連載:痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/連載:痙攣としてのストリートミュージック、そ/ Wed, 02 Feb 2022 02:39:26 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.3.4 https://image.tokion.jp/wp-content/uploads/2020/06/cropped-logo-square-nb-32x32.png 連載:痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション Archives - TOKION https://tokion.jp/tag/連載:痙攣としてのストリートミュージック、そ/ 32 32 女性ラッパーたちが提示してきた“粋(いき)”と、2009年という転換点について/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第17回 https://tokion.jp/2022/01/28/shockwaves-in-contemporary-music-and-fashion-vol17/ Fri, 28 Jan 2022 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=91939 気鋭の文筆家・つやちゃんが「音楽とファッション」「モードトレンドとストリートカルチャー」の関係性を紐解く連載コラム。最終回となる第17回は、国内シーンにおける女性ラッパーのクリエイションの核心と軌跡を論じる。

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音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

最終回となる第17回は、“粋(いき)”という概念を参照しながら国内シーンにおいて女性ラッパーたちが提示してきたクリエイションの核心を論じつつ、転換点となる2009年の状況をモード史と重ね合わせながら紐解いていく。

ファッションを手掛かりに、ヒップホップ(史)が編み出す想像力を読み解くこと

本連載では、ストリートミュージック――中でも近年ミチバタで起こる営み、その生々しい吐息を発してきたヒップホップが、ファッションと分かちがたい関係を織りなしているさまをあぶり出してきた。ヒップホップはその息づかいにおいて、無意識のレベルで/奥深いところでファッションと艶めかしく呼吸し合っているという状況が多少なりとも解き明かされたのであれば、連載の目的は果たされたことになる。

繰り返すが、両者の絡み合いは、2010年代半ば以降モードファッションとストリートファッションが接近し既存の階級構造が大きく揺さぶられたこと、同時にラッパーやダンサーがラグジュアリーブランドを身に纏うようになったこと、といった変化のみを指すわけではない。「グッチ」や「シャネル」というブランド名がリリックに引用されるという、ヒップホップ的態度を補強する試みが反復されていることを強調したいわけでもない。私が記しておきたかったのは、「グッチ」や「シャネル」という言葉が生む“音”としての響きとブランドの背景が物語を生成し、驚くべき生命力を発揮しながらヒップホップがアートとして自律しているということについてである。

連載終盤の回で扱った、スニーカーやジーンズといったファッションアイテムについても同様である。本来ストリートのものであったそれらが近年モードによって再定義され新たな文脈が与えられたのは確かだが、実はトレンドという単純な話では片づけられない部分で、ヒップホップはそれらアイテムと絡み合っている。ラッパーが履くスニーカーに、“白と黒の反転”というヒップホップのコア思想が宿っていること。いわゆる“腰パン”によって路上を引きずられるジーンズの裾に、“変えられない自らの出自”というヒップホップの神髄を支える要素が背後霊のようにつきまとっていること。イマジネーションは事実をはるかに超える。ヒップホップ(史)によって編み出される想像力は、表象としてのファッションを手掛かりに、その作品へ壮大なストーリーを付与し得るのだ。

国内女性ラッパーたちのクリエイションの根底にある、“粋(いき)”という概念・美意識

「日本のカッティングエッジなカルチャーを紹介する」メディアであるTOKIONゆえ、本連載ではこれまでさまざまな“国内”のラップミュージックを題材にヒップホップとファッションの引き裂き難い戯れを明るみにしてきた。そこで最後にもう1点論じておくべきことがあるとしたら、日本のファッションそれ自体を支えてきた“粋(いき)”という概念、その捉えどころのない(からこそなかなか理解されにくい)美意識がヒップホップに与えてきた影響について、である。実は多くの女性のラッパーによって導入されてきたと思しきヒップホップにおける“粋”なアプローチは、微妙な匙加減であり容易に把握しづらいニュアンスであるからこそ、これまであまり脚光を浴びることはなかったように思われる。そもそも“粋”という概念が花開いた江戸時代は、階級社会というピラミッド構造が強固であり、奢侈禁止令も発令され慎ましやかさが奨励された時期であった。そのような状況において、抑圧された環境下で独自の美意識を花開かせた粋な文化は、同様にプロップスの積み上げによるピラミッドを形成する男性中心のヒップホップゲーム構造の中で、時に“軟派”と揶揄されながら表現を見せてきた女性ラッパーたちの取り組みに近いものを感じてならない。(そしてそれはUSの女性ラッパーにはあまり見られない芸当であった。)

“粋”とは、崩しである。いわゆる国内ヒップホップ史において重要な男性ラッパーたちが極めてストイックな形で韻律によるリズムを紡いできた一方で、ごく一部の男性ラッパー、そして女性のラッパーはそれら尊厳や威厳に満ちたラップに対し遊び心をふんだんに取り入れたどこかルーズな表現を披露してきた。MAJOR FORCEよりデビューしたORCHIDSに始まり、FUNKY ALIENやHAC、YURIを経てHALCALIやY.I.M、chelmicoに至るまで、ヒップホップ的様式美をあえて崩すような“ゆるい”ラップやノリは、ラップゲームに“崩し”という新たな視点を持ち込んだ。

HALCALIの1stシングル「タンデム」(2003年)
chelmicoの1stシングル「ラビリンス’97」(2015年)

加えて、“粋”とは色っぽさでもある。歌川広重の『湯上り美人図』を引くまでもなく、湯上りの火照った姿はたとえば粋な文化として江戸期に花開いた浮世絵に多く見られる情景であり、露わになる体温と吐息のあたたかさ、その無防備な親密さが生む色気を江戸文化は細やかに描写してきた。たとえば、Daokoや泉まくらが発した息づかいは、それら色っぽさを(従来の女性ラッパーに多かったセクシーとは異なる意味で)ヒップホップに取り入れた顕著な例だろう。色っぽさとはちらつかせほのめかす行為でもある。初めから全てをさらけ出すのではなく、せめぎ合いを演出し生み出すこと。Daokoは、そういった意味でも非常に興味深いラッパーだ。執拗に硬い韻が詰め込まれるリリックは緻密な技巧性を含んでおり、だからこそ時折顔を覗かせる体温が聴く者を分裂させ、崩した色っぽさを匂い立たせてきたように思う。

Daoko「fighting pose」(2021年)

あるいは、安室奈美恵のアプローチを思い出してみたい。R&B/ヒップホップへと大きく転向することになった2003年『STYLE』において、彼女は冒頭「Namie’s Style」で「こんな感じはどう?It’s Namie’s style/みんな待っていた? Here is my nu style」と歌った。その後の国内ヒップホップ史の歩みを振り返った際に極めて重要な位置づけとなる本作だが、当時すでにポップスターとしての地位を揺るぎないものにしていた彼女が様子をうかがいながら、探るようにプレゼンテーションする様子は、いわゆる“チラ見せ”というせめぎ合いを見事に演じていた“粋”な演技だったと解釈することもできる。

安室奈美恵「Namie’s Style」(2003年)

画期的なのは、浮世絵のように男性作家が女性を描くことで“粋”を表現していた時代と異なり、ヒップホップでは女性自身が立ち上がりマイクを握りしめ艶っぽさや色気を作品に閉じ込めてきた点であろう。もちろん、それら大半のパフォーマンスは意図的に行われてきたものではないかもしれない。女性のラッパーたちが時代と自身を鏡として捉えながら真摯に表現してきた先に、結果的に“粋”とも言える要素がヒップホップに持ち込まれたと言える。女性ラッパーたちの作品によって、私たちがヒップホップを楽しむ視点は、多少なりとも広がることとなったのだ。

RUMIとCOMA-CHIの傑作が生まれた2009年という分岐点の前後、ファッション史にも大きな転換が訪れていた

女性による国内のヒップホップ史を紐解くうえで大きな分岐点は、2009年であろう。RUMIが『HELL ME NATION』でダークさとユニークさの両立により自らの三部作を完結させたこの年に、COMA-CHIは『RED NAKED』でメジャーデビューを果たした。むき出しの赤という、“粋”とは極めて対極にある色使いがタイトルに冠されたことはさまざまな意味で示唆的であるが、しかし叩き上げで男性と肩を並べシーンの最前線までのぼりつめた彼女が、メジャーレーベルで女性を代表するラッパーとしてメッセージを発するというのは必要なステップであったに違いない。同時に、この時期は国内邦楽シーン自体がヒップホップ冬の時代に突入したタイミングでもあった。

RUMI『HELL ME NATION』(2009年)
COMA-CHI『RED NAKED』(2009年)

実は、2009年前後はこの数十年の国内女性ファッション史においても最も大きな転換点だったと言える。フィービー・ファイロが2008年にセリーヌのクリエイティブディレクターに就任して以降エフォートレスなミニマリズム・スタイルがこの国においても凄まじい勢いで浸透し、フィービー以前/以後と言える程のファッションの変化が起こった。国内においてその潮流は2011年の東日本大震災によって決定的になり、以前のさまざまなトライブ発のコンテクストに立脚したスタイルから、それらを引用しつつもベースに素材の魅力を活かすリラクシングでカジュアルなスタイルへと大きな地殻変動を起こすことになる。「作りこみ装うファッションから、ライフスタイルを起点とし匂わせるファッションへ」とも言うべきその展開は、スニーカーやニットワンピース、スポーツウェア、さらにはナチュラルで質感重視のメイクなどを女性たちのベーシックへと押し上げた。肉体改造や美容医療といったアプローチも一般的になり、結果的に、それらは“ファッション”よりも“その人自身”を前景化させるきっかけにもなった。

時代の呼吸を伝える音楽としてのヒップホップに耳をすまし、移ろいゆくファッションの表象を拾い集める

ファッションの大きな転換と呼応するように、女性ラッパーも変化していった。MCバトルで名をあげ、ある意味で既存の男性中心のヒップホップ像に接近した音を“盛り”ながらリッチな完成形を打ち立てたCOMA-CHIとRUMIの両作品を一つの頂点としつつ、新たな女性ラッパーたちはラフに伸び伸びと自身の魅力を表現し始めた。2010年代以降に支持を集めたDaoko、Awich、NENE、Zoomgals、lyrical school、それらラッパーたちは重なり合う部分がほとんどないくらいに多種多様なスタイルであり、それぞれが男性視点のヒップホップ観からは遠く離れたニュアンスを少なからず擁している。

Awich「口に出して (Prod. ZOT on the WAVE)」(2021年)
Zoomgals「生きてるだけで状態異常」(2020年)

だからこそ、ファッションと深い部分で密接に絡み合いながら時代の呼吸を伝える音楽として進歩していくヒップホップは、男女ともに優れたラッパーが今後ますます介在していくこと、性別を超えてクロスオーバーしていくことで、鋭い表現として人々の価値観を揺さぶっていくだろう。現代口語の実験は、身体を包む装いと呼吸し合いながら、今この瞬間も違和感のある音の響きとしてストリートで鳴り、インターネットを駆け巡り、誰かの身体と精神の痙攣を喚起している。音と言葉の戯れ、移ろいゆくファッションの表象は取るに足らないものとしてミチバタに捨てられていくがゆえに、私たちは今後も耳をすましてそれらを拾い集めていかなければならない。そして、あなたは間違いなく、その当事者の1人として存在している。

<参考文献>ポーラ文化研究所編著、2019年『おしゃれ文化史 飛鳥時代から江戸時代まで』秀明大学出版会

Illustration AUTO MOAI

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硬いジーンズと、ラッパーたちの詩情/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第15回 https://tokion.jp/2021/11/15/shockwaves-in-contemporary-music-and-fashion-vol15/ Mon, 15 Nov 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=75346 気鋭の文筆家・つやちゃんが「音楽とファッション」「モードトレンドとストリートカルチャー」の関係性を紐解く連載コラム。第15回はラッパーたちの偏愛対象たる「ジーンズ」を基軸としながら、ヒップホップの精神性の核を紐解いていく。

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音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

「スニーカー」にフォーカスした前回と同様に、第15回も特定のブランド・メゾンではなくある1つのアイテムを基軸に論を展開。そのアイテムとは、ストリートファッションを象徴するアイテムであり続けてきた「ジーンズ」だ。ラッパーたちがそこに託し、重ね合わせながら描いてきたものとは、何か。BUDDHA BRANDやRHYMESTER、GADOROらのリリックを参照しながら、ヒップホップとジーンズの蜜月関係に迫る。

ウエスト位置の数センチが巨大な運命を握る

2021年、ウエストラインの見せ方が変わり始めている。この秋にACROSSがリポートした通り、ストリートにおいてショート丈トップスの流行が発生したことでヘルシーな上半身の露出が急激に増加した感があるが、加えて2022年SSのコレクションではいくつかのメゾンがウエストラインの高さをも落とし始め、ついにVOGUEが「落ちる、落ちない? ギリギリを攻める、腰ばきローライズデニムの再来。」という記事を発信した。2009年以降大きな潮流としてあったフィービー・ファイロ(当時「セリーヌ」のクリエイティブ・ディレクター)によるエフォートレススタイルは、ここに来て究極のリラックスとして肌を露わにする自由な無邪気さまでをも獲得しはじめている。

