値観は読み手によって千差万別なんですよね。しかもそこを追い求めることって、フィクションとも表裏一体。そもそも毎日の生活の中で、オチがつくなんてほぼないですからね。僕の中でこの作品は“100回に1回おもしければいい”を合言葉に描いているんです。4ページに、これまで話したような日々の気付きだったりをつづっていけばいいやって。

――そして、3月22日には『#離婚して車中泊になりました』(ソノラマ+コミック)の第1巻が発売されます。ファンは待望だったのではないでしょうか。

井上:コミックが出るのはありがたいのですが、僕の中では何も変わらないし、絶対に売れたいという気持ちがあるかといえば、“ない”というのが正直な話。それより大事なのは今の生活を僕自身が楽しんで続けていけるかどうか。そのモチベーションさえ維持できていれば、紙の本にこだわらずともTwitterやnote、YouTubeなど、さまざまな方法で読者に届けることはできると思っていますので。

――なるほど。先ほども困惑したと仰っていましたが、なんとなく井上さん自身の描きたいコトと、出版社や読者が求めているモノに食い違いが生じているようにも感じますが……。

井上:そこは本当にそうですね。おもしろいものを追い求めて描くと、フィクションの部分がいっぱい出てくるのと一緒で、批判はしませんが、手放しでソロキャンプや車中泊ライフを礼賛することに、すごくうさんくささを感じちゃっている自分もいます。楽しいだけではなく、苦労もあってこそのおもしろさというか。ただこんな生活をしているだけあって、流れることは嫌いではないので、流れに合わせていくだけというか。もしこの漫画が“バンライフのヴァイブル”なんて持ち上げてもらえるようだったら「じゃあ、そのように振る舞うか!」って(笑)。そこは臨機応変にやっていきたいと思っています。

――この生活のゴールってあるんでしょうか?

井上:それこそ、結末が決まっていないドラマの主人公と一緒で、僕自身も何がゴールなのかわかっていないんですよね。定住先を探しているつもりでもないですし。ただ、毎日が発見の連続で、車を走らせているだけでアイデアが湧き出てくる。昔はそれこそ机に向かって、うんうんとうなりながらネタを考えていたわけですが、今は描きたいことだらけ。それってすごくマンガ家っぽいなとは感じています(笑)。

――すべてを捨ててノマド漫画家になった今、自由は感じていますか?

井上:僕自身、この生活を始めてから「自由だよね」とか「憧れるよ」ってよく言われるんですが、実際はめちゃくちゃ不自由ですよ。だって疲れた時でも、大の字になって寝転がれないんですよ。どこかに車を停めるのもそうだし、いろいろとリスクはあります。だからこそ見えてくるモノや発見がおもしろかったりするのも事実ですが、僕の場合、毎日「今日は、どこ行こう?」って考えることから1日がスタートする。この時に一番、不自由さを感じるんです。この生活を始めた頃なんて、貯金を食いつぶすだけで全然仕事もなかったので、常に「どうすればいいんだろう……」って悩んでいましたよ。

――その反面、“日本中どこでも行ける”という自由さもあるように思えます。

井上:……と考えますよね!? でもそうなった時に、じゃあどこ行きますか? みんな目的があって外に出るわけで、目的もないのにずっと外にいるヤツなんて普通いませんよ。慣れ親しんだ場所にとどまり続けるのは楽だし、居心地が良いので一番幸せなことだと思うんです。僕の場合、知らない土地に行くので自由をまったく感じません。だからこそ僕は、自由になれる場所を探して旅をしているとも言えるかもしれません。

――確かに、目的がない主人公の旅漫画ってあまり聞きませんね。

井上:そうでしょ? 普通は旅の中で非日常の楽しさやありがたみを感じるのでしょうが、僕にとってはこれが日常であり日々の生活なので。

――この生活にゴールはないとはいえ、表現者として目指す先はありますか?

井上:タイトルにもあるので、“離婚して車中泊”という部分がフォーカスされますが、そもそも僕の離婚なんてどうでもいいんです。そこから物語が始まっているというのはあったとしても、そういった背景設定っていうのは架空のキャラクターに説得力を持たせるためのものであって、僕という人間が実在する時点で、もうそこにリアリティーがあるはず……なんてことさえ考えず楽しんでもらえるのが、Twitter漫画なんです。今までの漫画の形っていうのは1つのサンプルであって、もっと今の時代にフィットする形があるんじゃないかと考えていて……。

――例えば、それはどういった形でしょうか。

井上:特に何もせず、言葉を交わさずとも一緒にいて心地いい友達っているじゃないですか。刺激的なことも悲劇的なこともたまにあるかもしれないけれど、基本は何も起きず日々が過ぎていくだけの漫画を通して、読者とそういう付き合い方ができたら嬉しいですね。漫画を介したコミュニケーションの新たな形になれればと。可能性とネタは無限にあるので、とりあえずライフワークとして“長距離”連載となれるように願っています(笑)。

井上いちろう
1994年に、ちばてつや賞優秀新人賞を受賞。その後、ギャンブル漫画を中心に活躍。現在は訳あって車中泊生活となり、全国を旅しながら車中で漫画を執筆しつつ、Twitterにエッセイ漫画『#離婚して車中泊になりました』を投稿。離婚で家族もマイホームも手放した家なき男の、自由なパチンコ・パチスロライフを描く、エッセイ漫画『家なき男~ニシヘヒガシヘ~』をDMMぱちタウンで、車中泊とグルメにフォーカスしたエッセイ漫画『車中泊漫画家・井上いちろうが喰らう』をカエライフで、それぞれ連載中。
Twitter:@haibiitirou

Photography Satoshi Ohmura

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『BLUE GIANT』を描く漫画家、石塚真一が語る、創作表現とジャズへの想い https://tokion.jp/2021/02/26/shinichi-ishizuka-creative-expression/ Fri, 26 Feb 2021 06:00:06 +0000 https://tokion.jp/?p=20587 主人公・大のサックスプレーヤーとしての成長を通して、ジャズを熱く激しく、漫画で表現する人気作『BLUE GIANT』シリーズ。その作者である石塚真一が語る、作品に込めた想いと今後の話。

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漫画という手法を使い、ジャズという音楽のパワー、そして人間の成長を描く『BLUE GIANT』。仙台、そして東京を舞台とした第1部『BLUE GIANT』、ヨーロッパに舞台を移した第2部『BLUE GIANT SUPREME』、アメリカを舞台とした第3部『BLUE GIANT EXPLORER』と、シリーズは舞台を変えながら、今なお継続中。シリーズ累計680万部突破の超人気作である。作者の石塚真一は、そもそもなぜジャズを漫画にしようと思ったのか、そして聴こえるはずのない音をどのように表現しているのか。独学で漫画家になる夢をつかんだ男に、創作における自身の考え、込める想いを聞いた。

実は山よりもジャズが先。いつかはジャズを! とはずっと考えていた

――そもそも、漫画家になったきっかけは?

