「バレンシアガ」とvalkneeのクリエイションから考える、消費社会への批評性と“新しさ”/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第13回

音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

第13回で主役となるのは、2015年からデムナ・ヴァザリアがアーティスティックディレクターを務める「バレンシアガ」。ラグジュアリー/ストリート、リアル/フェイクなどさまざまな境界を撹乱するそのクリエイションと、同ブランドを主題とした国内女性ラッパー・valkneeの楽曲から、現代における消費社会への批評性と「新しさ」の在りようを読み解いていく。

「バレンシアガ」のクリエイションに宿る、消費社会への批評性

今、この世には4つの「バレンシアガ」が存在している。

1. 「バレンシアガ」として純正なるもの。2. 「バレンシアガ」に強く影響を受けたもの。3. 「バレンシアガ」のコピーもの。4. 「バレンシアガ」が生み出すフェイクのようなもの。

つまり、こう補足できるだろう。1は、誰もが認める「バレンシアガ」。2は、「バレンシアガ」のデザインの影響を色濃く受けたインスパイア品。3は、「バレンシアガ」のフェイク。4は、近年の「バレンシアガ」が展開するまがい物のような数々のアイテム。これらのバレンシアガはおびただしい数が市場に流通しており、もはや区別がつかないくらいに似通っている。特に、4の出現――マーケットバッグやカーアイテム等の“安価なもの”“見慣れたもの”“使い古されたもの”を服飾品/贅沢品に仕立て上げる試み――は、本物と偽物の関係性に混乱をもたらした。結果的に、4種の「バレンシアガ」を支えるコンテクストは複雑化し、ボーダーは揺らぎ、“本物らしさ”と“本物らしさに接近する偽物らしさ”という両者の立ち位置は一気に崩れることとなった。「バレンシアガ」はますます支持を得ることで多くの顧客を獲得し、インスパイア品もコピー品も出回り、消費の象徴となって大衆を痙攣させていく。と同時に、「バレンシアガ」が売れれば売れるほど、「バレンシアガ」から投げかけられる消費社会に向けての批評性もますます増強されていく。

そもそも、かつてこのメゾンがオートクチュールをルーツに持ち、しかも「布の建築家」と評されるほどのモード史に残る技巧的な作品を生み出していた過去があるからこそ、今の事態はより一層痛快なものとして映る。クリストバル・バレンシアガの時代について、歴史は次のように記述しているのだ。

「ハウスバレンシアガのサロンへの立ち入りは、受付で厳しく管理されていました。サロンに入るには本人宛ての招待状が必要で、常連の顧客 1 名による事前の推薦がなければ招待状は発行されなかったのです。」(Google&Arts 「クリストバル バレンシアガ: ラグジュアリーの世界」より)

「バレンシアガはよく人から、ディオールと同じ規模まで事業拡大できるのに、 といわれた。しかし、自分のイメージにこだわる彼は、事業拡大より超一流と気品の評価を守り通すことを選ぶ。徹底して孤高の彼は、自分の香水の所有者となり、外部からの拘束を嫌ってオートクチュール組合に入ることを拒否する。最高に裕福な顧客と高価格に支えられて、バレンシアガは注文を断っても、最少人数で他の服飾企業と並ぶ営業実績をあげることのできる唯一の店である。」(光琳社出版『メモワール・ドゥ・ラ・モード  バレンシアガ』より)

『BALENCIAGA―M´EMOIRE DE LA MODE』(光琳社出版)

選ばれた富裕層だけのために技巧を凝らした1点ものの衣装を制作していたブランドは、今約半世紀の時を経て、偽物に擬態しながら大衆へ問題提起を突きつける。

そして、その“痛快さ”が決定的になったのは、デムナ・ヴァザリアが「バレンシアガ」の眠っていたレガシーを蘇らせることになった2021-22年AWオートクチュールだった。彼は、ジーンズやTシャツ、ジャケット、タートルネックといった普段着のアイテムをオートクチュールとして昇華させることで、これまでと同様の“見慣れたものをラグジュアリー品として再構築する”という試みを、最も格式高くラグジュアリーな場で行ってみせたのである。

Balenciaga 50th Couture Collection

valkneeがえぐり出す、私達の「汚さ」

valknee「偽バレンシアガ」

2020年秋、ラッパー・valkneeが「偽バレンシアガ」という大胆なタイトルを冠した曲をリリースした。バレンシアガのコピー品を持つ友人を腐したような痛烈なディス曲である。冒頭から「あの子きたならしい/ないのプライド/偽バレンシアガも可哀想」と始まり、繰り返し「汚い」という言葉が向けられる。このワードの選定は強烈だ。と同時に「汚い」は、リリックに散りばめられた「i」の母音により執拗に韻が重ねられることで力強さが増強されていく。「あたしの目にはブレてるよbae(i)/寄らない寄らない(i)/寄らない寄らない(i)で/promi promi(i)/promi promi(i)se 守って/あたし先生じゃないし(i)/彼氏でもない(i)/どないでも知らないどないでも知らない(i)/今日も垂れ流し(i)/きたねーストーリー(i)/今を溶かして多分こいつ病気(i)」と続く「i」の連鎖は、「汚い(i)」をしつこく強調し、強い嫌悪感を訴求していく。