たかが腰の位置、と笑ってはいけない。ジーンズの高さを決める数センチの上下移動、そのせめぎ合いは、ストリートカルチャーにとって大きな意味を含んでいる。ブレイクビーツのほんの0.1秒のズレがグルーヴを規定する場面に、私たちはたくさん遭遇してきただろう。力強いキックが生み出す拍、その表と裏を分かつぎりぎりの瞬間に入る歌によって人生を変えられた者が多くいるように、ジーンズのウエスト位置は世界中の繊細な意識を司り、些細な細部にして巨大な運命を握っている。

ストリートにおいて、“数センチのせめぎ合い”が最もさかんに繰り広げられているカルチャーがヒップホップやスケーターであることは言うまでもない。貧しかった家庭の経済事情により大きめの服を買い与えられていたため、ベルトが無くずり落ちてくる囚人のスタイルを真似たため、などその起源については諸説あるが、国内においても多くのラッパーがルーズさの演出として、低い重心でのノリを加速させる身体表現として、いわゆる“腰パン”に多くの自意識を込めてきた。例えば、Tohjiのエクストリームなサギーパンツは「プロペラ」のテーマと密接に結びつき、その唸る低音域を猥雑にブーストさせ私たちを痙攣させる。昨年リリースされ新たなクラシックとして迎えられた韻踏合組合の「Street Survivors -Blood,  Sweat,Tears & Hip Hop-」は「街を夢見たティーンズが/ダボダボのジーンズで/片道の切符/片手今キープ/ドベルとのビーフも最後はピースで/互い追いかけStreet Dream」とライムされ、ダボダボのジーンズが“ティーンズ”と美しい押韻を果たした上で称えられる。

韻踏合組合「Street Survivors -Blood, Sweat,Tears & Hip Hop-」

ジーンズとヒップホップの蜜月関係 餓鬼レンジャーの偏愛、BUDDHA BRANDの円熟味

そもそも、ジーンズ自体がヒップホップにおいて非常に重要なアイテムであるがゆえに、ラッパーはその言葉に多くの意味を込めペンを走らせてきた。特にジーンズ愛が見られるのが餓鬼レンジャーである。「NO PLAN B」では「止まらないmovin’/古着のブルージーンズみたいな円熟味/醸し出す/通唸らす芸術品」とラップし、「ラップおじいちゃん feat. AMIDA, KREVA」では「ちょっと贅沢なEVIS BEATSに/頑丈なRAP like aデニムジーンズ」と仕立ててみせた。“movin’”と“ブルージーンズ”で踏まれながら“円熟味”の象徴として語られ、一方では(本曲のトラックメイカーである)“EVIS BEATS”と“デニムジーンズ”で踏まれながら“頑丈なRAP”のようなものとしても描かれる。ヒップホップにおいてジーンズは、音韻として披露されることでラップミュージックの音響的快楽を駆動させつつ、同時に“長年の時を経て味が出るもの”であり、“頑丈なもの”でもあるという比喩をも浮かび上がらせていく。

餓鬼レンジャー「NO PLAN B」
餓鬼レンジャー「ラップおじいちゃん feat. AMIDA, KREVA」

あるいは、BUDDHA BRANDによって紡がれたリリックの記憶を辿ってみよう。2003年の「RETURN OF THE BUDDHA BROS.」では、「これga俺ra no普遍no STYLE/この道10年タフ/まるdeデニム」と詠まれるラインによって、それらジーンズの“円熟味”と“頑丈さ”がさりげなく言及されていた。加えて――油断してはいけない、実は、ジーンズの表象について思いがけない形で言及され、日本語ラップのリリック史に加筆されることになった出来事が2016年にも起こっている。

宇多田ヒカル「忘却 featuring KOHH」

「熱い唇/冷たい手/言葉なんか忘れさせて/硬いジーンズ/優しい目/懐かしい名前で呼んで」――KOHHがポエトリーラップのような形で緊張感のあるリズムの上をゆらゆらと漂いながら哀しみを絞り出す曲「忘却」において、アンサーとして宇多田ヒカルが提出したのは「硬いジーンズ」であった。ジーンズの円熟味と頑丈さは、ここで“硬い”という表現によって繋げられたのである。

“硬い”ジーンズを引きずり、ストリートを漂流する  RHYMESTERが紡いだ情景、GADOROが描いた運命

しかし、日本語ラップにおけるジーンズの“硬さ”とは、単に質感だけを表してはいない。数センチをせめぎあった結果、あれだけジーンズがずり落ちてしまうにはさらなる理由が存在する。巨大な運命は些細な細部にあるからこそ、再びリリックを観察してみたい。RHYMESTERは「渋谷漂流記」で次のようなラップを披露している。

「クラブからクラブへナイトクルージング/はためかすオーバーサイズのブルージーンズ /マイク握りぶちかましたルーティン/この街が育てたワイルドミュージック」

RHYMESTER「渋谷漂流記」

“硬さ”を背負ったオーバーサイズのジーンズは、渋谷のストリートを漂流する。注意して耳を傾けよう――“ブルージーンズ”と踏まれているのは、“ナイトクルージング”であり、“ルーティン”であり、“ミュージック”である。ルーティン=ダンスのステップとミュージックを探しながら、ナイトクルージング=深夜のストリートを漂う、その彷徨い流れゆく情景は、ジーンズがずり落ちていくさま、まるで裾を引きずるかのような姿を想像させる。それはつまりCreepy Nutsが「だがそれでいい」で「被り始めたニューエラ/ブカブカのジーンズ引きずって/くり出してみたアメ村/買わされたパーカー」とラップした通りであり、同様の意味で、GADOROの「Life is go on」にも触れずにはいられない。

今更吐けない綺麗ごと/音が止まれば死んだも同然/語るんじゃねえ語り継がせるぜ/過去という名のジーンズを引きずる/それは今を捨ててると意味する/生後間もなく既に負け組さ

GADORO「Life is go on」

GADOROは、ここでついに1つの回答を提示している。「過去という名のジーンズを引きずる」――ジーンズのその硬さ、ずり落ちていくさま、数センチのせめぎ合いは、“過去”によって引きずられていると言うのだ。過去とは、つまり出自である。世代の連鎖により受け継がれた生まれ故郷、性別、肌の色……それら全ての“受け入れるしかない”運命を、ラッパーは今日も硬いジーンズとして引きずりながら、ストリートを漂流する。 だからこそ、出自を受け入れ、ジーンズの硬さを嚙みしめながらもストリートを漂う者であるならば、そのウエストの深さをどのような位置に置くかは自由な行為としてゆだねられている。例えば、女性にだってヒップホップは開かれている。ボロボロのデニムをローライズで履いてもよい。ハードコアやエモを聴いてきたあなたにだってヒップホップは開かれている。ブラックジーンズを腰で履いてもよい。なぜなら、あっこゴリラは「デニムは今日もボロボロ/頭に錆びた王冠と/左手マイクロフォンと踊ろうぜ」(GREEN QUEEN × PARKGOLF)と歌っている。kiLLaは「光るgold chain/ジーンズはblack」(XXX)と歌っている。デニムの固さを受け入れ、ストリートを漂流するあなたに、ヒップホップは手を差しのべる。あとは、そのパンツを引きずるように路上を徘徊し、ラップをするだけだ。ダンスをするだけだ。ブレイクビーツを鳴らすだけだ。ジーンズは少しずつ落ちてくるだろう。さあ、腰のどの位置に置く? その数センチの自意識に、ヒップホップなるものは宿っている。

Illustration AUTO MOAI

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スニーカーとヒップホップ、「白」と「黒」のループ/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第14回 https://tokion.jp/2021/10/21/shockwaves-in-contemporary-music-and-fashion-vol14/ Thu, 21 Oct 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=69412 気鋭の文筆家・つやちゃんが「音楽とファッション」「モードトレンドとストリートカルチャー」の関係性を紐解く連載コラム。第14回はヒップヒップにおいて特別な意味を持つ「スニーカー」というアイテムから、 「ヒップホップの真髄」について迫っていく。

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音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

これまで本連載では1つのブランド・メゾンにフォーカスしてきたが、第14回では「スニーカー」というアイテムにフォーカス。ヒップホップにおいて特別な存在感を持つ「スニーカー」の描写の変遷を皮切りに、同アイテムを媒体に紡がれるメタファーやイメージの連鎖、そこに立ち現れる「ヒップホップの真髄」について論じていく。

「スニーカー」という神聖なモチーフ

例えば映画史において、列車が、酒場が、鏡がそうであるように。

ふわりと不気味に揺れるカーテンの先、庭に干された白い洗濯物がはためく、その動きは“ただ風が吹いている”事実だけを伝えるのではなく、さまざまな映画の記憶と接続され私たちの胸を打ち、身体にじわじわと甘美な痙攣を引き起こすように。

ヒップホップ史において、スニーカーとは特別かつ神聖なモチーフであり、アイテムであり、細部でありながら“すべて”なのだ。すぐさま、私の手は『空からの力』と書かれた1枚の音盤を捉える。決して良い音質とは言えないそのトラックから、次のようなラップが聴こえる。

歴史的作品/RUN-D.M.C.、KRS、ラキム、チャックD/忘れる訳ねぇ87年/今思い出してみてもヤバめ/上から下までキメてるアディダス/まだ見た事もない動き編み出す

1995年「行方不明」より

キング・ギドラ「行方不明」

ここで「アディダス」と踏まれているのは「編み出す」であり、スニーカーをドラマティックに描写するスキルが見事な形で披露されている。数年後、同様にK DUB SHINEが「上下アディダス/カンゴールハット/スーパースター紐なしで/腕組んで立ち/覚えて歌った/”You Talk Too Much”、”Fly Girl”、”Nightmare”、”Just Buggin Lali Dadi”」(「正真正銘」)とライムした通り、アディダスのジャージに紐なしのスーパースターを合わせていたというRUN-D.M.C.のエピソードは今や多くの人に知られているが、この箇所で綴られている「編み出す」というワードはスニーカーの紐を「編む」という動作それ自体を想起させるわけで、さらに言うならばラッパーやDJ、ダンサーがそれぞれ華麗な技を編み出すという行為ともリンクしているだろう。こうして、スニーカーは日本語ラップにおいてもある種の重要な道具として描かれることとなり、その後多くのストーリーが誕生していったのだった。

あるいは、同じように重要なTwigyやDABOのラインを引用しながら、ヒップホップ史におけるスニーカーの神聖さは次のようにも言及される。

RUN-D.M.C.「My Adidas」や「毎日磨くスニーカーとスキル」(Twigy)を引くまでもなく、靴に対する愛着はきわめてオールドスクールなヒップホップマナー的仕草でもあるからで、たとえばDABOも「おい少年気をつけな/俺のNike踏んだら即極刑」(Nitro Microphone Underground「Mischief」)とよく似たことを歌っていたことも思い出される。

「韻踏み夫による日本語ラップブログ」より

RUN-D.M.C.「My Adidas」
LAMP EYE「証言」
Nitro Microphone Underground「Mischief」

ラグジュアリーとストリートが交差し始める時

「踏んだら即極刑」と脅されるくらいにスニーカーは神聖なアイテムであるわけだが、例えばCOMA-CHIが「me&my kicks」で「VANS/ADIDAS/NIKE/Reebok/どこの会社のもんだってイイもんはイイ」と言うくらいには多くのスニーカー・ブランドが許容される一方で、KICK THE CAN CREWが「3MCs+1DJ」で「プラダよりナイキ/グッチよりアディダス/身にまといパーティラップ吐き出す」と歌った通り、ある時代までラグジュアリー・ブランドとスニーカー・ブランドがリリックにおいてともにコーディネートされることはほとんどなかったのである。時代が変わるのは、やはりハイ・ファッションにストリート色が大胆に取り入れられるようになった2010年代半ば以降であった。

