女性ラッパーたちが提示してきた“粋(いき)”と、2009年という転換点について/連載「痙攣としてのストリートミュージック、そしてファッション」第17回

音楽とファッション。そして、モードトレンドとストリートカルチャー。その2つの交錯点をかけあわせ考えることで、初めて見えてくる時代の相貌がある。本連載では気鋭の文筆家・つやちゃんが、日本のヒップホップを中心としたストリートミュージックを主な対象としながら、今ここに立ち現れるイメージを観察していく。

最終回となる第17回は、“粋(いき)”という概念を参照しながら国内シーンにおいて女性ラッパーたちが提示してきたクリエイションの核心を論じつつ、転換点となる2009年の状況をモード史と重ね合わせながら紐解いていく。

ファッションを手掛かりに、ヒップホップ(史)が編み出す想像力を読み解くこと

本連載では、ストリートミュージック――中でも近年ミチバタで起こる営み、その生々しい吐息を発してきたヒップホップが、ファッションと分かちがたい関係を織りなしているさまをあぶり出してきた。ヒップホップはその息づかいにおいて、無意識のレベルで/奥深いところでファッションと艶めかしく呼吸し合っているという状況が多少なりとも解き明かされたのであれば、連載の目的は果たされたことになる。

繰り返すが、両者の絡み合いは、2010年代半ば以降モードファッションとストリートファッションが接近し既存の階級構造が大きく揺さぶられたこと、同時にラッパーやダンサーがラグジュアリーブランドを身に纏うようになったこと、といった変化のみを指すわけではない。「グッチ」や「シャネル」というブランド名がリリックに引用されるという、ヒップホップ的態度を補強する試みが反復されていることを強調したいわけでもない。私が記しておきたかったのは、「グッチ」や「シャネル」という言葉が生む“音”としての響きとブランドの背景が物語を生成し、驚くべき生命力を発揮しながらヒップホップがアートとして自律しているということについてである。

連載終盤の回で扱った、スニーカーやジーンズといったファッションアイテムについても同様である。本来ストリートのものであったそれらが近年モードによって再定義され新たな文脈が与えられたのは確かだが、実はトレンドという単純な話では片づけられない部分で、ヒップホップはそれらアイテムと絡み合っている。ラッパーが履くスニーカーに、“白と黒の反転”というヒップホップのコア思想が宿っていること。いわゆる“腰パン”によって路上を引きずられるジーンズの裾に、“変えられない自らの出自”というヒップホップの神髄を支える要素が背後霊のようにつきまとっていること。イマジネーションは事実をはるかに超える。ヒップホップ(史)によって編み出される想像力は、表象としてのファッションを手掛かりに、その作品へ壮大なストーリーを付与し得るのだ。

国内女性ラッパーたちのクリエイションの根底にある、“粋(いき)”という概念・美意識

「日本のカッティングエッジなカルチャーを紹介する」メディアであるTOKIONゆえ、本連載ではこれまでさまざまな“国内”のラップミュージックを題材にヒップホップとファッションの引き裂き難い戯れを明るみにしてきた。そこで最後にもう1点論じておくべきことがあるとしたら、日本のファッションそれ自体を支えてきた“粋(いき)”という概念、その捉えどころのない(からこそなかなか理解されにくい)美意識がヒップホップに与えてきた影響について、である。実は多くの女性のラッパーによって導入されてきたと思しきヒップホップにおける“粋”なアプローチは、微妙な匙加減であり容易に把握しづらいニュアンスであるからこそ、これまであまり脚光を浴びることはなかったように思われる。そもそも“粋”という概念が花開いた江戸時代は、階級社会というピラミッド構造が強固であり、奢侈禁止令も発令され慎ましやかさが奨励された時期であった。そのような状況において、抑圧された環境下で独自の美意識を花開かせた粋な文化は、同様にプロップスの積み上げによるピラミッドを形成する男性中心のヒップホップゲーム構造の中で、時に“軟派”と揶揄されながら表現を見せてきた女性ラッパーたちの取り組みに近いものを感じてならない。(そしてそれはUSの女性ラッパーにはあまり見られない芸当であった。)

“粋”とは、崩しである。いわゆる国内ヒップホップ史において重要な男性ラッパーたちが極めてストイックな形で韻律によるリズムを紡いできた一方で、ごく一部の男性ラッパー、そして女性のラッパーはそれら尊厳や威厳に満ちたラップに対し遊び心をふんだんに取り入れたどこかルーズな表現を披露してきた。MAJOR FORCEよりデビューしたORCHIDSに始まり、FUNKY ALIENやHAC、YURIを経てHALCALIやY.I.M、chelmicoに至るまで、ヒップホップ的様式美をあえて崩すような“ゆるい”ラップやノリは、ラップゲームに“崩し”という新たな視点を持ち込んだ。

HALCALIの1stシングル「タンデム」(2003年)
chelmicoの1stシングル「ラビリンス’97」(2015年)

加えて、“粋”とは色っぽさでもある。歌川広重の『湯上り美人図』を引くまでもなく、湯上りの火照った姿はたとえば粋な文化として江戸期に花開いた浮世絵に多く見られる情景であり、露わになる体温と吐息のあたたかさ、その無防備な親密さが生む色気を江戸文化は細やかに描写してきた。たとえば、Daokoや泉まくらが発した息づかいは、それら色っぽさを(従来の女性ラッパーに多かったセクシーとは異なる意味で)ヒップホップに取り入れた顕著な例だろう。色っぽさとはちらつかせほのめかす行為でもある。初めから全てをさらけ出すのではなく、せめぎ合いを演出し生み出すこと。Daokoは、そういった意味でも非常に興味深いラッパーだ。執拗に硬い韻が詰め込まれるリリックは緻密な技巧性を含んでおり、だからこそ時折顔を覗かせる体温が聴く者を分裂させ、崩した色っぽさを匂い立たせてきたように思う。