石塚真一(以下、石塚):学生時代にアメリカに留学していたんですが、その時に日本の友人が考古学を勉強しに来ていて、なぜ、わざわざアメリカまで考古学の勉強をしに来たのかと尋ねたら、浦沢直樹先生の『MASTERキートン』という漫画に影響されて来たと言うんです。それまで何かに大きな影響を受けたという人間が周囲にはいなかったので、漫画が人生を変えたという事実にすごく衝撃を受けました。そして、いつか自分も表現したい何かが見つかったら、それを漫画で描いてみたいと思ったんです。それが20代前半の頃ですね。

――いわゆる漫画家への道筋としては、自分で作品を描いていて賞に応募したり、先輩漫画家のアシスタントになって学ぶ、というのが一般的だと思います。ですが、石塚さんはどちらとも違うとか。

石塚:漫画家を目指す人のための入り口として、「小学館新人コミック大賞」というものがあることを知って「これしかない!」と思い、応募しました。とはいえ、それまで絵自体描いてきていなかったし、漫画の描き方もまるでわかりませんでした。そこで、弘兼憲史先生と浦沢直樹先生の作品を参考に、漫画の作りというのを学びながら、見よう見まねかつ手探りで描き始めたのが29歳の時でしたね。

――そして処女作『This First Step』で第49回「小学館新人コミック大賞一般部門」に入選し、2002年に同作でデビュー。今名前が挙がったお2人は、濃厚な人間ドラマを巧みに描くことで定評がありますが、やはり影響を受けていますか?

石塚:もともと漫画よりも小説などを好んで読んでいたので、僕は、今の時代を生きるひとびとを題材にした人間ドラマを描きたいとは思っていました。弘兼先生からは今も影響を受け続けていますが、技術的なものでいえば“読みやすさ”。説得力のある画力の高さもそうですし、ストーリーテリングも巧みなので、戻って読み直す必要がまったくないんですよね。読者にストレスを感じさせずに読んでもらうのは、僕自身が目指しているところでもあります。

――作品作りにおけるこだわりを教えてください。

石塚:僕は、事件性よりも“人と人の関係性”に惹かれます。多くの作品の中で描かれてきたテーマにどうアプローチするかというのが、僕の課題です。僕の作品には、悪いヤツはあんまり出てこない(苦笑)。一般的に“普通”と言われる、市井のひとびとの物語を描いていくということに向き合っていきたいと思っています。

――そんな石塚さんが、山岳救助漫画の前作『岳』から一転、次作に音楽漫画を描くと知った時、とても驚きました。

石塚:実は、構想はジャズのほうが山よりも先なんです。もともと漫画家を目指す際に、音楽を、それもジャズを描きたいという強い想いがあったんですが、大好きなジャズをテーマにするからには、ちゃんと読者に届けたいし、絶対に勝ちたい。とはいえ、当時の自分ではジャズを描くには切り口が難しいと思っていました。その点、山岳救助ならば、ハッキリとした動きのアクション要素もあるし、死生観も描けると思って。もしも、『岳』をちゃんと描き上げて漫画家として自信を持てたら、いつかはジャズを描いてみたいとはずっと思っていました。

――周囲の反応はどうでしたか?

石塚:みんな「ジャズはやめたほうがいいんじゃない」と。でも、『岳』を描き始める時も、「今時、山? 誰がそんなの読むの?」と言われていたので、逆に安心しました。似た状況だな、と。そもそも会社員を辞めて漫画家になる際に、当時の上司から「絶対にムリ」って猛反対されましたからね。ですが、その言葉によって、自分が本当に漫画家になりたいんだと知ることができ、決意を固めることができたので、今となっては感謝しています。

ライヴシーンは静と動。“わびさび”のような表現をもっと増やしていきたい

――反対する声が、一歩踏み出す原動力に。初連載で結果を残した上で、満を持して『BLUE GIANT』はスタートしましたが、音楽の中でも、基本的に歌詞が存在しないジャズは、とりわけ表現が難しいのでは?

石塚:そうですね。特に主人公の大が持っているサックスは、演奏中は両手を楽器から離すことができないので表現が限られます。ただ昔のレコードジャケットなんかを見ると、楽器と人間が一緒に写っているだけで、ものすごくかっこいいんです。それでもしかしたらいけるんじゃないかと思った……のですが、実際にやってみたらメチャクチャ難しくって(苦笑)。しかもストーリーが進むに従って、画もどんどん濃厚なものにしていかなければいけない。

――確かに。漫画は1枚画のみならず、コマ割りの中での表現が求められますね。描き文字(漫画のシーンを演出する擬音)と集中線、それとアングルの妙なのか、読んでいると、ページから音が聴こえてくるようにさえ感じます。その辺りのこだわりについてお聞かせください。

石塚:といっても、最初はアングル(画角)と画面の明暗くらいしか、できることがなく……あとはポージングです。演奏中の限られた動作の中で、いかにかっこよく見せるかが勝負で。映画などの映像作品や他の作家さんの作品など、なるべく勉強しようとしています。漫画だと、しげの秀一先生の『バリバリ伝説』とか。バイクって平面上の画では動いていないじゃないですか。なのに、本当に動いているように見える。ページから感じられる音の迫力がものすごくて、特に描き文字は、ギアを入れる音、タイヤがグリップする音、そのすべてがリアルで秀逸。僕の場合、バババババを多用しがちなので、もっと工夫しなきゃいけませんね(笑)。

――まさかバイク漫画とは、意外でした。

石塚:平面上でバイクが実際に動いているように描くことと、出ていないはずの楽器の音を聴こえるように表現するのは似ていると思います。それでいえば、スポーツ漫画もそう。そういった作品を読むことは、作品作りにおいて非常に大事だと思っています。

――ライヴシーンの臨場感も本作の大きな見どころですが、こちらは?