KOHH – “Dirt Boys feat. Dutch Montana, Loota” Official Video

2015年、KOHHが「Dirt Boys feat.Dutch Montana&Loota」で「汚れまくり/だけど綺麗首に入れ墨/芸術的履いてるksubi/ダメージデニムシャツY-3」とライムした通り「アディダス」は「ヨウジヤマモト」とコラボレーションし、2017年にG.RINAが「close2u」で「ドレスダウンして/白のアディダス」と歌った通りカジュアルダウンしたドレッシーな服装にも合わせられるようになり、ハイ・ファッションとストリートという両者の境界がなくなっていった末に、2021年にはLeon Fanourakis「BEAST MODE feat. JP THE WAVY」で「プレ値のNike/買ったばっかの物全部最新」と描写されることになった。かつて、高価なスニーカーを買う財力がなかった黒人が1足のスニーカーを何度も何度も磨きあげ真っ白な色を保つ努力をしていた時から、新品のスニーカー、しかもプレ値がつくほどの物をいくつも買うくらいにラッパーは成りあがっていったのだ。そしてそれは、Momが「ずっと履いてるブラックジーンズ/昨日の腑抜けにドロップキック/夢想家でもリアリストでもない/ナイキもミズノも関係ない/首を絞めてるのはモノの価値」(「Momのデイキャッチ」)と皮肉めいたラインを書くまでに至る。リリックの中で変化を遂げてきたスニーカーの描写は、ひとまず以上のようにまとめられることができるだろう。

Mom「Momのデイキャッチ」

連想とメタファーに満ちた「真っ白なスニーカー」

しかしながら、リリックにおけるスニーカーの描写の変遷をたどるのが本稿の目的ではない。私が論じたいこと――それは、真っ白なスニーカーが幾重にも連なる連想とメタファーを有しており、ヒップホップや日本語ラップを支える背景と絡み合いながら、あらゆる人種・世代に門戸を開いているということなのだ。例えば、今年リリースされ喝采を浴びたOMSBの「CLOWN」に綴られた次のような一節を噛みしめることでそのストーリーは紐解かれていく。

喜怒哀楽一緒くたなビジョン/美女は俺に見向きもしないし/イキりに踏まれた白のナイキ/ため息は全て向けるmy music/くそっくらえだぜ

OMSB「CROWN」

「見向きもしないし(na-i-si)」と「イキ(i-ki)り」と「ため息(i-ki)」と「music(myu-ji)」とともにナイキ(na-i-ki)が押韻を果たし、「くそっくらえだぜ」で結ばれるこの一文は、「白のナイキ」がいかに神聖なアイテムであるかを改めて明らかにしている。だが、ここで「ナイキ」はただ“新品のスニーカーを履いている”という事実のみを指すわけではない。OMSBは白のスニーカーの、その“白さ”の対比として以下のラインを用意する。

エゴのモンスターの見世物小屋/恥で芸肥やす奇妙な牢屋/綺麗な人/肌じゃない色/中身が外見/よく見ればわかる/いくら明るく振舞ってもカス/黒い口調でちょー優しい奴

白の対比として、描かれる黒。OMSBが発する「肌じゃない色」「黒い口調」というフレーズ。白いスニーカーの“白”の新たな意味が、ここでまた一つ浮上してきた。白が、黒の対比として非常に重要な意味合いを持っていることが浮き彫りになる。さらに付け加えるならば、終盤に挿入される「黄色い歓声が広がってく」というフレーズも、ある特定の人種の隠喩として聴こえてくるだろう。

ペンと紙、スニーカーにおいて反転し続ける「白」と「黒」

リリックは止まらない。次の例を挙げよう。日本語ラップ史において、もう一つ“白”にまつわる重要なアイテムがあったことを忘れてはならず、その色の描写を的確に披露してみせたのはサイプレス上野とロベルト吉野「RUN AND GUN feat.LEON a.k.a.獅子,DOLLARBILL」である。

いつも通り真っ白な紙に叩きつける空っぽの中身/この時だけは誰だってヤングボーイ/目指す場所なんてひたすら遠い

カカト減っても行くべよMY SHOES/こさえた借りは色つけて返す/下どころか上まだいるぜ/綺麗事だとしても/繋ぐこのリレー

いつも以上に走れ/RUN AND GUN/夢を追うならマジで/RUN AND GUN

Kanye Jay Zが原点でルーツ/着こなしはルーズ/当時のマイブーム/ナイキのシューズでHOOD歩く

サイプレス上野とロベルト吉野 “RUN AND GUN feat.LEON a.k.a. 獅子, DOLLARBILL” (Official Music Video)

“真っ白な紙”――。この曲では、神聖なる白いアイテムである“真っ白な紙”と“スニーカー”がともに描かれる。HOODを歩くのはカカトの減ったスニーカーであり、真っ白な紙にリリックを書き連ね、彼らが目指す場所は遥か遠い先だ。RUN AND GUN、速攻で走るのだ。それはかつてSOUL SCREAM「Brand New feat.RHYMESTER」によって「俺の機材は/白い紙とペン/選び抜いた言葉しか認めんぞ」と綴られた通りであって、使い古した(だが、白い!)スニーカーと、真っ白な(だが、ペンによって黒く埋め尽くされる!)紙さえあれば、誰にでもラップが開かれていることを示す。この“何度も磨かれ白さを保ったスニーカー”と“真っ白な紙がリリックで黒く埋め尽くされていくさま”、繰り返される白と黒の反転にこそヒップホップの神髄は宿っている。

SOUL SCREAM「Bland New」

皿は旅をする。時を軽く超える。時代は移り変わり、ラッパーのスニーカーの白さは“磨き上げられた一足”から“何足もの新品”に変化していった。しかし、ヒップホップを愛する者たち、人種や世代や階層問わずそのカルチャーや音楽に魅せられ門戸を叩く全ての者たちが、白いスニーカーを履きながら真っ白な紙をリリックで懸命に埋め続ける限り、その“白”の神聖さはこれっぽっちも変わらない。だからこそ――スニーカーを磨くのだ。ペンを走らせるのだ。そして、何足もの真っ白な新品を手に入れるのだ。黒と白の反転を加速させるのだ。円盤をまわせ。ループでグルーヴを生め。RUN AND GUN――遥か遠い先を目指して、走りだせ。

Illustration AUTO MOAI

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「バレンシアガ」とvalkneeのクリエイションから考える、消費社会への批評性と“新しさ”/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第13回 https://tokion.jp/2021/09/27/shockwaves-in-contemporary-music-and-fashion-vol13/ Mon, 27 Sep 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=62003 気鋭の文筆家・つやちゃんが「音楽とファッション」「モードトレンドとストリートカルチャー」の関係性を紐解く連載コラム。第13回は「バレンシアガ」のクリエイションと、同ブランドを主題とした国内女性ラッパー・valkneeの楽曲を紐解く。

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音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

第13回で主役となるのは、2015年からデムナ・ヴァザリアがアーティスティックディレクターを務める「バレンシアガ」。ラグジュアリー/ストリート、リアル/フェイクなどさまざまな境界を撹乱するそのクリエイションと、同ブランドを主題とした国内女性ラッパー・valkneeの楽曲から、現代における消費社会への批評性と「新しさ」の在りようを読み解いていく。

「バレンシアガ」のクリエイションに宿る、消費社会への批評性

今、この世には4つの「バレンシアガ」が存在している。

1. 「バレンシアガ」として純正なるもの。2. 「バレンシアガ」に強く影響を受けたもの。3. 「バレンシアガ」のコピーもの。4. 「バレンシアガ」が生み出すフェイクのようなもの。

つまり、こう補足できるだろう。1は、誰もが認める「バレンシアガ」。2は、「バレンシアガ」のデザインの影響を色濃く受けたインスパイア品。3は、「バレンシアガ」のフェイク。4は、近年の「バレンシアガ」が展開するまがい物のような数々のアイテム。これらのバレンシアガはおびただしい数が市場に流通しており、もはや区別がつかないくらいに似通っている。特に、4の出現――マーケットバッグやカーアイテム等の“安価なもの”“見慣れたもの”“使い古されたもの”を服飾品/贅沢品に仕立て上げる試み――は、本物と偽物の関係性に混乱をもたらした。結果的に、4種の「バレンシアガ」を支えるコンテクストは複雑化し、ボーダーは揺らぎ、“本物らしさ”と“本物らしさに接近する偽物らしさ”という両者の立ち位置は一気に崩れることとなった。「バレンシアガ」はますます支持を得ることで多くの顧客を獲得し、インスパイア品もコピー品も出回り、消費の象徴となって大衆を痙攣させていく。と同時に、「バレンシアガ」が売れれば売れるほど、「バレンシアガ」から投げかけられる消費社会に向けての批評性もますます増強されていく。

そもそも、かつてこのメゾンがオートクチュールをルーツに持ち、しかも「布の建築家」と評されるほどのモード史に残る技巧的な作品を生み出していた過去があるからこそ、今の事態はより一層痛快なものとして映る。クリストバル・バレンシアガの時代について、歴史は次のように記述しているのだ。

「ハウスバレンシアガのサロンへの立ち入りは、受付で厳しく管理されていました。サロンに入るには本人宛ての招待状が必要で、常連の顧客 1 名による事前の推薦がなければ招待状は発行されなかったのです。」(Google&Arts 「クリストバル バレンシアガ: ラグジュアリーの世界」より)

「バレンシアガはよく人から、ディオールと同じ規模まで事業拡大できるのに、 といわれた。しかし、自分のイメージにこだわる彼は、事業拡大より超一流と気品の評価を守り通すことを選ぶ。徹底して孤高の彼は、自分の香水の所有者となり、外部からの拘束を嫌ってオートクチュール組合に入ることを拒否する。最高に裕福な顧客と高価格に支えられて、バレンシアガは注文を断っても、最少人数で他の服飾企業と並ぶ営業実績をあげることのできる唯一の店である。」(光琳社出版『メモワール・ドゥ・ラ・モード  バレンシアガ』より)

『BALENCIAGA―M´EMOIRE DE LA MODE』(光琳社出版)

選ばれた富裕層だけのために技巧を凝らした1点ものの衣装を制作していたブランドは、今約半世紀の時を経て、偽物に擬態しながら大衆へ問題提起を突きつける。

そして、その“痛快さ”が決定的になったのは、デムナ・ヴァザリアが「バレンシアガ」の眠っていたレガシーを蘇らせることになった2021-22年AWオートクチュールだった。彼は、ジーンズやTシャツ、ジャケット、タートルネックといった普段着のアイテムをオートクチュールとして昇華させることで、これまでと同様の“見慣れたものをラグジュアリー品として再構築する”という試みを、最も格式高くラグジュアリーな場で行ってみせたのである。

Balenciaga 50th Couture Collection

valkneeがえぐり出す、私達の「汚さ」

valknee「偽バレンシアガ」

2020年秋、ラッパー・valkneeが「偽バレンシアガ」という大胆なタイトルを冠した曲をリリースした。バレンシアガのコピー品を持つ友人を腐したような痛烈なディス曲である。冒頭から「あの子きたならしい/ないのプライド/偽バレンシアガも可哀想」と始まり、繰り返し「汚い」という言葉が向けられる。このワードの選定は強烈だ。と同時に「汚い」は、リリックに散りばめられた「i」の母音により執拗に韻が重ねられることで力強さが増強されていく。「あたしの目にはブレてるよbae(i)/寄らない寄らない(i)/寄らない寄らない(i)で/promi promi(i)/promi promi(i)se 守って/あたし先生じゃないし(i)/彼氏でもない(i)/どないでも知らないどないでも知らない(i)/今日も垂れ流し(i)/きたねーストーリー(i)/今を溶かして多分こいつ病気(i)」と続く「i」の連鎖は、「汚い(i)」をしつこく強調し、強い嫌悪感を訴求していく。

嫌悪感による激しい拒絶は、曲構成の面からもアプローチされる。本曲は“フック→ヴァースA→ヴァースB→フック→ヴァースC→ヴァースB→フック”という構成になっており、ヴァースCが異物として挿入されている。このパートはヴァースAの変奏というよりも、リズムが切り替わり熱が込められる“ハイライトとしての”ラップが披露された、フックと並ぶ本曲の重要な箇所と言えるだろう。「ねえねえ、知ってる/コメよりコネ食うやつ/タダ飯が好きなの知ってるよ/あたし汚ねえ店で肉焼くよ」と、突如始まる柔らかい「よ」の響きは、情感を込めて歌われる「財布出すしテキーラ飲みたくないよ」という「よ」の余韻を最後に、ギアを切り替える。「お前飲みに呼ばない/酒がまずくなるみたい/出し巻きしか頼まない/友達に会わせない/リスペクト感じない/あたし何も得しない/ダチをダシに使わない」というパートの、やんわりとした「よ」の対比として矢継ぎ早に繰り返される強い否定形の「ない」。ストーリー展開と対比の技術を駆使し「汚い」と否定形の「ない」でひたすらに重ねられた偽バレンシアガの「あの子」への感情は、この時点で、最高潮に達する。

しかしvalkneeは、そのような“最悪に汚い”対象を、「あの子」にだけ設定することを慎む。「見ちゃうあたしの心も汚い/私の部屋も死ぬほど汚い/汚ねえ道を歩いてくほの暗い/ずっと根に持つからな忘れない」と綴られるヴァースは、汚い嫌悪感が特定の他者だけでなく自分自身にも向けられていることを明らかにするのだ。あの子は絶対に汚い。しかし私も何かしら汚い。あの子は偽バレンシアガ。私は“偽ではない何かしらの”バレンシアガ。バレンシアガは消費の象徴。バレンシアガはナンセンス。バレンシアガはハイセンス。何がバレンシアガ? 何が真実? 何が真実でない? 何に価値がある? 何に価値がない?