嫌悪感による激しい拒絶は、曲構成の面からもアプローチされる。本曲は“フック→ヴァースA→ヴァースB→フック→ヴァースC→ヴァースB→フック”という構成になっており、ヴァースCが異物として挿入されている。このパートはヴァースAの変奏というよりも、リズムが切り替わり熱が込められる“ハイライトとしての”ラップが披露された、フックと並ぶ本曲の重要な箇所と言えるだろう。「ねえねえ、知ってる/コメよりコネ食うやつ/タダ飯が好きなの知ってるよ/あたし汚ねえ店で肉焼くよ」と、突如始まる柔らかい「よ」の響きは、情感を込めて歌われる「財布出すしテキーラ飲みたくないよ」という「よ」の余韻を最後に、ギアを切り替える。「お前飲みに呼ばない/酒がまずくなるみたい/出し巻きしか頼まない/友達に会わせない/リスペクト感じない/あたし何も得しない/ダチをダシに使わない」というパートの、やんわりとした「よ」の対比として矢継ぎ早に繰り返される強い否定形の「ない」。ストーリー展開と対比の技術を駆使し「汚い」と否定形の「ない」でひたすらに重ねられた偽バレンシアガの「あの子」への感情は、この時点で、最高潮に達する。

しかしvalkneeは、そのような“最悪に汚い”対象を、「あの子」にだけ設定することを慎む。「見ちゃうあたしの心も汚い/私の部屋も死ぬほど汚い/汚ねえ道を歩いてくほの暗い/ずっと根に持つからな忘れない」と綴られるヴァースは、汚い嫌悪感が特定の他者だけでなく自分自身にも向けられていることを明らかにするのだ。あの子は絶対に汚い。しかし私も何かしら汚い。あの子は偽バレンシアガ。私は“偽ではない何かしらの”バレンシアガ。バレンシアガは消費の象徴。バレンシアガはナンセンス。バレンシアガはハイセンス。何がバレンシアガ? 何が真実? 何が真実でない? 何に価値がある? 何に価値がない?

「偽バレンシアガ (RYOKO2000 SWEET 16 BLUES mix)」

「偽バレンシアガ」はその後、リョウコ2000により「偽バレンシアガ (RYOKO2000 SWEET 16 BLUES mix)」としてリミックスが施された。ハードコアなダンスビートで強靭になったトラックに加え、映画『ラブ&ポップ』(庵野秀明監督)の中のとある台詞が新たにサンプリングされている。劇中では開始18分頃に発される軽薄であどけないその台詞は、「偽バレンシアガ」の背景にある文脈や意味を一層くっきりと浮き彫りにしているだろう。――あいつは絶対に汚い、でも私も何かしら汚い“かもしれない”。そもそも誰もかれもが汚いのかもしれない。私は消費に踊らされているのかもしれないし、私自身が消費の対象なのかもしれない。私達が日々考え悩みつつ歩く「ほの暗い」「汚ねえ道」を、「偽バレンシアガ」はえぐり出す。

ファッションにおける第3の「新しさ」とは

『文學界』 2021年8月号(文藝春秋)

ファッションはめぐる。

先頃、『文學界』2021年8月号が「ファッションと文学」なる意欲的な特集を展開していた。matohuのデザイナー・堀畑裕之は、本特集の「宇宙のことを考えながら服をつくることについて」というエッセイで、ファッションの新しさを3つに分類し述べている。少し前に流行っていたものを基準に相対化させた「流行の新しさ」と、根本的な変化を生み出す「アヴァンギャルドの新しさ」に加え、氏は次のような新しさの存在を指摘する。

季節が巡るたびに桜は咲く。夏には芝生が青々と広がる。秋になると銀杏の梢は金箔をちりばめたように風にきらめく。雪が積もった冬の朝は、いつもの街を別世界に変える。

季節が繰り返し、繰り返し、円を描きながら無限に差し出されるこの移ろいこそ、人を感動させる普遍の新しさだと思う。なぜなら、この新しさには始まりも終わりもないから。無限の変化に、心はいつもときめくからだ。

恐らく同様に、私達のほの暗く汚い道も、円を描きながら循環し永遠に続いていく。あなたは汚い、私も汚い。しかし――移ろい続ける時の流れの中で、われわれの汚さは汚さだけでなくさまざまなものを取り込みながら、形を変えていくだろう。そして長い時の洗練を経た汚さは、ある時を境に普遍的な思想を手に入れ、不意に誰かの胸を打つことになるだろう。

Illustration AUTO MOAI

author:

つやちゃん

文筆家。音楽誌や文芸誌、ファッション誌などに寄稿多数。著書に『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)など。 X:@shadow0918 note:shadow0918

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