石塚:実際のプレイを観てインスピレーションを得ることはとても多いし、やっぱり一番直接的で重要ですね。しかも僕らの想像をはるかに超えるプレイを観ることができます。片手で演奏しながら、もう片方の手では強くリズムを取っていたり、観ているこっちも思わず「カッケー!」とか言っちゃうような。

――『BLUE GIANT』10集での、雪祈のピアノソロのシーンも鳥肌ものでした。周囲が暗い中で、冷静に、なのに熱く演奏する彼の姿だけが浮かび上がっていて。画面全体がすごく静かで、だからこそ音を感じさせるというか。それがすごく日本的な表現に感じました。

石塚:“わびさび”みたいな感じでしょうか。そう言ってもらえるのは嬉しいです。ただ激しさを感じさせるだけではなく、そういった表現をもっと増やしていきたいですね。

――あと、『BLUE GIANT』は練習シーンが多いですよね。

石塚:楽器を自分のモノにするという行為は、すごく孤独なものだと思うんです。以前、ジャズの関係者の方から、みんな尋常じゃないくらいの時間を練習に費やしていると伺いました。それを続けることができる人間だけが、ジャズを続けていけるんだそうです。なので、大はとにかく練習しています。僕自身は練習は嫌いなので、「大は本当によくやるよなぁ~」と感心しつつ(笑)。

――作品内では、演者同士がプレイ中にアイコンタクトをする描写が頻出します。

石塚:アイコンタクトはとても重要だと思っています。プレイ中の言葉を介さないコミュニケーションは、ここからもっと増えていくと思います。

――ヨーロッパが舞台となった『BLUE GIANT SUPREME』はまさにそうでしたね。日本からヨーロッパに渡ってすぐの大は、言語の壁にもぶちあたっていました。それが国籍も価値観もバラバラな3人とバンドを組んで、徐々にお互いを理解し、音で会話をするようになっていく。

石塚:ヨーロッパ編のテーマは“互いをどう理解するか”だったんですが、すごく難しかったですね。相手の思っていること、伝えたいことを、言葉では100%理解しきれないという前提があるので、お互いの表情やリアクションもかみ合わなかったりして。それでも音楽があればつながることができる、そしてその先に進むことができる、という状態を描きたかったんです。

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周囲から「違う」と指摘されるのは、チャレンジしている証拠

――また作品全体を通して、伏線の張り方がすごく自然だなと。例えば『BLUE GIANT SUPREME』のタクシードライバーとのエピソードは、『BLUE GIANT』での大みそかのネコのエピソードとつながっているんじゃないか? とか。

石塚:オォ~!! なるほど……僕自身も今、知りました(笑)。確かにそんなシーンでしたよね。感覚で描いていることが多いので、改めて考察を聞くと、自分自身でも発見がありますね(笑)。

――(笑)。主人公の宮本大はどのようにして生まれたキャラクターなんですか?

石塚:初期からずっと同じ担当編集者で、今はNUMBER 8という名義でストーリーディレクターも兼ねてもらっているんですが、連載開始前に彼と主人公について話した際に、僕っぽくもありつつ、でも違うということで誕生したのが、大です。そういう意味では、自分にはない部分を持っている。僕自身の憧れを形にしているところがあるかもしれません。

――不思議なヤツですよね、大って。ひと言では言い表しきれないというか。

石塚:僕自身、主人公がどんなヤツなのか、まだつかみ切れていません。すごく優しくて、家族や仲間、時に見ず知らずの他人にまで思いやりを持って接することができる反面、ジャズでさらなる高みへと昇っていくためには、すごく残酷な決断をしたりもします。

――作中でも、自己中心的な性格と仲間から言われていましたね。

石塚:描きながら「不思議なヤツだよなぁ~」って思うことは、しょっちゅうですね。でも、その不思議な部分がなくなると、すぐに普通のイイヤツになっちゃう。ネーム(マンガの設計図にあたるもの)が完成して、それをNUMBER 8さんにチェックしてもらう際に、「つまらない、(石塚さんが)大に入ってないな!」ってボツをもらうこともあるんですが、それって必ず、大が普通なことを言っている時なんです。「これでイイか」って描くとダメなんですよね。やっぱり、ちゃんと1人の人間として描かなくちゃいけない。

――登場人物の心理描写も様式的ではなく、かつすごくリアルで。

石塚:心の動きっていうのは予想できないんです。“このキャラクターはこういうことをしない、言わない”という制約自体、存在しないと僕は思っていて。なんでもするし、急に心変わりもするのが人間であり、だからこそおもしろい。なので、作中のセリフや展開なんかに関しても、お互いのアイデアを出し合って決めています。僕のアイデアが採用される時もあれば、NUMBER 8さんのアイデアが採用される時もある、まさにジャンケンのような感じです。

――なるほど。「ここでこのセリフが出るか!」といったシーンもあります。例えば、初ライヴ後のシーンとか。

石塚:大が、初ライヴで失敗してフラフラと夜の公園に向かい、無言でベンチに座るところですよね。そんな時、大の気持ちは? と考えていた時に、NUMBER 8さんから出たのが、「へでもねえや。」のひと言でした。

――すごく“らしい”セリフですよね。

石塚:それを聞いた時に、オォ! って腑に落ちると同時に、やっぱり大って謎だなと思いました。今も自分の中では、謎のまま大を描き続けています(笑)。

――石塚さん自身も、「なんとかなるって」や「まあいいか」という言葉が大好きとのことですし、そこは大と共通している部分ですね。

石塚:厳しいことを言われるのが好きなんですよ。誰かが叱ってくれていないと不安になるというか、周囲から「違う」と指摘されるのは、チャレンジしている証拠ですし、打たれ強くありたいとは常に思っています。デビューしたての頃も、原稿を持ち込んでボツが出ても、それで良し! と思えないとダメだって思っていました。逆境の中でこそ燃えるというか、ケチョンケチョンにたたかれればたたかれるほど、「人生が俺にチャレンジしてきたぁ!!」って。

“ジャズはカッケー!”という想いを若い世代にこそ伝えたい

――コミック巻末に収録されている、描き下ろしのボーナストラックもおもしろい試みですよね。大と関わったひとびとが、その後の姿で登場し、彼とのエピソードを取材されているという。

石塚:アメリカの音楽番組やドキュメンタリー番組には関係者のインタビューがあるじゃないですか。それを観るのが楽しくって。そのイメージで、先にゴールを見せるという実験的試みだったんですが、読者のみなさんが成長の過程を楽しんでくださっているというのがわかったし、そう言っていただけると嬉しいですね。

――そこで語られる大の姿が、現在進行形の彼からは想像つかなかったりもするんですが、最終的にどのような人物に成長していくのか、未来予想図はあるんでしょうか?