「偽バレンシアガ (RYOKO2000 SWEET 16 BLUES mix)」

「偽バレンシアガ」はその後、リョウコ2000により「偽バレンシアガ (RYOKO2000 SWEET 16 BLUES mix)」としてリミックスが施された。ハードコアなダンスビートで強靭になったトラックに加え、映画『ラブ&ポップ』(庵野秀明監督)の中のとある台詞が新たにサンプリングされている。劇中では開始18分頃に発される軽薄であどけないその台詞は、「偽バレンシアガ」の背景にある文脈や意味を一層くっきりと浮き彫りにしているだろう。――あいつは絶対に汚い、でも私も何かしら汚い“かもしれない”。そもそも誰もかれもが汚いのかもしれない。私は消費に踊らされているのかもしれないし、私自身が消費の対象なのかもしれない。私達が日々考え悩みつつ歩く「ほの暗い」「汚ねえ道」を、「偽バレンシアガ」はえぐり出す。

ファッションにおける第3の「新しさ」とは

『文學界』 2021年8月号(文藝春秋)

ファッションはめぐる。

先頃、『文學界』2021年8月号が「ファッションと文学」なる意欲的な特集を展開していた。matohuのデザイナー・堀畑裕之は、本特集の「宇宙のことを考えながら服をつくることについて」というエッセイで、ファッションの新しさを3つに分類し述べている。少し前に流行っていたものを基準に相対化させた「流行の新しさ」と、根本的な変化を生み出す「アヴァンギャルドの新しさ」に加え、氏は次のような新しさの存在を指摘する。

季節が巡るたびに桜は咲く。夏には芝生が青々と広がる。秋になると銀杏の梢は金箔をちりばめたように風にきらめく。雪が積もった冬の朝は、いつもの街を別世界に変える。

季節が繰り返し、繰り返し、円を描きながら無限に差し出されるこの移ろいこそ、人を感動させる普遍の新しさだと思う。なぜなら、この新しさには始まりも終わりもないから。無限の変化に、心はいつもときめくからだ。

恐らく同様に、私達のほの暗く汚い道も、円を描きながら循環し永遠に続いていく。あなたは汚い、私も汚い。しかし――移ろい続ける時の流れの中で、われわれの汚さは汚さだけでなくさまざまなものを取り込みながら、形を変えていくだろう。そして長い時の洗練を経た汚さは、ある時を境に普遍的な思想を手に入れ、不意に誰かの胸を打つことになるだろう。

Illustration AUTO MOAI

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「プラダ」は対話を重ね前進し続ける/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第12回 https://tokion.jp/2021/08/25/shockwaves-in-contemporary-music-and-fashion-vol12/ Wed, 25 Aug 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=54171 気鋭の文筆家・つやちゃんが「音楽とファッション」「モードトレンドとストリートカルチャー」の関係性を紐解く連載コラム。第12回は「プラダ」のクリエイティビティの核を、ストリートミュージックの旗手たちのリリックを起点に紐解いていく。

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音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

第12回で論じるのは、昨年にラフ・シモンズを迎え、ミウッチャ・プラダと2人体制になったことも大いに話題を呼んだ「プラダ」。進化をやめない同ブランドの、根底にあるものとは果たして何なのか? Tyler, The CreatorとSEEDAの「プラダ」を登場させたリリックを起点として、同ブランドのクリエイティビティの核を紐解いていく。

Tyler, The Creator、SEEDAのリリックから読み解く対話の意義

Tyler, The Creatorは、ソロとして初めての本格的なアルバム『GOBLIN』の冒頭の曲において、架空のセラピストであるDr.TCとの対話を以下の一節で結んでいる。

“The devil doesn’t wear Prada, I’m clearly in a fucking white tee(悪魔はプラダを着ない、俺は白いTシャツを着てるだけだ)”

続く2曲目「Yonkers」では「I’m a fuckin’ walkin’ paradox, no, I’m not(俺は歩くパラドックス、いや、違うんだ)」と歌い、対話を通して自己が分裂していく様子を生々しくショッキングにパッケージングする。

Tyler, The Creato『GOBLIN』

あるいは、同様に「プラダ」の固有名詞をリリックに忍ばせた最も有名な日本語ラップ曲であろう、SEEDAの「Hell’s kitchen」(2009年『SEEDA』収録)を聴いてみる。「イカれたオタクがマーダー/田舎のギャル漁るプラダ」とライムされる本曲は、SEEDAのディスコグラフィーの中でも最も強い社会的メッセージを匂わせている。「国会で寝てるふりして/戦争準備進める方が問題」とSEEDAが歌い、サイプレス上野が「給付金もっとくれないの?」と応酬するリリックはリリースから12年経った今まさに聴かれるべき訴えであるが、そこでは同時に次のような問いかけもなされている。

“Show me all kinds of reasons and love/Shoot me wit my problems/Start to get up wake up ride/Hell’s kitchen life/君はどうしたい?”

ここで、SEEDAらは「君はどうしたいか」と意見を求める。アウトロでは「つっこめるところがあるならつっこんでくれよ、俺は別に完璧じゃねぇ」と投げかけ、この曲においてあくまで意見を交わし合うこと=“対話”が大切であると伝えられる。「一億総コメンテーター身分」というリリックで揶揄される通り、無責任なコメントではなく対話し意見を交わし合う必要性――つまり、学び思考すること、相手に問いかけること、回答を受け止めること、時に意見が交錯すること、嘆き怒りつつも再び思考すること――それらを重ねるうちに、自身の意見が変化していくことさえも肯定されていないだろうか。自身の中に矛盾が生まれ、時に両極の価値観によって自己が分裂していく。それで良い。心地よい価値観の中で安住し続けるよりも、むしろ対話によって、時に分裂を生むくらいの態度が必要であるということ。

SEEDA「Hell’s kitchen」

対話を生むブランドへと生まれ変わった「プラダ」

知的好奇心に満ちていて、私たちをわくわくさせてきた「プラダ」は、いつも大切なことを教えてくれる。1989年にウィメンズウェアでプレタポルテに参入以降、シューズもバッグもウェアも常にトレンドの最先端でありつつリアリスティックなキュートさを備え、評価と実売を両立させてきた稀有なブランドだ。ミウッチャ・プラダは1995年に「ミュウミュウ」をローンチさせて以降、「プラダ」の相対化を進めていった。フレンドリーな「ミュウミュウ」から、「プラダ」を確固たる意思・意見を持った大人のパートナーシップを持つ、つまり“対話”を生む自立したブランドへと位置づけていったように見える。

ミウッチャ・プラダは、「対話すること」について、かつてこう語っていた。

「私は、幼い頃から賢く教養のある知的な人々に囲まれて育ちました。最初の頃は、いつも黙っていたわ。何を言えばいいのかわからなかったから。そこで、勉強や読書、映画鑑賞を通じて、少しずつ知識を蓄えていったのです。知識が増えれば増えるほど、話せるようになりました。今では、すごくお喋りよ!」(VOGUE JAPAN「ミウッチャ・プラダ──事実上、最後の単独インタビュー。より)

ここで語られるある種の教養主義は、「プラダ」のクリエイションにハイブロウな側面を与えつつ、ミウッチャ・プラダという女性を通して咀嚼され表現されることでキュートな、多くの女性にとって“シズる”プロダクトを生むこととなった。一方で、2010年代半ば以降多くのブランドが話題化の起爆剤として他ブランドとのコラボレーションに腐心し、思想なきプロモーションに堕した安易なアウトプットも多く生まれてきた中で、ミウッチャ・プラダの動向にはひそかに注目が集まっていたことも確かである。果たして「プラダ」はコラボレーションに動くのか?周囲の憶測が強まるにつれ、気がつけば業績面におけるブランドの成長は徐々に鈍化の傾向を見せていた。

ラフ・シモンズを迎え、新たな対話を始めた「プラダ」

2020年2月、「プラダ」は久方ぶりに世界中の注目を集めることになった。ラフ・シモンズがミウッチャ・プラダとの共同クリエイティブ・ディレクターに就任することが報じられ、公式サイトは興奮を抑えきれない様子で次のように伝えた。

“このパートナーシップは、プラダに関する全てのクリエイティブな側面を網羅し、相互の深い敬意とオープンな会話から生まれた両者からの提案であり、双方合意のもとで決定されました。現代において最も重要で影響力のある2人として広く認知されているデザイナー同士の新しい対話が始まります。”

“パートナーシップの概念が協働である場合、その会話の成果は製品だけでなく、思考と文化の普及でもあるのです。”
「プラダ」公式サイトより

実に「プラダ」らしい宣言であり、この協業がデザイナー同士の“対話”であることが明記されている。世間の安易なコラボレーションの乱発に対する意思表明のようにも捉えられるが、この宣言は、誠実な形ですぐさま具現化されることとなった。初のコレクションとなった2021年S/Sのウィメンズウェア・ショーではまさに“対話”がテーマに据えられ、コレクションの過程において人とテクノロジーの双方向性――モデルやスタイリングを人が行い、撮影は360度カメラが担った――が採用された。オーディエンスとのコミュニケーションも“対話”が導入され、キャンペーンではWEB上で「文化は加速中だと思いますか?それとも減速中だと思いますか?」といった思索的な問いが我々に投げかけられることとなった。

2021年A/Wのメンズウェア・ショーでは、ミウッチャ・プラダとラフ・シモンズが自ら世界各地の学生とともにオンラインでのQ&Aセッションを行ったことで、より一層大掛かりなスタイルでの対話が展開されることとなった。「プラダ」は今、コラボレーションに生々しい感触を取り戻そうとしている。それは“対話”という行為が時に自己の価値観を揺さぶり、分裂を起こし、自らの中に両極端の要素を生んでしまうかもしれないという恐怖と立ち向かうことであり、心地よさにとどまらない雑多なものの同居、つまり相反する考えが自己を刺激し問いかけてくる“不穏さ”を受け入れることである。

対話から生まれた“不穏さ”が顕著に表現された2021年AWメンズコレクション

Prada Fall/Winter 21 Menswear Collection – conversation with Miuccia Prada and Raf Simons to follow

実際に、相反するものの同居、それによる不穏さが分裂を引き起こしているさまが顕著に表現されたのは、2021年A/Wのメンズウェア・ショーではないだろうか。一見ラフ・シモンズらしさが前面に出たルックのように見えるが、素材や柄はミウッチャ・プラダがこれまで生み出してきたブランドの歴史を彩る代表的な要素が引用されており、その結果、オーバーサイズのボンバージャケットを纏ったスタイルなどは抽象と具体という相反するものが引っ張り合い膨張し切った、分裂がそのまま1人の人物に同居し手をつなぎ合っている様子を表現したかのような不穏さを放っている。注目を集めたジャガードニットのボディスーツ・ルックも、身体の触感やラインのつるんとした無機質な抽象性と、袖がまくられたジャケットが重ねられる――かつてのラフ・シモンズのクリエイションを最も彷彿とさせるテクニックである――ことでの細やかなコーディネートの具体性が不安を煽る。Richie Hawtinによるサウンドトラックが硬質に鳴り響くショースペースもまた、何処か判別しかねる架空の空間でありつつも、ソフトで温かい質感が懐かしい印象を喚起させもする。過去のさまざまな芸術・衣服のアーカイブをモダンな手つきで蘇らせ、どこかノスタルジックな新しさをあくまでシンプルに落とし込んできたミウッチャ・プラダのセンスは、いまラフ・シモンズとの対話により、抽象性と具体性の引っ張り合いで破裂しそうな勢いをもって不穏さを纏い始めている。

対話を奪われたこの夏に聴き続けた、KMの切り刻むようなサウンド

2021年の夏、観客のいないスタジアムで、ヴァーチャル空間のごときスペースで、ある体育祭が敢行されている。果たして、その場所が東京なのかという確証もない。静かにしたたる汗を眺めていると、精巧なコンピューターグラフィックス技術が施されているかのような錯覚にすら陥る。まさか、抽象性と具体性の同居はこの体育祭においても観察できるのだ。しかし――全てが対話なきまま一方的に進められた観客無きそれは、競技中もノイズが排され、観戦していても映像が思考の狭間からすり抜け、問題提起なきイベントとして淡々と執り行われているように見える。とにもかくにも“この催しを行った”という事実確認だけが必要であるかのように。

