離婚して車中泊になったノマド漫画家・井上いちろうの日々

「“自由”になれたはずが、毎朝“不自由さ”を感じています」。

これは、離婚を機に、自宅を手放した漫画家・井上いちろうの言葉である。彼は、父から譲り受けた軽ワゴン車で車中泊をしながら、気の向くまま、各地をのんびり巡りつつ旅先で漫画を描く日々をTwitterで発信し、現在では3万人ものフォロワーを誇る注目のノマド漫画家だ。

新型コロナウイルスの流行が引き起こした世界的不況により、バンライフ(車を中心としたライフスタイル全般を指す)という生き方に注目が集まる昨今。これからさらに増えていくであろう、家を持たないライフスタイルを実践している男が語るのは、非日常を日常とする者の偽らざる声。

もう一度、家を手に入れてイチからやり直すなんて、アホらしいなって

――現在の生活を始めたキッカケが離婚だったとか。

井上いちろう(以下、井上):そうですね。その1年前に中古で一戸建ての家を購入していたんですが、それを売却して財産分与で分け合う形になったので、引っ越さざるを得なくなってしまいまして……。いわゆる人生における大きな買い物の頂点といえば家じゃないですか。もう一度そこを目指して、イチからやり直すことに、ちょっとアホらしさを感じてしまったんです。その気力もないし、そもそも意味がないと思っちゃったんですよね。しかもその時、タイミング的に全然仕事がなかったので開き直ってという感じですかね。

――金銭面が理由としては大きかったんですか?

井上:大いにあったんじゃないでしょうか。一時期は年収も2千万円近くありましたが、出版不況で仕事をしていたギャンブル雑誌の相次ぐ廃刊で、月収も10万円までに激減。僕自身の仕事が減っていく一方で、妻は働いていたため僕に対して依存することなく、自立できる状況にあったということが、離婚に踏み出す要因にあったと思います。

――そしてお父様から譲り受けたのが、のちに新たな生活のベースとなるスズキのエブリイワゴン。

井上:離婚する3年くらい前に親父が新車で買っていたけど、走行距離も3万kmちょっとであまり乗っていなかったんですよね。それで車を見た瞬間に「これで全然、生活ができるじゃないか」と確信を得て、車中泊で生きていくという決意に拍車がかかりました。

――生活のベースになっているのは、高速道路上に設置されたSA(サービスエリア)・PA(パーキングエリア)なんですよね。ずっと車で過ごす生活というのは、どんなものでしょうか?

井上:みなさんは車を所有していたとしても、街中だと大してスピードを出すことはないじゃないですか? それが僕の場合は違うんです。出発したら即フルスロットルで、いきなり時速100kmの世界に放り込まれる(笑)。そういう生活ってないじゃないですか。そうするとどうなるかって、その日の気候や温度、湿度で車のエンジンの調子が一発でわかるようになるんですよ。これは普通に車と付き合っていたらわからない。僕にとって車は文字通り相棒のような存在になっていると改めて気付いて、自分でもちょっとびっくりしました。

――もはや職業ドライバーの域に達していますね。どのような生活ルーティンを過ごしているのかも気になります。

井上:どうしても夜に作業することが多いので、近隣に迷惑をかけないような気遣いは必要になります。その点、SA・PAはドライバーのために作られたものなので、夜そこで何をしていようが基本のマナーを守りさえすればOK。僕はエンジンも切っていますが、周りの長距離トラックなんかはかけっぱなしです。そこで午前10時くらいに仮眠から目覚めて、お腹が空いていればご飯を食べたりもしますが、そこでまたちょっと作業をします。ここで重要なのが、高速道路に決められている滞在時間のリミット。高速道路に入った時間と走行距離から計算して、高速道路滞在時間が長いと判断された場合、ETCゲートが開かなかったり、出口で止められてしまうんです。僕はそのギリギリのタイミングを把握しているので、その時間内で作業ノルマを決めて、その日の行動スケジュールを組むようにしています。

――漫画はどのように描いているんですか?

井上:車両後部の荷室に作業スペースを作って、そこでiPadで描いています。ということもあって、この生活にポータブル電源は必要不可欠。常にバッテリー残量を確認しつつ、減ってきたら走行充電に入るというように、昼間〜夕方にかけては移動に費やしている感じですね。また、この生活における最大のわずらわしさは渋滞なので、一般道が混む夕方の17時〜18時くらいはあまり移動をせず、作業時間に当てたり高速道路上を走っていたりすることが多いです。とはいえ、それも車内の快適度に左右されるので、そこは季節や気候に応じて。夏場なんて、殺人的な暑さになりますから(笑)。

――食事やお風呂は?