石塚:明確にはまだ決めていなくて。すごいプレーヤーになっている、それだけは決めています。大は世界一と言っていますが、僕がいろんなジャズプレーヤーを見た上で感じるのは、“みんな世界一”かもしれないってことです。小さなジャズバーで演奏し続けている人も、一流プレーヤーと呼ばれ、世界中をツアーで回っている人も。なので、大自身が何を世界一とするか、それはまだわからない。

――作中で描かれる、熱くてハゲしく、そして自由な音楽・ジャズ。既存のジャズのイメージとも異なり、すごく新鮮に感じられます。

石塚:静かなジャズもすごく良いんですけど、あくまで大という主人公が成長していく物語の中での、1つの定義付けとしてそうしました。僕は若い世代に、ジャズの持つ激しさという部分にかっこよさを感じてもらいたいんです。僕自身、ジャズに心揺さぶられた1人として、若い世代に“ジャズはカッケー!”ということを伝えたい、その想いは強くありますね。というのも若者にとってかっこいいかどうかはすごく重要。ジャズプレーヤーはかっこいいということをもっと伝えなきゃ、となるとまずは登場人物のファッションを頑張んなきゃですね(笑)。

――大の「白いシャツはジャズマンの証なんで!!」というセリフもありますが、ファッションはジャズを知る入り口としてありだと思います。

石塚:そう思います。そうやってジャズ=かっこいいとなれば、若者は自然とそちらに向かっていく。日本から、ジョン・コルトレーンのような世界的プレーヤーが現れる。そんな日まで、間口を広げていければなって。

――先ほど、常にチャレンジとおっしゃっていましたが、この『BLUE GIANT』シリーズにおけるチャレンジを挙げるとしたら?

石塚:本当に1話1話がチャレンジ。次の展開がわからないんですよ。毎話ごとに打ち合わせをして、次どうしよう? って、常にまっさらな状態から暗中模索でのスタート。大がひたすら前進していっているので、それに対してどうやって物語を進めていくかを、僕らもひたすら考える。それは1話目からずっと変わっていません。

――2月26日には『BLUE GIANT EXPLORER』の最新2集が発売されます。1集は、大が最初の地・シアトルを旅立つと宣言して終わりました。その後の展開が非常に気になります。

石塚:大は手に入れた車を運転して、アメリカを走り始めます。若者が自分で車を運転して旅をする。そういった何かを運ぶという行為に何かしらの意味があるんじゃないかなって思うんです。自らの足で訪れて、自らの目で見てみないとわからないことってたくさんある。そういった驚きの連続の中でこそ、何かを得られるんじゃないかなって感覚的に思っています。人や街、そして空気など常に新たな出会いを求めて前進していく。それが大の生き方で、そこで得られた何かを音として表現していけたらいいなぁと思っています。

――ボーナストラックから察するに、大の旅はまだまだ続き、連載もあと10年間は続くんじゃないかなと見ているんですが…。

石塚:アハハ、さすがにそんなには長くはならないと思いますけどね(笑)。それこそボーナストラックを描くたびに、風呂敷を広げ続けているので、それをちゃんと畳む。それまでは死ねないなって思っています。

石塚真一
1971年生まれ。茨城県出身。アメリカの大学に進学し、ルームメイトに誘われて始めたクライミングのとりこに。日本に帰国後は会社員を経て、独学で漫画家を目指す。2001年に『This First Step』で第49回「小学館新人コミック大賞一般部門」に入選。2002年、同作で『ビッグコミックオリジナル』増刊号にてデビュー。2003年から『岳』の連載を開始。同作で2008年3月に第1回「マンガ大賞」を、2009年1月に第54回(平成20年度)「小学館漫画賞一般向け部門」を受賞。現在は、2013年から連載がスタートした『BLUE GIANT』シリーズが、『ビッグコミック』で連載中。
https://bluegiant.jp

Photography Shinpo Kimura

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アーティスト・田中かえの目で見る、描く“カワイイ” 関西初となる個展も開催 https://tokion.jp/2021/02/10/kawaii-perceived-and-drawn-by-kae-tanaka/ Wed, 10 Feb 2021 11:00:23 +0000 https://tokion.jp/?p=18687 大きな瞳と柔らかなフォルム。人間らしくも2次元的にデフォルメされた“カワイイ”女の子で、見る者を独自の世界観へと引き込むアーティスト、田中かえ。そのクリエイションの裏側に迫る。

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乃木坂46「オニツカタイガー」「メディコム・トイ」「ビームス」など、多彩なジャンルとのコラボレーションでも注目を集めているアーティスト、田中かえ。手塚治虫吾妻ひでおらに影響を受けたという彼女が描く女の子像は、大きな瞳とニュッと伸びた手足、柔らかなフォルムが特徴だ。人間らしくも2次元的にデフォルメされた“カワイイ”が、見る者を独自の世界観へと引き込む。
今回は、関西では初となる個展「田中かえは、京都でもいっぱいいっぱい」の開催に合わせて、彼女の描く女の子像について、そして作品の背景にある自身のことを、メイクやファッションなどのディテールパレットも絡めて語ってもらった。

絵という表現方法なら「自分でも発信できるのかも」と、受け取る側から発信する側に

――絵を描き始めたきっかけを教えてください。

田中かえ(以下、田中):母が、みうらじゅんさんや安斎肇さんが好きで、音楽にもすごく詳しく、妹にもクラウス・ノミを勧めたりするようなサブカルの人だったので、アートに対する理解がある家庭でした。幼少期から美術教室に通わせてもらっていましたし。そんな“なんとなく絵がうまい子”だった私が、中学生になってからわりと自分の絵が褒められるってことに気付いて。そこからですね、ちゃんと絵を描き出したのは。

――アートやサブカル的土壌があったんですね。

田中:とはいえ、当時はSNSなんかもなかったので、どこかに投稿したり、発信するわけでもなく、アウトプットとしては友達の持ち物に描いてあげるくらい。それが高校生になってTwitterを始めて、デザフェス(デザインフェスタ)やコミティアに客として行ったりするようになり……。

――そこで刺激を受けて、自身も受け取る側から発信する側に。

田中:ですね。絵という表現方法なら、自分でも何か発信できるのかもって思ったんですよね。

――田中さんは多彩なジャンルとのコラボレーションでも注目を集めていますが、キャリアの出発点は?