KM『EVERYTHING INSIDE』

夏が終わると、秋がやってくる。その頃には、「プラダ」の2021年AWシーズンが到来する。私は、この夏ずっとKM『EVERYTHING INSIDE』を聴いていた。Hyperpopを通過したKMの切り刻むようなサウンドの手触りは多くの客演のラップと融合し、溶け合い――まさに対話するかのごとく――具体性の結晶のような音に抽象性の魔法をかけ、アンバランスな魅力を放っていた。より抽象性に傾き、分裂をも辞さない体育祭をテーマにした曲であれば、Yoyouの「2020IOC」を聴くのも良いだろう。KMと同様のテイストを持つビートメーカーEfeewmaがクリエイトしたこの曲とともに、私は夏を脱しようとしている。対話の権利を奪われ、一方的に権力を行使された夏を。

Yoyou「2020IOC」

Illustration AUTO MOAI

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旅から旅へ——ANARCHY & BADSAIKUSHのMVと重ね合わせ読み解く「ルイ・ヴィトン」の本質/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第11回 https://tokion.jp/2021/07/21/shockwaves-in-contemporary-music-and-fashion-vol11/ Wed, 21 Jul 2021 06:00:00 +0000 https://tokion.jp/?p=44537 気鋭の文筆家・つやちゃんが「音楽とファッション」「モードトレンドとストリートカルチャー」の関係性を紐解く連載コラム。第11回では、「ルイ・ヴィトン」の鞄が登場するANARCHY & BADSAIKUSHのMVを精緻に読み解きながら、同ブランドの本質を考察していく。

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音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

第11回では、「ルイ・ヴィトン」の鞄が登場するANARCHY & BADSAIKUSHによる「ANGELA feat.舐達麻」のMVを精緻に読み解き、そこで描かれる情景や主題と重ね合わせながら同ブランドの本質を明らかにしていく。

感情の揺れと不安定な情緒を描いた、1本の映画のようなMV

前回は「ルイ・ヴィトン」とミュージシャンたちが相互に与え合ってきた影響、中でも国内のラップミュージックのリリックにコラージュのごとく散りばめられてきたブランド名を観察することで明らかにしていった。今回は、より視覚的に「ルイ・ヴィトン」のイメージ/価値を投影し多層的なメッセージを構築している例を紹介したい。それは、近年ミュージシャンにとってクリエイティビティの具現化としても非常に重要度を増し、音楽作品の価値を補強するメディアとして無視できないものになってきているMV(ミュージックビデオ)――の中でも、暗い影が画面を覆いつくす禁欲性に支えられた1本の映像作品を指している。カメラによってえぐり出される抗い難い感情の揺れ、煙のごとく不安定に漂う情緒、そして終盤描かれる「炎」――人は、そのMVを一本の映画のようだと言う。

監督は映像作家の新保拓人で、この度SPACE SHOWER MUSIC AWARDS 2021にてBEST VIDEO DIRECTOR賞を受賞したばかりの彼のクレジットは以前から様々なラップミュージックのMVのエンディングを飾っているのだが、本作はいつにも増して端正な映像に仕上がっているがゆえに、クライマックスの炎の描写に被さるエンドクレジットの“Takuto Shimpo”というシルエットにすら感動を覚えてしまう。ここまでのプレゼンテーションでラップミュージックの熱心なリスナーの方々はすでにお気づきかと思うが、本MVとはANARCHY & BADSAIKUSHによる「ANGELA feat.舐達麻」 を指しており、近年国内で公開されたMVの中でも屈指の完成度を誇るこの映像作品がリリースされたのは2020年11月のことだった。

「炎」の中へ投げ込まれる「ルイ・ヴィトン」が意味するもの

AANGELA feat. 舐達麻 / ANARCHY & BADSAIKUSH (prod. GREEN ASSASSIN DOLLAR)

「一本の映画のようだ」と称される本MVがどの程度映画の要件を満たしているかを見ていくことはあえてここではしないが、通常細かくカットが割られ、急ぎ足で――ある意味目くらまし的に――編集されるMVのセオリーというものがある中で、4分18秒という決して短くない時間を45の少ないカット数で成り立たせている本作は、確かに「映画のようだ」と言われるであろう余裕のある態度で繋げられている。そして、その冒頭の4カットでは4つの「ルイ・ヴィトン」のボストンバッグがとらえられ、厨房→ホテル→車のトランク→町工場という順でそれぞれの場に置かれた鞄たちは本作でそれぞれのストーリーを紡いでいく。

次の5カット目、一台の車が町工場に到着する。車をとらえるカメラはそのまま移動し工場へと近づくと、扉を開けたDELTA9KIDが姿を見せる。車の到着と示し合わせたように現れる彼は何かの目的のもと待ち合わせているようで、一服だけ吹かすと覚悟を決めたように腰を上げ、足早にG-PLANTSが待つ車へと向かい、鞄を後部座席に置き車へと乗り込む。ここまでを6カット目~14カット目でとらえるのだが、その間カメラはDELTA9KIDを横から、背後から、正面から、引きで、寄りで、執拗に追いかける。

一度カメラが動き出してしまったため、これらの“旅”にもうしばらくお付き合い願いたい。無事に二人を乗せた一台の車が動き出す行方を追ってみると、15カット目~18カット目で再び意味ありげなカメラワーク演出に遭遇する。走る車を後方から、前方から、さらに二人のそれぞれのアップ、というように律儀なまでに対象をあらゆる方面からしつこくとらえ続けるのだが、果たして我々は彼らを尾行しているのだろうか、身ぐるみはがされるかのごとく四方八方から迫り続けるカメラに緊張感が高まっていく。

ANARCHYのヴァースに進んでも、引き続きカメラは弛緩しない。ホテルの一室で隠れるように過ごす彼をとらえる映像は、19カット目~25カット目でサイドから、背後から、正面から、Gジャンを着るシーンまでしっかりと網羅的に押さえられ、26カット目では歩く3人の姿をドラマティックに見せる。その後の車の移動シーンも同様だろう。前から、背後から、横から、身柄を確保された容疑者を写す360°写真のごとく各方向から押さえられる彼らの姿。

続く31カット目では最も力の入ったショットが現れ、その画面の力強さに観る者は痙攣させられるだろう。薄暗いレストランでの移動撮影は、ウェイターを追うように見せながら私たちの予想を裏切り、そのまま奥まった席でのBADSAIKUSHをとらえる。このシーンでは想定の軌道に乗ると見せかけて乗らないという自由自在で柔軟なカメラワークが、BADSAIKUSHがいるテーブルのクローズド性を強調する。その後のカメラワークも、同様にあらゆる角度から迫り、身体に肉薄することで、彼を追い出すように厨房へ移動させることとなる。

人物の登場シーンや厨房のシーンなど、カメラがぐるりと移動撮影を行うことで画面に奥行きと立体感を生みつつ、そのような立体的空間=社会という箱庭の中でそれぞれのアジトを立ち去り一つの場所へと向かう彼ら。四人の存在を暴くように舐めるように、あらゆる方向から追い続けるカメラ。四人は「ルイ・ヴィトン」の鞄を持ち、炎へと歩みを進める。「本気だから命賭けることも厭わず/必ず実らす/花には水を/胸を張って音に託す俺なりのヒップホップ」とリリックである通り、意を決してヒップホップを生きるために、ついに43カット目で鞄は炎の中へと投げ込まれる。

一つの「旅」が終わり、また新しい「旅」へ

「ルイ・ヴィトン」は、言うまでもなく、“旅”を定義してきたメゾンである。旅はかつて今ほど快適なものではなく、過酷なものだった。創業者のルイ・ヴィトンは、若き日、家を出てパリへ向かう。14歳から2年間旅をした彼は、そこで様々な人と出会い経験を積んだ。「それは必要に迫られて移動しているのであり、楽しみのための旅行ではなかった。仕事の都合や家庭の事情とまったく関係のない観光旅行という考え方は、比較的最近生まれたものである。」(ポール=ジェラール・パソル著『ルイ・ヴィトン 華麗なる歴史』河出書房新社、2012年)とある通り、その後のルイ・ヴィトンが果たした功績とは、旅を快適かつ好奇心に満ちたエキサイティングな体験に変え、そこで見聞きする歴史的・文化的接続が人生を自由なものとして充実させるという価値観へと更新した点にあるだろう。

ポール=ジェラール・パソル著『ルイ・ヴィトン 華麗なる歴史』河出書房新社

「ANGELA feat.舐達麻」において、登場人物は車に乗り目的地へと向かう。その姿はまさに旅であり、旅路は暗闇の中で燃え盛る炎にたどり着き一つの終着点を迎える。「ルイ・ヴィトン」は燃やされ、旅は終わった。同時に、自由と歓楽と好奇心とラグジュアリーは灰になり、売人としての過去は葬り去られ、彼らはついにヒップホップと心中することを誓う。カメラに向けて赤裸々に自身をさらけ出すこと。ストリートのセオリーに従うこと。待ち受ける過酷な道、過酷な旅。

「暗闇に火つけて 煙と舞うメロディ/Roll up Roll up/ONE MAKE 運命や人生 変えたセオリー/Forward Forward/変わらずストリートならいつも通り/Go out Go out/天国地獄の狭間思う1人/No doubt No doubt」(「ANGELA feat.舐達麻」)

こうしてストリートと旅のつながりに心打たれたあなたは、続いて、同じく「ルイ・ヴィトン」のボストンバッグがとらえられるRYKEY×BADSAIKUSH「GROW UP MIND feat.MC漢」のMVを視聴し涙するだろう。そして、自身にとっての“旅”の定義をもう一度考えることになるだろう。パンデミックの渦中で、ヴァージル・アブローは依然として“旅”にこだわり続けている――人種、ジェンダー、あらゆる現代文化の問いを背負いながら。一つの旅が終わると、すぐにまた次の行先への旅路が始まる。その一つに、ヒップホップは、ストリートは、確かに存在している。

GROW UP MIND / RYKEY × BADSAIKUSH feat.MC 漢 (prod.Green Assassin Dollar)

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「ルイ・ヴィトン」とヒップホップの関係性を振り返る/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第10回 https://tokion.jp/2021/06/24/shockwaves-in-contemporary-music-and-fashion-vol10/ Thu, 24 Jun 2021 06:00:33 +0000 https://tokion.jp/?p=38994 気鋭の文筆家・つやちゃんが「音楽とファッション」「モードトレンドとストリートカルチャー」の関係性を紐解く連載コラム。第10回は「ルイ・ヴィトン」とヒップホップの関係性について、同ブランドの軌跡とストリートミュージックの表現者たちのリリックを通して読み解いてく。

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音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

第10回から論じていくのは、ヴァージル・アブローがメンズの、ニコラ・ジェスキエールがウィメンズのアーティスティック・ディレクターを務める「ルイ・ヴィトン」。多種多彩なカルチャーと共振してきた同ブランドとヒップホップの関係性や、ストリートミュージックの表現者たちのリリックに表れる表象を読み解いていく。

多様なカルチャーと異種配合を繰り返してきた「ルイ・ヴィトン」

レコーディングの前に必ず買い物をするというJP THE WAVYは、インタビューで次のように告白する。

例えば、前のアルバムに入っていた「Stay」って曲は、スタジオに入っても全然書けなくて、「やばい、どうしよう」って状況になって、「ちょっと1回、(ルイ・)ヴィトン行ってきます」ってタクシーに乗って、ルイ・ヴィトンでサングラスを買って戻ってきたんです。そうしたらリリックがバーっと全部書けたんですよ(笑)。
出典:GQ JAPAN「JP THE WAVY×LEX対談──2人の出会いや制作秘話から、ファッション観までを語る(前編)」

「ルイ・ヴィトン」とアーティストたちは常にインスピレーションを与え合ってきた。ゆえに、このメゾンが私たちにサプライズを届けないシーズンはない。先日もBTSの新アンバサダー就任のニュースがリリースされ、ヴァージル・アブローは「ラグジュアリーとコンテンポラリーカルチャーの融合、まさしく私たちの新たな章の幕開け」とコメントした。同時期に都内にて開催されていた展覧会「LOUIS VUITTON&」も記憶に新しいが、“コラボレーション”がテーマになっていた本展示は、時代やジャンルの壁を越えて自由な旅を続けるこのブランドがたくさんの話題性を振りまいてきた歴史をとらえ編纂していた。その歴史とは、特にモードファッションへ参入した1998年以降、多様なカルチャーへと接近し異種配合を繰り返してきた軌跡である。「ルイ・ヴィトン」にアクセスすることは、もはや古典から現代アートまでの芸術文化を観光/鑑賞するような旅体験である――そう言わんばかりの自信と、めくるめく時代の革新を再定義するプレゼンテーション。それら影響源の1つとして、間違いなく音楽も挙げられることだろう。例えば当時アーティスティック・ディレクターだったマーク・ジェイコブスのオファーにより実現したサングラスやジュエリーでのファレル・ウィリアムスとの協業、キャンペーンで広告に起用されその世界観の演出に一役買ったマドンナやキース・リチャーズ、デヴィッド・ボウイ等との共演は、今でも私たちの記憶に焼きついている。

