スニーカーとヒップホップ、「白」と「黒」のループ/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第14回

音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

これまで本連載では1つのブランド・メゾンにフォーカスしてきたが、第14回では「スニーカー」というアイテムにフォーカス。ヒップホップにおいて特別な存在感を持つ「スニーカー」の描写の変遷を皮切りに、同アイテムを媒体に紡がれるメタファーやイメージの連鎖、そこに立ち現れる「ヒップホップの真髄」について論じていく。

「スニーカー」という神聖なモチーフ

例えば映画史において、列車が、酒場が、鏡がそうであるように。

ふわりと不気味に揺れるカーテンの先、庭に干された白い洗濯物がはためく、その動きは“ただ風が吹いている”事実だけを伝えるのではなく、さまざまな映画の記憶と接続され私たちの胸を打ち、身体にじわじわと甘美な痙攣を引き起こすように。

ヒップホップ史において、スニーカーとは特別かつ神聖なモチーフであり、アイテムであり、細部でありながら“すべて”なのだ。すぐさま、私の手は『空からの力』と書かれた1枚の音盤を捉える。決して良い音質とは言えないそのトラックから、次のようなラップが聴こえる。

歴史的作品/RUN-D.M.C.、KRS、ラキム、チャックD/忘れる訳ねぇ87年/今思い出してみてもヤバめ/上から下までキメてるアディダス/まだ見た事もない動き編み出す

1995年「行方不明」より

キング・ギドラ「行方不明」

ここで「アディダス」と踏まれているのは「編み出す」であり、スニーカーをドラマティックに描写するスキルが見事な形で披露されている。数年後、同様にK DUB SHINEが「上下アディダス/カンゴールハット/スーパースター紐なしで/腕組んで立ち/覚えて歌った/”You Talk Too Much”、”Fly Girl”、”Nightmare”、”Just Buggin Lali Dadi”」(「正真正銘」)とライムした通り、アディダスのジャージに紐なしのスーパースターを合わせていたというRUN-D.M.C.のエピソードは今や多くの人に知られているが、この箇所で綴られている「編み出す」というワードはスニーカーの紐を「編む」という動作それ自体を想起させるわけで、さらに言うならばラッパーやDJ、ダンサーがそれぞれ華麗な技を編み出すという行為ともリンクしているだろう。こうして、スニーカーは日本語ラップにおいてもある種の重要な道具として描かれることとなり、その後多くのストーリーが誕生していったのだった。

あるいは、同じように重要なTwigyやDABOのラインを引用しながら、ヒップホップ史におけるスニーカーの神聖さは次のようにも言及される。

RUN-D.M.C.「My Adidas」や「毎日磨くスニーカーとスキル」(Twigy)を引くまでもなく、靴に対する愛着はきわめてオールドスクールなヒップホップマナー的仕草でもあるからで、たとえばDABOも「おい少年気をつけな/俺のNike踏んだら即極刑」(Nitro Microphone Underground「Mischief」)とよく似たことを歌っていたことも思い出される。

「韻踏み夫による日本語ラップブログ」より

RUN-D.M.C.「My Adidas」
LAMP EYE「証言」
Nitro Microphone Underground「Mischief」

ラグジュアリーとストリートが交差し始める時

「踏んだら即極刑」と脅されるくらいにスニーカーは神聖なアイテムであるわけだが、例えばCOMA-CHIが「me&my kicks」で「VANS/ADIDAS/NIKE/Reebok/どこの会社のもんだってイイもんはイイ」と言うくらいには多くのスニーカー・ブランドが許容される一方で、KICK THE CAN CREWが「3MCs+1DJ」で「プラダよりナイキ/グッチよりアディダス/身にまといパーティラップ吐き出す」と歌った通り、ある時代までラグジュアリー・ブランドとスニーカー・ブランドがリリックにおいてともにコーディネートされることはほとんどなかったのである。時代が変わるのは、やはりハイ・ファッションにストリート色が大胆に取り入れられるようになった2010年代半ば以降であった。

KOHH – “Dirt Boys feat. Dutch Montana, Loota” Official Video

2015年、KOHHが「Dirt Boys feat.Dutch Montana&Loota」で「汚れまくり/だけど綺麗首に入れ墨/芸術的履いてるksubi/ダメージデニムシャツY-3」とライムした通り「アディダス」は「ヨウジヤマモト」とコラボレーションし、2017年にG.RINAが「close2u」で「ドレスダウンして/白のアディダス」と歌った通りカジュアルダウンしたドレッシーな服装にも合わせられるようになり、ハイ・ファッションとストリートという両者の境界がなくなっていった末に、2021年にはLeon Fanourakis「BEAST MODE feat. JP THE WAVY」で「プレ値のNike/買ったばっかの物全部最新」と描写されることになった。かつて、高価なスニーカーを買う財力がなかった黒人が1足のスニーカーを何度も何度も磨きあげ真っ白な色を保つ努力をしていた時から、新品のスニーカー、しかもプレ値がつくほどの物をいくつも買うくらいにラッパーは成りあがっていったのだ。そしてそれは、Momが「ずっと履いてるブラックジーンズ/昨日の腑抜けにドロップキック/夢想家でもリアリストでもない/ナイキもミズノも関係ない/首を絞めてるのはモノの価値」(「Momのデイキャッチ」)と皮肉めいたラインを書くまでに至る。リリックの中で変化を遂げてきたスニーカーの描写は、ひとまず以上のようにまとめられることができるだろう。