井上:食事はSA・PA、コンビニがメインですね。洗濯物なんかは週1回ペースで、街のコインランドリーで済ませて、お風呂は銭湯だったり健康ランドを使ったりしています。食べ物もですが、そういった土地ごとのお気に入りを見つけるのも楽しみの1つですよ。

――移動にはガソリン代はもちろん高速料金もかかるし、意外にコストのかかる生活にも思えますが……。

井上:移動といっても、僕の中では大移動と小移動というのがあります。例えば大移動で、渋谷から静岡まで移動するとなると、高速料金が約3600円。それが深夜割引だと2000円ちょっと。さらにガソリンがフル満タンにして約4000円で、向こうに到着したらメーターが1/3に減っててという塩梅。これが小移動だと1区間しか乗らなかったりするので250円〜300円。それで一夜を明かすとなると、僕のその日の宿泊費は約300円+αで済む計算となるので、コストパフォーマンス的には悪くないかなって。ただ、そのガソリン代がすごくて……。去年は年間約60万円! ちょっと自分でもびっくりしちゃいましたね(苦笑)。

――今は、生活のベースとなっているエリアってあるんですか?

井上:むしろ、それを広げる日々っていう感じです。僕の場合は観光的なこともしますが、別に日本一周などの目的を持っているわけではないので、一度訪れた土地をしつこく回るんです。で、そのうちにその街での立ち回りが見えてくる。それが見つかるまで大体1週間はかかります。

――そういえば、漫画の中でパチンコ屋に行く描写がありますが、旅先でも打っているんですか?

井上:やります、やります! 春夏の時季は特に。さっきも話したように車中がかなり暑くなるので、避難場所としてパチンコ屋に逃げ込むんです。もともと旅打ちのパチスロ漫画を描いていたこともあったので経験則として「まだ勝負ができる」という確信もありましたしね。もちろんメインにする気はありませんが、それも生活していく上での選択肢の1つにはありました。今後はそこも漫画で描いていくことなると思います。

――それは楽しみですね。ところで、最近はバンライフや車中泊をテーマにした漫画や映画も増えています。ご自身への注目が集まっていることは実感していますか?

井上:どちらかといえば最近よりも、去年の緊急事態宣言が出た直後にそれを強く感じました。世間がテレワークやリモートワークに目を向けるようになり「世間が注目してきたな」と。今じゃ、『ノマドランド』がアカデミー賞を取りそうな勢いですが、あれなんかは僕に近いかな。なので、今はやっているバンライフに、自分はあたらないのかなあって。正直、何千万円もするキャンピングカーを買うお金があれば、いい部屋に住みますよって話ですからね。もちろん、住みませんけど(笑)。

自由になれる場所を探して、旅をしているとも言えるかもしれない

――2019年12月に、Twitter漫画『#離婚して車中泊になりました』を投稿しだしますが、その後すぐに緊急事態宣言が発令され、県を跨いだ移動に対しての風当たりが強くなっていきました。

井上:そうですね。他県ナンバー狩りとかもあったりして、地方を訪れるということに対して、後ろめたさだったり難しさだったりを感じる部分はありましたよ。当初は地方の知らないところをたくさん巡るといった、観光的な部分も描きたかったんですが、ちょっと厳しい空気になってきて……。結果的に高速道路を行ったり来たりっていう内容になりました。

――そもそも、なぜTwitterを使って漫画を発信しようと考えたんですか?

井上:この生活に入ったのが2019年の10月くらいだったのかな。最初に話したように、その頃には漫画の仕事がもうほとんどなくて自暴自棄に近い状態だったこともあり、おもしろそうだなと思ったんです。もし仕事がなくても家を売った金があるから、たまに入ってくるイラストの仕事をすれば、1年や2年ぐらいは生活できると楽観視していましたし。ただ問題は、家財道具を一切合切処分してしまったので、仕事が入ってきても漫画を描くことができない(苦笑)。そこで必要に迫られてiPadを購入して試してみたら、結構早く描けるぞと。同時に「俺って、漫画を描くことがやっぱ好きなんだな」とも気付かされつつ、これで全国を回りながら漫画を描いて発信するのもおもしろいんじゃないかって考えて、Twitterに漫画を投稿することにしました。

――純粋に、希望に胸を膨らませていたわけですね。

井上:ですね。当時はそんな生活をしている漫画家なんていなくてチャンスだと思っていたので、同情的な反応のほうが多かったことには僕自身、若干困惑しつつ(苦笑)。

――井上さんの漫画には哀愁のようなものを感じるので、それも一因かもしれません。基本的にオチがなく終わるので、そこに哀愁も感じるというか。

井上:おもしろいという価値観は読み手によって千差万別なんですよね。しかもそこを追い求めることって、フィクションとも表裏一体。そもそも毎日の生活の中で、オチがつくなんてほぼないですからね。僕の中でこの作品は“100回に1回おもしければいい”を合言葉に描いているんです。4ページに、これまで話したような日々の気付きだったりをつづっていけばいいやって。

――そして、3月22日には『#離婚して車中泊になりました』(ソノラマ+コミック)の第1巻が発売されます。ファンは待望だったのではないでしょうか。

井上:コミックが出るのはありがたいのですが、僕の中では何も変わらないし、絶対に売れたいという気持ちがあるかといえば、“ない”というのが正直な話。それより大事なのは今の生活を僕自身が楽しんで続けていけるかどうか。そのモチベーションさえ維持できていれば、紙の本にこだわらずともTwitterやnote、YouTubeなど、さまざまな方法で読者に届けることはできると思っていますので。