2000年代半ば以降は、ポール・エルバースやキム・ジョーンズのメンズディレクター就任によりメンズウェアの人気を着実に築いたのち、ヴァージル・アブローの手腕によってヒップホップ分野での人気もさらに盤石なものとなっており、その“旅”の行方はますます境界線なく進んでいるように見える。まさに今シーズン、2021メンズサマーコレクションにおいては21サヴェージのイメージモデル起用もあった。ボーダーラインをにじませ曖昧にしていくようなダイバーシティ的価値観が水彩画の手法によって表現され、それらを装いながらたたずむ21サヴェージの姿を見ると、このブランドが国境と人種の壁を越えて愛されていく未来をヒップホップカルチャーに託しているようにも映る。

MEN’S 2021 SUMMER CAPSULE COLLECTION | LOUIS VUITTON LOUIS VUITTON

ヒップホップは「ルイ・ヴィトン」をどのように綴り歌ってきたか

一方でヒップホップ側からブランドへのラブコールはというと、その最たるものがカニエ・ウエストであることは間違いないだろう。他にも2 Chainzが「Birthday Song」(2012年)で「グッチ」と並び「ルイ・ヴィトン」を「When I die, bury me inside the Louis store」とまで崇めたように、多彩な意味性を擁した“ラグジュアリーブランドの王様”のごときこのブランドをリリックに参照した例は非常に多い。

2 Chainz – Birthday Song ft. Kanye West (Official Music Video) (Explicit Version)

それは国内においても同様で、まずは紋切り型の用法として“贅沢品”としての意味付けを多く探すことができるだろう。例えば、代表例はNORIKIYO「Hey Money feat.ZORN,ACLO&OMSB」(2014年)である。日常の仕事や家族との慎ましやかな暮らしに理想の生活を見る価値観が謳われている本曲において、白いシャツとパンツという飾らない服装に対比して挙げられるのが「ヴィトンドルガバ/今じゃパジャマ化」というラインだ。同様の記号性は「貧乏なんて気にしない」(2014年)でKOHHによっても「大金持ちでも心の中が貧乏じゃ意味無い/わざわざ見栄張って/値段が高いルイ グッチ ヴェルサーチ/本当に必要な物以外全く必要じゃない」とライムされる。

NORIKIYO / Hey Money(Remix) feat. ZORN, AKLO & OMSB
KOHH – “貧乏なんて気にしない” Official Video

並んで、「ルイ・ヴィトン」をいわゆる“ブランド”の代名詞としてとらえたケースも観察される。“ネオチンピラ”を名乗る兄弟ラッパーGOBLIN LANDは「アイコンはGL/ブランドなる俺/LOUIS,GUCCI,FENDI,Chrom,BG,PRADAみたい俺らが流行る/俺らが流行る」(2019年「icon feat. Mackey」より)というラインで“ブランドなるもの”の筆頭に「ルイ・ヴィトン」を挙げ、自分たち自身がブランドであると同時にアイコンであるとも主張することでLVのロゴを視覚化する。

GOBLIN LAND – icon feat. Mackey (Prod. ZOT on the WAVE)

この手法はElle Teresaが「アタシの事好きならこっちにおいでよ/ティファニーみたいな私とも」(2018年FEMM「Dolls Kill feat.ELLE TERESA」より)と告げることで自らとブランドをイコールで結んだ芸当に近いが、GOBLIN LANDの例は「ルイ・ヴィトン」がラグジュアリーブランドの代表格でありつつそのアイコンの記号性が我々の知覚にしっかりと刻印されているからこそ成立する方法であろう。

FEMM – Dolls Kill feat. ELLE TERESA (Music Video) Prod. LAZ¥$TAR

BAD HOPやKOWICHI、YDIZZYらの巧みな押韻アプローチ

多くの意味内容を持ち合わせているがゆえにリリックへと多用される「ルイ・ヴィトン」だが、実はそれらを言語芸術としてのラップフォームに紛れ込ませることについては多くのラッパーが四苦八苦しているように見受けられる。「グッチ」と違って、この「ルイ・ヴィトン」という音がなかなか料理の難しいワードであることは容易に想像がつくだろう。結果的に、優れたラッパーたちは音を切り取り/変形させることでその道を切り拓いてきた。そこで凝らした工夫とはつまり、「ルイ・ヴィトン」を「ルイ」「ルイヴィ」「エルヴィ」と短縮させることによる打開である。前掲のGOBLIN LANDがまさにその例だが、他にもBAD HOPの「Foreign feat.YZERR&Tiji Jojo」(2019年)では「プラダにルイ/シャネルのブーティー」で「ブーティー」と踏むために「ルイ」が選択されている。

BAD HOP – Foreign feat. YZERR & Tiji Jojo / Prod. Wheezy & Turbo (Official Video)

「エルヴィ」の用法としてはKOWICHIの「No Lease」(2019年)を挙げたい。「借り物じゃない/洋服とかジュエリー/借り物じゃない/Versace FENDI GUCCI LV BALENCIAGA」というように、彼はラグジュアリーブランドのアイテムを購入できるようになった成功者の様子をブランド名を羅列しライムするのだが、「ヴェルサーチ(ェ)」「フェンディ」「グッチ」との脚韻を果たすために「エルヴィ」と詠まれていることがわかる。

KOWICHI – No Lease (Official Video)

中でも、近年の国内ラップミュージックにおいて最も官能的に「ルイ・ヴィトン」が処理されたのは、YDIZZYの「OOOUUU(REMIX)」(2016年)ではないだろうか。同年にYoung M.Aによってストリートで絶大なヒットを記録し多くのラッパーがビートジャックで反応したナンバーだが、原曲に見られる小節ごとのシンプルな脚韻を踏襲しつつもYDIZZYはこのリリックを自身の色に染め上げ、スリリングな魅力を与えることに成功している。「笑わせんな根暗/早口ことばすごい/なんも食らわない/寝てな終わり」というラインで言い放つ通り、ゆったりとしたリズムで丁寧にライムすることで早口ラッパーの面々をけん制しつつ、そこで展開されるのは「kiLLaははばたく準備/これは初めの前戯/先を見据えた行為/からだにつけたダイヤとLV」というラインである。「準備→前戯→行為→ルイヴィ」という順で踏まれ、かつLVを纏うものとして「からだ」というワードが挿入される。流れるような情景描写と卓越した構成力は、当時東京ストリートシーンで最大の注目を集めていたYDIZZYのセンスが凝縮されている。

YDIZZY – OOOUUU(Remix)

「炎」へと投げ込まれる「ルイ・ヴィトン」

もう一例、アクロバティックなテクニックが披露されるDJ CHARI,DJ TATSUKI「YAKEDO feat. Candee & OGF Deech」(2020年)にも触れておくべきだろう。前述の例からもわかる通り「i」で受けることでその他ブランド名との脚韻を行いやすい「ルイ・ヴィトン」だが、ここでは「CartierにBurberry/Amiriに巻くLouis Vuitton/触れられない誰にも/まるで俺は炎/煙昇る街 俺らが火元/次から次へと残してくヤケド」というヴァースにおいて、前半は「バーバリー」「ルイヴィー」と「i」の長音で受けつつも後半は「(ルイヴィー)ト(ン)」と「炎」「火元」「ヤケド」の「o」で受ける展開が見られる。「i」と「o」の押韻をつなぐブリッジの役割として「ルイヴィート(ン)」は存在しており、テクニカルな用例として、また外せない存在としてのこのブランドの立ち位置に注目させられるのだ。

DJ CHARI,DJ TATSUKI – YAKEDO feat. Candee & OGF Deech

「カルティエ」等のラグジュアリーブランドと一緒に並べられつつも、その後「炎/火元/ヤケド」という火の中に投げ込まれるLouis Vuittonだが、最後に1つの補助線を添えつつこの回を終えたい。実は、この描写が持つドラマ性を激しく増幅させるような1つの作品があることをご存知だろうか。ヒップホップを愛するあなたであればすでにお気付きであろうその曲とは、同じく2020年にリリースされ、光と暗い影が画面を覆いつくす禁欲性に支えられた1本のMVを指している。カメラによってえぐり出される抗い難い感情の揺れ、煙のごとく不安定に漂う情緒を頼りに、次回は「ルイ・ヴィトン」と「炎」の関係性について論を進めていきたい。

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エディ・スリマンの「ディオールオム」を再考する/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第9回 https://tokion.jp/2021/05/22/shockwaves-in-contemporary-music-and-fashion-vol9/ Sat, 22 May 2021 06:00:44 +0000 https://tokion.jp/?p=33864 気鋭の文筆家・つやちゃんが「音楽とファッション」「モードトレンドとストリートカルチャー」の関係性を紐解く連載コラム。第9回は、エディ・スリマンが「ディオールオム」で生み出した熱狂や成し遂げたことについて、当時のUKロックシーンや同氏の現在地を参照しながら再考する。

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音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

第9回の主役となるのは、2000年から2007年まで「ディオールオム」のクリエイティブ・ディレクターを務めたエディ・スリマン。当時の「ディオールオム」と濃密な関係を切り結んでいたUKロック・シーンや、エディの現在を参照しながら、「あの熱狂」と同氏のクリエイションの本質について再考する。

メンズファッションの風景を一変させた「ディオールオム」

WWD for Japan (All about 2005-06 A/W men’s)

2000年に「ディオールオム」のクリエイティブ・ディレクターに就任し07-08 年A/Wコレクションまで指揮を執ったエディ・スリマンは、たった数年でメンズファッションの全てを変えてしまった。その認識について、概ね異論はないだろう。私は、一体何が起こっていたのだろうかと、不思議な顔で当時を回想する。あの時の狂騒とは、あの時の「ディオールオム」に対する世の中の熱量とは、つまり何だったのだろうかと。

飛ぶように売れたスキニーパンツ、カジュアルだがドレッシーなスタイル。グランジやグラムロック、モッズをエレガントに仕立てあげた色気漂うルック。ストイックなカラーパレットに、ファッションスナップのあらゆるページに踊った“Dior Homme”のクレジット。メディアは“カリスマ”と書き立てた。ティーンは背伸びし、こぞってアイテムを手に入れた。当時、「ディオールオム」はストリートの風景を全く新しいものに変貌させた。恐らく、ポップカルチャー史においてラグジュアリーファッションとストリートミュージックが最も接近し愛おしく絡み合ったムーブメント、それこそがエディ・スリマンによる「ディオールオム」という運動だった。結果として、フォーマルとカジュアルしか存在しなかったメンズウェアに第三の領域を確立することに成功した。多くの男性がメゾンの魅力に憑りつかれ痙攣し、ストリートにはモノクロームに包まれ痩せ細った被写体が佇むこととなる。彼等は、その姿を写真によってとらえられ、若さの中で揺れ動く美意識を連鎖させていった。それらは全て、2000年代に起こったことだ。

UKロックシーンとの蜜月関係

「ディオールオム」というアートフォーム、そのクリエイションはメディアによって幾度となく神聖化されて語られ、数々のクリシェを生み出してきた。“モノトーンの極度なミニマリズム”“ロックに着想を得たファッション“”写真家としてのインスピレーションが込められたショー”“繊細な少年性をとらえた世界観”“男性性の中にあるフェミニンな香りの具現化”……。そのどれもが正しいし、当時の「ディオールオム」の表現を適確に言い当てている。しかし、エディ・スリマンがメゾンを離れ15年近くが経過し、写真家としての大規模な活動や「サンローラン」でのワーク、そして今「セリーヌ」で再び注目を集めるこのタイミングだからこそ、“今”の彼のパフォーマンスを通して当時の功績を振り返り、改めて「ディオールオム」の意義を捉え直す作業もできるはずだ。しばしば定型的な表現で語られてきた彼の活動に、新たな側面から光を当てること。そしてそれは、当時のストリートミュージックを再解釈することとほぼ同義でもある。あの時、音楽と衣服は愛し合い溶け合っていたから。よく知られているように、エディ・スリマンは多くのミュージシャンたちと交流を持ってきた。「ディオールオム」期はとりわけ英国のロックバンドと縁が深く、レイザーライトやザ・レイクス、エイト・レッグスらの音楽をランウェイショーでフィーチャーし、フランツ・フェルディナンドやザ・キルズらにステージ衣装を提供してきた。中でも特にエディを惹きつけてやまなかったのが、ザ・リバティーンズのピート・ドハーティだ。

Helid Slimane – London Birth of a Cult

2005年にピートを被写体とした写真集『London Birth of a Cult』を発表するのみならず、2006年春夏コレクションでは同氏にオマージュを捧げたと思しきルックを登場させた。彼の次のような発言を幾度となく聞いた記憶があるだろう。――「友人のひとりとして、ピート(・ドハーティ)のとりこになっています。彼は、ロックスターであることをはるかに超えてしまうような不思議な力がある。」(『WWD MEN’S』2005-06A/W号)