Mom「Momのデイキャッチ」

連想とメタファーに満ちた「真っ白なスニーカー」

しかしながら、リリックにおけるスニーカーの描写の変遷をたどるのが本稿の目的ではない。私が論じたいこと――それは、真っ白なスニーカーが幾重にも連なる連想とメタファーを有しており、ヒップホップや日本語ラップを支える背景と絡み合いながら、あらゆる人種・世代に門戸を開いているということなのだ。例えば、今年リリースされ喝采を浴びたOMSBの「CLOWN」に綴られた次のような一節を噛みしめることでそのストーリーは紐解かれていく。

喜怒哀楽一緒くたなビジョン/美女は俺に見向きもしないし/イキりに踏まれた白のナイキ/ため息は全て向けるmy music/くそっくらえだぜ

OMSB「CROWN」

「見向きもしないし(na-i-si)」と「イキ(i-ki)り」と「ため息(i-ki)」と「music(myu-ji)」とともにナイキ(na-i-ki)が押韻を果たし、「くそっくらえだぜ」で結ばれるこの一文は、「白のナイキ」がいかに神聖なアイテムであるかを改めて明らかにしている。だが、ここで「ナイキ」はただ“新品のスニーカーを履いている”という事実のみを指すわけではない。OMSBは白のスニーカーの、その“白さ”の対比として以下のラインを用意する。

エゴのモンスターの見世物小屋/恥で芸肥やす奇妙な牢屋/綺麗な人/肌じゃない色/中身が外見/よく見ればわかる/いくら明るく振舞ってもカス/黒い口調でちょー優しい奴

白の対比として、描かれる黒。OMSBが発する「肌じゃない色」「黒い口調」というフレーズ。白いスニーカーの“白”の新たな意味が、ここでまた一つ浮上してきた。白が、黒の対比として非常に重要な意味合いを持っていることが浮き彫りになる。さらに付け加えるならば、終盤に挿入される「黄色い歓声が広がってく」というフレーズも、ある特定の人種の隠喩として聴こえてくるだろう。

ペンと紙、スニーカーにおいて反転し続ける「白」と「黒」

リリックは止まらない。次の例を挙げよう。日本語ラップ史において、もう一つ“白”にまつわる重要なアイテムがあったことを忘れてはならず、その色の描写を的確に披露してみせたのはサイプレス上野とロベルト吉野「RUN AND GUN feat.LEON a.k.a.獅子,DOLLARBILL」である。

いつも通り真っ白な紙に叩きつける空っぽの中身/この時だけは誰だってヤングボーイ/目指す場所なんてひたすら遠い

カカト減っても行くべよMY SHOES/こさえた借りは色つけて返す/下どころか上まだいるぜ/綺麗事だとしても/繋ぐこのリレー

いつも以上に走れ/RUN AND GUN/夢を追うならマジで/RUN AND GUN

Kanye Jay Zが原点でルーツ/着こなしはルーズ/当時のマイブーム/ナイキのシューズでHOOD歩く

サイプレス上野とロベルト吉野 “RUN AND GUN feat.LEON a.k.a. 獅子, DOLLARBILL” (Official Music Video)

“真っ白な紙”――。この曲では、神聖なる白いアイテムである“真っ白な紙”と“スニーカー”がともに描かれる。HOODを歩くのはカカトの減ったスニーカーであり、真っ白な紙にリリックを書き連ね、彼らが目指す場所は遥か遠い先だ。RUN AND GUN、速攻で走るのだ。それはかつてSOUL SCREAM「Brand New feat.RHYMESTER」によって「俺の機材は/白い紙とペン/選び抜いた言葉しか認めんぞ」と綴られた通りであって、使い古した(だが、白い!)スニーカーと、真っ白な(だが、ペンによって黒く埋め尽くされる!)紙さえあれば、誰にでもラップが開かれていることを示す。この“何度も磨かれ白さを保ったスニーカー”と“真っ白な紙がリリックで黒く埋め尽くされていくさま”、繰り返される白と黒の反転にこそヒップホップの神髄は宿っている。

SOUL SCREAM「Bland New」

皿は旅をする。時を軽く超える。時代は移り変わり、ラッパーのスニーカーの白さは“磨き上げられた一足”から“何足もの新品”に変化していった。しかし、ヒップホップを愛する者たち、人種や世代や階層問わずそのカルチャーや音楽に魅せられ門戸を叩く全ての者たちが、白いスニーカーを履きながら真っ白な紙をリリックで懸命に埋め続ける限り、その“白”の神聖さはこれっぽっちも変わらない。だからこそ――スニーカーを磨くのだ。ペンを走らせるのだ。そして、何足もの真っ白な新品を手に入れるのだ。黒と白の反転を加速させるのだ。円盤をまわせ。ループでグルーヴを生め。RUN AND GUN――遥か遠い先を目指して、走りだせ。

Illustration AUTO MOAI

author:

つやちゃん

文筆家。音楽誌や文芸誌、ファッション誌などに寄稿多数。著書に『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)など。 X:@shadow0918 note:shadow0918

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