田中:話すたびに毎回変わっているかもしれませんが(苦笑)。一番最初にちゃんとお仕事として絵を描いたと認識しているのが、乃木坂46さん。18枚目シングル『逃げ水』のMVの台本に絵を描きました。当時は大学4年生だったので、もう3年前の話ですね。

――いきなりの大抜擢!

田中:本当にそうですよね。そのMVの監督が、メッチャ好きだったSAKEROCKのMVなども手掛けた山岸聖太さんだったので、お話をもらった際にビックリしました。

――MVの台本に絵を描くって、あまり聞かないような。

田中:普段はないんじゃないですかね? この曲では、センターポジションに大園桃子ちゃんと与田祐希ちゃんという3期生メンバーが初めて立つということで、周囲もメンバーもバタバタしていたようで、「メンバーを元気づけるためにかわいい台本にしてあげたい」と連絡をいただいて、描かせて頂きました。

――大学在学中の話ということですが、いかがでした?

田中:それまでも地下アイドルのグッズ製作などの依頼はありましたが、何度もやりとりを重ねて、クライアントのレスポンスを待って進める。そういう“仕事っぽい”のが初めてですごく新鮮でおもしろく、良い経験になりました。

――BiSHモモコグミカンパニーさんのエッセイ本『きみが夢にでてきたよ』でも、特典イラストを手掛けていらっしゃいましたし、入り口がアイドルだったという人も多そう。

田中:だと思います。モモコちゃんとはもともと知り合いで、友達伝いに話をもらいました。そこで清掃員(BiSHファンの総称)が興味を持ってポップアップイベントや、個展に来てくれるというパターンも増えまして。「僕、清掃員なんです!」って声かけてくれて、「あぁ、そうなんすね」みたいな。実際、一番最初にファンになってくれた方も、ねむきゅん(でんぱ組.incの元メンバー・夢眠ねむ)と一緒に参加したアート展に来ていた、でんぱ組.incオタクでしたし。

手塚治虫さんや吾妻ひでおさんを知って
“自分はこれでいいんだ”という自信を持つようになった

――田中さんの描く女の子は、大きな瞳とニュッと伸びた手足、柔らかなフォルムといったデフォルメが独特です。現在のタッチに至るまでの道のりを教えてください。

田中:昔描いていた絵は、今見ると結構ヤバイです。そもそもデッサンもメチャクチャ下手くそだったんですよね。高3から画塾に通っていたんですが、1年間しか勉強しなかったので、少人数だったのにクラスでもずっと最下位。自分のダメさに涙を流しつつ、音楽を聴きながら歩いて帰るみたいな日々で、マジで苦痛でした。

――美大合格はかなりの難関だとか。

田中:そうですね。美大の受験って、静物デッサンや色彩構成など、受験生が全員同じ試験内容なんですよね。人によって目指していること・やりたいことが違っているはずなのに。でも私の場合、例えばデッサンなんかでも、机にモノが置かれている意味がそもそもわからない。なので、正しい影の付け方も理解できなかったし、人物を描いても地面から浮いちゃっているっていう。ひと言でいえばバカだったんです(苦笑)。

――感覚型で、あまり計算型の思考には向いていないんですね。

田中:本当にそう。受験も実技以外の学科が国語と英語だけなので、それらの点数が良かったからどうにか補欠合格できたって感じ。肝心のデッサンや色彩構成なんかは、200点満点中50点でしたからね。最低点じゃないですか、しょうがないから点をあげるみたいな(笑)。その後、多摩美(多摩美術大学)に合格し、授業を受けていく中で、デッサンがうまい=絵がうまいではないと気付くんですが、やっぱりうまくはなりたかったので、まずはポーズ集を1冊丸々模写することから始めました。そこから大学に置いてあった海外の画集をひたすら模写しているうちに、何となく形も取れるようになったので、次に静物を練習するように。そうやって少しずつ進んでいく中で、強く影響を受けたのが漫画でした。

――影響というと?

田中:手塚治虫さんや吾妻ひでおさんなどを知って、“リアルで正確じゃなくてもいい絵”が存在することで気持ちが楽になったというか、“自分はこれでいいんだ”という自信が持てるようになったんです。

――両作家とも女の子のかわいさで知られていますし、2人からの影響は大きそうですね。

田中:吾妻ひでおさんの作品を読むと、女の子を描いている線がすごく楽しそうで、それが私にもよくわかるんです(笑)。例えば、フォルムとしての線の細さ。『鉄腕アトム』のアトムのようにジェンダーレスな感じは、描いていて気持ちいいんです。男性よりも長いまつ毛や髪の毛、服のシワもそうですね。その中でも、一番こだわっているのが目と鼻と口のバランス感。これまでの作品を並べて見比べると、それぞれ微妙に違ったりしていますが、総体的には同じになるように意識しています。その上で、“田中かえの絵”ってわかるように描くというのが今の目標です。

他人の作品をまんまコピーして同じような絵を描いて、意味があるの? って

――どんな時に、描きたいっていうスイッチが入るんですか?

田中:スイッチは常に入っています。むしろ描いていないと下手になってしまうし、不安になってしまうので。

――そうして常に描き続けているからか、過去の作品と見比べると、頭身やバランスなのか、女の子から少しずつ女性へと成長しているようにも感じます。

田中:確かに、それはあるかも。色の塗りはほとんど変化がないんですけどね。見比べると「この辺は、吾妻ひでおさんの影響を受けているなぁ」って、感じる人もいるかもしれません。なんか“オンナ”って感じが出ているというか。

――ファッションのかわいさも、田中さんの作品のポイントですが、何かを参考に?