“その後”のエディのクリエイションにあらわれた変化とは

CELINEのタイポグラフィーが刷新され「E」の頭上をさりげなく撫でていたアクサンテギュがいなくなろうと、フィービー・ファイロが女性のために創り上げたコンフォータブル・ファッションが跡形もなく消え去ろうと、就任当初の「セリーヌ」でのエディ・スリマンの振る舞いが私たちの想像を裏切ることはそうなかっただろう。彼がそういうディレクターであると私たちは分かっていたから。しかし、ついに21年SSコレクションをきっかけに新しいクリエイションが顔を出し始め、変わらないはずだった彼の新鮮な変化に世の中は色めき立っている。エディ・スリマンが豊富なカラーパレットを用意したのだ。エディ・スリマンがE-BOYを描写したのだ。エディ・スリマンがスポーティでリラクシングなテイストを発揮したのだ。エディ・スリマンがBGMにヒップホップとダンスをセレクトしたのだ。以前もそれら一つひとつが彼のショーに顔を覗かせることはあったものの、新しさの全てが渾然一体となってショーを構成する変化感は、驚きと熱狂をもって歓迎された。

CELINE HOMME “THE DANCING KID”

21年SS、そして先日発表された21-22年AWにも明らかだが、彼の手腕がますます発揮されている領域は主にスタイリングにおいてであろう。個々のアイテムについてのクリエイティブ性/独創性を追求するというよりも、すでにあるものを最高の組み合わせでスタイリングするという、コーディネートの妙。キャップ、バッグ、ジャケット、ワンピース……どこかで見たことのあるようなものたちが、いかにも真似できそうだが最上級のエレガンスでバランスよく配置される。彼はこう言っているかのようだ――「いよいよ、新しい衣服なんて存在しない。全ては組み合わせであり、 “今”の気分を高めてくれるスタイリングこそが求められている。ほら、あなたが今日も何らかのテーマで選曲されたプレイリストを聴き、エキサイトしリラックスしたように。ファッションはプレイリストであり、個々のアイテムは音楽そのものだ」。

“人”と“ストーリー”への執着こそが、あの熱狂を生んだ

「セリーヌ」でより顕在化してきたスタイリングの腕を頼りに「ディオールオム」の功績をたどってみると、浮き彫りになってくるものがある。思い出してみよう。彼のショーが、ストリートにいる男の子のスカウトから始まること。衣服と写真を主戦場としながら、モデルの衣服を創りそれらを撮影するというある種の“親密さ”をとらえてきたこと。「写真の魅力とは?」という質問に対し、彼は言う。「カメラと僕と、二人きりになれるということ。この魅力は否定しがたい。対象と僕だけがいるんだ。」(『STUDIO VOICE』2008年4月号)

『STUDIO VOICE』2008年4月号

つまり、極論を述べると、若いアーティストそれ自身のプロデュース/アートディレクションに取り組んできたのがエディ・スリマンなのではないだろうか。ブランドのアートディレクション以上に、人のアートディレクションへの傾倒。ゆえに、彼が能力を発揮するのは、新しい衣服を創りだすこと以上にスタイリングにおいてである。実際のところ、純粋に衣服だけを見つめてみると「ディオールオム」の新しさの前には「ラフ・シモンズ」がいた。しかし、対象と自分との間に流れる親密さがスタイリングに跳ね返り、独特の色気=生なるエネルギーを引き出すことで、そこにはストーリーとコンテクストが生まれ、エディ・スリマンでしか成立し得ない「ディオールオム」を生んだ。彼が真の意味で表現してきたのは衣服以上に“人”であり、“ストーリー”である。「ナンバーナイン」や「リック・オウエンス」など、同時期に支持を得た数々のブランドがロックからの影響を色濃く反映したクリエイションを発表していたが、それらと「ディオールオム」が決定的に違ったのは、エディ・スリマンが“人”のアートディレクションをしていたということではないだろうか。その仮説は、彼が若き日に関心を抱いていた対象からも推察される。例えば、11歳から始めたという写真でカメラを通し周囲の友人を観察し続けてきたこと。ゲーテ『若きウェルテルの悩み』を愛読し、13歳の頃には仏ル・モンドでレポーターとして働くことを夢見ていたこと。少年は、自らのレンズ越しに社会を、その背景にある人を見つめることに惹かれてきたのである。(『Hedi Slimane’s ‘Secret Society’』より)

「ディオールオム」の男性性の中に見られる女性性――その繊細さ――についてもかつてさかんに言及がなされたが、近年は新たな視点での考察もなされている。AFFECTUSを展開する新井茂晃は『AFFECTUS vol.6』(2019年)でこう述べる。「エディの服は男性であるとか女性であるとか性別を対象としておらず、体型=痩身をターゲットにした服と言える。痩せた身体であれば、女性であれ男性であれ性別は関係なく着ることのできる服だ。そういう意味では、ジェンダーレスが強調される現代よりもずっと以前から、性別を超えた服をデザインしていたと言える。」

対象となる“人”に親密に接近するエディ・スリマンのアプローチからは、自然と両性の香りが立ってくるであろう。それは、例えば同時期に男性性への揺さぶりをかけた「ギャスパー・ユルケヴィッチ」の発するセクシュアリティともまた異なるもので、エディ・スリマンの人への執着心が可能にした、言わば芸能プロデューサーの如き性質によるものに違いない。

2000年代、UKの多くのロックミュージック――というよりもロックミュージシャンたち――がエディ・スリマンによってストーリーを与えられた。それは、プロデューサーのポール・エプワースがBloc Partyを、The Futureheadsを、Maxïmo Parkを、The Raptureを当時音楽面からプロデュースしていたことと同様に、エディスリマンはUKロックのミュージシャンたちをスタイリング面/アートディレクション面からプロデュースしていたと言える。2000年代の英国ロックの隆盛は、音楽/人物両面からのスタイリングによって支えられたムーブメントだったのだ。それは当時、人物像をより際立たせていくことでUK/USで大きな支持を獲得し始めていたラップスター/ヒップホップスターに対する、ロック側からの回答だったかもしれない。単なる音楽的範疇でのリバイバルを超えた、アーティストそのものを引き立たせ輝かせる、いわばポップカルチャーの醍醐味としての。

エディ・スリマンが「ディオールオム」を去り15年近くが経ち、今またキム・ジョーンズにより「ディオール」はストリートで絶大な人気を得ている。主にヒップホップの文脈での支持が熱いが、同様の人気を獲得しているブランドとして、「ルイ・ヴィトン」が挙げられるだろう。キム・ジョーンズがいて、ヴァージル・アブローがいる。次回は、「ルイ・ヴィトン」とストリートミュージックの協演について論じたい。

Illustration AUTO MOAI

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「ディオール」の“雑多性”と、それを顕在化してきたストリートミュージックのリリックたち/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第8回 https://tokion.jp/2021/04/11/shockwaves-in-music-and-fashion-vol8/ Sun, 11 Apr 2021 06:00:09 +0000 https://tokion.jp/?p=27957 気鋭の文筆家・つやちゃんが「音楽とファッション」「モードトレンドとストリートカルチャー」の関係性を紐解く連載コラム。第8回は、「ディオール」の真なるアイデンティティや特色、それが顕在化されたストリートミュージックのリリックについて。

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音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

これまで「ヴェルサーチェ」、「グッチ」、「シャネル」を論じてきたが、第8回から主役となるのはディオール。同ブランドの真なるアイデンティティや歴代デザイナーたちが織りなしてきた“雑多性”、そしてストリートミュージックの表現者たちのリリックにおける現れ方について紐解いていく。

今をときめく「ディオール」、その“異様さ”とは

2021年の今、最も勢いのあるメゾンとは?その質問に対して、ストリートで群れをなす人たちは、バーバリーやルイ・ヴィトンが一瞬脳裏をかすめながらも結局のところこう回答するだろう。――「ディオール」であると。その快進撃は市場において際立っており、競合ブランドに対して相対的に“低迷”というストーリーを付与することにも成功し、ジャーナリストたちは皆「グッチの業績、ついに鈍化か」と書き立て始めている。パーティが次々にキャンセルされ、グラスに注がれた魅力的な泡の輝きがこの世から消え去ったパンデミック禍において、LVMH社の激減したシャンパン売り上げをカバーした筆頭が「ディオール」であるとも報告された。今、このメゾンは、人類の欲望と夢を満たす役割を一身に引き受けているのだ。

ブランドのオーガニックグロースを可能にした要因として真っ先にメンズアーティスティックディレクターであるキム・ジョーンズの手腕が挙げられるだろうが、ウィメンズを手掛けるマリア・グラツィア・キウリによるロマンティックなクリエイションも才気ほとばしっており、21-22AWコレクション――ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」を舞台にしたおとぎ話の3D化、そしてスチール/ムービーへの2D化というSNS戦略――が大きな話題をさらったのも記憶に新しい。また、ここに来てコスメ部門も着実に支持を集めている。「ディオール」のこの一見ばらばらに見える価値発信はブランドの顔つきを多彩なものにしており、どこか異様さをまとってもいるだろう。「ディオール」という神秘性に満ちたメゾン、ブランドを考えるとき、それらの雑多性、異様さは重要な違和感として忘れてはならないように思う。

“エレガンス”だけではない、真なるアイデンティティ

「ディオール」のアイデンティティとして、これまで“エレガンス”が挙げられてきた。その時代に合ったエレガンスを追求するメゾン――全くもって間違いのない説明だが、私はそこに“人工的な”という一言を添えたい。クリスチャン・ディオールの生み出した数々のライン、そのシルエットは(女性のリラクシングなスタイルにこだわったココ・シャネルにモード界への復帰を決心させたくらいに)身体を締め付け、その周囲を取り巻くように構築的に形作られるものだった。「ディオールは女性の身体をコルセットでがっちり矯正して美しいシルエットをつくったが、バレンシアガは身体そのものを活かし、さりげないカッティング技術で、その欠点を芸術的にカモフラージュした」(シャルロット・シンクレア著、和田侑子訳『VOGUE ONクリスチャン・ディオール』、ガイアブックス、2013年)とある通り、シャネルやバレンシアガとは相反するスタンス、言うなれば身体を縛りつける形で衣服製作に取り組んできたのがクリスチャン・ディオールである。

『VOGUE ON クリスチャン・ディオール』(シャルロット・シンクレア著、和田侑子訳)

その後も、煌びやかな、豪華絢爛な建築物のごときドレスを仕立てることに邁進したジョン・ガリアーノ、常識を超えたタイトなラインを提唱しメンズウェアのシルエット基準を刷新してしまった「ディオールオム」のエディ・スリマン、そして昨今ストリート色を大胆に導入し「ナイキ」や「ステューシー」とのコラボレーションを敢行しているキム・ジョーンズ――彼の作品もまた、両立しないはずのハイとローの要素が完全に融合し、“高級で上品なストリートグラフィティ”といった語義矛盾を孕むような非現実的な世界を確立している――と続く。偉大なるデザイナー陣が夢想するイメージが人工的かつ繊細な手つきで具現化されたそれらエレガンス作品は、メゾンのアイデンティティとして脈々と息づき、時に退廃的な香りを漂わせてもいる。モード史を彩る、ロマンティックでデカダンスな衣装の数々。それはまさに、アルフレッド・ヒッチコック監督作『舞台恐怖症』でディオールをまといスクリーンに陰翳と官能を充満させ、観る者を痙攣させてきたマレーネ・ディートリッヒのごとく。

「ディオール」を主題としたストリートミュージック史上最も重要な曲

ところで、ポップミュージックのリリックに、「ディオール」はどのように扱われてきたのだろうか?古くは1977年に山口百恵が「ミス・ディオール」(『百恵白書』収録)を、モリッシーが2006年に「Christian Dior」(『In the Future When All’s Well』収録)なる曲をリリースしており、大胆にブランド名をタイトルに据えるところからもこのメゾンに対するアーティストたちからの信頼が垣間見えるが、近年のストリートミュージックの文脈だとまずはPop Smoke「Dior」を避けては通れないだろう。Black Lives Matterにおいてデモ参加者に突如歌われた本曲は、政治的メッセージを直接的には含んでいない“単なる享楽の曲として”多くの人の自由への想いを乗せ世界中に拡散されていった。2010年代後半に吹き荒れたビート革命“ブルックリン・ドリル”の盛り上がりを象徴する曲としても、ストリートミュージック史上最も重要な、「ディオール」をモチーフに作られた曲ではないだろうか。