Daoko「fighting pose」(2021年)

あるいは、安室奈美恵のアプローチを思い出してみたい。R&B/ヒップホップへと大きく転向することになった2003年『STYLE』において、彼女は冒頭「Namie’s Style」で「こんな感じはどう?It’s Namie’s style/みんな待っていた? Here is my nu style」と歌った。その後の国内ヒップホップ史の歩みを振り返った際に極めて重要な位置づけとなる本作だが、当時すでにポップスターとしての地位を揺るぎないものにしていた彼女が様子をうかがいながら、探るようにプレゼンテーションする様子は、いわゆる“チラ見せ”というせめぎ合いを見事に演じていた“粋”な演技だったと解釈することもできる。

安室奈美恵「Namie’s Style」(2003年)

画期的なのは、浮世絵のように男性作家が女性を描くことで“粋”を表現していた時代と異なり、ヒップホップでは女性自身が立ち上がりマイクを握りしめ艶っぽさや色気を作品に閉じ込めてきた点であろう。もちろん、それら大半のパフォーマンスは意図的に行われてきたものではないかもしれない。女性のラッパーたちが時代と自身を鏡として捉えながら真摯に表現してきた先に、結果的に“粋”とも言える要素がヒップホップに持ち込まれたと言える。女性ラッパーたちの作品によって、私たちがヒップホップを楽しむ視点は、多少なりとも広がることとなったのだ。

RUMIとCOMA-CHIの傑作が生まれた2009年という分岐点の前後、ファッション史にも大きな転換が訪れていた

女性による国内のヒップホップ史を紐解くうえで大きな分岐点は、2009年であろう。RUMIが『HELL ME NATION』でダークさとユニークさの両立により自らの三部作を完結させたこの年に、COMA-CHIは『RED NAKED』でメジャーデビューを果たした。むき出しの赤という、“粋”とは極めて対極にある色使いがタイトルに冠されたことはさまざまな意味で示唆的であるが、しかし叩き上げで男性と肩を並べシーンの最前線までのぼりつめた彼女が、メジャーレーベルで女性を代表するラッパーとしてメッセージを発するというのは必要なステップであったに違いない。同時に、この時期は国内邦楽シーン自体がヒップホップ冬の時代に突入したタイミングでもあった。

RUMI『HELL ME NATION』(2009年)
COMA-CHI『RED NAKED』(2009年)

実は、2009年前後はこの数十年の国内女性ファッション史においても最も大きな転換点だったと言える。フィービー・ファイロが2008年にセリーヌのクリエイティブディレクターに就任して以降エフォートレスなミニマリズム・スタイルがこの国においても凄まじい勢いで浸透し、フィービー以前/以後と言える程のファッションの変化が起こった。国内においてその潮流は2011年の東日本大震災によって決定的になり、以前のさまざまなトライブ発のコンテクストに立脚したスタイルから、それらを引用しつつもベースに素材の魅力を活かすリラクシングでカジュアルなスタイルへと大きな地殻変動を起こすことになる。「作りこみ装うファッションから、ライフスタイルを起点とし匂わせるファッションへ」とも言うべきその展開は、スニーカーやニットワンピース、スポーツウェア、さらにはナチュラルで質感重視のメイクなどを女性たちのベーシックへと押し上げた。肉体改造や美容医療といったアプローチも一般的になり、結果的に、それらは“ファッション”よりも“その人自身”を前景化させるきっかけにもなった。

時代の呼吸を伝える音楽としてのヒップホップに耳をすまし、移ろいゆくファッションの表象を拾い集める

ファッションの大きな転換と呼応するように、女性ラッパーも変化していった。MCバトルで名をあげ、ある意味で既存の男性中心のヒップホップ像に接近した音を“盛り”ながらリッチな完成形を打ち立てたCOMA-CHIとRUMIの両作品を一つの頂点としつつ、新たな女性ラッパーたちはラフに伸び伸びと自身の魅力を表現し始めた。2010年代以降に支持を集めたDaoko、Awich、NENE、Zoomgals、lyrical school、それらラッパーたちは重なり合う部分がほとんどないくらいに多種多様なスタイルであり、それぞれが男性視点のヒップホップ観からは遠く離れたニュアンスを少なからず擁している。

Awich「口に出して (Prod. ZOT on the WAVE)」(2021年)
Zoomgals「生きてるだけで状態異常」(2020年)

だからこそ、ファッションと深い部分で密接に絡み合いながら時代の呼吸を伝える音楽として進歩していくヒップホップは、男女ともに優れたラッパーが今後ますます介在していくこと、性別を超えてクロスオーバーしていくことで、鋭い表現として人々の価値観を揺さぶっていくだろう。現代口語の実験は、身体を包む装いと呼吸し合いながら、今この瞬間も違和感のある音の響きとしてストリートで鳴り、インターネットを駆け巡り、誰かの身体と精神の痙攣を喚起している。音と言葉の戯れ、移ろいゆくファッションの表象は取るに足らないものとしてミチバタに捨てられていくがゆえに、私たちは今後も耳をすましてそれらを拾い集めていかなければならない。そして、あなたは間違いなく、その当事者の1人として存在している。

<参考文献>ポーラ文化研究所編著、2019年『おしゃれ文化史 飛鳥時代から江戸時代まで』秀明大学出版会

Illustration AUTO MOAI

author:

つやちゃん

文筆家。音楽誌や文芸誌、ファッション誌などに寄稿多数。著書に『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)など。 X:@shadow0918 note:shadow0918

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