――なるほど。先ほども困惑したと仰っていましたが、なんとなく井上さん自身の描きたいコトと、出版社や読者が求めているモノに食い違いが生じているようにも感じますが……。

井上:そこは本当にそうですね。おもしろいものを追い求めて描くと、フィクションの部分がいっぱい出てくるのと一緒で、批判はしませんが、手放しでソロキャンプや車中泊ライフを礼賛することに、すごくうさんくささを感じちゃっている自分もいます。楽しいだけではなく、苦労もあってこそのおもしろさというか。ただこんな生活をしているだけあって、流れることは嫌いではないので、流れに合わせていくだけというか。もしこの漫画が“バンライフのヴァイブル”なんて持ち上げてもらえるようだったら「じゃあ、そのように振る舞うか!」って(笑)。そこは臨機応変にやっていきたいと思っています。

――この生活のゴールってあるんでしょうか?

井上:それこそ、結末が決まっていないドラマの主人公と一緒で、僕自身も何がゴールなのかわかっていないんですよね。定住先を探しているつもりでもないですし。ただ、毎日が発見の連続で、車を走らせているだけでアイデアが湧き出てくる。昔はそれこそ机に向かって、うんうんとうなりながらネタを考えていたわけですが、今は描きたいことだらけ。それってすごくマンガ家っぽいなとは感じています(笑)。

――すべてを捨ててノマド漫画家になった今、自由は感じていますか?

井上:僕自身、この生活を始めてから「自由だよね」とか「憧れるよ」ってよく言われるんですが、実際はめちゃくちゃ不自由ですよ。だって疲れた時でも、大の字になって寝転がれないんですよ。どこかに車を停めるのもそうだし、いろいろとリスクはあります。だからこそ見えてくるモノや発見がおもしろかったりするのも事実ですが、僕の場合、毎日「今日は、どこ行こう?」って考えることから1日がスタートする。この時に一番、不自由さを感じるんです。この生活を始めた頃なんて、貯金を食いつぶすだけで全然仕事もなかったので、常に「どうすればいいんだろう……」って悩んでいましたよ。

――その反面、“日本中どこでも行ける”という自由さもあるように思えます。

井上:……と考えますよね!? でもそうなった時に、じゃあどこ行きますか? みんな目的があって外に出るわけで、目的もないのにずっと外にいるヤツなんて普通いませんよ。慣れ親しんだ場所にとどまり続けるのは楽だし、居心地が良いので一番幸せなことだと思うんです。僕の場合、知らない土地に行くので自由をまったく感じません。だからこそ僕は、自由になれる場所を探して旅をしているとも言えるかもしれません。

――確かに、目的がない主人公の旅漫画ってあまり聞きませんね。

井上:そうでしょ? 普通は旅の中で非日常の楽しさやありがたみを感じるのでしょうが、僕にとってはこれが日常であり日々の生活なので。

――この生活にゴールはないとはいえ、表現者として目指す先はありますか?

井上:タイトルにもあるので、“離婚して車中泊”という部分がフォーカスされますが、そもそも僕の離婚なんてどうでもいいんです。そこから物語が始まっているというのはあったとしても、そういった背景設定っていうのは架空のキャラクターに説得力を持たせるためのものであって、僕という人間が実在する時点で、もうそこにリアリティーがあるはず……なんてことさえ考えず楽しんでもらえるのが、Twitter漫画なんです。今までの漫画の形っていうのは1つのサンプルであって、もっと今の時代にフィットする形があるんじゃないかと考えていて……。

――例えば、それはどういった形でしょうか。

井上:特に何もせず、言葉を交わさずとも一緒にいて心地いい友達っているじゃないですか。刺激的なことも悲劇的なこともたまにあるかもしれないけれど、基本は何も起きず日々が過ぎていくだけの漫画を通して、読者とそういう付き合い方ができたら嬉しいですね。漫画を介したコミュニケーションの新たな形になれればと。可能性とネタは無限にあるので、とりあえずライフワークとして“長距離”連載となれるように願っています(笑)。

井上いちろう
1994年に、ちばてつや賞優秀新人賞を受賞。その後、ギャンブル漫画を中心に活躍。現在は訳あって車中泊生活となり、全国を旅しながら車中で漫画を執筆しつつ、Twitterにエッセイ漫画『#離婚して車中泊になりました』を投稿。離婚で家族もマイホームも手放した家なき男の、自由なパチンコ・パチスロライフを描く、エッセイ漫画『家なき男~ニシヘヒガシヘ~』をDMMぱちタウンで、車中泊とグルメにフォーカスしたエッセイ漫画『車中泊漫画家・井上いちろうが喰らう』をカエライフで、それぞれ連載中。
Twitter:@haibiitirou

Photography Satoshi Ohmura

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author:

Tommy

メンズファッション誌、ファッションウェブメディアを中心に、ファッションやアイドル、ホビーなどの記事を執筆するライター・編集者。プライベートにおいては漫画、アニメ、特撮、オカルト、ストリート&駄カルチャー全般を愛するアラフォー、39歳。 Twitter:@TOMMYTHETIGER13

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