田中:ありがとうございます。でも、手クセで描いているということもあって、レパートリーが少ないんですよ(笑)。スウェットか襟の大きいトップスを着ているかがほとんど。シルエットというか質感に関しては、フワッとしているかクシュッとしているのが、かわいくって好きですね。

――先ほどの漫画もそうですし、ご自身のファッションも然り。田中さんの“好き”が作品にも色濃く感じられます。

田中:ファッションやメイクは特にそうですね。以前はそれこそ、乃木坂ちゃんの衣装のようなかわいい服が好きだったので、よく描いていましたが、今はストリートっぽい服ばかりというのも、私自身と一緒(笑)。

――メイクでいえば、初期の作品はあまり化粧っ気がないように感じますが、最近はアイメイクしている作品も見受けられます。

田中:メイク自体はもともと好きでしたが、自分の描く女の子にもメイクをさせてみたらかわいいかなって思って試してみたら、楽しくって、たまにやっています。あとキャラクターの顔で言えば、ホクロが好きというのはあるかな。モモコちゃんの時もそうでしたが、アイドルの子を描く時も見える範囲は全部描き込むようにしています。

――好きだからこそのこだわりですね。ところで最近、SNS上で田中さんの影響を受けているだろうなという作品が散見されます。どう感じていますか?

田中:まったく同じタッチ、同じ構図という作品も、たまにありますね。しかもそういう人に限って、私のことはフォローしてなかったりするので。けどそういう絵は、つまんない絵なので、最近はまったく気にならなくなりました。

――本人に見つからないようにやっているのは、コピーだと認識しているからなんでしょうね。

田中:ですかね。目がゆがんでいる女の子もよく見るので、最近は描かなくなりました。ただ、どことなく田中かえっぽい匂いがするとかは全然いいんですよ。好きで影響を受けていると言われれば嬉しいですし。だからといって、他人と同じような絵を描いても、それは自分にとって意味がないんじゃないの? とは思います。

――では、オリジナリティとはなんだと思いますか?

田中:やっぱり原画の線じゃないですかね。私も、自分の中で「よっしゃ、キタ!」って線があって、引けた瞬間にわかるんです。すごく確率は低いけど(苦笑)。パーツだったら目や鼻がわかりやすいかもしれませんね。なので、鼻を描く際は息を止めて集中して描いています。

――まさに画龍点睛。

田中:ペン先の具合で絵も変わってきちゃうんです。これくらいのサイズだと、ペン先でチョンくらいだからあまり影響はないけど、絵のサイズが大きくなってくるとマジでムズいですね。あとはインクの濃度もいつおろしたかで変わってくるので、そこも把握しておかなくちゃですし。

――“弘法、筆を選ばず”なんて言葉もありますが、実際は道具も重要。

田中:毛先の細さを表現するのに向いているペンとかもあるので、いろんな種類を試しているし、違うなと思ったらすぐに変えます。ここ数年は、「パイロット」のジュースペイントという水性顔料マーカーを愛用中。下書きは3Bのシャーペン。もともと筆圧が強くて下書きの線が残ってしまうので、筆圧を弱めても線がわかるように濃いものを選ぶようにしています。

――どの作品も下書きの線が全然見えませんが、1発勝負なんですか?

田中:そもそも下書きを消すのが嫌いなんですよ。消しゴムを乱暴にかけると紙が破れたりしちゃうので、そうなったらもう描き直しちゃいます。

――毎日描き続けていて、どんな時に自身の成長を感じますか?

田中:画材を変えても絵が荒れなくはなりましたね。あと「ビームス」とのお仕事で、ようやく自分がのちのち見返した際にも、恥ずかしくないと思えるようになったし。そう考えると成長したのかなって。

“カワイイ”は移り変わるものではなく、時代ごとのバリエーションが増えていくもの

――現在は、個展「田中かえは、京都でもいっぱいいっぱい」が開催されています。関西での個展開催は初めてだとか。

田中:はい! 今回は、原画以外にもジークレー(デジタルデータを最高級素材に、高精細で広色域なプリントインクジェットプリンターで刷り上げる)作品や、B0サイズのキャンバス作品も展示します。ジークレーは初めてなので、反応がまだわからない部分はありますが、デジタルでの作品制作にも慣れてきたので、以前よりも自分自身が感じるイヤさは減ったかなと。

――似顔絵のライヴドローイングもあるんですよね。

田中:かなり人数を絞ってですが、土日限定の先着受け付けでやっています。でも、ライヴドローイングではなく、顔写真をその場で撮影して、あとからできあがった似顔絵を自宅に送るというスタイルにはなります。

――楽しみですね。今後の展望を教えてください

田中:飽きられないようにする、ですかね。今ってインターネット上で見るだけで十分と感じるような絵が増えていると思うんです。なので、原画を買ってもらえるというのは、すごく光栄なことでして。それも若い子が「初めて絵を買いました!」って言ってくれるのが何よりも嬉しいです。私の絵をデザインしたアパレルやソフビも手に取ってもらいたいけど、やはり原画に触れてもらいたいというのはあります。その作品自体を描くのに使う時間は、たとえ30、40分かもしれませんが、そこには私が学んできたことや時間などすべてが詰まっていますので。

――海外でも日本のKAWAIIカルチャーが注目されています。田中さんの作品も海外からの反応が良さそうだし、オファーも多そうです。

田中:実は、インスタのフォロワーも7割は海外の、それもほとんどが英語圏の方なんです。海外での活動にも興味はありますが、あちらはサイズの大きい作品が好まれるので、私のスタイルだとそこがちょっと難しそう。とはいえ今、イタリアのバッグブランドから連絡をもらって、拙い英語を駆使しながらプロジェクトを進めているところ。オファーも頂くんですが、猜疑心が強く基本的に他人を信じない性格なので、そういうメールは結構スルーしちゃっています(笑)。

――“カワイイ”の基準は時代とともに変化しますが、田中さんの作品に描かれる女の子も変わっていくんでしょうか?