POP SMOKE – DIOR

BAD HOPやWAY WAVEらのリリックに顕在化された、ブランドの“雑多性”という特色

一方で、前述したような「ディオール」のさまざまな喜怒哀楽からなる雑多性を阿修羅像のごとく多面的に表現するブランドの特色もリリックに顕在化している。DJ CHARI & DJ TATSUKIの「GOKU VIBES feat. Tohji,ElleTeresa,UNEDUCATED KID,Futuristic Swaver」(2020年)では「내 눈은 사륜안 /I’m rockin Dior sunglass/지금 내 모습은 스티비 원더」とサングラスへの言及がなされ、BAD HOP「Foreign」(2019年『Lift Off』収録)では「カリフォルニアウィード/DIORのキックス」とスニーカーが引用される。

DJ CHARI & DJ TATSUKI – GOKU VIBES feat. Tohji, Elle Teresa, UNEDUCATED KID & Futuristic Swaver
BAD HOP – Foreign feat. YZERR & Tiji Jojo

WAY WAVE「最高の彼氏 -the supreme man-」(2019年)の「シックなスーツでオール/リップはグロスのディオール」やchay「ハートクチュール」(2015年『ハートクチュール』収録)での「Diorのルージュでお出かけ」等、女性アーティスト曲のリリックではコスメが描かれる。

WAY WAVE – 最高の彼氏 -the supreme man-
chay – ハートクチュール

このアイテムの幅広さは、今の「ディオール」の雑多な魅力を象徴しているだろう。ゆえに、つい先日リリースされたBLACKPINK・ジスの「ディオール」グローバルアンバサダー就任のニュースは、“ファッション&ビューティー”の両部門と契約をかわしたという点が非常に興味深い。ファッションと比べるとそのヴィジュアル・アイデンティティをフェミニン~ファンシーなテイストへ寄せすぎているきらいもある「ディオール」のコスメ部門だが、フレグランスなどにも拡大しているその広大なイメージをジスの起用でどのように取りまとめていくのだろうか。

次回は、それら幅広いイメージを人工的なエレガンスで串刺ししてきたメゾンの、その特色が如実に表れている例として、一世を風靡したエディ・スリマンによる「ディオールオム」のクリエイションについて分析していきたい。一体、あの狂騒とは何だったのだろうか?2000年代最初のディケイドにおいてファッション界最大の革命だったであろう「ディオールオム」という事件について、次回no.9ではストリートミュージックとの関係を紐解きながら、改めて見つめ直してみよう。

Illustration AUTO MOAI

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ECDやTohji、ZORNらの押韻アプローチから「シャネル」とヒップホップの接点を紐解く/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第7回 https://tokion.jp/2021/03/12/shockwaves-in-music-and-fashion-vol7/ Fri, 12 Mar 2021 06:00:40 +0000 https://tokion.jp/?p=23179 気鋭の文筆家・つやちゃんが「音楽とファッション」「モードトレンドとストリートカルチャー」の関係性を紐解く連載コラム。第7回は、「シャネル」とヒップホップの接点を国内アーティストの押韻アプローチにフォーカスしながら読み解いていく。

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音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では、noteに発表した「2010年代論――トラップミュージック、モードトレンドetc.を手掛かりに」も話題となった気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

前回に引き続き、主役となるのは「シャネル」。そのクリエイションや“リアル”なスタンス、そしてECDやTohji 、ZORNらの押韻アプローチにフォーカスしながら、同ブランドとヒップホップとの接点を紐解いていく。

カール・ラガーフェルドによる「押韻」とヒップホップからの「引用」、そしてココ・シャネルの“リアルさ”

「シャネル」がストリートの音楽によってどのように扱われてきたか、前回まではリリックに登場するブランド名から放たれる意味内容を中心に読み解いてきたが、今回はラップによって発される音声としての側面から考えてみたい。

「シャネル」とは、ヒップホップだ――つい私がそう呟きたくなってしまうのは、例えば、メゾンが多用してきたレースについて語る際にカール・ラガーフェルドが披露した次のようなユーモアによるところがあるのかもしれない。

「1930年代、彼女はスーツよりもレース・ドレスのほうがずっと有名だった。レースと聞くと、わたしはシャネルを思い浮かべる。レースはフランス語でダンテル。ダンテル、シャネル……韻を踏んでる」

(カール・ラガーフェルド著、中野勉訳『カール・ラガーフェルドのことば』、河出書房新社、2020年)

2018年にはNicki Minajがその名も「Coco Chanel」(『QUEEN』収録)という曲を歌い、24kGoldnが「Coco feat. DaBaby」でユーモラスなMVとともに話題を呼んだのも記憶に新しい。あらゆるラッパーに引っ張りだこの「シャネル」だが、実はメゾン側からヒップホップへとアプローチがあった歴史も忘れてはならない。

24kGoldn – Coco ft. DaBaby (Directed by Cole Bennett)

カール・ラガーフェルドは、1991-1992年AWのコレクションにおいてそれまでのメゾンのイメージとは程遠かったヒップホップのファッション要素を大胆に引用し、ジャーナリストたちを驚かせた。もともと「シャネル」はその機能的でシンプルなスタイルをより一層引き立てるための役割としてアクセサリーを多用してきたが、1991-1992年AWにおけるゴールドのアクセサリーはそれまでとは一線を画した編集センスを反映していたのである。

CHANEL Fall 1991/1992 Paris – Fashion Channel

「ヴェルサーチェ」や「ジャン=ポール・ゴルチエ」などゴールドを効果的に使うブランドが目立っていた時代において、ミニマリズムをベースにした「シャネル」のスタイルに程よいスパイスを与えたのはゴールドが持つ高貴なまでの下品さ、聖なる俗っぽさである。PUBLIC ENEMYやDE LA SOULなどの活躍によってニューヨークを中心にヒップホップが注目を集め始めていた時代において、ストリートらしさのあるキャップ、下品さぎりぎりのレベルまでだらしなくかき集められたアクセサリーは、ブランド側からのヒップホップに向けてのラブコールだった(そしてその後「シャネル」とゴールドは2013年KOHHによって「十人十色」で「首からChanel/ヴィンテージのGold」と歌われることになる)。

KOHH, PETZ, Tokarev – 十人十色(prod by Y.G.S.P)

そもそも、ココ・シャネルこそが、ヒップホップが脈々と守ってきた“リアルさ”を信条に生きていた人物ではないだろうか。自分が身をもって体験した出来事をもとに、誇らしげに、自慢げに堂々と嘘偽りなく語る彼女のアティチュードは、「わたしは絶対に嘘をつかない。曖昧な生き方はしたくないから」(髙野てるみ『ココ・シャネル 凛として生きる言葉』、PHP文庫、2015年)という発言にも表れている。その芯のある生き方は映画や書籍などさまざまな形で物語として語られてきた通りで、衣服という作品にとどまらず彼女自身がアイコンとして20世紀ポップカルチャー史に刻まれたというのは、作品と人物が切り離し難い相関を生んでいる極めてヒップホップ的な緊張感に近いものを感じる。

ECDの名曲から新鋭ラッパー・YOSHIKI EZAKIやAYA a.k.a. PANDAらの楽曲に表れる「シャネル」の押韻

ただ、ラップミュージックのリリックにおいて、音声という側面では「シャネル」はなかなか苦戦を強いられてきたかもしれない。以前本連載で「ヴェルサーチェ」と「グッチ」の破擦音がどれだけ近年のラップに愛されているか・ラップを豊かにしているかという旨を論じたが、「シャネル」の場合、そのシンプルな発音は特徴に乏しく、音楽に色彩を与えるのは難易度の高い芸当だったのではないだろうか。よって、「シャネル」による押韻の試みは、予想に反してあまり多く姿を見せることはない。

少ない事例の中で、最も有名なラインはECDの名曲「ロンリーガール feat.K DUB SHINE」(1997年『BIG YOUTH』収録)だろう。「自らビジネスにするセックス/迷える子羊達エックス/ロレックスした男に指輪/買わせたはずがつながれる首輪/携帯かける/サンダルシャネル/つま先のネイルに塗るエナメル」という名リリックで「フェンディ」や「ヴェルサーチェ」と並んで描写された「シャネル」は、ここで「サンダル」との脚韻を試されている。また、最近の例では、LEXやOnly Uとの共演も話題になった新鋭ラッパーYOSHIKI EZAKIによる「King Size Bed」(2020年『sweet room』収録)も挙げておきたい。「1やれって言われたら10やる/年々上がってく俺らのValue/あの子にあげちゃうシャネル/ゴヤール」という、「ゴヤール」を使っての脚韻。さらに、AYA a.k.a. PANDA「Show Me Love」(2019年)での「シャネルのバッグ欲しいな/シャンパン一緒に飲みたいな」というフックのように、わずかながら頭韻の例も探すことができる。

YOSHIKI EZAKI – King Size Bed
AYA a.k.a. PANDA – Show Me Love

TohjiとBAD HOPらの「ココ」の押韻で香り立つ抜け感とポップネス

ラップに効果的な作用を生みにくい様子がうかがえる「シャネル」だが、一方で、連載no.6で論じた「ココ」の引用や、衣服だけにとどまらない香水までも含めたエピソードの構築という別のアプローチでの実験を観察することができる。例えば、stei x TYOSiN x Tohjiによる2019年の曲「lastnight」を見てみよう。Tohjiのヴァースで綴られる、「用がないから ここ去る/外資を稼ぐ/買うココシャネル」というリリック。「ココシャネル」と「ここ去る」で華麗な押韻を果たしたこの事例に顕著だが、無声軟口蓋破裂音(軟口蓋を使って勢いよく息を吐く無声音)である「ココ」は、ラップに独特の抜け感を与え、どこか愛らしいチャーミングな印象も生むことができる。ゆえに、有能なラッパーは、この点に着目した。

stei x TYOSiN x Tohji – lastnight

2021年、BAD HOPは「Chop Stick(Remix)」(『BAD HOP WORLD DELUXE』収録)において、「羽織るFENDIを/首にTiffany/付ける香水はCoco Chanel」とライムした。ここではやはり「香水」と「ココシャネル」で破裂音が重ねられており、彼らのチャーミングな一面を演出する本曲にぴったりのポップネスが香り立っている。

BAD HOP – Chopstick Remix feat. Vingo, Benjazzy, SANTAWORLDVIEW & ゆるふわギャング

「シャネルの5番」で押韻したZORNの驚嘆すべき技術

そして、2020年の傑作アルバム『新小岩』を経て、先日の武道館公演の成功によりシーンでのさらなるプロップスを獲得し続けているZORNが、2014年にリリースした「Party Night」(『サードチルドレン』収録)にも注目したい。「真夜中のクラブ/午前2時半/皆気になるいけてるlady/やべえぜセンスも洗練され/ゆきとどいたネイルの手入れ/浮かばないかける言葉/まるでモンローシャネルの5番」というヴァースで、ZORNは「かける言葉」と「シャネルの5番」での押韻を果たしている。「a-e-u-o-o-a」で見事に踏んでいる彼の技術には感嘆するしかないが、ここで「香水」ではなく具体的に「5番」という固有名詞が引用されることで、ただ音として押韻に奉仕するだけではない、クラブフロアで艶めかしく踊る午前2時半の女性の魅惑さが強調される。

周知の通り、N°5は装飾過多のデザインが主流だった1920年代において、常識破りのミニマルさを備えた角形の薬瓶を模したフォルムで、飾らないサンセリフ体のロゴとともに売り出された反時代的なプロダクトだった。圧倒的なシンプルさと、ミニマリズムの極致のような佇まい。グラフィックデザイナーの原研哉は、N°5のボトルについてこう述べている。「人々はこのエンプティなオブジェクトに累々とイメージを溜め込んできた。その圧倒的な貯蔵量。だからN°5には絶大なイメージの比重がある。これは多くの時間を生き抜いてきたデザイン独特の特徴である」(『high fashion』2008年2月号)と。

N°5に代表されるように、「シャネル」はシンプルで機能的な“スタイル”にこだわってきたからこそ、さまざまな組み合わせ、あらゆる要素を受容することでその“スタイル”を膨張し続けてきた。本連載で計3回に渡り論じてきた通り、ラップミュージックのリリックにおいても、「ココ」を添えることで“コカイン”の連想を可能にし、“香水”“N°5”との併用で聴く者の想像力を広げてきたのがこのブランドの魅力である。その懐の深さこそが「シャネル」のアイデンティティであり、新デザイナーとして試行錯誤を重ねているヴィルジニー・ヴィアールの「シャネル」も、そのラップミュージックへの表象も、今後我々は目をこらして見届けていく必要があるだろう。

ところで、「シャネル」が新デザイナーによる新たな挑戦へと進む最中、爆発的に人気を高めストリートミュージックにおける存在感を日に日に増しているブランドが存在する。奇しくもそれは「シャネル」の永遠のライバルであり、ココ・シャネルのモード復帰のきっかけにもなったメゾンだ。まさに今何度目かの最盛期を迎えているそのブランドについて、どのような形でストリートミュージックにイメージを刻まれているのか、興味深い実態を次回はレポートしたい。

Illustration AUTO MOAI

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