田中:“カワイイ”は移り変わるものではなく、時代ごとのバリエーションが増えていくものだと思っています。私が描いている作品を見ても、タレ目もあれば、吊り目もあるし、髪型やファッションだってそう。表現の幅は広い方が良いと考えているので、私自身もそうありたいと思っています。

――最後にお聞きします。田中かえが描く女の子、その完成形とは?

田中:すべて完璧に引かれた線で描かれていること……ですかね。もちろん、それが実現したあかつきには、もったいなくて絶対に手放しませんが(笑)!

田中かえ
1995年生まれ。イラストレーター。手塚治虫・吾妻ひでおから影響を受け、イラストを描き始める。多摩美術大学を卒業後、アーティスト活動を開始。近年では、乃木坂46やモモコグミカンパニー(BiSH)、「オニツカタイガー」「ビームス」など、さまざまなジャンルとのコラボレーションでも話題を集めている。
Twitter:@helloverysunday
Instagram:@kaechanha24

■「田中かえは、京都でもいっぱいいっぱい」
会期:開催中~2月25日
会場:京都・藤井大丸 7F 7gallery
住所:京都市下京区寺町通四条下ル貞安前之町605番地
時間:10:30~19:00
休日:2月16日
https://www.fujiidaimaru.co.jp/limited_shop/2021-01-30tanakakae

Photography Shinpo Kimura

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48mm四方の曼荼羅――日本から世界へ広がる自作シールカルチャー https://tokion.jp/2020/11/07/diy-sticker-culture/ Sat, 07 Nov 2020 01:00:57 +0000 https://tokion.jp/?p=8987 1980年代後半、日本の子ども達の間で大ブームとなったお菓子のおまけシール。そのDNAは時を経て、“自作シール”という新たなカルチャーに。日本発、めくるめく48mm四方の世界。

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「ビックリマン 悪魔VS天使シール」に「レスラー軍団抗争Wシール」など、1980年代後半に日本の子ども達の間で大ブームを呼んだ、お菓子のおまけシール。そのDNAは時を経て、“自作シール”という新たなカルチャーとなり、盛り上がりを見せている。個性豊かな作家達の手によって、48mmの正方形の中で広がる創造の世界は、あたかも曼荼羅のごとし。今や日本を飛び出し、アジアに飛び火し、ファンとファンとをつなぐ新たなコミュニケーションツールになっている。ただのノスタルジーではなく、常に最新の表現技術と最高のクオリティを求めて進化を続ける自作シール。その最前線に迫る。

おまけシールブームの沈静化と、自作シールの夜明け

本来、お菓子の購買意欲を高めるための付属品に過ぎなかったおまけシールに、一大転機が訪れたのは1985年。ロッテがかねて展開していた「ビックリマンチョコ」シリーズの第10弾として発売した「悪魔VS天使シール」が、異例の大ヒットを遂げる。まるで創世神話のように複雑で壮大な世界観、個性豊かなキャラクター、そしてレアという概念が絡み合った同タイトルは、日本中の子ども達を巻き込み社会現象にまで発展。これにより1980年代後半には、ベルフーズの「レスラー軍団抗争Wシール」やフルタ製菓の「ドキドキ学園 開運軍団vs妖怪軍団シリーズ」他、種々雑多なタイトルが乱立する、おまけシールブームが到来する。

だが時代の変化は無情で、次々と新たなるホビーが生まれては消えていくのが常。1990年代前半にはブームも沈静化を迎える。その後の1999年、「ロッテ」から「ビックリマン2000」が発売され、再びおまけシール界隈が盛り上がっていくのと同時に、当時のブームをリアルタイムで体験していた人々を中心に、新たなカルチャーの輪が広がっていく。“自作シール”の夜明けである。

創作の源は、作りたい・表現したいという初期衝動

そもそも“自作シール”とは文字通り、自分で作ったシールの総称のことなのが、現在では“おまけ風シールを自分で作ったシール”という意味でも、浸透してきている。

「1990年代後半から同人即売会で、おまけ風シールを自作して頒布するという文化が誕生し、花開いたのは2000年代に入ってから。自分自身が自作シールに関わるようになったのが、2013~2014年頃。まだ日が浅いこともあり、おこがましいという気持ちが大前提にありますが、自作シールを扱うまんだらけの担当として語らせていただくと、同人誌やZINEと同じように、あくまで作家自身の作りたい、表現したいという初期衝動から生まれたものが“自作シール”だと捉えています」。

そう話すのは、創作シール委託通販サイト「シール横丁」を運営する、まんだらけの中津誠貴。日本各地でそれぞれ活動していた作家とファン、また同時に作家同士をつなぐハブとしての役割を担うべく誕生したのが同サイト。その責任者を務める彼は、こう続ける。

「同人サークルのMOOK-TVさんが『自作シールのススメ』という同人誌を作っていますが、そこでも2000年前後に第1次自作シールブームが到来していたと書かれています。当時から作家はたくさんいましたが、2次創作系が多く、オリジナルの作品を作っている人はまだ少なかったようですね」。

ここでいう2次創作系とは、本家「ビックリマン」をはじめ、アニメ・漫画・ゲームなどの創作物に登場するキャラクターのパロディを指す。ではオリジナルでデザインされた、おまけ風シールだったらすべて自作シールとなるのか? 近年では、ネギオコーポレーションの「ラーメンラリーシール」や、イヒカの「大和神伝」など、個人の枠を超えた企業が母体となり、おまけ風シールを展開するケースもある。まんだらけも「境外滅伝」というシリーズを販売していた。門外漢は、これらも等しく自作シールにカテゴライズされるように思いがちだが、実際は違う。

「どれもグリーンハウスさんなど、プロのデザイナーに然るべきギャランティを支払った上で、製作・運営されているシール企画なので“自作シール”というカテゴリーからは、はみ出すと感じました。言うなれば、“現代によみがえった、おまけ風シールのニューウェーブ”という捉え方が妥当なのかなと。レコードで例えるとわかりやすいのですが、自作シールはインディーズの新譜にあたります」。

一方では、インディーズだからこその“おもしろいもん勝ち”なクリエイティブ精神のゆえに、マッシュアップ(既存のキャラや要素同士をミックスしたもの)や、素材や色を変えたブートレグなど、権利問題に抵触しそうなものも存在する。だが、あくまで個人的な趣味として作るという前提があるため、その可否を問うのはナンセンス。9月に「まんだらけ」から発売された、2000年から現在に至るまでの自作シールカルチャーの歴史をまとめた書籍『自作シール本』にも掲載は控えられているものの、紹介できないのが残念なほど個性的なシールも数多い。

「この『自作シール本』では、残念ながら2次創作系のシールは掲載できませんでしたが、その自由さとフリーキーさには引かれてしまいます。偏愛と妄想を48mmの中に押し込んだ、それらの作品が存在したからこそ、ここまで自作シールというカルチャーが自由に、そして大きく成長したのだと思っていますし。これは私だけではなく、自作シールに関わっているすべての人達の共通認識ではないでしょうか」。

自作シールコミュニティの拡大化。進化するクリエイティビティ

自作シールに興味を持つ人々が徐々に増え始めたことで、コミュニティは拡大。その結果、2006年頃から各地でシールイベントも開催されるようになっていった。まんだらけも2016年から「さん家祭り」という名の自作シールの即売、交換、交流を目的としたイベントを、年1回のペースで開催している。2020年は、新型コロナの影響で実イベントは中止となったものの、オンラインで開催されることに。イベント開催当日、全国の自作シールファン達のタイムライン上で、“#さん家祭り”がホットワード入りしていたことも記憶に新しい。

「さん家祭り」の第1回が開催される直前の2014年~2016年が、第2次自作シールブームにあたり、この時期から新規参入した作家も多い。現在はさらに、シーンで活動する作家人口が微増傾向。1998年から活動しているホビット商店を筆頭とした実力派の作家達に、追いつき追い抜けと、技術向上に励む新人作家達。こうして新陳代謝を繰り返しながら、シーンは支えられている。

ではここで、いかに自作シールが進化しているかを知るために、「TOKION」が注目する作家達と、その作品をいくつか並べてみよう。

まずは、2008年頃から活動を始めた、ハッピー城/モザ。まず驚くのは、引き出しの多さである。ストレートに格好いいと感じさせる「ウイングマンシール」から、フリーメイソンに秘宝館などのディープなネタまでを網羅し、サブカル好きをとりこにする。また、見る角度によって絵柄が変化する、レンチキュラー素材を最大限に活かした「秘密結社シール」。さらに丸型や6角形などの変則的デザインを採用するなど、常に革新的なアイデアと駄精神の融合に挑戦している点においても、シーンを代表する1人といって間違いないだろう。

グラフィックデザイナーを本業とする、キトライライヘイ。007年頃からなじみのロックバーで、ヘビーメタルミュージシャンをビックリマン風に描いて仲間内に披露していたのがシール制作の始まり。本格的な活動は2013年頃から。自作シールファンのみならずヘビーメタルファンの間でも知られている。オーパーツ×ヒーロー、カレーなど斬新なモチーフ選びと、かわいらしいデフォルメが渾然一体となった作品を発表。仏像をモチーフとした「ホトケサマンシール」においても、彼の持ち味が遺憾なく発揮されている。

2014年から活動を開始した、OHTシール/オートマン。その偏執的なまでに精緻なデザインと複雑な版使いを見事に具現化してみせた「アーサー王伝説」は、自作シールファン達に大きな驚きとともに迎え入れられた。プリズムに金銀の箔押しにラメ印刷と、印刷を自前ではなく業者に任せることで生み出されるシールの完成度は非常に高く、48mmの制約を最大限に極めた作品となっている。かのシリーズは現時点でまだ未完。今後どのように表現技術が進化するのか、そしてどのように物語が完結を迎えるのか、今から楽しみだ。

この他にも、造形師ピラヲとユニットを組んで、立体物とセットで展開する、善滅文化教材社/ドク、自作漫画と同時進行で世界観を広げる、Drドクロンの野望/バクリッコ、ダイス型にキャラを配置した、超能力ボーイズ/ユリ・ゲ郎……揺るぎない実力と類まれなるアイデアを持った作家はまだまだ存在するのだから、実に奥深くおもしろい。

海を越えてつながる48mmのコミュニケーション

さて、このようにカルチャーとして日々、成長を続ける自作シールだが、全世界に広がっているとはまだ言い難い状況にある。そんな中、日本同様にブームの萌芽が確認されているのが香港。2019年には、不安定な情勢下でも、自作シール即売会「第一届香港貼紙展2019」が開催され、自作シールとカルチャーを愛する人々が集った。当地に赴き、現地の熱気を肌で感じてきた中津さんは語る。

「香港では、日本のおまけシール付きのお菓子が販売されていたと聞いています。ですので、日本のユーザーと同じように、幼少期からおまけシールにはなじみがあるようです。そういう意味でも、おまけシールなど駄カルチャーに対するメンタリティがわれわれに近く、そういった土壌がすでにできあがっていたからこそ、自然と受け入れられたとも言えます。実際、この香港での自作シールのカルチャーも日本から伝わったのではなく、あちらから『自分達もこういうモノを作っている』というアピールがあって、われわれも知りました」。

上記2作品は、香港の作家によるもの。中国神話から題をとったモチーフや、日本と酷似しながらもお国柄を感じさせるデザインや色使いなど、自作シールのおもしろみの1つであるローカライズも色濃く感じられ、実に興味深い。最後に、中津さんに自作シールの未来について尋ねた。

「芸能人やアーティストなど、これまでおまけシールに興味がなかった人々の間でも、おまけシール風の名刺シールを作って、コミュニケーションツールにするのが楽しいという文化が芽生えてきています。なので、そこからさらに深掘りし、自作シールへとたどり着く人が出てくると嬉しいですね。そして、今後はアジアから欧米、そして世界中にこのカルチャーが広がることを期待しています」。

かつてインドからシルクロードを通って中国にもたらされた仏教は、海を渡って日本でも広がった。その一派である密教において、仏の悟りの境地、森羅万象を文字や絵を使って抽象的・象徴的に表現するために描かれた曼荼羅。あらゆる要素を詰め込み表現する自作シールにもまた、相通じるものを感じる。それは再び海を越えて日本から世界へ。新たな表現手段・コミュニケーションツールとしての無限の可能性が、このわずか48mm四方の世界には広がっているのだ。

参考文献 『自作シール本』 
発行:シール横丁事業部 発売:まんだらけ出版部
画像提供 シール横丁事業部

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